第三話 ナーサセス港II 『筋書きの狂う始まりは』
ばしゃり、と踏みつけた汚い水たまりが跳ねた。
見上げるほどに高い壁に挟まれた狭い裏路地を、駆ける。
店の勝手口らしきものが散見され、所狭しと木箱やずた袋が積まれた細い道。
どこにどう繋がっているのかなど分からない。
初めて通る道であろうと、上手くこの成長途上の小さな体を使って追手を引き離すことに集中せねばならなかった。
閉塞感を全身に覚えさせるこの道を走っていると、まるで自分が鼠か何かにでもなったような錯覚が生じてしまう。いや、確かに今の自分は"鼠"だった。
「居たぞ!!」
「そっちから回れ!!」
怒鳴りたてる声に、振り向くことは出来ない。
顔をはっきりと憶えられれば、憶えられるほどに不利であることは分かり切っていた。目立ちやすい橙色の髪も、隠すために黒のバンダナで出来る限り隠しているのだから。本来なら、誇りたいその色の髪を。
建物の壁を上手く蹴り飛ばし、高さを保って目の前に迫った塀を飛び越える。継ぎ足し継ぎ足しするように雑多に作られた、古い町にありがちな住宅地の造り。こういう狭く迷路のような道があるから、自分のような子供が逃げ続けることが出来る。それは分かっていたが、見上げた空はまるで馬鹿にしたように青く澄んでいて、見上げる自分がいつもちっぽけに見えて、裏でしか生きられない存在であることを突きつけられるかのように狭い空で、少女は空しい虚無感を抱え続けていた。
「クソがちょこまかと……!!」
「この路地の周囲には警戒網を敷いている! 焦るな!」
耳に入ったその言葉に、少女は舌打ちを禁じ得なかった。
警戒網。
おそらくは公国から連絡が入ったのだろう。それか、今も公国の人間が追手に加わっているのかもしれない。
いずれにしても、とうとうこの町で捕縛されるかもしれないという不安が脳裏をよぎった。だが、瞬時に頭を振る。こんなところで、夢半ばで折れる訳にはいかない。
祖国救済の為、大好きだった家族の仇を取る為、このままでは絶対に終われない。終わってはいけない。
路地の一角に干されていた洗濯物らしきものを奪い取り、走りながら一瞬で着替えを済ませる。無いよりはまし程度の変装ではあるが、それでも気休めにはなる。ここでは意味の無い行為だが、一歩外に出た時に人に紛れやすいのは大きな利点だった。だからこれは、逃げ切るという決意の表れでもあった。
白い無地のTシャツと、町娘のような赤い毛皮のジャンパースカート。
黒装束は懐に小さくたたんで隠し、駆ける。駆ける。
「舐めんなこのガキッ!」
「っ!」
「おいよせ、そいつぁ……!!」
先回りをされていた。飛び出してきた二人の男の影に、しかし一分の隙も見せず彼女は後方に宙返り。同時に、捕縛の為に前へと出てきた男の太ももと右胸、そして左手の甲に黒いものが突き刺さる。
「あぎゃあああああああああああ!!」
「飛び道具に注意しろと言ったろうが……」
「……ッ」
痛みにもだえ蹲る男から、隣で捨て台詞を吐く男に目を移す。
二人とも同じ衛兵の服を纏っており、彼らが現地の人間であることを少女は知る。
認識は刹那、同じように黒光りする鋭い得物をその男へと投擲した。
が。
「おっと」
「っ!」
男の目の前に展開された円形の紋章が、彼女の得物を軽く弾く。
男が翳した手から湧き出る魔力がその原因だということは分かったが、初めて見る類の魔法に一瞬少女は目を丸くした。
「教国の法術を見るのは初めてかい? 公国なら見る機会もあるとは思うが……なるほど、帝国からの流れ者という話は本当だったか」
「帝国じゃないっ……!!」
「おっと、喋ってくれたね。精神は未熟のようで助かったよ。……さて、じゃあお礼にせっかくだから教国の誇る法術を見せてあげようか」
「ツっ……!」
人間にとって一番の脅威は未知だ。
男の言うとおり、教国の法術を見たことは無い。
