第十四話 トンレミ 『OHANASHI』
「……壁越え、ですか?」
「ああ、知らなかったか。これは今ちょうど研究院が解析にかかっている部分なのだけれど」
帝国南部は公国との国境付近。
トンレミと呼ばれる比較的小さな商業都市の一角にある喫茶店に、その二人は居た。
カップをソーサーに戻しつつ頷くのは、そばかすが印象的な茶髪の少女――ベネッタ。
神妙なその表情、そして真剣な瞳に映るのは対面に座る人物だった。
ちょうど客の居なかった時間帯に、好都合とばかりにカウンターに札束を置くとそのままテーブル席に座った二人。
意図を察し、おまけに片方の人物が身に纏うコートに驚いたマスターは慌てて看板をCLOSEにすると、触らぬ神に祟りなし、とばかりにカウンターの奥に引っ込んでいた。
「あの、アスタルテさま。それはあたいが聞いてもいいことっぽいんですか」
「ん? きみに開示されない情報などこの国には殆どないのだが……知らないというなら僕から話しておこうか。"壁越え"と呼ばれる現象について」
「お願いします」
異彩を放つその人物――アスタルテは、いいだろうと一つ頷いて。
一息吐くようにカップに口をつけた。
シュテンと別れてから数刻。
殺されることはなさそうだと安堵のため息を吐いた彼女に対して、アスタルテは意味深長な言葉を残して先導してここまでやってきた。
『少しだけ、話してやろう。今何が起きていて、何が始まるのか』
ベネッタとしても気になっていることは幾つかあった。
先ほど彼がさらりと言った"壁越え"に関してもそうであるし、"何が起きているのか"ということにはおそらく第三席が関わっているのだろうことは分かる。加えて言えば、第七席についても。
帝国の根幹をなす帝国書院の、それも書陵部魔導司書というトップ中のトップに起きている問題。これからの動きに予断は許されないし、何よりも既に事案は起きている。
なればベネッタも状況を把握して動くのと、知らされずに動かされるのでは勝手が変わってくるのだから是が非でも聞いておきたいところであった。
もっとも、そんな帝国の深い事情にあたりまえのように関わっているらしいあの妖鬼の謎がどんどんと深まるのだが……彼に関してもアスタルテが相当注意を向けていることは分かっていた。
わざわざ魔導司書の一人をたかだか魔族一人の討伐に差し向けるほどなのだからさもありなん。
「……壁越えというのは、何人かの魔導司書に見られている事象。神蝕現象の中でも数少ない、さらに選ばれた者のみが使える現象だ」
「あたいは、使えないんですよね」
「そうだ。僕は全員の神蝕現象を模倣とはいえ利用できるのだから、どの神蝕現象が壁越えに到れるのかは把握できている。ベネッタの努力次第というわけではなく、残念ながら【大文字一面獄炎色】では壁越えに到ることはできない」
「……そう、ですか」
そもそも壁越えが何なのかいまいち把握できているわけではないが、"到れる"という以上は神蝕現象の強化には変わりないのだろう。
それがどう足掻いてもできない、という風に宣告されるのは多少とはいえ堪えるものがあった。
自分の人生において可能性が一つ潰されたのと同義であるし、何よりも"自分には使えない強い力を持つ同僚"が居るということがいささか悔しかった。
「そう、気を落とすな。一概に全てが強くなるわけではない」
「一概に?」
「ああ。僕は壁越えを行い、新たに得た力が【純粋ナル正義・九つ連なる宝燈の奏】。あれは確かに強力だ。神蝕現象を応用して空気中に混ぜて放つことが出来るのだから、明らかに汎用性は増している。だが……代わりに武器を失う。あれを突破してくるような奴に、生半可な武器では太刀打ちできないというのにも関わらずだ」
「……なるほど。新たな選択肢ってことっぽいんですね」
「そういうことだ」
飲み込みの早い優秀な部下に満足しつつアスタルテは頷くが、その感情を表に出さないせいかベネッタが気づいた様子はない。
思考の海にしずみつつ、彼女はおそるおそるといった風に問いかけた。
「到れる神蝕現象とそうでないものの違いっぽいのは……」
「それを研究院に分析させている最中だ。だが、おそらくは今の魔導司書には三、四人しかいないだろうな」
「もう出来ている人は?」
「それは分かりやすい。魔導司書の中でも明らかに戦闘力が高いと分かり切っている連中は壁越え出来ている者だけだ。僕と、ルノーと、そして――」
「――第三席」
「そういうことだ。そして、先ほど"一概に全て強くなるとは言っていない"と言ったな?」
「えっと、じゃあ第三席は」
「あれは、"軒並み強化された"タイプの壁越えだ」
僕では七割しか使えないはずだ。と肩を竦めておどける彼女に、ベネッタは目を瞬かせるのみだった。
