第十話 トゥントIV 『たまには真面目な語り部に』
火が爆ぜる音を響かせながらも、その一室の中は静寂と言えた。
ぱち、ぱちと耳に触れるだけで暖まる音色はまるでメロディの休符のように、揺らめく赤の踊りに合わせて時折現れる。
広くはない一室。マホガニーの肘掛け椅子とダブルサイズのベッドが二つ。それからサイドテーブルが一つに、備え付けの暖炉。煌々と力強く、されど静かに舞う燐の明かりに照らされて、ヤニで黄ばんだ湖の絵画が陽炎のように映される。
青年は一つしか無い年季の入ったシックな椅子に腰掛けて、浅く、それでも丁寧に睡眠を取っていた。微睡みというには深く、熟睡というには遠く。まるで生命の義務であるから仕方なく、といった風にして、彼は眠りという栄養を摂取しているように見えた。
首が痛くない程度にうつむいて、数分に一度の燐の音色に耳を傾けながら。警戒は怠らず、明日に支障が出ないように。
「……すぅ……すぅ……」
「……」
軽く、あどけない寝息は、もちろん青年のものではない。
夜も更けたこの時間、トゥントの宿屋の一室であるこの部屋には、青年以外にもう一人眠っている者がいた。
「……んぅ……」
少女らしい高い声が、火の爆ぜるのみであったこの室内に響く。
その新しい音に反応して、青年もゆっくりと瞳を開いた。
「あれ……ここは……」
「トゥントの宿だ。路地裏に倒れていたお前を拾って、ここまで連れてきた」
「え……? あ……」
ゆっくりと上体を起こした少女は、自らがベッドの一つを占領して眠っていたことに気が付いたようだ。そして、眠る以前最後の記憶も。少女の、まだ判然としない意識のまま顔にその小さな手を当てて考え込む姿に、青年は興味なさげを装って椅子の背もたれへ体重を預ける。
「ボクは……トゥントまで来て……あいつらに追いかけられて……」
「事情はどうでもいい」
「え?」
少女の言葉を遮るようにして、青年は言った。何の感慨も浮かべないその瞳に、少女も相手が誰なのか気づいたらしい。
「デジレ・マクレイン……帝国書院の、魔導司書……」
「そんな顔されても、先ほどまでぐーすか寝こけていた奴では怖くもなんともないな」
「ぐっ……」
はっとしたように少女――ジュスタ・ウェルセイアは足元を見つめた。柔らかなベッド、かけられた毛布、そして、少しは回復した自分の体。
「ここには、もしかして」
「もしかしなくても俺しか居ない。……押し付けられたようなもんだがな。クソ妖鬼に何かされるよりははるかにマシだった」
「……共和国の人間を、何故」
「それだけどよ」
訝しむように、青年――デジレを見据えるジュスタに、彼は呆れのため息を一つ吐いた。
このどうしようもない、誤解というのもバカらしいような問いかけに。
「そもそも、共和国領は既に帝国領だ。いがみ合う理由は、オレらにはねぇんだよ」
「嘘だ……共和国出身の人を虐げて、ボクの国の制度をメチャメチャにしたくせに!」
「それも、テメエ誰から聞いたよ。少々オイタが過ぎた共和国に、お灸をすえてやったようなもんだ。別に民から搾取をしたつもりもない。それに、多くの人間は帝国に帰化してるほどだ。……うちの魔導司書にも一人、共和国出身の奴が居るくらいにな」
「だ、誰からって……ちゃ、ちゃんとレイドア州の首長からだ! 今も帝国の重圧に、共和国のみんなは苦しんでるって! だから僕たちが救済に動かなきゃいけないんだ!」
「……なあおい」
「なにさ!」
つい熱くなってデジレの言葉に言い返していたジュスタだが、冷え切ったトーンにびくりと反応した。彼の瞳は笑っていないが、だがここまで言ってもジュスタを敵対視する様子は見られなかった。
「そのレイドア州の首長さんがよ、共和国滅ぼすのに一役買った人間なのは、分かってんのか?」