なれば取る手段はたった一つだった。
「気持ち良いくらいの逃げっぷりだな……だが、そっちにも追手は回っている。諦めた方がいい!」
「うるさいなッ……!」
あっさりと身を翻し、元来た方向へと逃走を始める少女。この路地には分かれ道も非常に多い。次の角を曲がれば、また別の道に出られるはずだ。
そう考え、少女は男からぐんぐんと距離を離していく。だが。
「教国法術は大きく分けて三つ。エンチャント・インスタント・アーティファクト。さっきの障壁はエンチャント……俺の手に"守護"属性を追加させただけの話さ。次はインスタントで相手をしよう」
「っ……!!」
べらべらとうるさい、と思いつつも口には出さない。声を聞かれることも避けたいのだから仕方がない。逃げ続けているせいで足に疲労が溜まり、いつもつれてしまうか不安にもなってきたが、それでも逃げるしかない。
その時だった。
男が路地の壁に触れた瞬間、突然目の前にあった道が塞がれた。
危うく激突する直前だったのをすんでのところで踏みとどまり、眼前に広がった塀を見上げる。まるで両脇の建物から生えてきたかのような不可思議な光景に言葉を奪われたその時だった。
「インスタントを使うのは法に触れるんだけどね、まあそうでもしなきゃ捕まらないんだからしょうがない」
「な、にを」
「インスタントは、その場にあるものを変質させる法術だよ。その場にあるものしか使えないし、空間にあるものは増えないから、キミの前にある壁を作る為にこの建物の中の煉瓦や石、砂利といったものをいくらか削った。そのせいでレイアウトが変わったり場合によっては崩れるから禁止されてるんだ……さて」
「……!!」
袋小路。
そう考えさせるには十分な状況ではあった。少女が、ただの少女であればの話だが。
彼女は両脇の壁を蹴って跳躍すると、そのまま男が作成した塀を飛び越えた。そして、さらに奥へと駆けていく。
彼女の背後から何かが崩れる音が聞こえた。
「いやまあ、これで止まるかは微妙だったけどあっさり過ぎるな」
「……」
共和国の忍を舐めるな。そう言ってやりたいところをぐっとこらえ、少女はさらに駆け続ける。何度もインスタントとやらを連発するほど男もなりふり構わない訳ではないようで、時折加速する魔法のようなものを仕掛けながら追いかけてくるだけだった。
そして、そのことに少し油断していた。
「っ!!」
「よくやったバルク」
「まあ、時間稼ぎはばっちりよ」
囲まれた。
そう気づくのが、少し遅すぎた。
先ほどの塀に囲まれている間に、おそらく魔力反応で所在がバレてしまったのだろう。ついで時間を稼がれて、あっさりと包囲網が縮められてしまった。
狭い路地の三叉路に、彼女を含めて二十人近くが集結している。
そして、見渡す限りこの男たちは全員同じ制服に身を包んでおり、おそらくは先ほどの男と同じ法術使いだということも簡単に察せることだった。
「しかしこんな子供一人に二十人規模で作戦とは、何考えてんだ?」
「さぁな。冒険者協会に踏み散らかされたくなかったんじゃねえか?」
肩を竦める男たちにあるのは余裕だった。ここまで包囲すれば間違いなく捕縛できるという自信からか。それを油断と見た少女は、一瞬の隙をついて得物を投擲した。
「っとと。こりゃあれか、クナイって奴か。……ジャポネの人間か、それとも、共和国か。あとは公国の冒険者か。何れにしても帝国や王国の人間じゃねえな」
「くっ……!!」
あっさりと、先ほどの男と同じ法術で防がれた。
しまったと思った時にはもう遅く、眼前に迫った男への反応が遅れる。
「開戦をテメエの方から宣言してくれるとはな」
「がふっ……!?」
ステッキのようなものがみぞおちへ強かに打ちこまれ、呼吸が出来なくなったと思ったと同時、全身を燻すような電撃が全身を駆け巡る。
「ああああああああああああ!!」