今のアスタルテの話が本当なのであれば、アスタルテのようになにがしかの神蝕現象の強化が出来ていなければおかしいのだから。
「あの、あれってただの【天照らす摂理の調和】では?」
「あれはもともと、別の神蝕現象だったのだよ。神蝕現象を司る"異相"に最年少で辿り着いたヤタノの力は、欠片も戦闘に向かない力だった」
「……初めて聞いたっぽいんですけど。その話」
「それこそ、誰にも公開されていない情報だ。知っているのはルノーと……あとは、先代の第二席くらいのものだろうよ」
ヤタノの神蝕現象がもともと別のものだった。
その言葉が与える衝撃は思いのほか大きいものだ。何せ、神蝕現象とは一人につき一つ。ゆえに、異相から得たその恩恵を最大限に活用しなければならないというのは書陵部でも常識の一つだ。
――もしかしたらその常識ゆえに、秘匿されていたのかもしれないが。
「壁越えを行ったから神蝕現象が進化した、っぽいんですか」
「いいや。二つ使えるようになった。……もっとも、それをヤタノ本人が覚えているかは分からないのだけれどね」
「それは、どういう――」
「その話をするのであれば、ベネッタ」
アスタルテの瞳が虹色に染まる。同時に、鋭さを増した。
条件反射で背筋を伸ばしてしまったベネッタに構わず、アスタルテは続ける。
「きみには少し、覚悟をしてもらうことになる」
「守りたいものの為に死ぬ覚悟なら出来てます」
「そうじゃない。……きみの根幹をも揺るがすかもしれない覚悟だ」
「へ?」
根幹を揺るがす。
そう言われたところで、ベネッタにとってはいまいちピンとくるものではなかった。
きょとんとした彼女に対して、アスタルテは少し逡巡するようにこめかみを抑えて、しかし。
「きみの願いはなんだ?」
「狂化魔族の無い世界」
「そう即答させる心を崩すかもしれない。それでも聴きたいか?」
「……むしろ、あたいの信条を崩せるようなものがあるっぽいなら今のうちにへし折りたいです」
「そう、か」
かかってこい、とばかりに表情を強張らせるベネッタ。
なれば、仕方がない。アスタルテはベネッタを信じている。故に、続けた。
「ベネッタ・コルティナ。いや、苗字は捨てていたな。ベネッタ」
「は? え? 捨て、捨ててないっぽいですけど――」
「三年前に魔狼部隊により故郷ラムの村を滅ぼされ、無条件で魔族を恨むようになる。それが故に魔族に排他的な姿勢を取る帝国へと移籍し、科挙を経て帝国書院書陵部魔導司書に。その苛烈さと、魔族を軒並み焼き殺す炎がトレードマークとなっていたが、タロス五世の命に従った結果妖鬼シュテンと交戦し、重傷。以後、療養中」
「え? え?」
意味不明な言葉の羅列。一見確かにベネッタの経歴に見えなくもないが、明らかに筋違いだ。
困惑を露わにする彼女に、アスタルテは顔を上げて。
「これが、本来の筋書きだ」
「すじ……がき?」
「だが、今のきみはベネッタ・コルティナ。苗字もあるし、何よりも魔族を救おうとして帝国に居る。その違いは、"運命の糸"がしっちゃかめっちゃかにされたせいだ」
「ごめんなさい、話が見えないっぽいんですけど……」
「簡単にいえば、歴史が変わっている」
「……え、あたいの知らない間にってことっぽいですよねそれって」
「そうだ」
運命の糸、が何かは分からなかったが。
それでも、歴史が変わっているとまで言われればベネッタにもアスタルテの言葉の理解が出来た。本来辿るべきだった筋書きが先ほどアスタルテが言った方で、今の自分があるのは歴史改変の影響。
「今まで正しく素直に運ばれてきた歴史が、とある軸を過ぎた瞬間に別世界のものに切り替わった。それは、明らかに歴史改変の痕跡が見られることから明らかだ。……きみのその決意は、ただきみが"救われたから"という結果に過ぎない。父親も村も奪われていたきみは、魔族全てへの復讐に身をやつしていた」
「――」
「……ベネッタ」
少なくとも、事情を説明するうえでベネッタの今の境遇については話しておく必要があった。
本来はベネッタにこの情報を与えるつもりはなかったのだ。そうさせたのは、公国との国境でのベネッタの言葉。アスタルテと対峙してなお、己を曲げなかった精神性。
強くなくとも、魔導司書として想像以上に成長してくれるのではないかという期待。
俯いた彼女に目をやって、アスタルテは黙した。
彼女が脳内で何を思っているのか。それを自分に向けてくれるまでは、待つ。
「……アスタルテさま」
「なんだ」
「分かってましたよ。別にあたいがそんな高尚な人間じゃないっぽいってことくらい」
