第十六話 イブキ山:山麓I 『帰る場所』
シュテンとヒイラギの二人が海上を翔け抜ける頃。
ルノアール・ヴィエ・アトモスフィアはとうとうイブキ山の麓に辿り着いていた。
「んっんー……良いなあ良いなあこれは良い。まさしく神の権能を司る暁。この世界に朝日をもたらす、神となれる器だぁ」
高らかに嗤う彼の隣には、虚空を見つめてただただ浮遊する一人の少女。
ただの人間には、どこからどう見ても見えなかった。
人形? そうかもしれない。彼女の姿からは人の有する生気が感じ取れない。昏く澄み渡った瞳にはおそらく何も見えていないのだろう。少なくとも眼前を支配する"景色"に何かを感じられるほどの意思は灯っておらず、ただ無感情を湛えているのみ。
神? それもあり得るかもしれない。"この状況"にあってただ一人、顔色一つ変えずにその場に佇んでいる有り様は一周回って神々しくすら感じられる。童女のような容姿とは裏腹に、どんな凶悪な武器すらも通さぬ魔素の暴力が洗礼として襲い掛かる。この場に骸として転がる者たちにとって、彼女の姿は絶望を与える死神のように映ったことだろう。
兵器? 少なくとも隣で悠然と笑う男は彼女のことをそうとしか見ていない。戦闘にどれだけ使えるか、どれだけ有用か。彼女に蹂躙された数々の魔族など、ただの単数としてしか見ていないだろうし、積み重なった骸はすなわち彼女の有する戦闘力の換算材料にしかなりえない。彼の目的のために使用される一つの駒。感情を持たない武具の一片と、そう感じてもおかしくはないだろう。
だが、その三つの印象を纏めてくるめて言い表すとするならば。
イブキ山に住まう、否住んでいた妖鬼たちからすれば、簡単なのはこの一言だろう。
「化け物っ……めっ……」
「んっんー、まだ息があったのかぁ。それはよくないよくないよくないなあ! ヤタノ」
「――」
憤怒を孕んだ、地面に這いつくばる男の視線。
かつて"魔族と人間の友好"を志した彼女になら突き刺さるようなその言葉と瞳を、しかし今のヤタノはただただ"障害"として見なすだけで、ゆっくりと番傘を突きつける。
「ぁ……あ……!」
「ゼロ距離とは容赦ないねえ。んっんー、良い感じに"タガ"が外れてきていいことだぁ」
「――ごめんなさい」
瞬間、閃光。
頭蓋を吹き飛ばされた男の胴体は、一度弾かれたように跳ねてから元のように地面に倒れ伏した。あるべきはずの頭部は存在せず、その代わりとでもいうようにだらだらと赤が滴り落ちる。
"ごめんなさい"。
その言葉を吐くのに正しい表情とはいったい何かと聞かれたら、沈痛悔悟諦念など諸々の感情が浮かぶかもしれないが、むろん今の彼女の表情はそのどれにも当てはまらない。
「さて、邪魔が居なくなったところで」
ルノアールは周囲を見渡す。
山麓――山をぐるりと取り囲む森であったはずのその場所は、たった数分の間にヤタノによって野晒しにされてしまっていた。同時に、その辺りに生息していた妖鬼たちやその他イブキを慕う低位魔族が無残に死体を転がせている。
ルノアールはこともなげに、「これだけあれば十分だろう」と一つ頷くと。
「来たれ――生命の神秘・豊穣の恵み・蒼穹の使者。統べるは知慧、総べるは叡智。混沌も秩序もその手に在りて、ただ啓示を得たり。第三の神オモイカネよ、御手に創造せし万魔を欲す」
数十と倒れ伏す魔族たちの死体が金色に輝く。
呪文詠唱。
数百年前には既に廃れた、口頭具文。声帯を震わせ魔素を反響し、世界のマナに訴えかける魔導の一端。
「さあ聖典よ、語る術を持たず実体の無き全知の書よ、わが手に来たれ――汝が求める知新を得んがために!!」
語らない聖典を降臨させるルノアールの魔導。
