第十八話 ティレン城IV 『このボクじゃ、なくてもね』
少女の母親は、いわゆるはぐれ魔族だ。
駆け落ち、村八分、追放、放逐。
さまざまな理由はあれど、この世には一定数はぐれ魔族という放浪を余儀なくされた魔族たちが存在し、彼女の母親もその例に漏れなかった。
理由は、追放。
山の低位の妖鬼でありながら、頂点に君臨する一家の息子との間に子供を為したからだった。
実際のところ、それが愛のある行為だったかといえばそうではない。
脅され、後ろ盾もなく、一種のはけ口として使われた結果でしかなかった。というのにも関わらず、やはり風当たりが強いのは弱者の方だ。
その次期トップのワガママな妖鬼は、子供を作ってしまったことに対して騒ぎ立て、彼女が山に居るのを嫌がった。
当然、そんなことをされてはなにも為す術はないし、周囲に居た友達"だったはず"の妖鬼たちも欠片もフォローしてくれることもなく。
仕方なく子供を抱えて、たった一人寒空の下ではぐれ魔族となったのだった。
子供の名は、タリーズと言った。
おてんばではないが、暗いというわけでもなく。タリーズは母親一人の手によってすくすくと育ち、元気な童女になっていく。
たった一度、父がいないことを疑問に思い口にした時は母親が涙を見せたので、それ以降は触れていない。それくらいには気配りも出来、優しい少女であった。
魔大陸の中で、色んな場所を旅した。
本来は庇護されてしかるべきたった一桁の年齢のうちから、タリーズは旅の空だった。母親と一緒に、どこへなりと放浪し。それでもそれが当たり前だと思っていたから、なにも苦には感じることもなく。そんな彼女だから、魔族と人間の確執について学ぶのもそんなに遅くはなかった。
「人間と魔族は、仲が悪いのよ」
最初はそう母親に教えられただけだった。「なんで?」と聞き返すこともなく。
それこそ、「そうなんだ」とすんなり納得するのみで。時折魔族と人間が街道で殺しあっている時に、「ああ本当だ」と現実を目にするくらいだった。
八歳になった。
魔族の八歳は、まだまだただの子供でしかない。人間の八歳などよりまだまだ幼い。
そんな状況であるから当然、母親の庇護の元で暮らすのが当たり前だ。
当たり前だった。
「タリーズ! ……タリー、ズ……!」
事件は、起こった。
泣き叫び、涙と鼻水と口から垂れた血で顔面をぐしゃぐしゃにしながら、それでも子供を守らんと手を伸ばす母親。
いったいなにがどうして、こうなってしまったのか。
魔族狩り、と呼ばれる行為だった。
はぐれの魔族というのは、最初にも話したように社会的弱者の場合が殆どだ。魔族でいう社会的弱者とは、その殆どが実力的にも弱者に相当すると言っていい。
だからこそ、人間が魔族退治の練習台に使うことが非常に多い。
三十からなる騎士に、タリーズの母親はそれはもうあっさりと捕まった。元々魔法には滅法弱い妖鬼だ。捕縛魔法をかけられて身動き一つ出来なくなったところを獄にまで連れていかれ、そこで改めて地獄を見た。
足の腱を切られ、這いずり必死で子供を守ろうとする母親を、面白がって周囲の人間たちが槍で突く。死なないように、叫び声が途絶えないように、実にうまく調整を施しながら。
どんどんと五体満足であった状態から体のパーツを欠損させられ、それでもなお自分を守ろうと必死でもがく母親の叫び。周囲の人間たちの悪魔じみた笑い声。
タリーズは、頭がおかしくなった。
どうしてこんなことになっているのか、自分はどうしてこんな悪夢を見せられているのか。目が覚めたら優しい母親に頭を撫でて、「怖かったね」と慰めてほしい。
目の前で胴体を引きちぎられているのは、あれは母親ではない。夢だ。
冗談のように響き渡る哄笑と悲鳴の混ざりあった音響に、タリーズは必死で耳をふさいだ。
耳をふさいでいたから、聞こえなくなった。
母親の、声だけが。
そのことに気づいて"母親だったもの"を見れば、既に事切れていて白目を向いていた。最後まで自分の名前を呼んでいた彼女は、もう死んだ。
その事実が受け入れられなくて、震える唇で声を出そうとする。母親を呼ぶたった二文字の言葉が思うように発せない。なぜならば。
「じゃ、ガキも殺すか」
母親の背中を何度も何度も突き刺したその穂先が、今は自分を向いていたからだった。
