第九話 ウェンデル高原 『あんな良い奴』
「おお、思ったより早く帝国抜けられたな」
「本当は回り道しなきゃいけないっぽいところを、無理やりきたっぽいしね」
晴天を貫くように大きく両腕を突き上げたのは、群青色の着流しを身に纏った一人の青年であった。その頭部は三度笠によって隠されていたが、空を仰いだことにより黒髪がふぁさりと重力に従ってしな垂れる。
気持ちよさそうに限界まで伸びたその腕は一度ぶるりと震えると、ゆっくりと下へと下がっていった。
「おかげさまでな。助かったぜベネっち」
「ベネっちってなんかやっぱりアホっぽい」
ぷくーっと膨れる、隣の少女。茶髪に、バンダナカチューシャの可憐な少女の背中には、この地において絶大な権力を有する者のみが刻む数字がはっきりと記されていた。
帝国書院書陵部魔導司書第八席ベネッタ・コルティナ。
そして、対面でからからと明るく笑うのは妖鬼シュテン。今では周囲に鬼神とまで目されるようになった、凄まじい実力を持つ魔族の一角だ。
お互いに、強者。いかにシュテンが実力を隠していようと目の前の少女には流石に筒抜けで、しかしてそれが悪いことと思わずに居られる関係。
かつては共に戦った仲間であり、突然出来た仲間であり。
事情は複雑だが、片一方の口から語られる分には単純と。そんな妙な交友だった。
「でも、突然若干進路変わったからっていうのもあるっぽい」
「ん、まあな。どうにもジャポネの方角に向かっていたと思ったら、この先のアルファン山脈らへんに反応があったんだ。そっちを見てから動くことにすんよ」
「そっか。ん、もう大丈夫っぽい」
隣同士で歩いてきた道のり。
誰もいない、二頭立ての馬車がぎりぎり通れるようなその街道の真ん中で、ベネッタは立ち止まった。
そこで、シュテンも悟る。
「あ、そうか。もうここら辺から公国に入るもんな」
「もう公国っぽい。少し延長して送ってあげたんだから、感謝するっぽい」
あざとく片手を小さく上げて、ちろりと舌を出した彼女にシュテンは破顔する。どうにも気づかないうちに、既に帝国領は抜けてしまっていたようだった。
「しっかし、わざわざこんなとこまでありがとな。色々助かったわ」
「税関抜けたり、書院の領有地通ったり、ね。恩に着て欲しいっぽい」
「あーはいはい。この借りは必ず返すよ」
「……とはいえ、タロス五世を代わりにフっ飛ばしてくれたことで、あたいの方にあった借りを返したようなもんなんだけどね」
「そういうもんか? あれはほら、お互いに利があったってことで一つ」
「へー、優しーっぽい。じゃあ素直に借りるが良いっぽい。案内してくれてありがとうって、さあ言おう! さあ言おう!」
「わぁったわぁった。ありがとさんよ。お陰で助かった」
「ん」
半ば適当とまでは言わないが、それっぽくあしらうように手を払ったシュテンにも、彼女は楽しそうに微笑んだ。
「久々にふらふらって出来てあたいも楽しかったっぽい。帰れるおうちがあるって、いいことだ」
「そうだなあ。俺も故郷に帰るしな。お互いおうちに帰りましょう」
「ぽいぽい」
「そこはばいばいだろ」
「いやそういうんじゃないっぽい!」
手なんてまだ振ってないっぽい。と文句交じりに眉根を寄せる彼女。
「まー、なんていうか。シュテンくん。同僚のこと宜しくね。あたいにはどうしようもないし、書院側も大して手出しするつもりはないけれど。それでも、泣いてるよりは笑ってる方が、多少はいいっぽい」
「いいこと言うようになったな」
「あたいは前から良いヤツっぽい! ちょっとでもシュテンくんに悪いことしたっけ!?」
「してない、みたいだよなあ」
「みたいじゃなくてしてないっぽい!」
「曖昧だなあ」
「してない!!」
からかい口調も弾むようで、応えるベネッタも表情は緩んで。
短い間だったけれど、帝国内を歩きやすくしてくれた少女に、シュテンは三度笠を取って軽く頭を下げた。
「……まあ、なんだ。さんきゅーな。お陰で、かなりショートカット出来た。ジャポネまで間に合わねえかなあとちょろっと思ってたんだが、こんなに早く公国までたどり着けたのはお前さんのおかげだよ、ほんと」