イブキ山という霊脈が、"鬼神霊域を所有するための霊脈"が、贄の骸と共にルノアールの手へと吸われていく。
「んっんー、やはりここで正解だぁ。霊域を維持するのはアルファン山脈ではなく、このイブキ山。語らない聖典の傀儡が、語らない聖典を傀儡にする。なんとも滑稽じゃあないかぁ」
「――」
「なんだヤタノ。久しく見ていない聖典は、やはり気になるのかなぁ?」
大渦に直面したかのような轟音が響きわたる中で、ルノアールは自らを見つめる一つの視線に気が付いた。振り向けば、眉一つ動かさずこの異能現象を見つめている童女が一人。魔素を集約させている彼の右手にじっと向けられたその瞳の奥には、やはり何も感じられはしない。
「――そもそも、久方振りにヤタノに接触したのはだいたいの準備が出来たからなんだぁ。ワターシの、ワターシたちの目的を達成するための、ね。聖典の傀儡に過ぎないきみや導師とは違い、ワターシはこの聖典から全てを引き出す研究を続けていたんだよ。今のきみに言ったところで、分からないかもしれないが……ワターシたち魔導師だけの力では、語らない聖典に到ることは出来てもこちらに引き出すことは出来なかった。だから代償を捧げ、叡智を持ち帰る資格を得る必要があった。――だが!」
ごう、と渦が収束する。贄として捧げられた魔族たちの姿が、次々に金色の塵になって消えていく。たゆたう煙のようにルノアールの周囲に纏わりついていくそれは、螺旋を描いて空へと立ち上っていく。局地的な魔素の巨大化が、ルノアールを中心に巻き起こる。
「"霊域"などという魔素の空間を維持できる場所はまた別だ。鬼神に挑んだのはただのキミのデータ取りだけではなく、霊域の根ざす霊脈を探す意味もあったのだぁ……!!」
鬼神はもはや満身創痍。
妖鬼シュテンも置き去りにした。
場はここに整った。あとは、この頂上に居るであろう鬼神を殺すのみ。
「語らない聖典を手に入れることで、ワターシも全知の力を得る。そしてヤタノの権能を合わせれば、ようやく払暁の団は万全の態勢になれるのだぁ。ワターシだけ戦わないと、連中にがたがた言われるからねえ」
おどけるように肩を竦めて、暴力的な魔素の奔流の中でルノアールは嗤う。
この全てが自らの手に。
贄と魔素の量も十分。充填率は七割を超えた。
「さあ、主の居ない間にこの仕事を片付けよう。鬼神を殺せば、話は終わりだ――」
高らかに、まるで喜劇の幕あけのようにルノアールが言い放つ。無感情に無表情のヤタノは、しかし何も呼応しないまま――
しかしその時、ヤタノは徐にルノアールに手をかざした。
「んっんー!? 良くない良くない良くないなあ!! なんでワターシに向けて魔導を――」
そう、言い切るか言い切らないかの瀬戸際で、ヤタノの魔導がルノアールを"守るように"発動した。
「――地面に這いつくばりなさい」
降り注ぐは、矢のような血の驟雨。
たまらずルノアールは魔素の収束を中止し、回避と同時に防護壁を振りかざした。
一滴が突き刺さる度に罅の入るそれを憎々し気に睨みながら、その下手人を探し瞳を動かす。
「あら、随分と間抜けな防御を張るじゃない。主の居ない間に、なにかしら。シュテンさまの帰ってくる場所の景観を、よくもまあここまで酷くしてくれたものね……下衆が」
「んっんー……? なんでこんなところに吸血皇女、それも天然モノが居るんだぁ……?」
「わたしの質問に答えるか、そうでなければ死になさい。分かった?」
ばさり、と黒翼が閃いた。上空に佇む、一人の吸血皇女。黒髪を長く伸ばした、外見はヤタノと大して変わらない程度の年齢に見えるその童女の瞳には、明確な殺意が爛々と灯っている。
