第十話 帝都グランシルII 『観光マナーは人それぞれ』
ヒイラギが目を覚ました時、まず気がついたのは己の魔力がごっそりと抜き取られていることだった。
凄絶な虚脱感と、悪酔いしたような気分の悪さ。ぼんやりとした視界と、まどろみから抜け切れていない思考。
「……こ、こは」
冷たい。
皮膚が感じているのは、固く冷たい感触だった。床に倒れ伏しているようだ。いや、それだけではない。何かの衝撃で、自分は意識を取り戻したような。
前髪がやたらと顔に張り付く感覚で、水か何かをぶっかけられたのだと気がついた。
『ふぇっふぇっふぇ……久しいな、ヒイラギ』
「…………っ、タロス、五世……?」
嫌にねっとりとした、聞き覚えのある声色。
朦朧としたままの意識をフルに使って、まだ開ききらない眼で声の主の居場所を探る。
自分が居るのは、どうやら地面に彫られた魔法陣の中心のようだった。ぼんやりと映る景色には、数人の人影。どこかでみたことがあると思ったら、一番近くに立っているのは魔導司書の第八席、ベネッタだった。
思いだした。
自分が何故こんなところに居るのか。その前に何が起きたのか。記憶が甦り、がくがくと力の抜けた腕を支えにして立ち上がろうとして、
「がっ……?」
「ふん……」
その腕を蹴り飛ばされて再度地面に倒れた。
誰が何を、と思ってみれば、当然のようにベネッタがヒイラギを冷たい目で見下ろしていた。
やたらとヘイトを向けられていたことは知っていたが、こうまであからさまだと苛立ちを通りこして殺意が沸く。しかしながら先ほど秒殺されたというのに、このコンディション最悪の状況で太刀打ち出来るなどとは思えなかった。
「何の……つもりよ……」
『百年振りに話をしてみたかっただけに過ぎんよ』
「私はお断り、だったんだけど……?」
『相変わらず、愛想の欠片も無い奴だ。やれベネッタ』
「がっ……!?」
声の主がどこに居るのか。それがわからないまま、後頭部を踵で踏みつけられた。盛大に地面に強打した鈍痛が、額を中心に響く。
『魔力も極力抜いた。力も百年前に比べてかなり弱体化したろう? その上で、我は強大な組織を作り上げた。お前が失い続けている間、我は手に入れ続けた。その差だ、貴様と、我のな……!』
「が、ぐぅ……!」
容赦の無い蹴りが鳩尾に叩き込まれる。
もはやタロスへの返事どころではなかった。ベネッタという女の何が自分に対してこうさせるのかなどわからなかったが、それ以上にこのふざけた事態に何も出来ない自分が許せなかった。
「なんっ……で、あんたが、私が弱くなったの知ってんのよ……」
『弱体化の術式をかけさせるよう命令したのが我だからよ。ずっとこの日を待っていた……! そう、ずっとだ……!』
「……っ……!」
ぞわり。粘っこいその声に全身が総毛立つ。
そうだ、昔からこの男はそうだったと、過去を思いだしたヒイラギはなけなしの力で顔をあげた。どうやら、魔力の波動から察するに天井付近から俯瞰するようにこの場を見下ろしているらしい。
『あれほど我を誑かしておきながら、あれほど我を虜にしておきながら、ガーランドなどに騙されよって……我は、あの時ほどの屈辱を味わったことはない……!』
「そんなの……あんたが勝手に……!」
『ベネッタ』
「あぐっ……!!」
この身に宿った魅了の呪い。それが引き起こしたことだとしても、あまりにも理不尽だった。魔族を虐げる社会を構築していたあの頃の帝国にあって、一人だけ手をさしのべてくれた相手と、それを横取りしようとした皇帝。恨みしか無い相手にどんなに言い寄られたところで、靡くはずなどないというのに。
タロス五世の執着は、自分の復讐心よりもずっと濃く、酷い有様だった。
「てゆーかさ、そんな呪い引っ提げておいて随分虫が良いよね、勝手に魅了された? とか。アホっぽい」
「あんたに何が分かるのよ……!!」
「知らないのはお互いさまで、しょっ!?」
「ぐぁ……!」
軍靴の鋭いつま先が再び鳩尾に入って、胃の中がひっくり返るような嘔吐感が押し寄せる。必死に耐えようとして思わず出てきた滴に、情けなさと悔しさが混じりあって唇を噛みしめた。
逃げだそうにも、まるで腰が抜けたかのように感覚がなくなっていて足もろくに動かない始末。自分の無様さがもはや辛かった。
『なあヒイラギ。お前のお陰で散々帝国の秩序は引っかき回されたが……ようやく持ち直した。お前も弱くなった。我は、選択肢を用意している』
「どうせ……ろくでもないことに決まってる……!」
『そう言うな。難しいことではない』
