第十五話 魔界六丁目IV 『ヴェローチェ・ヴィエ・アトモスフィア』
時は少し遡り、魔王と光の神子一行が戦端を切った直後のことだ。
――魔界六丁目、三番街。
永久に陽光の降り注ぐことなく、ただ昏い海と紫の空、そして黒の太陽に照らされた土地。
それが魔界地下帝国だ。
中でも六丁目は虐げられてきた弱い魔族や、人間界での迫害を逃れ、レックルスやシャノアールの手によって連れてこられた人々によって構成される街。
シャノアール・ヴィエ・アトモスフィアの作った、人工の楽園だ。
弱者たちが傷をなめ合うことが許される。
魔界の弱肉強食の理から外れた、新しい魔界とも呼べる新天地。
故にこの街で暮らす者たちは仲間意識が強く、そして互いを想いあって暮らしていた。
シャノアールは彼らの生き方に満足していたし、ユリーカやヴェローチェもまた然りだ。
ミランダは「くだらなーい」などといってそっぽを向いていたし、レックルスもこの場所についてのコメントを控えていたところを見ると、やはり魔族らしい魔族たちにとっては少々受け入れ難い場所だったのかもしれない。
けれど、ミランダにとっても、レックルスにとっても、同じ魔界の一つである。
その自覚はあったし、魔界六丁目であっても危機が訪れれば手を貸すくらいのことはするだろう。
ならば、最初から魔界六丁目が好きだったヴェローチェにしてみれば。
――この地獄は、すぐにでも拭い去らなければならない邪悪だった。
「……なんですか、これはー」
ミランダが一人で魔王城玉座の間に残り、レックルスによって魔王城の入り口にまで転送されたヴェローチェは、自身の連環避縁によって魔界六丁目まで戻ってきていた。
パゴダ傘をそっと閉じて、その冷めた瞳で魔界六丁目を一望する。
空に浮かんで眺める景色は、本来であれば壮観で気持ちがよく、空を飛べるようになってからの彼女にとっては幾つかあるマイベストポジションの一つであった。
けれど、彼女の眼下に今、優しい人の営みは何もない。
永久に陽光の降り注ぐことがない魔界にも拘わらず、そこは灼熱の大地と化していた。
ちりちりと火の粉が頬を焼く中、いっそ寒々しいほどに鋭い瞳でヴェローチェは世界を見つめていた。
「わたくしの。わたくしたちの魔界六丁目。……いったい、なにが」
視線を巡らせ、魔素を解き放ち、状況を探る。
悲鳴の一つ一つが耳朶を打ち、知らず口元がひくついた。
餓鬼のような咆哮が響き、苛立ちにつま先で空をつつく。
ようやく見つけたのは、空に幾つも空いた"穴"だった。
「レックルスの――いえ、その父親という男の仕業ですかー。しかし、これは」
座標獄門。
幾度となくヴェローチェも目にしてきたそれが今、真向から牙を剥いていた。
無論、座標獄門はただの転送装置に過ぎない。
だから問題は転送されてくるモノそのものの方なのだが、落下傘宜しく次々に降り注ぐ化け物どもをヴェローチェははっきり認識することが出来ないで居た。
「ちっ」
舌打ちを一つ、ヴェローチェは空を舞い六丁目へ近づいていく。
どんな敵を目の前にしても、どんな状況を招いたとしても、必要なのは冷静な判断であってそれ以上でもそれ以下でもない。
シャノアールの教え通りならば、今は状況を俯瞰して最善策を探るべき時間なのだろう。
しかし。
逃げ惑う少年と、泣きじゃくりながら手を引かれる少女の二人が居た。
どこへ行っても火炎が待ち受ける中、彼らは何も出来はしない。
「お兄ちゃぁん……!!」
「だ、大丈夫だ、きっと出口はあるからっ……!!」
年端もいかない少年だった。本人だって泣きたくて仕方ないだろうに、妹の前だからと気丈に振る舞っているのがこの場所からでも見て取れる。
見る限り彼らは人間だ。きっとこの街で出会った人間同士が生んだ子供なのだろう。魔界六丁目の営みは、二世代目三世代目に受け継がれている証拠だ。なのに、こんなところで断たれてしまう。
男が三人ほど、必死に瓦礫を退けている姿が見えた。
下等のオーガだろうか。そこそこに力はあるようだが、それでも燃え崩れた家屋を纏めて排除するほどの力はないらしい。それどころか、何かに襲われた後なのか既にボロボロだ。
「聞こえるか!! すぐに助けてやるからな!!」
「この瓦礫さえッ……どうにか、どけられれば……!!」
「無理だ、重なっちまってる、別のルートをッ」
「そんなことしてたら死んじまうだろうが!!」
怒鳴り、叫び、手を動かすのは止めない彼ら。見ればその瓦礫の奥に挟まれ、今にも炎に飲まれんとした状態で逃げられない男がもう一人。
「もう、いいんだ……!! お前らだってあの化け物から逃げる途中だろう!! 俺のことは良い!!」
