第十八話 魔界六丁目VII 『魔神』
――魔界六丁目。
セクエンス・サリエルゲートは小さく舌打ちをした。どうにも、ルノアールがしくじったようだ。微妙に六丁目にため込んだ魔素にブレが見える。
これでは、まともに"魔神召喚"が出来るか怪しい。
魔王からの合図はまだだが、そろそろ始めてしまおうかと耳をほじっていた。
何せ。
「さてー。そろそろ全力で戦えそうですねー」
目の前の少女を止める手段が無くなった。
上手く民衆を使うことで魔素を削り切り、綺麗に刈り取って仕舞にしよう。
そう思っていたのに、まさか。
「……馬鹿息子がなぁ」
自分を見つければ、殺しに来ると思っていた。
事実、そうさせるようにしばらくの間動いていたはずだ。
鎮めの樹海でも逆上したように追いかけてきていたと、ルノアールから聞いていた。
にも拘わらず。
「よぉし!! 押さない、駆けない、怖れない! 一人ずつなんてケチなこたぁ言わねえからさっさかみんなその穴の中に入っていけ!」
燃え盛る街の中、逃げ場を失った者たちの前に好都合に現れる黒い渦。
住民の誰しもにとって馴染みのあるその渦は、いつも高位魔族が出入りするために使用しているゲートだ。
使用者の名は、レックルス・サリエルゲート。
"秤"の四天王。そして、親シャノアール派の中でも飛びぬけた有用性と実力を持つオークの男だ。
彼の声が聞こえれば、住民は少し安堵する。
ここを通れと彼は言う。
確かに目先は真っ暗で、渦を巻く向こうに何があるのかは分からない。
不安に思う者もいるだろう、不気味に感じる人もいるだろう。レックルスはそんな配慮から、恐れるなと皆に伝えて通るように促していた。
けれど、誰もがゲートを恐れることはない。
名残惜しそうに自分たちの街を見る住民は多く居るが、いざゲートに入る番となれば素直だ。
それは今までレックルスがこの街で生きてきたが故の信頼なのだと、当の本人は気づかない。あまりに、自分以外の幹部が眩しすぎたから。
その謙虚さがさらに美徳となって彼の信頼に繋げていることも、きっとこれから先の彼が知ることはないだろう。
「街が心配なのも分かる! 家が心配なのも分かる!! けどな!!」
街を憂う民の表情は優れない。
けれど彼らを押し切って、守るべき者たちを守れる場所へ誘導する義務が、レックルス・サリエルゲートにはあった。
上空の少女二人が自由に戦えるように――必ず自分の父を討ってくれるように。
――否。違う。
この街に、また皆が帰って来られるように、だ。
高い建物の上に立ち、次々に民衆をゲートの中に送り込みながら、順番を待つ者たちを激励するようにレックルスは吼える。
「けどな、思い出して欲しいんだ。古参の魔族なら、初めてこの街にお前らがこの街に来た時のことを。新参は、両親から聞いたことを。シャノアールが作ったこの街は――最初はなんにもなかったんだぜ」
何も、無かった。
ただのだだっ広い荒野に立って、『ここを始まりの街とする!! この、ボクらのね!』と叫んだ上司には、レックルスも軽く眩暈がしたものだ。
けれどその清々しいシャノアールの表情と、新天地を目指して希望を胸に抱いていた最初の住民たちの表情を思い出せば、彼らはきっとまた奮い立てる。
シャノアールの魔導や、レックルスが軽々もってきた工材があってこそとはいえ。
本当にゼロからこの街は始まったのだ。
「人がいるから街があるんだ。街があるから人が居るんじゃねえ。お前らさえ無事ならまたやり直せる! だから、今は任せてくれ!」
懇願じみたレックルスの咆哮。
彼らが希望を失ってしまえば、どんなに街が原型をとどめていたとしてもここで終わる。終わってしまう。焔に包まれた家屋。空を飛び交う魔獣。次々ゲートから飛び込んでくる、自分たちより圧倒的に強い化け物共。