おかしいな。悪魔共の声ははっきり聞こえるのに、どうしてママの声は聞こえないの。
とぼけたように、心中は間抜けな現実逃避の言葉を紡ぐ。
槍の勢いはとどまることもなく、自らへと向かってきて。
げらげらと人の死をあざ笑う声の中で飛びかかってきた、生温かい血が唇に触れて。
「なにを……しているんだきみたちはッ……!!」
タリーズはその日、声を失った。
「何とか言えやクソガキ!!」
冗談のように弾き飛ばされて、タリーズの幼い体は二度三度地面を打って転がった。
石畳の地面に顔から打ちつけられる痛みは筆舌にしがたく、タリーズ自身にそんなものが我慢し切れるはずもなく今でも涙はぼろぼろとこぼれ落ちている。
けれども案の定というべきか、むせび泣くことすら出来ないせいで、喉奥に焦げ付いた悲しみを洗い流すことすら出来やしない。いっそ大声で泣き叫んでしまいたかった。
声は、未だ出ないまま。
周囲には、あの日と同じように数人の人間が己を囲んで。
それだけで震えは止まらなかった。
鎖で両足を繋がれて、逃げだそうにも逃げ出せない。
体中が痛んで軋んで、両頬はとっくに腫れあがっていて口すらまともに開けない。
良心の呵責も一切無くタリーズに暴行を加える騎士たちは、当然魔族を相手に何の油断もしていなかった。
あの日とは違う。
せせら笑うようにタリーズの母親を殺されたあの日とは違い、タリーズは"魔族"として認識されていた。
彼らは知らないだろう。タリーズが何の力も持っていないことを。
彼らは知らないだろう。タリーズが人間で言うところの五歳程度の年齢にしか達していないということを。
彼らは知らないだろう。彼女も人間と同じように、笑って泣いて、精一杯生きるただの子供であるということを。
だから、タリーズがきっと外部の魔族と交信して居ると疑わないし、その保護者であるシャノアールが魔王軍と接触しているのだと信じている。
後者に関しては仕方がないことと言えた。
なぜならばティレン城の騎士長であるロドリゲスは、シャノアールとグラスパーアイの接触を知っているのだから。
「吐かせろ! 裏切り者のシャノアールの娘だ……絶対に何か知っているに違いない!」
拷問という名の暴行を行っていた騎士たちに、背後のロドリゲスから命令が飛ぶ。
彼女が声を失っているなどと知らない彼らは、タリーズがシャノアールによって徹底的に教育された魔族にしか見えていなかった。
強大な魔族が、主人の言いつけを守って黙りこくっているようにしか、見えなかった。
「……化け物め」
「しかし騎士長、本当にシャノアールが裏切っているのですか?」
「当たり前だ!! 儂は知っているぞ、シャノアールと"理"の四天王が密会を行っていたことを! 奴を前線に向かわせたのは、内部でコトを起こさせない為なのだからな……!」
一人の騎士の疑問にロドリゲスは鷹揚に頷いた。
知っているのだ、シャノアールが魔王軍四天王と接触していることを。
であればこそ、この魔族にも油断はできない。たとえ子供の姿をしていても、とんでもない化け物である事例は少なくない。なればこそ、油断はできなかった。
「……っ……」
翻ってタリーズはもうぼろぼろであった。
彼女にはロドリゲスたちの言うような力はなにもない。
だというのに勝手に肥大解釈され、息も絶え絶えになりながらまた鎖の力でふらふらと立たされている。
辛かった。
どうしようもないほどに、辛かった。
「シャノアールはここにこの魔族がいることは」
「知る訳ないだろうが。『タリーズには手を出すな』などと必死で言っていたくらいだ」
「……よろしかったのですか?」
「裏を返せばこのガキが何かを知っていることに違いない。奴はすでに裏切っておるのだ。このまま待っていれば来るのは破滅だけだぞ」
「そうかもしれませんが……」
「いいからその魔族に情報を吐かせろ! ……それに、シャノアールは粗方敵が片づいたところで殺すように命令してある。問題はない」
「っ……そう、ですか」
髭を撫でつつ、ロドリゲスは暗い笑みを浮かべた。
上官の変貌に息をのみつつ、しかし騎士たちは命令を実行するだけだ。
またしてもタリーズは、ものの見事に弾きとばされる。
「っ……!」