「うるせえ!! 友達だろうが!!!」
「お前を見捨てて逃げたら、俺たちは一生後悔する!!」
「それより手伝え、これをどければ」
『せーのっ!!』
彼らの姿を、ヴェローチェは見たことがあった。良く四人で賭博に興じ、素寒貧になっては酒場で泣いているバカ共だ。こともあろうに導師の孫娘に金を貸してくれと泣きついてきたこともある。仕方がないので少し貸してやったら、全員その日のうちに博打で摺ってまた泣いていた。流石に混沌冥月を打ち込んでやった。けれど、翌日四人で仲良くつるはしを振るって金を稼ぎ、素直に返してきた時は仕方がないなと笑ったものだ。
彼らが仲良く肩を組む姿も、もう見られないというのか。
化け物を相手に、十人規模で剣を抜いている者たちが見えた。
相対する一体の化け物は、まるで人の形を象っただけの幽霊のようなものだ。実体はある。それはヴェローチェにも分かる。けれど、およそ人に必要なパーツが全て欠落している不気味な怪物だ。
しかしその化け物こそが、今も降り注ぐ魔界六丁目に害成す者どもであることを、ヴェローチェはすぐに理解した。そして、だからこそ分かる。彼ら十人では、束になっても敵わない相手であることも。
「ぜ、全員!! 剣は持ったな!!」
『お、おう!!』
「我々はきょれより!! こ、こここの街に害成す悪を討伐すりゅ!!!」
『おう!!』
大仰でカミカミなセリフに、ヴェローチェはすぐに思い出した。
彼らは自らを"シャノアール団"と自称する、魔界六丁目の自警団組織であったことを。
日頃から、見た目だけは強そうに見えるアイアン製の鎧に身を包み、ヴェローチェが道を通ろうとすると綺麗に左右に分かれて敬礼するので、止めてほしいと何度頼んだか分からない集団だ。
シャノアールに恩義を感じた"人間"たちの中でも、腕っぷしにそこそこの自信があるメンバーが集まって、街の中の揉め事くらいは自分たちで処理しよう、と誓った集団だ。
もっとも、街の中は平和すぎて彼らの出番は皆無であったが。
「たとえ骸を晒したとしても、本懐だな!!!」
『おう!!!』
彼らは震えていた。恐怖に、威圧に、逃げ出したくなる想いに。
団長など、既に視界がぼやけているだろうほど目を赤くし、歯をガチガチ鳴らしながら、それでも。それでも彼は先頭に立って化け物の前に立っていた。
「――」
無理だ。ヴェローチェは思う。彼らのアイアン製程度の武装では、あの人型の攻撃一発で砕かれて終わりだろうと。
そして察した。彼らもそのことを理解しているのだと。ならば何故逃げないのか。何故逃げ出せないのか。
ヴェローチェには分からない。自分より強い相手に、死ぬと分かっていて突っ込むその覚悟が。
だが、みっともなく泣きじゃくりながら吼える団長の台詞に、ヴェローチェの呼吸が止まった。
「我々は、シャノアールさっ――殿に恩義を返すこの瞬間を、ずっと待ちわびていたのだから!!」
『おう!!』
様と呼ぶのはやめてくれと、シャノアールは苦笑して言っていた。
けれど、様から殿に呼び方を変えたからといって、彼らの敬愛の眼差しは何一つとして変わっていなかった。
ヴェローチェはこの街が好きだ。
シャノアールと共に暮らすようになってからの十年間。
彼女は幾度となくこの街を訪れ、魔族と楽しくふれあい、人間と友誼を結んで、皆に"シャノアールの孫娘"として可愛がられて育ってきた。
ヴェローチェお姉ちゃん、と自らを慕う子供たちも。
金を貸してくれとせびるバカ共も。
何故か自分にまで敬意を表する男たちも。
ヴェローチェは、この街が好きだ。
この街は。ヴェローチェが生まれて初めて貰った、宝物のようなプレゼントだったから。
魔族に見下され、人間から恐れられて生きてきた孤独な人生と裏表。
愛されることを許された、何よりも尊い記憶。
「やめろ……」
表情が歪む。
どんな時も平静を装ってきたヴェローチェの表情が、憎悪に歪む。
ヴェローチェはこの街が好きだ。ただでさえ好きだ。
そしてこの街は、証なのだ。
何より自分が今まで幸せであったという、何ものにも代えがたい証なのだ。
あの馬鹿な妖鬼に言わせるなら。
『十五年がプレゼントになるってんならそりゃぁこれも一つの』
わたくしの一番大事な。
『浪漫なんじゃねえの』
「わたくしの大事なものを――返せ」
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・混沌冥月――
――古代呪法・混沌冥月――
黒の奔流が怒涛の驟雨となって吹き荒れた。
その一つとして誤射はなく、その一つとして"外敵"を穿たずに消えたものはなし。