怖いだろう。辛いだろう。苦しいだろう。レックルスもその気持ちは痛いほどわかる。何せ先ほど自分は、その圧倒的な状況にあって、シュテン一人を置き去りにしてこの場所へとやってきたのだ。
だが、レックルスはその選択を後悔していない。
なぜならシュテンという男は、己が戦線を任せるに足る漢だからだ。
だから今。彼ら民衆にもどうか。
自分たちを信頼して、今は背中を預けて欲しい。街の存続をかけた戦いで、どうか。
俺たちに賭けて欲しい。
だから任せてくれとレックルスは吼える。
この場所を俺たちが守るから、皆も己の心を守って欲しいと。
「――お前らにとって縁の深い、いつも同じ街で過ごしてくれた子たちが守ってくれるから!」
レックルスは、手を広げて空を示した。
上空ではゲートを使う敵を相手に、ヴェローチェとユリーカが戦いを演じている。
既にダンジョンと化してしまったこの街に降り注ぐモンスターを、ユリーカが次々と駆逐して。人質を取ろうとするセクエンスを、ヴェローチェの魔導が妨害する。
この光景が、どの程度皆に伝わるのかは分からない。
セクエンスとて魔族の中でも指折りの実力者。つまりは実力者同士の戦いだ。
それが素人目に理解出来るかどうかは、怪しいところだ。
だがそれでも。
もうダメかもしれない。
この街はもうおしまいだ。
自分たちの生きる場所は、もうないのだ。
そうとだけは、想って欲しくなかった。
この街に生きる住民は、何かしらの事情で表社会から弾き出されたはぐれ者だ。
魔界でも、人間界でも生きる場所のない者たちを集め、希望をもって生きられるようにとシャノアールが願い作った場所なのだ。
その住民から希望を奪うことだけは、絶対にしたくなかった。
けれど。自分の言葉だけでそれが通じただろうか。
精一杯、心を伝えたつもりではある。
己の言えることは、全て言った。
しかし皆に届いたかどうかだけは、分からない。
――レックルスは、顔を上げた。
「旦那ー!!」
早く逃げろと言っているのに、ゲートに入る住民の動きが止まっていた。
そして、皆が皆、建物の上のレックルスを見つめている。
中でもチンピラ崩れの博打うち共が、笑ってレックルスに手を振った。
「ありがとな!! 旦那!! 逃がしてくれるってだけでも有難いってのに、心配までさせちまってよ!!」
「まったくだぜ! 俺ら生まれてこの方、誰かから心配されるなんて経験殆どねえからな!!」
「元から信頼してますよ! ユリーカちゃん、ヴェローチェちゃんのことも、シャノアール様のことも。……そしてもちろん、旦那のこともね!!」
口々に民衆が声を上げる。
心配してくれてありがとう。
旦那に託すことに何の懸念もない。
助かったよ、後は頼む。
旦那のことは、元から信頼している。
そんな、当たり前のように向けられた好意的な心情に対し、レックルスが返せたのはただの一言だった。
「……えっ」
どっと、民衆の中で笑いが起こる。
「え、じゃねーよ!! まさか俺たちがそんな暗い連中だとでも!?」
「確かに怖いぜ、死ぬかもしれねえ。でも」
「あんたらに守られて死んだってなりゃ、逆に申し訳ねえからな! 是が非でも生き残る!」
「旦那に返せる恩は、それくらいしかありませんから!」
ああ。
なるほど。
彼らの笑顔は、強さだ。
心の中の、恐怖や悔悟や辛苦を圧し潰して、守ってくれる誰かを安心させるための笑顔を向けてくれている。
逆にこちらが安心してしまうような、そんな心の支え。
思わず、口元が緩んだ。吐き出した吐息が熱い。
ああ。
なるほど。
彼らの心意気は伝わった。伝えようとしたら、こっちに伝わった。
その心の繋がりが。気づけたことの喜びが。何て形容するべきか、一瞬分からなくなって――しかし、自分が戦いを託してきた男の姿を思い出す。
ああ。
なるほど。
これが、浪漫か。
「うるせえお前ら!! 早く行け!!!」
厄介払いでもするように手をやって、ぶーたれる住民たちをゲートの中へと促していく。そうすれば彼らも文句を言わず、それとなく駆け足で去っていった。