「あたいは、お手軽簡単にあたいに出来ることをしただけ。こっからもし色々やるっぽいなら、シュテンくんは厳しく難関な感じのことをやらなきゃいけないっぽいんだから、そっちを頑張って。払暁の団っていうのがどんなもんなのか、あたいにはよくわからないけれど。第七席については、軽く探ってみるっぽい」
「助かるぜ。また、どこかで会おう」
「うん、またいつでも」
それじゃあ、また。
いつものようにシュテンは別れの挨拶を告げる。
ベネッタも軽く手を振ると、特に感慨もわかせずにくるりと背を向けた。
かつては、敵対したはずの。それでも今は頼もしい"VIII"の背中が小さくなっていくのを軽く見送って、シュテンも前を向いて歩き出した。
お互いに、連絡をいつでもとりあえるわけではないけれど。
それでも、またいつか会えるという根拠のない自信を胸に。
いつものように、毎度の如く、シュテンは一歩を踏み出す。
ここから先は公国で、きな臭いのはアルファン山脈。
なれば一度山頂まで登ってみて、もろもろ確認してみた方がいいかもしれない。
それにしても。
「アルファン山脈は、ヒイラギといいクレインくんといい、霊域といい。変なところで縁があるなあ」
どうでもいいことを一つ呟いて、瓢箪から一口酒を飲んで。
「さあ、それじゃあ妙な珠片とヤタノちゃんを追って、新たな旅路を刻むとしますか!」
張り切って、歩き出した。
シュテンと別れ、意気揚々と帝国へ戻るベネッタ。
帝国内部でいつも見て回る場所とはいえ、のんびりとプライベートで歩きまわったのは久々のことで、またお供も愉快な男であったせいか充実した数日間だったというのもプラスして、実に彼女は上機嫌であった。
「とはいえ、色々課題は山積みっぽいんだけれど」
口元に手を当てたベネッタの脳裏には、この後一度ラムの村に帰ってから行わなければならないタスクと、書院に帰ってから整理しなければいけない仕事に加えて、シュテンと交わした軽い約束のことが浮かんでいた。
「……第七席が、導師の息子の可能性。導師は確かに人間っぽいけど、語らない聖典の使用者。ならその息子が語らない聖典を使っててもおかしくないっぽいし、第三席があの状態で生きながらえている理由にも確かになる。……ということは、やっぱり導師の息子っぽい?」
第七席ルノーに関しても、ベネッタが知る情報は少ない。情報書庫には特に怪しい経歴が書かれていたような記憶はないが、これは一度調べなおす必要があるだろう。
場合によっては第一席アスタルテ・ヴェルダナーヴァに相談することも考慮に入れて――いや、それはあまり都合がよくなかった。魔導司書である以上、間違いなくアスタルテの審査は通っているはず。それなのに疑いの目を向ければ、彼に睨まれるのは自分の方だろう。
アスタルテには、村を救われた恩義がある。"共和国民である自分"を救ってくれたことを含めて、アスタルテに逆らうようなことはしない。
それに、余計なことはしないし出来ないからこそ、彼女は自分を魔導司書として受け入れてくれたのだと、ベネッタはそう思っている。
「うーむーむー、ちょっと難しいっぽいけど、まあ何とかなるっぽいかな。よし」
ひとまずの方針としては、自力で軽く調べてみることだろう。
デジレかルノーかと言われていたアイゼンハルトの後継がデジレに決まった背景も、もしかしたら関わってくるのかもしれない。
「さて、それじゃあお父ちゃんのところ帰って、それから考えるっぽい」
結局のところ、情報書庫にアクセスするか、自分で周囲から情報を聞き出してみないことには手だてはない。手ぶらの現状を"今"動かすことはできないのだから。
だから情報の整理が終わった瞬間、力が抜けて。今晩はどこに泊まろうかなあなどと詮無いことを考え始めて――
刹那、ベネッタを取り巻く空気が変わった。
「っ」
「魔族を、帝国内に入れたようだね、ベネッタ」
「……アスタルテ、さま」
ふわりと、街道の中心に舞い降りるは半神半人の現人神。
いつものように、男とも女ともつかぬ雰囲気を保ったまま、虹の瞳を輝かせて、その双眸で彼女を見据えた。