「え……?」
「帝国内部……というよりも帝都の御家騒動に介入し、裏で糸を引いて帝国にちょっかいかけようとした挙句……帝国書院の機密にまで割り込んでこようとしてな。うちのリーダーがぶち切れて、魔導司書で共和国を壊滅させる手順に至った。その時に運よく逃げたバカが一人居てな。そいつがそうだよ。……共和国を滅ぼす一因というか、ほぼ元凶が、逆恨みも良いとこな考えの元にそうやって問題をさらに引き起こした。オレらとしちゃ、笑えねえ話だ。テメエみてえなガキ騙してんだからよ」
「……う、そだ」
「っツ、喋りすぎたな、クソが」
嘆息混じりにデジレは呟くと、座っていた椅子からゆっくりと立ち上がった。
睡眠の為にしばらく動かなかったせいか少し腰が痛むが、日常茶飯事だと割り切って少しマッサージ。
「……この宿は朝まで取ってある。朝飯も出る。そんな華奢な体でろくに飯も食わずに戦ってたら倒れるに決まってんだろクソガキ。食って消えろ。……オレは少し外に出る」
何をやっているのだか。
そんな、呆れるような感情はデジレの心中に確かにあった。だが、どうもこの少女が必死になると、昔を思い出して嫌になる。
盲目的に、自らが行っていることの残酷さにも気づかず、ただ復讐を掲げて戦っていたあの頃を。
「……ぁ、」
「ま、オレから言えることは一つだ。……一方の言葉だけ聞いて騙されてるようじゃ、エージェント職としては三流以下だ、クソが。……じゃあな」
壁に立てかけてあった大薙刀を背負い、デジレは扉の方へと歩き出す。
その広い背中に、しばし呆然としていたジュスタは。
「待って……」
「なんだよ」
「……ここまで連れてきてくれたことは……ありがとう」
ちらりと視線だけで振り向けば。悔しそうに、それでも申し訳なさそうに礼を口にする少女の姿があった。どんな相手だろうと、してもらったことに対する礼だけは忘れない。その姿勢だけは、デジレも尊敬に値すると考えていた。
普通の人間は、仇に何をされようと礼など口に出来るものではないのだから。
「……そういうとこだけは、この前もだが大したもんだと思う。じゃあな」
「……で、でも共和国を滅ぼした帝国を……許したりは、しない……!」
「ちゃんと調べてから来るんだな。盲目の犬」
「……っ」
流れるようにあっさりと、レイドア州の首長の話を喋ったデジレ。
嘘か真かも分からないその言葉に、ジュスタの瞳が揺らいでいたということに、デジレは気づいていた。
気づいていたところでどうという話ではないが、それでも思う所はある。共和国の救済という言葉だけを掲げ、具体的な話を聞いたことなど無かったのだろう。見るからにクーデターの捨て駒に使われそうな子供なのだから。
振り返ることはせずに、部屋の扉を開いた。
宿屋の店主には、話を通してある。自分が今から居なくなっても、彼女は明日の朝の食事にありつくことは出来るだろう。彼女がどう思おうと、デジレはこれでいいと考えていた。
子供が、訳も分からないまま周囲の存在を殺されたら……味方だと名乗る人の言うことには、頷いてしまうだろうから。それは、痛いほど理解出来たから。
だが、あの優しく真っ当な子供に、復讐が成し遂げられるとはもう思えなかった。
きっとどこかで踏みとどまることが出来るだろう。願わくば、その時に後悔の念が押し寄せないように、ブレーキを用意してあげることくらいしか、出来ることはない。
「……復讐なんつーのは、怒りに骨身から染まった奴だけがやりゃあ良い話だ」
思わず呟いてから、後ろ手で扉を閉めた。
この後は、どうするかを考えながら、一歩を踏み出す。
と、その瞬間デジレは表情を噛み潰すことになった。
「……なんで居んだよ、クソが」