やはり、ここに残っているのは怖かったことだろう。
けれど今のやり取りで少しでもその心の中にある不安が取り除けたならば。
そうであったら良いと、レックルスは空を見上げた。
そして、その表情から血の気が引いて。
彼は住民たちの避難を確認すると、すぐさまシャノアールを連れ出す為に魔王城へとゲートを開いたのだった。
『おい、ミネリナの嬢ちゃん!! 魔王城の様子は!?』
『みんな満身創痍だよ……これ以上、特にシャノアールを戦わせるのは――』
そうか。なら。
魔界六丁目がダンジョンと化してしまった。という言葉の意味は二つある。
一つは文字通り、多くのモンスターがこの地に舞い降りたことによる混沌。
溢れかえった化け物たちの饗宴は、この地に生きていた人々を追い出して、我がもの顔で闊歩している。この世界に蔓延るダンジョンと、そう変わり映えのない光景を生み出してしまっている事実が、一つだ。
そしてもう一つは、そもそも"モンスターが生きている"ということに起因する。
モンスターというのは生物とは違い、魔素によってのみ構築された知性の無い化け物だ。彼らが生きている空間というのが即ちダンジョン。
ダンジョンとは、魔素の詰まった異質な空間そのものだ。
この場がダンジョン化しているというのはつまり、混沌とした魔素の持つエネルギーが、密度を濃くしてこの空間を作り上げているという――土地が崩れる一歩手前の危険信号だ。
このままでは人が住める場所には戻らない。
不安定に濃密な魔素が膨れ上がって、民家の中に突然モンスターがポップするなんていうこともあり得るのだから。
状況を煩わしく思いながらも、ヴェローチェ・ヴィエ・アトモスフィアは淡々と正面の敵を追い詰めていた。
魔素の密度が濃い空間とは即ち、収束させ放つ魔導の使い勝手が普段よりも良くなるということ。
何故ここまで魔界六丁目の魔素が濃くなっているのか、その原因は未だつかめないが、それはそれとして目の前の男――セクエンス・サリエルゲートを叩き潰すには都合が良かった。
「では、そろそろ潰れてしまってくださいー」
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・混沌冥月――
彼女の周囲に現れる四つの砲塔から、弾かれたように飛び出す黒い奔流。
流れうねるような軌道を経て突き進むそれらは、セクエンスに四方から追いすがる。
「ちっ!」
――古代呪法・座標獄門――
セクエンス・サリエルゲートは己のゲートを展開することで迎撃した。
混沌の奔流でさえも、その攻防一体の門の前では無力だと。
渦に吸い込まれた混沌が、なればどこに向かうかと言えば自明の理。
セクエンスが睨む少女の足元で、殺意の顎が鯉口を切った。
「死ね、ガキ」
自らの混沌冥月に呑まれて死ぬがいい。
黒の奔流がヴェローチェ・ヴィエ・アトモスフィアの下から噴火のように飛び出した。
これが、サリエルゲート家に伝わる魔導。
導師や、導師の孫娘でさえ修得していない、彼の家にのみ伝わる魔導。
「見たか! これが座標獄門!! 不出来な愚息がどれだけ掌握出来ていたかは知らねえが、ただの便利な出入り口じゃあ、ねえんだよ! これが、これこそが、サリエルゲートにしか使えない――」
「――大した一発芸ですねー」
弾かれたように顔を上げた。
セクエンスの頭上、空を優雅に散歩するゴシックドレス。
パゴダ傘をふわりと開いて、しかし彼女は無傷だった。
「馬鹿な!? 混沌冥月だぞ!? 魔界最高クラスの古代呪法を、それも四発纏めたようなものを、受けて傷一つないなんてことがあるはずは――」
「……ああ、あれ魔界最高クラスなんですかー? へー。一つ賢くなりましたー」
「戯言をぬかすんじゃあ、ねえよ……!! 自分の魔素をどれだけ消耗しているか、自分でも分かっているだろうが!!」