子供たちを火の手から救った。
瓦礫を打ち砕き、男たちを救った。
震えていた剣士たちが顔を上げた。
他にも多くの者たちが、死の運命を今免れた。
「逃げてください……ここがわたくしが引き受けますー!!」
その声量は、魔導で拡散され魔界六丁目全体に響き渡った。
死の寸前での黒き光の雨に思わず空を仰いだ魔界六丁目の人々は、そこに女神を見たことだろう。
パゴダ傘を優雅に開き、空を停滞する姫君。
ヴェローチェ・ヴィエ・アトモスフィア。
かつて皆を救った男の、孫娘。
「ヴェローチェお姉ちゃんだぁ……!!」
「ヴェローチェちゃん!!! マジか、助かった!! もう金貸してなんて言わねえよ!!」
「おお……我らは……仰ぐべきは唯一にあらず、女神もここに居たのだ……」
相変わらず、自由な連中だとヴェローチェは少し口元が緩む。
憎悪に染まった彼女の心は、先の魔導とともに吐き出した。
助けねばならない。この、大切な街の人々を。
と、そこでヴェローチェに通信が入った。
ミネリナとつなぐ端末だ。
『もしもし、ヴェローチェかい? こちらミネリナ・D・オルバ。助かったよ、わたしも死ぬところだった』
「……ご用件はー?」
『連中、闇魔力に耐性を持ってる。混沌冥月でも一撃でどれほどのダメージを入れられるか分からない。純魔力に変換して行使することを勧めるよ』
「ご丁寧にどもー。ミネリナもご無事でどぞー。鎗にしばかれたくないんでー」
『ああ、自力で何とかしてみせるさ』
むん、と力を入れたミネリナにどこか微笑ましいものを感じながら、通信を切る。
純魔力による攻撃。難しくはないが、一手処理が遅れるのは面倒なことだ。
しかしその程度で泣き言を言っていられるような状況ではない。
自分は今、街の人々の命を握っているのだから。
「はいはい、みんな守りますよー。お爺様はあいにくと不在で申し訳ありませんがー……」
と、そこまで言ってしまって、余計なことを言ったと思った。
シャノアール・ヴィエ・アトモスフィアはこの街の主柱だ。支柱などという可愛いものではない、彼の存在はまさしく、彼らにとっての希望そのものなのだ。
祖父が居ないのは事実。今頃、あの怠惰な吸血皇女を救うために魔王と対峙していることだろう。
けれどわざわざそれを言う必要はなかったと首を振った。
――案の定、彼らの表情は苦く歪んでしまった。
「……しゃ、シャノアールさんがこの状況で不在……?」
「な、なにがあったんだ!! 無事なのか!?」
「そんな、シャノアール様が居なくて、我々は何をよるべに……」
「シャノアール殿さえ居れば、こんなことには……」
口々に呟き、今の今までヴェローチェを見上げていた彼らの視線が俯く。
その光景にヴェローチェは。
仕方がないとは思わなかった。
シャノアールさえ居ればとも思わなかった。
自分では力不足なのかと打ちひしがれもしなかった。
普通にむかついた。
「流石に失礼じゃないですかねー。お爺様は確かに今、魔王とやりあってて不在ですが」
とりあえず、申し訳程度に"お爺様も頑張ってはいるよ。それなりに"とアピールしつつ。
全員に傾注するよう、声を張り上げる。
シャノアール・ヴィエ・アトモスフィアは確かに居ない。
けれど、それだけで折れるほど"わたくしの街"は弱いのか。
そんなはずはない。
そんなことはあってはならない。
まるでそんなの、自分の心も簡単に折れるようではないか。
「わたくしはシャノアール・ヴィエ・アトモスフィアが孫娘ヴェローチェですー! いいですか!!」
「あのお爺様が居なかろうと、貴方たちを全員!」
「生きて帰しますので!!」
そう、吼えた。啖呵を切った。
言ってやったと胸を張る。
あまり大きな声を出すのは得意ではないが、しかしそれでもここは張り上げるべき場面だろう。
そう思って、どうだとばかりに周囲を見て。
おや? と思う。
なんだか、まだ彼らはヴェローチェの言葉を待っている気がしたのだ。
「生きて帰してくれるってよ……」
「マジか、お爺様がいなかろうと、生きて帰してくれるって」
「俺たちを、全員」
ああ、そう言った。そのはずだ。
しかしなんだろう、彼らのその、「からの?」みたいな視線は。
「え、誰が?」
「誰がそんな凄いことをしてくれるんだ」
「シャノアール殿が居ないのに、そんなことを誰が出来るんだ?」
「俺たちの命を預けるに値する、凄い人が居るはずだ」
きらきらと輝く幾千の瞳。
なんかヴェローチェは察した。
お約束という言葉が脳裏をよぎり、半ばヤケクソ気味にほえる。
「このわたくしがね!!!!」
瞬間、魔界六丁目に住まう全ての人々の心に、"希望"が灯った。