ベネッタの表情は、先ほどと変わらず。少々眉根が下がっている程度で、声の調子も変わっていない。しかしながら明らかに動揺しているのは、アスタルテ相手に隠せるものではなかった。
故に、言わない方が良かったかと少し後悔する。
「……けど」
アスタルテはぴくりと眉を動かした。ベネッタの表情が、ゆっくりと微笑みの形に変わったから。
「そんなあたいでも今はちゃんと前を向いて生きていられてる。そっちの人がどうだったかなんて分からないっぽいけど、あたいはあたいとして、自分が心を強く持てたことに感謝したいです」
「――」
「お父ちゃんと、お兄ちゃんと。村を守ってくれたアスタルテさまも、ちゃんといる。幻なんかじゃなくて、あたいは支えられて強くなれた。だから、心の大事さが分かるんです」
そっと胸に手を当てて、ベネッタは笑う。心の底から、穏やかに。
「もし出来るなら、その世界の人もあたいが救ってあげたいなって」
「……そうか。それが聴ければ十分だ」
「へし折るには足りなかったっぽいですねっ」
「ふむ、我が帝国臣民を甘く見ていた」
「へっ」
きょとんとするベネッタを後目に、アスタルテはそのまま続けた。
「歴史を変えた張本人があの妖鬼だ。その事実に気付いている者はおそらく殆どいないだろう。誰にも認知させずに、こうして事実を捻じ曲げる。その力を今もなお持っているというのなら、やはり脅威だ」
「……でも、悪いことばかりじゃ――」
「そこでわざわざベネッタにこの話をした理由に繋がる」
「それは……どういうことですか」
確かに脈絡のない話ではあった。歴史改変の影響でもし今のベネッタがあるのだとしたら、むしろそのシュテンに対して感謝してもいいくらいだと思っていたのだが、どうやらそう事情は簡単ではないらしい。
アスタルテは、空になってしまったカップを置いて。
「――第七席はフレヴァディール・クロイスという男だった」
「え、それってまさか改変前の。じゃ、じゃあ今のルノー・R・アテリディアはやっぱり」
「だから泳がせている。ヤタノの神蝕現象は改変前と変わらないが、聊か以上に精神に異常をきたしているのは第七席のせいだと言っても過言ということはないだろう」
「……影響、大きいっぽいですね。シュテンくん……なんだろう、この複雑な感情」
「妖鬼シュテンを殺害せよ、という命令はきみには出さないことにするよ」
頬を掻くベネッタに、白い眼を向けるアスタルテ。
話は終わりだ、とばかりに立ち上がった彼を、ベネッタは呼び止める。
「あ、あの」
「どうした?」
「第三席に関しては、この先も様子見っぽいんですか」
「ルノーが所属している組織を暴き出す。それまでは、放置だ」
「そうじゃなくて第三席が相当拙いって――」
「不愉快なことだが」
続けようとしたベネッタの言葉を遮って、アスタルテは本当に不機嫌そうに眉根を寄せて声を被せた。
「――あの妖鬼シュテンが絡んでいる以上、どうとでもなるだろう。僕が二度に渡って殺せず、吸血鬼と帝国書院の抗争に漁夫の利で勝利し、共和国の被害を最小限に収めた。"鬼神の影を追う者"と甘く見ていたが、あれはもう鬼神そのものだ。――もしかすると過去改変も方法の一端でしかなく、何かにつけて無理やり物事を解決する力でも持ってるんじゃないのかあの男」
「あ、はは……」
帝国の脅威には違いないから、必ず決着はつけるがな。
そう最後に言って、今度こそアスタルテは店の出口へと向かう。
ベネッタも追いかけるように外にでて、軽くマスターに会釈をしてから。
「全然話は変わるっぽいんですけど」
外はもう暗くなっていた。
先導するIの背中にかける声は、今日最初に会ったときよりも遥かに軽い。
「……先代第二席って生きてるんですか?」
「……どうして、そう思う」
「第三席の事情を知るのがルノーと先代第二席のみ。……でも第三席が最年少で神蝕現象に到ったのはもう百年くらい前の話で、そうすると第三席のことを知ってた人たちってみんな死んじゃったっぽいのかなって」
「……はぁ。察しの良いことだ」
流石は我が臣民。と呆れにも似た評価を心中でくれてやりながら、アスタルテは頷いた。
「諸々あったが、そうだ。もう関わることはないだろうがな」
「そう、ですか。アイゼンハルト・K・ファンギーニ……殆ど会ったことないんですけど、あの人ももともと違う神蝕現象とかだった口なんですか?」
ベネッタの知るアイゼンハルトの神蝕現象は【国士無双】ただそれだけ。
帝国書院の一線越えた強い者たちは軒並み壁越えをしているという話から推測して、そう問いかけた。
ヤタノと同じ、進化したタイプの壁越えなのかと。
と、アスタルテはベネッタに振り向いて。
呆れたように首を振った。
「恐ろしい話だよ。あれで、まだ壁越えしていないのだから」