第二十二話 ビタル平原II 『古代呪法・混沌冥月』
クレイン・ファーブニルは光の神子だ。
教国南方の片田舎で農家の息子として生きてきた少年は、二年と少し前に突然自らに宿った光の神子の体質を見込まれて、教国の切り札として育てられてきた。
本来、十分な力を手に入れるまでの間教国内で鍛えられるのが通例であるのに対し、クレインは未熟なうちから旅にでることになった。
魔王の復活。その報に際してメリキドの祠で行われた儀式にて、クレインを旅立たせることが最も良いとされたからだった。
王国、公国、帝国を旅してきたクレインはジュスタという少女を追いかけて教国へと舞い戻る。そして、故郷へ至った彼が耳にしたのは、魔王軍侵攻の注進だった。
多くの出会いを経て成長したクレインとその仲間たち。
まだまだ発展途上で魔王になど叶うはずもないほどの弱者だが、それでもなお高みを目指して研鑽を積むその最中。その試練として申し分ないほどに巨大な壁が、彼らの目の前に立ちはだかっていた。
「……数が多いな」
草木が緑から茶に色を変える季節。四季の彩り豊かな教国では、この頃に見上げる月が美しい。そのかわり昼は徐々に肌寒くなり、こうしてからりと晴れ渡った日も陽光を感じる前に当たる乾いた空気のせいで太陽がまぶしいだけの存在になってしまっている。
まして、高いところに立っていればその感覚も倍三倍になろうというものだ。
聖府首都エーデンの外丸をぐるりと囲む、巨大な城壁。
その上の道で欄干に体重を預け、前傾姿勢で周囲の喧騒に耳を傾けていた。
「守城兵器は持ち込んだか!?」
「アーティファクト付加用の矢が足りない! こちらにも回せ!!」
「103部隊、定位置に到達! 指示に従います!」
クレインの背後を慌ただしく駆ける十字軍の兵士たち。法術師部隊は特に忙しそうに東奔西走状態だ。戦いが始まる寸前ともいえるこの時間。久しく本土決戦がなかったからか、悲壮感漂う声で命令を下す将校の姿が散見される。
誰だって、自分の家を壊されたくなどない。
「クレインよ……」
「カイザルハーンさま!?」
「うむ……四神官は最強の法術師。なれば前線に出ない訳には行くまいて」
「しかし、それでは……!!」
「ジョゼットとラムダは本陣に残っておる」
「……」
耳に触れた声は聞き覚えがありすぎて、そしてこんな場所に居るはずもなくて、クレインは慌てて振り向いた。案の定、居るはずもない人がそこに居た。
カイザルハーン。二年前の魔王軍との戦いでもその力を使い奮戦した、教国きっての法術師。そして四神官の一人として、今日も教国の民を見守る教国の頂点。
好々爺然とした雰囲気を崩さず、いつものように穏やかな笑みだけを湛えて自慢の髭を撫でる。そして、ビタル平原の西方に蠢く、忌むべき存在たちに目を向ける。
「そろそろ……射程圏内じゃのう」
「では……戦いが始まると」
戦争だ。魔と人の、血みどろの戦が始まる。
その事実は今になって改めて現実味を帯びる。ただ言葉で言われても判然としないものは、つまり直視して初めて理解できるものなのだ。それを見せつけられるが如く、クレインの胸に覚悟が宿る。
自らが手をかけている欄干に目をやれば、ほんのりと法術の力を帯びている。
これも、教国が信奉する教えに準じ、立地条件を整えた結果だった。強力な結界が、この場所に張られている証拠。
「魔王軍の攻撃も想像を絶するほどじゃろう。魔王軍の中には古代呪法という絶技を使う者も居る。そ奴らを加味すれば城壁が保つのは、おそらく一日程度。その間にどれだけ敵を減らせるかで、教国の民がどれだけ生きて居られるかが決まる」
「古代呪法……"理"のブラウレメントや、"導師"……ヴェローチェと呼ばれていた人物の使うものですね。……僕は、気絶してしまっていましたが」
「ブラウレメント……ヴェローチェ……二年前とは随分顔ぶれが変わっておるのう。"導師"といえばルノアール・ヴィエ・アトモスフィアと言って、儂は死闘を演じたものじゃが」