思わず、一歩下がる。下がってしまう。
帝国内に魔族を入れることそのものが、帝国民にとっては罪。
それが分かっていながら彼の者を連れ込んだとすれば、それは立派な背信行為だ。
バレなければ大丈夫だと思っていた。
しかし、目の前の人物に露見してしまった以上、拙い。
拙い、拙いと脳が警鐘を鳴らす。しかし、遥かな格上であり恩ある相手に対して、ベネッタが臨戦態勢を取ることなど出来やしない。
既に、彼の周囲には九つの武器が揃っている。いつか見た並びとは違い、知らぬ魔導書が混ざってはいるが。しかしあの大薙刀と番傘があるだけでベネッタにとっては詰みの状況だ。
逆らってはならない対象。であるがゆえに、彼女はオカリナを取り出すことも出来ずにいた。
「……僕の与り知らぬところで何をしていたかは分からないが。濃い魔族の空気は、魔の者が居ないこの帝国には残りやすい。少々迂闊だったな、ベネッタ」
「……ご、ごめ」
ごめんなさい。
その一言さえ、口にすることが出来なかった。
「っ――」
射出される、鋭い剣閃。【四肢五体分かつ暗き刻限】。
それが、彼女の頬の真横ぎりぎりを通過する。
耳が、切り裂かれた。
「あっ、ぐっ……!!」
慌てて抑え、蹲る。どうやら、原型は無事のようだった。
だが、そんなことを気にしている余裕はない。
かつん、と靴が地面を叩く音。
溢れる涙をこらえて顔を上げれば、目の前にアスタルテは立っていて。
ああ、制裁という名目で自分は殺されるのか。と、どこか達観したように目を閉じた。
「……ふむ。今回はこのくらいにしておいてやろう。次はないぞ、ベネッタ」
「は……え……?」
「敵意を見せれば殺すつもりで居たが……きみも、魔導司書の一員だ。きみほどの人材をもう一度探すのは、出来なくないにせよ骨が折れる。出来れば、裏切らないでくれたまえ」
暗に、代わりはいくらでもいると伝えられ。
耳元の熱をもった激痛と、精神に響く冷たい言葉に一筋の涙をこぼして。
しかし、ベネッタは歯を食いしばって、言った。
「なん、で」
「うん?」
振り返るアスタルテの瞳に色はなく。
片耳を抑えたまま、ふらりと立ち上がったベネッタは小さく問いかける。
「なんで……あんな良い奴も、帝国に入れちゃいけないのですか」
その問いは、アスタルテにとっては意外だったのかもしれない。
ゆっくりと、しかし目に見えて瞳を見開く彼女に、ベネッタは視線をそらさずにもう一度問う。
「なんで、ただお気楽で、友達を助けたいっぽいだけの奴に、手を差し伸べることすらいけないんですか」
「……ベネッタ」
「――」
今度こそ、殺される。
そう、ベネッタは察した。
しかし、アスタルテは肩の力を抜くと。
どこか諦めたように、呟いた。
「おかしいな。運命の糸は確かに、きみの村を滅ぼしていたはずなんだが。今頃はもう少しきちんとした村があって、冒険者たちのたまり場になっていたんだがね。僕も少々困惑を隠せないよ」
「……へ?」
「ベネッタ・コルティナ」
「は、はい!」
アスタルテの口から飛び出す、わけの分からない言葉の羅列。
それに対して彼女は間の抜けた声を出すことしかできなかったけれど。
彼の方は特に気にした様子もなく、ゆっくりと続けた。
「きみは"壁を越える"ことも出来ない魔導司書だ。故にわざわざ言うつもりはなかったが……そうだな。少しだけ、話してやろう。今何が起きていて、何が始まるのか。一応、僕に対する忠誠心と。あとは、不愉快だがあの妖鬼や"己の信念"に対する心の強さを見込んで」
来い。
それだけ言うと、アスタルテは背を向ける。
ベネッタの耳を一瞥して、「医療官を急がせろ」と懐中時計型の通信器に一言呟いて。
その背に、ベネッタは一つだけ問いかけた。
「……それは、第三席と関係あるっぽいことですか」
「来れば分かる」
その返答に、ベネッタは口元を緩めた。
リーダーは、何かを知っている。そしてそれを教えてくれもするようだ。
ならばせいぜい足掻くとしよう。
共和国民である自分は、アスタルテにいつ殺れてもおかしくないだろうから。