「いい加減何か喋った方が身の為なんじゃないか?」
そう騎士が言うも、タリーズは話すことができないのだから仕方がない。
これは悪い夢だ。昨日はとても楽しくて、お義父さんも楽しそうで。シュテンと、ユリーカがいて。素敵な日だったのに。昨日ですべての幸せを使い果たしてしまったのだろうか。
そうであれば、あんまりだ。
だから、これは悪い夢だ。
そこまでタリーズは考えて、いつの日かも自分がそんなことを考えていたことを思い出す。声を失った、あの日を。
それを考えた瞬間、とたんに絶望感が押し寄せてきた。
ロドリゲスの話では、シャノアールは味方に殺される。
シュテンもユリーカももう居ない。
悪い夢だと思ったあの日も現実だった。
ならば今回も、悪夢などではないと分かってしまった。
だから、もう。
「何とか言えってんだよ!!」
拳が再度、タリーズの頬を。
「なにしとんじゃ腐れ共がああああああああああああああああ!!」
「……っ?」
タリーズと騎士の間に突然誰かが割り込んだ。その影はまるで振り払うかのように得物を振り抜いて。騎士はそのまま、顔から天井に突き刺さった。
「おー……きれーにハマッたなおい」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!? タリーズ、大丈夫!? ひっどいけがじゃない……!! なんでこんな……子供に、よくもこんなことが……!!」
その二人は、昨日素敵な一日をくれた二人だった。
青ざめた表情でタリーズを抱きしめ、そっと顔にふれた手で微弱ながらも治癒をかけてくれている。それがとても気持ちがよくて、タリーズは。
「……」
「……あ、ねちゃった……。どれだけ……辛かったんだか……」
それはもうあっさりと意識を失った。
呼吸が健常であることから、死んだ訳ではなさそうなことにユリーカはほっと胸をなで下ろす。そして。
「やはりでたな魔族!! 一歩吐かせるのが遅かったかッ……!!」
震えた声で剣を抜く騎士長ロドリゲスと、その配下たち。
ユリーカもシュテンも、覇気を隠すことなどしていない。だからこそ、どれほどの化け物が目の前に居るか彼らも理解ができているのだろう。
「あー。まあなんつーか。間に合って良かったよ。あれ一発食らってたらタリーズ死んでたし」
「……よくないわ。絶対にこいつら許さないんだから」
ぼりぼりと開いた胸元を掻くシュテンのとぼけた言葉にユリーカが噛みつく。当然というべきか、ユリーカの瞳には怒りの炎が宿っていた。あれだけタリーズがぼろぼろにされたのだ。許せるはずも、ない。
だが。
真にロドリゲスに殺意を抱くに値するのは、この男をおいて他にないのだ。
「……そうだね。絶対に許さないよ」
「っ?」
慌てて振り向いたロドリゲスの背後。この部屋の入り口に、幽鬼のように立つ一人の青年。
「……この、ボクがね」
……手遅れで、あった。
「やはり裏切っていたかシャノアール!! 貴様の目論見なぞ看破して――」
「黙れ」
「がっ……!?」
ロドリゲスの頭部が一瞬で氷付けられた。手をのばしただけで発動したその魔導に、周囲の騎士たちも怖じ気付く。充満する殺意を隠そうともしないままに歩み寄るシャノアールに対し、まともに声をかけられる者などこの場の中では片手の指ほどの数も居ない。
「あー、シャノアール。なんつーか……すまん」
「シュテンくんが居なければ、タリーズは殺されていたかもしれない。きみが謝るようなことはなにもない。けど、謝らなければいけないことならある。この、ボクがね」
「……お前が?」
「すまない、シュテンくん。きみとの約束は、守れない」
「……あー」
そっと優しくタリーズを抱き起こすシャノアールの瞳には、彼女を気遣う慈愛以上に迸る尋常ではない憤怒があった。
「義理とは言え」
シャノアールは騎士たちに向き直る。どうしようもない怒気に固まってしまった彼らを冷たい瞳で見下ろしながら、シャノアールは押し殺すように一言一言を紡いでいく。
「我が子以上に優先できるものなんて……ないんだ。このボクじゃ、なくてもね」
かつん、かつん、と部屋の中央にまで歩みを進めて。
シャノアールは初めてその激情を露わにした。
「それが!! 親というものなんだ!!」
騎士たちが一瞬で壁際まで弾け飛んだ。