「……いえ、そのような名前ではなかったはずです。しかし、カイザルハーンさまをして、死闘……ですか……」
「前回の導師と同じくらいの力を持っているとすれば……そうじゃの、半日保てばせいぜいと言ったところか。全力でくれば、の話じゃが。とにかく、城壁に頼っていられる状況ではなかろうよ」
ふぅ、とカイザルハーンは息を吐いた。
疲労を隠せないほどに、歳月は人を老いさせるのか。いや、クレインが旅に出てまだ半年だ。ため息の原因など、考えなくても理解できることだった。
戦争というのは、いつ誰が死ぬか分かったものではない。トップに近づけば近づくほど、死への責任は重くなる。
誰にとっても、戦いというのは重いのだ。命というのは、重いのだ。
「光の神子よ、お主は国民にとっての英雄じゃ。折れることは、四神官である儂が許さぬからの」
「……はっ」
「……じゃが、そうじゃの。ただの老いぼれとして言うなれば……お主は孫のようなもんじゃ。……死ぬでないぞ、クレイン」
「……はは!」
クレインが力強く頷くと、カイザルハーンは満足げに去っていく。おそらく彼の持ち場は城門の上。最重要地点。それも、そうとうな重圧に違いない。
強風が乱暴に髪を乱すのをうっとうしげに払いのけて、クレインは先を睨んだ。
「……そろそろか」
周囲の息づかいが徐々に静まっていく。
見ればクレインの左右でも、城壁の陰に隠れて弓を構える法術師が多く居る。
立て掛けてあった自らの棒を取り、クレインは城壁の脇にある階段から街の内側へ降りていく。石造りのその段一つ一つにも法術の手が加えられ、どれだけ堅固に作ってあるかがよく分かった。
クレインの役目は、進入してくる敵を門の手前でくい止めること。打って出る予定の武装兵たちの背後に待機する予定で、おそらくクレイン以外の面々はすでに全員集合しているだろうと、時間にわりと厳しい自分の仲間たちを思う。
二百段近くある階段を降りると、ちょうど詰め所の前につながっている。城壁沿いに細道を歩いて、城門の前にたどり着けば。そこに控えている武装兵たちから声があがった。彼らは皆光の神子の存在を知っていて、さらに言えば先ほど鼓舞したばかりだ。
自分たちが背後に居るから、背中は絶対に守ってやる。帰る家は必ず守り抜く。そう宣言した上で、クレインは今ここに居た。
なれば、絶対に勝たねばならない。守り抜かねばならない。
決意を胸に、門前の街道を埋める武装隊に返礼する。
そのまま道を内丸に向かって歩くことしばらくして、その最後尾に位置する面々と合流した。
「やあみんな、早いね」
「クレインが遅いんだよぉー!」
「……魔族との抗争に遅れる訳にはいかない」
クレインが右手をあげてその輪に合流すれば、頬を膨らませるハルナと、未だに硬い表情を崩さないジュスタの姿。何かを思案している彼女の力になりたいとは思っても、これと言って打開策を思いつくこともなく。
戦いが終わってから、また何かを聞ければいいと思っていた。
「城の外はどうだった?」
「ああ、そうだね。結構いるよ。さすがにこっちより多いってことはないけど」
「そうか。単純な力で劣る以上、きつい戦いになりそうだな」
そんな中、事務的な会話を振ってきたのはリュディウスだった。腕を組み、その赤い髪を紐で縛りながら。気合いが入っている証拠だ。ぼさついた髪は縛ってもまだあちこちに癖を出したままだが、それでも戦いの前だからだろうか、髪にすら興奮が伝わっていると思えるのは。
「で、本当にその剣で行くんだね」
「無論だ。絶対にひけを取ることはない」
「そっか」
リュディウスが鷹揚に頷く。彼の腰には、普段あるべき剣帯の姿がなかった。
そのことについて何かを言おうとクレインが口を開きかけた時。
凄まじい振動が世界を揺すった。
「なんっ……!?」
何事!? と叫ぶハルナ、無言のまま地面にしゃがむジュスタ、リュディウスはバランスを取って空を見上げる。
誰かが叫んだ。
「あれを見ろ!!」