「シュテン、さまねえ。んっんー、なるほどなるほどなるほどなぁ――」
情報では、妖鬼と鬼神が住まう山であり、他にはただ低位の魔族が肩を寄せ合って生きている場所だとあった。それが、またしてもイレギュラーで覆されたことにいら立ちも露わにルノアールは言う。
「またあいつか!!!」
「貴様がどんな想像をしようと、どんな策謀を巡らせようと、シュテンさまはそれを容易く覆す。天と地ほども生命体としての格に違いがあると知れ。あの方は神にも等しいのだから」
「……そしてまた濃いのがぁ。なんなんだ鬼神シュテン」
おーぅ、と額に手を当てて空を仰ぐルノアール。その手には、"七割の魔素を充填した"語らない聖典が携えられている。吸血皇女の実力はおそらく、相当なものだろう。そう察したルノアールは、強力な手札が増えた程度ではおごらない。あたりまえのように、最善手を打つ。
「ヤタノ」
「――」
――神蝕現象【天照らす摂理の調和】――
殺れ、などと。言わずともヤタノは神域の魔導を放った。
ありとあらゆる偶然が、必然となって吸血皇女に殺到する。
「……っ」
何かを察した吸血皇女はすぐさま回避。瞬間、彼女の居た場所目掛けて落雷。しかしそれだけに終わらず、翼を切り刻むような旋風が彼女の周囲に巻き起こる。
それを上空に舞って避けたとしても、そこを太陽光線が狙い撃つ。
バレルロールでさらに避け、その勢いでヤタノに対して襲い掛かるその少女。
しかし、ヤタノはただ目を閉じるのみ。
気づけば、吸血皇女の周囲には"偶然"雨水の刃が上下左右全てから向けられていて。
「――ごめんなさい」
「っ――!!」
次の瞬間、炸裂するような音とともにその刃が中心の吸血皇女めがけて放たれた。
水蒸気が一瞬、霧のように周囲を曇らせる。
「んっんー、やったか!?」
「――」
ルノアールの喜声に、ヤタノは静かに首を振った。
先ほどまで吸血皇女一人で居たその場所には、彼女を守るように立つ鎖鞭を握った妖鬼が。
「……、フレアリール。だめ」
背に庇われた吸血皇女――フレアリールは、唇を尖らせて目の前の女性に声をかける。
女性といっても、ルノアールからすれば外見年齢は二十程度だろうか。人間であれば、の話だが。
「貴女はお義母さまのお守りじゃなかったの?」
「……勝手に飛び出していくの、見てられない」
「あら。わたし一人でもどうとでもなりましたわ」
「……ウソ」
「ぬぐぐ」
また新手か、とルノアールは嘆息した。
見た感じ、フレアリールと呼ばれた吸血皇女よりはまだ格下と言ったところだろう。
それなら、今の様子ならヤタノ一人でこと足りる。なら自分も加勢すればあっという間に片が付く。
「んっんー!! よくないよくないよくないなあ!! 身の程知らずが戦場に出てきちゃあ!」
「貴様も大して強くないのではないかしら?」
「それはこれで補てんするから大丈夫なのだぁ……!! あとうるさいなあ! ともかく、纏めて死ぬといい!」
"身の程知らず"。それは、フレアリールに対しての言葉でもあったが、もう一人の妖鬼に対してという意味合いが強かった。
それを自覚してか、彼女はサイドポニーの黒髪を揺らせて、鎖鞭を構えて言う。
「……分かってる。けど。義母さんが倒れた。なら、シュテンを待つのは、帰る場所を守るのは、私の仕事。シュテンより弱いとか、フレアリールより弱いとか、関係ないっ……!」
勢いよく振るわれたそのチェーンウィップは、明らかに見た目よりも長い射程の木々をなぎ倒す。風圧か何かかと目を見開くルノアールを睨み据えて、彼女は普段よりも遥かに饒舌に、固い意志を口にした。
「――だって、お姉ちゃんだもん」