ぎり、と歯を食いしばって、天井付近を睨むヒイラギ。あの男が優位に立った時に、こうして尊大に振る舞う時。そういう時、どれだけ人を踏みにじるような発言をするのかくらい、分かっているつもりだった。
だが、それはつもりでしかなかったことを、思い知らされることになる。
『ガーランドとのことを完全なる嘘であったと表明し、我に哀れに媚びるなら全て水に流して飼ってやろう。さもなくば、ここで死ね』
「……あんたは……本当にッ……!!」
タロス五世の治世は元々魔族が奴隷のように扱われていた時代だ。
だからこそこの男も、魔族をそういう人非人のような扱いをしている節はままあった。
だが、それにしたって。もしそうであったとしても。
ここまで酷いものだろうか。
人の心を引き裂くだけでは飽きたらず、一縷の思いをも粉々に粉砕して尊厳を地にたたき落とすほど、人は人にこうも惨く当たれるものだろうか。
『元々もうそろそろ百年だ。岩から解放してやろうとは思っていた。まさか何かの拍子で出てくるとは思わなかったからな。……さて、どうするヒイラギ。死を選ぶなら、残念だがそこのベネッタに簡単に殺して貰えるぞ?』
「元帥が何でこんな魔族に拘るのかは分かんないけど……まあ殺してあげる」
人に恋をした一年間。
あの時は、楽しい思いでだけではなかった。
皇帝という邪魔もあったし、ガーランドがそれらからヒイラギを庇う為に必死になってくれもした。お互い、あまり休まる時間はなかったと言っていい。
けれども、それでも。
あれらを嘘と否定出来るほど、安い時間であったはずがない。
『この帝都でも、魔族を奴隷として未だ飼っている貴族は少なくない。何だったらお仲間を紹介してやってもいい……ああ、そうだこの感じだ。一度こうしてお前を完膚無きまでに踏みにじってやりたかったんだ……!』
「……っ……!!」
喜色の混じった声。
燃え上がらんばかりの殺意はしかし、自らの力不足によって結局何もできず仕舞い。ここまで悔しいことが、ここまで虚しいことが、ここまでやるせないことが、ほかにあるだろうか。
どんなに自分とその大切な人をこけにされても、何もできないこの現状。どうしようもなく悔しくて、今にも声の主の首を捻りちぎってやりたい気持ちでいっぱいなのに、手が届かないどころか部外者に邪魔立てされてただただいたぶられる始末。
あまりにも、あまりにも無力だった。
『ベネッタ』
「さっさと答えを出しなよ、魔族!」
「ぐぁ……!!」
ぎりぎりと後頭部を踏みにじられて、耳まで押しつけられて。じんわりとした痛みが、精神をも磨耗させる。
誰か、助けて。
そんな風に思ってしまう心の弱さ。けれど、自分が頼りない以上、外の力に頼ってしまうのは仕方のないこととも言えた。
けれど、それで誰が助けてくれる訳でも無いむなしさ。
昨日までの、楽しかった思い出は全て嘘、自分の酷い妄想でしかなかったのではないかとまで思えてしまうほど、今こうして惨めに晒しあげられているほうが現実味があった。
魔族として、奴隷のように扱われていた百年前。
それを思い起こすと、今でも本質は情けないままなのだと思い知らされる。
泣きわめいてしまいたかった。けれど、それをしてしまったら本当の意味で心が折れる。殺されてもいいから、タロス五世には負けたくなかった。戦えなくてもいい、心で負けたくない。
だから……。
と、思い返すのは不思議と、百年前の記憶ではなかった。
どうしようもなく下らない、けれど頼もしい、一人の青年。
いつも飄々として隙がなく、だらしがないようで心強い妖鬼。
「助けてよ……」
「ばかっぽい。帝国書院にまでお前を助けにくるバカがどこにいるの」
『まだ妙な希望を抱いているようだな。ベネッタ、やれ』
大きな背中、いつも人を小馬鹿にしたような笑み。
理不尽で適当で不作法で強くて格好良くてトボケて、本当にふざけた男。
でも、それでも一緒に居て楽しかった、眷属としての主。
「助けてよ……シュテン……!!」
涙が一粒頬を伝った。
「ちわーっす! 観光に来やしたー!!」
「えっ……!?」
「な、どこから入ってきた!?」
『……魔族。妖鬼……? 何者だ……!』
凄まじい粉砕音とともに両開きの扉が砕かれた。
慌てて振り返ったベネッタの視界に入ってきたのは、大斧を背負い角を二本生やしたシルエット。
だがそれ以上に感じる、凄まじいほどに濃密な魔力。
「帝国書院様ともあろう場所だけど、案外警備脆いのな。魔導司書が優秀過ぎてその辺あんまり考えてないのかね」
『き、貴様何者だ……!?』