誰かが指をさしたのか、それは多くの人々が集っている以上判別不能だが。
それでも、すぐに分かった。誰もが上を見上げたから。
城門のさらに上。壁の向こう側。小粒のようなサイズでしか見えないが、蒼天に座す人影。それが誰なのか、ハルナやリュディウスにはわからなかった。だが、クレインは違う。あの尋常ではない闇の魔力は、一度強烈に浴びせられたら忘れることなどできようもない。
「うっとうしいですねー」
決して大きな声ではない。なのにどうしてかここまで響きわたるその気の抜けた声色。まるで空気の中に拡声器があるのではないかと思えるほどに、街全体に響き渡る。
呆ける人々の目の前に、冥い月が浮かびあがった。
フリルアンブレラによって翳された、その先端に現れた漆黒は、そのままカーペットでも敷くかのように一切の遠慮なく城門へと突き進む。
そして、激震。
「が……!!」
「うわぁ……!!」
凄まじい揺れは先ほどと同じ。なれば二度も、彼女はあのような巨大な魔法を行使したということか。その恐ろしさは、同じく魔素を使用する者がより実感することができた。
あれは並の法術師が十人は集まらないと、発動することさえできない魔法であると。
「導師ッ……!!」
リュディウスが歯噛みする。
城壁の上では、多くの法術師たちが射撃を開始していた。おそらくは既に、魔王軍は城壁に向かって進撃しているのだろう。彼らが押さえてくれなければ、すぐに攻城戦が開始されてしまう。
「早く門をあけろ!! 打って出る!!」
誰かが叫んだ。
その声に同調して、にわかに出陣を願う声が上がり出す。
クレインにもその気持ちは分かった。このままではやられっぱなしであると。
しかし、城門にはカイザルハーンが居るはず。
なれば、そうやすやすと"導師"にやられることはないだろう。何か、何か反撃をしてくれるはずだ。
歴戦の猛者。四神官の一角は、だてではない。
かつての魔王軍を幾度も追い払った第38法術師隊の栄誉ある一員。そして若くして四神官になってからも、三度の侵攻から守りきった英雄カイザルハーン。
であればこそ、このような状況で黙っているとも思えなかった。
と、そこへ伝達が届く。城壁の上へ繋がる階段から駆け降りてきたのであろうその男は、息も絶え絶えのままクレインに駆け寄ると、低頭してまもなく、申し訳なさそうに顔をあげた。
「クレインさま! お耳を!」
「どうかしましたか?」
言われた通りに耳を傾けるクレイン。失礼、とだけ言って男は小声で耳打ちした。
「兵士たちにはお伝えできませんが、カイザルハーンさまは四度の古代呪法を守り抜き、お倒れになりました」
「なんだって!? ……というよりも、四度!?」
「はい。さすがに古代呪法を放つのは五度が限界だろう、とカイザルハーンさまは見極めになり、街中に放たれた一撃を完璧に防ぎ切り、二度三度の城門への攻撃は振動のみを受け流し、合わせて放たれた一度をまた完璧に防がれました。あと一回程度なら、この城壁をもってすれば余裕ですが……カイザルハーンさまが居ない以上、あとは内部に残してある千の兵と本陣の四神官にお任せするしか。城壁はシュルトさまがお守りになっています」
「了解しました。粉骨砕身、カイザルハーンさまの分までがんばります!」
「感謝いたします!!」
男はそれだけクレインに伝えると、かけ戻っていく。エンチャントを施しているだろうとはいえ、二百の階段を駆け下り上りを繰り返すのを見て忠心に感謝した。
「どうするの、クレイン」
「どうもしない、城壁の法術師たちがどれだけ魔王軍を減らしてくれるかにかかってるんだ……!!」
事情を把握していないハルナにそれだけ言って、固唾を飲んで門を見やる。
あのカイザルハーンが、そうまでしなくては耐えられなかった一撃。今代の導師は間違いなく、カイザルハーンの知っている導師よりも格上だったのだろう。
しかしそれでも、巨大な魔力を込めた攻撃を、あのような暴力的な破壊力を持った絶技を、四度も防いだ。それだけで、城壁を保たせされる時間は格段にあがったはずだ。