セクエンスの罵声に、しかし相変わらず無気力な表情を引っ提げて彼女は首を傾げた。先ほどなどは間抜けな顔してぱちぱち胸元で小さな拍手をしていた辺り、本当に混沌冥月ごときを絶大な魔導などとは毛ほども思っていないらしい。
「はあ、まあ。それなりに魔素は消耗しますが。他の古代呪法に比べたら、の話ですが」
「なにっ……?」
「あっ」
何だろう、この気の抜けた会話は。
人質にとれそうだった民衆が居なくなってからというもの、ヴェローチェ・ヴィエ・アトモスフィアから文字通り"闘志"が消えたのだ。
それを感じ取れないセクエンスではない。
混沌冥月をぶつけてきた時でさえ、まるで戦いとは別種の――家に沸いた虫を駆除するかのような瞳で彼女は相対してきている。
たかだか、導師の孫娘如きが、だ。
舐められている、とセクエンスが苛立つのも無理のない話だろう。
仕方がない。何せ目の前の彼女には、魔界に在っての肩書が無いのだ。
せいぜい、導師の孫娘。ルノアール・ヴィエ・アトモスフィアの実験台。そして、ただの人間。
仕方のないことだとは思う。
しかしせめて。
もう少し、導師の話を聞いていれば。
ルノアールの実験に、もう少し興味を持っていれば。
もう少し、アホ妖鬼と陽気な別の世界線トークでもしていれば。
きっと目の前の少女を侮りなどしなかったに違いない。
「……もしかして、わたくしはせいぜいが導師の孫娘で、ただの人間。程度に思われているいつものパターンですかねー」
うそ、わたくしの威圧、低すぎ……と口元に手を当てるヴェローチェ。
「……ただの人間だとは思っちゃいねえよ、導師に英才教育でも施されてきたんだろうが、それが何だってんだ」
「あー、はいはい。分かりましたー十分ですー」
とん、とつま先で空気を割った。
迸る亀裂がセクエンスの眼前に迫りくるのを、これまたセクエンスは座標獄門で凌ぐ。そして、当然のようにヴェローチェの元まで跳ね返した。
その彼女に触れた瞬間、魔導は嘘のように霧散した。
「……なに?」
「別にそう難しいことではありませんがー。今の古代呪法・動地鳴哭に、同じ動地鳴哭をぶつけただけですー。綺麗にきちんと丁寧に、同じ向きから同じ力を加えれば魔素は霧散しますしー」
「り、理論上は確かにそうだ!! だがそれは……針と針を突き合わせるようなものだ!」
「いえ、ですから現実にー」
――古代呪法・混沌冥月――
「くぅ!!」
――古代呪法・座標獄門――
セクエンスは、混沌の奔流を座標獄門で飲み込んだ。
そのままの勢いで、彼女の背後にゲートを展開する。
だが。
――古代呪法・混沌冥月――
あっさりと、黒と黒の奔流は打ち消し合うようにして霧散した。
「このように」
「はは、冗談じゃあ、ねえよ。なんだそりゃあ。そんな芸当が出来るなら、お前は導師よりもよほど――」
優れた魔導師じゃねえか。
そう、口にするとしっくり来た。
導師が、自分の孫娘を隠すことなくこの魔界に放し飼いにしていた理由。
ルノアールが、わざわざ自分の娘を、リスクを承知で実験台にした理由。
そして彼は知らないが。彼の知らない世界線で彼女が"導師"と呼ばれていたことも。
「わたくしの使役する古代呪法は四十二。以前より少し増えましたがー。まあ、使い勝手が良いのはやはりこの辺ですねー」
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・座標獄門――
――古代呪法・混沌冥月――
「いつまで続ける気だ、こんなことを!!」
座標獄門で何度も何度も命の危機を回避していたセクエンスは、たまらず叫んだ。
それはそうだ。
何度跳ね返されても、自分の魔導で相殺してさらに攻撃を仕掛けてくる。
無駄だと分かっているはずなのに、同じことを繰り返す。
それが生む、焦燥。