動揺を隠しきれないタロス五世の声。どこから声がしているのか分からないらしく、そのシルエットはきょろきょろと内部を見回して。結局見つからなかった代わりに、別のものを視界に入れて指を差した。
「あれの回収人」
指を差された方はと言えば、一瞬放心状態にあった。
結局数日一緒にいただけの眷属だ。こんな、危険きわまりないところにまで助けに来てくれるなどと、本気で思っていた訳ではない。
一縷の心の希望として、己を保つ為に言っていたに過ぎない絵空事。
……嘘だ。本当は少しだけ期待していた。
あいつなら、危険とか常識とかすっ飛ばして遊びにくるテンションで来てくれるのではないかと。
だが、それでも。
この現状を鵜呑みにできるほど、ヒイラギの精神状態はまともではなかった。
また夢をみているのではないか。楽しかった思い出に、自分の気がおかしくなっているのではないか。そんな思いが心の中で溢れ返る。
「ひ、人のことをもの呼ばわりして……!」
「こんなところに拉致られる奴ぁ、もので十分だ駄尻尾。わざわざ迎えに来てやったんだ。ほれ、喜べ」
ああ、いつものあいつだ。
それが一瞬で分かるふざけた受け答え。
どっと疲れると同時に、なぜだか安心できる言葉の応酬。
「ほんっとうに……ふざけた男ね……」
思わず、ため息混じりにそんな声がでてしまう。呆れではない、安堵から来るものなのだと、ヒイラギは理解していた。
「んで、ヒイラギが心身ともにやたら疲弊してるっぽいのは……テメエが原因か?」
「ひっ……!!」
一方で。
謎の化け物の登場にベネッタは肝を冷やしていた。あれはいったい何者だ。グリンドルから聞いていた話からでさえ、あのような化け物はでてこなかったはずだ。せいぜいが、グリンドルと互角にやりあった魔族という話だった。
だが、今はどうだ。
感じる魔力量のすさまじさ、圧倒的なプレッシャーはまるで、自分たちのリーダーを怒らせた時のようではないか。
いくらなんでもそこまではいかないとは分かっていても、目の前の妖鬼はリーダーのように怒っているだけではなく、殺気まで多分に含んだオーラを噴出させている。
冗談抜きの化け物。そんなものが、帝国書院に殴り込みなど悪夢以外の何物でもない。
「あ、ああ……!」
「人の眷属いたぶっといて、なんつー顔晒してんだこいつ」
『人の眷属……? おいまさか、我の物を眷属などに堕としたのか!?』
「我の物ァ?」
誰がタロス五世のものだ、とヒイラギは思った。
しかしシュテンはヒイラギと、ようやく波動の中心を見つけたらしく天井を一瞥して何かを悟ったように頷いた。
「ああ、なるほど。タロス五世さんか。まあ随分と強引な真似を……」
『そ、そうだ。我こそが十八代皇帝タロス五世。百年前からずっと待っていた時間を邪魔立てし、あまつさえ眷属など……許し難い暴挙!』
「百年前はまあ、百歩譲ってお前さんの物だったかもしれねえが」
がしがしと後頭部を掻きながら、シュテンは天井を見上げて笑う。
「今は俺のだ」
「んなっ……!」
『貴様……ッ!!』
「悪ぃなタロスさんよ。たった一人の旅仲間を、こんなところで取られたくはねえのよ。その為に一生懸命激痛も我慢したんだ。帰れるかってんだ」
思わず声を上げるヒイラギの頬は若干赤い。だがそれを気にした風もなく、シュテンは鬼殺しを構えた。
と、その時紅蓮の間に飛び込んでくる一人の青年。
「何事ですか!? 凄まじい音がしましたがっ……!! 貴様はあの時の妖鬼……!!」
グリンドル・グリフスケイル。
妖鬼の姿を視界に入れるなり、すでに身につけていたグローブを構えて睨み据える。臨戦態勢は整っており、シュテンはベネッタとグリンドルに取り囲まれた形となった。
「シュテン……!!」
ヒイラギは、なにを言おうとしたのだろう。逃げて、という言葉が一瞬脳裏をよぎった。だが、助けてくれることを期待して、わざわざ助けに来てくれて……そんな感情がない交ぜになって、うまく言葉にできない。
グリンドル一人を相手にするのも、大変だったはずだ。それよりも強いベネッタと、今度は二人がかり。どうしようもない、この状況。
『第八席! 第十席! そこの無礼者を殺せ!!』
「……はい!」
「はい……!」
オカリナを抜くベネッタと、拳を構えるグリンドル。
だが、グリンドルは気づいていた。前回の比ではないほどに、目の前の妖鬼の力が強まっていることを。
それを裏打ちするかのように、妖鬼は笑う。
「第八席に、第十席か……」
二人を見て、そして続けた。
「お手柔らかに頼むぜ」
圧倒的な魔力を放つ化け物が、鬼殺しを担いで口角をつり上げた。