「今どれだけ削れているんだろう」
「武装隊のほうに報告が来ていない以上、まだそんなに大したことはないはずだ。城門をあけられても、そこで袋叩きにすることができればいい。それだけの話だ。魔法戦で、それは基本だ」
魔法を使う戦いで、魔法を使えない部隊の動き方。
打って出て平原で魔王軍と勝負など、話にならない愚策と言えた。できるだけ相手の魔力を削ってから叩く。逆にそうすれば、疲弊した敵を元気の有り余った状態で攻撃ことができる。だから、今は耐えるべきだった。
城門をあける時。それは、魔王軍によって破壊された時に他ならない。
だが、"その時"は思ったより早く訪れた。
「古代呪法・混沌冥月」
「なっ……もう五発目が!」
「五発目……!?」
クレインが漏らした言葉に驚くリュディウスの声。だが、それを説明している暇はなかった。
激震が響きわたる。先ほどと同じほどの威力。魔力を調節して打っているわけでもないらしいその一撃は、確かに城門に大ダメージを与えたことだろう。しかし、その一発だけでは、城門を破壊するにはいたらない。
導師という危機だけは何とか凌いだかと、クレインが安堵の吐息をもらそうとした時だった。
「古代呪法・混沌冥月」
激震。
「六発目!?」
「お、おいクレインどういうことだ説明しろ!」
「いや、あの魔法の威力を考えたら、そんなに何発も打てるはずがっ……!」
「古代呪法・混沌冥月」
さらに、激震。
どよめく武装隊の面々。凄まじい地響きが、止むことすらない。
カイザルハーンが城門に居るのではないのか。このまま自分たちがここに居てもいいのか。そんな不安が周囲に伝播していく。リュディウスも理解がいった様子で、空の彼方に居るあの少女を見据えた。しかし、見据えた時にはもう漆黒が迫り来ていて。
「古代呪法・混沌冥月」
実に八発目だった。
気づけば、法術師の中にはあの少女を攻撃している者も居る。
だが彼女は蚊に刺された程度にも感じていないらしく、無言で、無表情で、無関心にただただ城壁に向かって魔法を放つ。
「古代呪法・混沌冥月」
「誰かあのガキを止めろおおおおおおおおおおおお!!」
将校の一人が叫んだ。その声がここにまで響き渡ったということは、拡声エンチャントを使ったに違いない。城壁の上の法術師たちの実に半数が、あの少女に向けて法術を放ち始める。
それはまずい。
クレインは止めようとするが、その権限は彼にはない。
今必要なのは、魔王軍の兵数を減らすことだ。なのにあの少女に集中してしまっては、魔王軍をみすみす城壁に近づけることになる。
その心配は、杞憂だった。
だが、クレインが望んだ方向に事が転んだ訳ではない。
「んー、頑丈ですねー」
声が、響く。
「古代呪法・混沌冥月」
激震。
「古代呪法・混沌冥月」
「古代呪法・混沌冥月」
激震、激震。
「古代呪法・混沌冥月」
「古代呪法・混沌冥月」
「古代呪法・混沌冥月」
「古代呪法・混沌冥月」
「古代呪法・混沌冥月」
「古代呪法・混沌冥月」
「古代呪法・混沌冥月」
「古代呪法・混沌冥月」
「古代呪法・混沌冥月」
「古代呪法・混沌冥月」
何度も、何度も、何度も、何度も。
ひっきりなしに、全身が揺れ動くほどの凄まじい振動が足下を襲う。
そしてそれは単に地震が起きているわけではなく、教国の教えに基づいて造られた堅固な城壁が破られようとしているのだと、クレインも理解していた。
そして。
「古代呪法・混沌冥月」
爆発したような粉砕音とともに、城門のあった場所は崩壊した。
堅牢な壁は崩れ、内部の鉄骨がひしゃげ、ごつごつとした城壁だったものが転がり落ちる。もうもうとあがる白煙は、まるで降参を意味する旗のようで。
「ふー、久々にかったい壁でしたねー。もうやりたくないですー。あーつかれたー」
ふへぇ、と心から嫌そうにため息を吐くその姿に、強い疲労はかけらも見られなかった。
魔王軍が、殺到する。