幾ら混沌冥月の消費魔素が激しいとはいえ、こうぽんぽんと繰り出されてはたまらない。目の前の少女の保有魔力はどれだけあるのか。疲弊した様子も見られないところを見ると、あれだけの戦いの後で殆ど消耗していないのか、とか。
「――昔、けっこーしんどいことがありましてー」
「ああ!?」
座標獄門で何度もヴェローチェの魔導を凌ぎながら、セクエンスは声を荒げた。
だが当の本人はセクエンスを見ているようで、見ていない。
まるで独り言のようにぽつぽつと語り出すその姿に、戦闘のさなかだという自覚はないらしい。
「独りぼっちで誰にも助けて貰えなくて、どれだけ力を示してもついてきてくれる人はどこにもいなくて。……どうすれば、誰が、自分の味方になってくれるのか分からなくて。その時のわたくしなら、もう魔素切れだったかもしれませんねー」
「はっ、訳の分からねえことを言ってんじゃあ、ねえよ!! ルノアールの実験台がどうのは知らねえが、テメエには導師っつーでかい背中があって!! 車輪っつー姉貴が居て!! そんな権力握ったテメエを相手取れるヤツなんざ殆どいねえ!! どこの誰より幸せじゃあ、ねえかよ!!」
何をごちゃごちゃと、とヴェローチェを睨んだセクエンスは息を飲んだ。
さっきまでも、無気力で無表情で、戦いとは無縁な顔をしていた彼女は。
今も同じように、場違いな表情を浮かべている。
違うのは、それが華やぐような笑顔ということだ。
魔界に咲いた一輪の花。
――咲った。少女は、嬉しそうに、胸の中にある温かな感情を隠そうともせずに。
陰陽浪漫譚に曰く。
極めて不幸な境遇を経験した者だけが真に幸福を実感できるという。
ならばそう。その笑顔はきっと、本当に不幸だった少女が、今。
「はい。幸せですー」
『ふむ。皆を守れるようになりたい? ならまずは保有魔素を増やすところからだね! ヴェローチェのポテンシャルなら、可能性は無限大だと保障するよ、このボクがね!!』
『ヴェローチェはさ。自分が誰にも愛されたことがない。誰かに愛されたいって、そう思ってたみたいだけど。今の貴女なら簡単だよ。だって、みんなを愛せてるから。お姉ちゃんが保障してあげる!』
『お前さんが過去にやった"らしい"ことが、この世界ではなかったことになってる。記憶にある事実はお前さんのものだがよ、それを"やらずに済んだ"んだ。なら、それなりに考えて生きりゃいいんだろう。他人の感謝を受け止めるかは自由だが、別にそれで振る舞いを変える必要はねえ。元の歴史で不幸を振りまいたってお前さんが言うなら、その分今の幸せを、お前が自由に配って回ればいいんじゃねえか?』
いっぱい、配った。
魔界六丁目での思い出は、大事に思えた人たちとの繋がりは、確かに自分に大事なことを教えてくれた。だから、この人たちの為に頑張ろうって思えるようになった。
今、ヴェローチェの魔素保有量はシャノアールを超える。
そんな彼女を魔導で凌ぐことが、果たしてセクエンスに出来るのか。
「その座標獄門、あと何回展開できるかは知りませんがー」
「……ちょっとまて、まさかテメエ!!」
「どっちの魔素が先に切れるか、踊りましょー。その一発芸でいつまで凌げますかねー」
どちらかの魔素が尽きるまでのデッドレース。
魔王城は信頼できる仲間たちに任せた。
人質同然だった民衆はレックルスが回収した。
なら、自分はここで必ず敵側の野望を止めてみせよう。
「ざっけんな!!! やってられるか、ってんだよ!!」
当然、セクエンスは自分から泥沼にはまりに行ったりはしない。
この状況は、はるかに自分たちの劣勢だ。
魔王からのレスポンスも無い、ルノアールもおそらくしくじった。
ならば、もうこの街に用はない。
「――お前はこの街がよほど大事らしいな」
その一言に、ヴェローチェは目を合わせた。
何を言い出したかと思えば、今更の確認。しかし無駄と切り捨てるには、セクエンスの表情が露悪的過ぎる。
――いったい?