「アーティファクト。物に属性を付随させる法術だ」
痺れる全身に、気を失いかねない鋭い痛み。
スパークに白黒していた視界。激痛から解放されたと同時、周囲の男たちの複数から鎖のようなものが放たれる。
「あぐっ!!」
「まあガキだし、囲めば早いな」
「逃げられるのがネックだっただけだろ」
みし、と骨が軋むほどきつく数本の鎖に縛り付けられて宙に浮く。
まるで屠殺寸前の家畜にでもなったかのような扱いに、捕まったことをはっきりと自覚させられた。情けないという思いと、目の覚めるような痛みが体中を蝕んで止まない。
この鎖に実体はないところを見ると、エンチャントとやらの一つなのだろう。魔力で編まれた縛鎖に対して、少女は必死で突破口を模索する。
「んじゃ、ぱぱっと公国に引き渡すか」
「良い女ならともかく、ガキだしな」
あっさり業務終了とばかりに、軽く手を払う男たち。
情けないほどにあっさりと捕まってしまったこの状況。だが、少女は諦めていなかった。両腕を後ろで交差するように縛られた状態で、そのまま腰からクナイを一つ引き抜く。
精神を集中し、軽くそのクナイに魔力を走らせると、勢いよく振り上げた。
ぷつん、と魔力縛鎖が千切れる。
「なっ!」
「……しっ……!!」
まさか縛鎖が断ち切られるとは思っていなかった男たちの驚愕する顔を無視して、彼らの脚部を狙ってクナイを放つ。防いだ者が数名、しかし過半数の動きはかなり鈍化させることが出来た。そのまま跳躍し、壁を伝って包囲網を突破しようと足に力を入れたその時。
「逃がすな!!」
叫ぶのは、先ほどまで少女を散々追い回してくれた男。
その反応の速さに内心舌打ちしながらも、そのまま路地裏に入り込んで彼らの視界から消える。
あとは、上手く逃げられれば。しかし、縛鎖が自らをまるでホーミングするように追いかける。どういう理屈かは分からないが、もしかしたら先ほどの捕縛で魔力色を憶えられてしまったのかもしれない。
不覚に情けなさを感じながら、十本ほどの鎖を懸命に避けつつ走り続ける。
男たちの足音が後方から聞こえてくる。鎖を追っているのだろう、このままではジリ貧だ。
そう、思った時だった。
角を曲がった瞬間、ぐいっと何かに首根っこを掴まれたような感覚。
同時に、猛然とどこかに投げつけられるような浮遊感とマイナスグラヴィティ。叩きこまれたのは木箱か何かか。
背中を強かに打ちつけて、木箱の中に閉じ込められた。
呼吸困難になりそうな苦しさと背中の痛みを耐えながら、慌てて外に出ようと閉ざされた蓋を開けようとして、踏みとどまった。
「しばらくじっとしてろクソガキ」
囁かれたようなその言葉。
どうやら自分を木箱の中に放り込んだ張本人らしいが、木箱の隙間からだと髪の色くらいしか分からない。あとは、成人間もない青年ということ程度か。
しかし、彼の得物が尋常ではないオーラを纏っていることはすぐに分かった。彼が軽くその大薙刀を振るだけで、あれほどまでにしつこく追い回してきた鎖がまるで煙か霧のように空しくあっさりと消失する。
おそらくは彼のその大薙刀が纏うオーラが、魔力で出来たあの鎖の構築を自壊させているのではないだろうか。そうだとすれば、魔力を持つ者にとってあの大薙刀はただの脅威だ。人間も果実のようにすっぱりと切れてしまうだろうし、魔族などは触れただけで消滅してもおかしくない。
そのくらいの威力があの大薙刀には宿っていた。
いったい何者なのだろうか。
それは分からないが、聞こえてきた複数の足音に少女は息をひそめるしかなかった。
「……!? 居ない……おい貴様! このくらいのガキを見なかったか!?」
そっと木箱の隙間から覗けば、どうやらあの青年は取り囲まれているらしい。靴音から察して十人程度は居るであろう男たち。いくらあの大薙刀があるからといって、教国の法術師十人もの相手は不利ではないだろうか。