ただの純粋な魔力波。ただのシャノアールの感情の発露。
たったそれだけの行動で周囲の騎士たちを戦闘不能にしたシャノアールは、指を小さく一つ鳴らした。ロドリゲスの顔を覆っていた氷が、乱暴に弾ける。
「があああああああああ!!」
「裏切った? この、ボクが? 適当なことを並べ立てて、よくも唯一の大事なものをこうまで痛めつけてくれたね……ロドリゲス」
「き、きしゃま、きしゃまが……うらぎっ……」
凍傷で痛む顔中を押さえながら、ロドリゲスは口にする。
しかしシャノアールには身に覚えがない。
それは当然だ。グラスパーアイとの密会は、シャノアールが粋を極めた防護魔法によって隠蔽されているはずなのだから。
と。
「気は済んだか、シャノアール」
「……きみか、グラスパーアイ」
開け放たれた扉の向こうから現れたのは、一人の男だった。
長身で、七三に分けた髪型。どこかおとなしい風な印象さえ受けるその男の尋常ではない覇気は、シュテンにも迫る勢いだ。これが、グラスパーアイ。
四天王の、一角。
「魔王軍はきみを歓迎するよ。来るがいい」
彼の言葉と同時に、シャノアールの背後にゲートが開いた。
レックルスの使っていたものと同じ、座標獄門。グラスパーアイから魔力が発せられなかったところを見ると、おそらく反対側で誰かが開いたということか。
「シャノアール……!」
「すまない、シュテンくん。守っていたはずの人間に裏切られたこの気持ちは、少し収まりがつきそうにない。このボクもね」
「……」
タリーズを抱えてゲートの中に消えていくシャノアール。その後ろからグラスパーアイは足を踏み入れようとして、ふとシュテンをその真っ赤に染まった瞳で見た。
「……」
「……あん?」
「…………いや、何でもない。ふむ、珍しい妖鬼だ。というよりはその着流しか」
それだけ言ってゲートの中に姿を消し、ゲート自身も掻き消えた。
「……しゃあねえか」
「……なにがよ」
「いや、こんなことされちゃあ……そりゃ魔王軍についても仕方ねえわなと」
拷問が行われていたこの場所を見渡して、シュテンはそう呟いた。
沈うつな表情のユリーカは、ただただ頷くばかりでどうしようもない。
「やはりシャノアールは裏切っていたではないか!! どうするんだ!! このままではティレン城が!! あの裏切り者のせいで!!」
ぎゃーぎゃーと喚く、騎士長ロドリゲス。
そういえば居たなとシュテンは思い、とりあえずこの場に居ても意味がないからさっさと一号たちと合流するか、とそこまで考えて足が止まった。
「シュテン?」
「いや」
つかつかつかと早足でロドリゲスの目の前にまで。
「なんだ貴様!! 貴様のせいであの妖鬼が――」
「ちょっと死んで」
「がっ!?」
「え。しゅ、シュテン?」
一瞬で振り下ろされた鬼殺し。
ぱっくりと脳天から二つに分かたれたロドリゲスが、崩れ落ちると同時に感じた確かな魔力パルス。
「……なんか……今……」
「この騎士長とやらにかかっていた魔法が解けたな」
鬼殺しを担ぎ直したシュテンの表情は険しい。ロドリゲスの死体を眺めつつ、顎に手を当てて考える。
「……ゲート、開いたよな」
「え、うん」
その呟きの意味を一瞬理解できなかったユリーカも、何かに気付いた。
ゲートを開いたのはグラスパーアイではなかった。シャノアールとタリーズ、そしてグラスパーアイがゲートをくぐった瞬間ゲートは消えた。つまり、出口にゲートを開いた本人が居るのは明確で。
そして、ゲートというのは。
「……一度来たことのある場所にしか、開けない」
「そういうこった。そして、あの騎士長に何らかの魔法が仕掛けられていたとすりゃそれは……」
去り際に見た、赤く染められた瞳。
妖鬼は魔法に滅法弱い。それを知ってそうな、言葉。
「……イヤな、予感がしやがる」
呟いたシュテンの言葉にユリーカも頷く。
「ひとまずは、一号とオカンと合流か。魔王軍……っつか、シャノアールとタリーズの受難は下手すりゃまだ終わってねえ」
あのままのシャノアールが、無名で埋もれるはずがないのだから。
天井を睨みつつ、シュテンは今後に思いを馳せた。
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