『ヴェローチェ、聞こえるかい!? わたしだ! ミネリナだ!』
「はい、どうしましたかー」
同時に通信。
呑気に混沌冥月を放ちながら、ミネリナに応対するヴェローチェ。
しかし、セクエンスの意味ありげな一言と、ミネリナの通信のタイミングは、あまりに意図的なものを感じるというか、第六感が警鐘を鳴らす。
何か、よくないことが起こりそうだと。
『魔王城の方で行われていた魔神召喚の詠唱!! あれの出所は魔王城じゃない!! この魔界六丁目のダンジョン化といい、突然の魔素上昇率といい……!』
「え、待ってくださいー。その言い方は、つまり――」
その瞬間、ヴェローチェも察した。
溢れかえるような魔素のエネルギー。
大地を揺るがすようなプレッシャー。
確かに魔王城の方から流れ込んできた、呪文を介したナニカ。
まるで導火線から爆弾へと火が奔るように、今、この魔界六丁目は――。
「何故、今の今まで魔界六丁目とかいうゴミの掃き貯めを放置していたか分かるか」
セクエンスが口を開く。
「魔王さまが有事の際に犠牲にすると決めていたからだ。魔界が地下に堕ちてから、魔王さまはここを魔神召喚の拠点にすると決めたんだよ。だから、テメエらが気づかないうちに数々の紋章を刻んでおいた。魔素の起爆術式だ」
「――っ」
ここに、もし。
いつもの頼れる背中があれば。
『あ? 導火線? そんなもんソフトクリームぺろぺろしながら歩いてたら躓いたからぶった切った』
とかなんとか、未然にくだらない理由で危機を阻止してくれていたかもしれない。
だが、今。彼の背中はどこにもない。
「悪いな嬢ちゃん。俺たちの勝ちだ。魔神召喚さえ出来ちまえば、魔王さまは後から何度でも甦る。魔界の日の出は、払暁は目の前だ!!」
「こんのっ――」
ぐらぐらと大地が揺れる。
煩いくらいに地響きと、倒壊と、はじけるような音が魔界六丁目という小さな箱庭を終わらせるためにレクイエムを奏でていった。
「さあ、始まるぞ、魔界の開闢が!!」
圧倒的なまでの魔素エネルギーを検知したヴェローチェは、その方角へと顔を向けた。
魔界六丁目のちょうど中心地点。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
魔界の建物が、せいぜい腰丈になるかならないか。
地中から湧き出るように、湖から姿を現すように、巨大な女神が、瞳から生気を失ったおぞましい女神が、咆哮を上げた。
この時初めて、ヴェローチェは"戦い"を意識した表情へと切り替わった。
これは、不味い。
皆が戻って来られないなら、たとえ刺し違えてでも。
――魔王城最奥。玉座の間。
「――魔界六丁目が、やばい!!!!! 応援を頼む!!!」
戦いを終えたグリモワール・リバースの面々の前に現れたのは、恰幅の良い、図体のでかいオークだった。
「え、ど、どういうこと!?」
動揺するハルナと同じく、肩を借りて居るフレアリールも訝しんだ表情だ。
相変わらずハンバーガーみたいな見た目ね、と白い瞳もハッピーセット。
この中で、満身創痍は己の全てを犠牲にしたヤタノ・フソウ・アークライト。正面から魔族相手に大立ちまわりを演じたミランダ・D・ボルカ。さらには、有り余る魔素を全て使い切ることで勝ち筋を見出したシャノアール・ヴィエ・アトモスフィア。