何故かは分からないが、どうやら自分を庇ってくれているらしい青年。
だが、状況は少女の思っていた斜め上を行く。
「あぁ……? テメエら、人に鎖ぶつけておいてもっと別のことはねえのかよクソ共。教国の法術師はその程度か」
「なっ……」
「魔力反応を察知してこんな薄汚え路地裏に来てみりゃ、鎖が襲い掛かってきたばかりか、使役した張本人たちが随分とまあ高圧的にふざけた態度でぬかしやがる。……なあおい」
ぶわり、と湧き上がった魔力に、少女は本能的な部分で恐怖した。
垂れ流されているその力は、およそ人が発して良い次元を軽く超えている。
圧倒的強者。
あんなものに、教国の法術師如きが敵うはずがない。
そう根拠もなく思えるほどに、目の前の青年は尋常ではなかった。
見れば、殺気をぶつけられた男たちは硬直して身動き一つ取れないではないか。小刻みに痙攣し、ぶわりと脂汗をにじませて、ただただ彼を直視する以外に何もできない。
そんな中で、一人悠々としている青年は男たちを睨み据えた。
「ひ……」
「ひ、じゃねえんだよ。謝れコラ。見ず知らずの人間に魔力鉄鎖なんざぶつけてんじゃねえよ。それともこれが教国流の挨拶か。おはよう、こんにちは、鎖。んなわけねえだろ殺すぞクソ共」
「き、きさま帝国の……」
「なんだ。テメエらの謝罪は相手方への名前を言うところから始まるのか。面白えな。……いややっぱ面白くねえよクソが」
「……」
「まあいいや。オレの前から消えろ。不愉快だ。じゃなけりゃ、オレが消してやってもいいが……どうする?」
青年の呆れたような語り口。
まるでどちらでもいいと言いたげなその口ぶりは、圧倒的強者のなせる文句。威圧は止まらず、尚も増すばかり。
ざり、と小さく地面を擦る音が聞こえたのが、切っ掛けだった。
「に、逃げろ!」
「くそ……!」
勢いよく身を翻し、脱兎の如く走り去る十人ほどの法術師たち。
国家に仕える彼らにこうもあっさりと威嚇して見せた彼が何者なのかは分からなかったが、大薙刀を肩にかけると、そのまま何事も無かったかのように去ろうとする。
慌てて少女は木箱の蓋を開けて飛び出した。
「ちょ、待って!」
「あん? ああ、もう食い逃げとかスリとかするなよ。……生きるのに必死なのは認めてやるが」
「ち、違うから!! そんな風に思われてたのボク!?」
「ん? 違うのか」
幸い路地の角を曲がる前に捕まえることが出来た。少女はどうも、生活の糧の為に仕方なく何かをやらかしてそのせいで追いかけられていたと思われていたらしい。とんでもない誤解だと思いつつ、青年を見上げる。
すらりとした長身に、正装。かけたモノクルと、それを透過して見据える鋭い瞳が若干気圧される。オールバックに纏めた青髪が、その知性をほのめかしているようだった。
「勘違いして悪かったな。だが……そういう目をしていた。オレも子供の頃は、生きることに必死だったからお前みたいなガキには敏感でな」
「あ、いや……ありがとう。本当に連行されるところだったから。で、でも違うんだよ!? 生きるためじゃなくて、祖国の救済の為に、必死なんだ」
「……救済?」
ぴくりと眉を動かした青年に、少女は鷹揚に頷いた。
そして、胸を張って青年に向き直る。
「助けてくれてありがとう。ボクはジュスタ。ジュスタ・ウェルセイア。共和国の忍にして、ゴルゾン州首長の一人娘。帝国と魔王軍に奪われた国を取り戻すために、戦ってるんだ」
てへへ、と頬をかきながら、まだ十かそこらの年齢でしかない少女は照れくさそうにそう名乗った。
その彼女に、青年は目を細めると。
そうか、と一言だけ言ってから。
「お兄さんは何て言うの?」
その少女の無邪気な質問を、
「デジレ・マクレイン。帝国書院書陵部魔導司書第五席兼研究院名誉院長。お前の憎むべき敵だが、かかってくるか?」
真っ向から叩き潰した。
その一瞬で、ジュスタは硬直した。