光の神子一行の四人も気力十分とは言い難く、ベネッタやグリンドルももう一戦やり合うには心もとない。
そんな芳しくない状況の中で、しかしレックルスは口を開いた。
「魔神召喚の地点はここじゃねえ、魔界六丁目だったんだ」
全員が息を飲む。
一人思考するのはシャノアールだ。
しばらく黙考した後で、小さく頷いた。
「魔王もそう言っていた。彼ら払暁の団も、何も本拠地を潰して魔神を降臨させるなんてことはしないかもしれない。魔界で、かつ彼らが犠牲にしてもいい場所は一つしか無い」
「うっわ、胸糞悪い話っぽい」
「そのために生かされていた、ということか。彼らは」
魔導司書組が隠そうともしない嫌悪感に、ミランダは肩をすくめる。
「ま、魔族らしい判断だよ、弱肉強食ってねー。ともあれ、どうするのかにゃ?」
魔界六丁目では、ヴェローチェやユリーカが戦いの真っ最中だろう。
レックルスが住民を逃がしたとはいえ、状況の切迫ぶりに変化はない。
ならば、娘たちをそのままにする親など居ない。
たとえその身が既にぼろぼろであったとしても。
「もちろん、行こう」
「ちょっとシャノアール!! あんたもうぼろぼろじゃん!!」
「やめた方がいいのでは。わたしたちが戦いますから」
「そういうヤタノももう無力っぽい」
がやがやと。
しかし、シャノアールは躊躇わない。
レックルスが開きっぱなしにしているゲートへと一人歩みを進める。
「導師、そんな身体で行くつもりかよ」
そのレックルスの問いかけに、当然のようにシャノアールは頷く。
だよなあ、とレックルスはため息を吐いた。
がしがしと頭を掻く彼に、あまりシャノアールを止める気配がない。
訝し気にレックルスを睨むミランダ。
だが、レックルスは小さく首を振った。
「約束してください。あんたが死んだら、この街の希望が無くなってしまう。だから決して、前に出ないと」
「……ああ、分かった。保障するよ、このボクがね」
「じゃあ、どうぞ」
レックルスは、まるで馬車の御者が客を乗せる時のように一礼してゲートを示した。
まるでこうなることを分かっていたかのような口ぶりに、シャノアールは少々奇妙なものを感じて首を傾げるが、今更レックルスがシャノアールを害する理由もない。
「魔王城の内外は繋げないんだったね」
「エントランスに繋がってます。そこからいったん出て、魔界六丁目にゲートを繋ぎます」
「よし、なら急ごう。心配だ」
「ええ。絶対に戦おうとしないように。見張ってますんで」
何が? とは言わなかった。
それよりも娘たちが心配だったから。
一人ゲートをくぐったシャノアールは、果たして確かにエントランスホールへ戻ってきた。すぐにみんなが合流して、いざ魔界六丁目へ。
そう思っていたシャノアールはしかし、そこで一人待っている人物に気が付いた。
「――な」
「……ひさしぶり」
なるほど、と思う。
レックルスが、シャノアールの行動に特に文句を言わなかった理由が分かった。
これは確かに、見張られてしまう。
戦力としてはあまり期待できないかもしれない。
けれど今のシャノアールを守るという意味ではうってつけの人材だ。
年頃の女性らしく育ったその肢体を、ジャポネ風の衣装で包んで。
薙刀を抱きしめた一人の妖鬼。
「今度はわたしが、守る番だよ。パパ」
――少女の名を、タリーズと言った。




