第零話 共同墓地 『歪んだ関係』
それは薄暗い部屋の中だった。
錆びて赤く変色した重い鉄の扉が四方壁の一辺に一つ。三辺には、上部に通気口か窓なのか分からない鉄格子のついた穴が一つずつ。
幸いにもそこから光は漏れているが、決して自然のものとは思えない黒い炎の灯りだった。
「あの……ほ、ほんとうにまほうをおしえてくれるんですかっ?」
不安げに少女は問いかける。少女、というよりももはや童女と言った方が正しいほどには幼い外見。そして、容姿に見合った未知への期待感や好奇心と共に、明らかに尋常でないこの部屋の空気を感じ取った恐怖に揺れる瞳。
鈍い音を立てて閉じた扉の音にびくついて思わず背後を振り向いて、目前に立つ男を見上げる。
青年というには幾ばくか歳をとっていて、しかし壮年というには落ち着きが足りない、そんな男。彼は自らの緑色の髪をかきあげて、ただ一言「ああ、そうだよ」と頷いた。
「……え、えっと。もう少しあかるいところのほうがいいなって、わたし――」
「天才と呼ばれる魔導師が最も活動に適した環境を取り揃えた。それを、何も知らないうちから否定するのは――」
よくないよくないよくないなぁ。
ねっとりとした否定の言葉に、童女は声を失った。
不気味だったとか、怖かったとか、そういうこと以前の問題として、せっかく魔導を教えてくれるという人物に対しての非礼に口を閉ざしたのだ。そういう意味では既に彼女は"出来上がってしまっていた"と言っても過言ではなかった。
「ごめん、なさい」
「いやいやいやいや、仕方ないなら仕方ない。さあ、魔導を始めようか。"神"に到る業を極めるために」
「は、はい。わたしが……みんなを助けられるならっ……人間と、魔族がいがみあわないで居られるなら、わたし、なんだってします!」
「んっんー、いいねえいいねえいいですねえ。なんでも、か」
気合を入れるように両拳を握りしめる童女に隠れ、男の表情が酷く歪む。
願いに対する冒涜か、今より起こる新たな知への好奇心か、或いは一人の少女を破滅へ導くことへの隠しきれない愉悦なのか。または、誰にも負けない研究を行うための犠牲を尊んでいるのか。
それとも、まだ見ぬ"敵"への応戦手段に対する賛美か。
男の嬉々とした感情を示す導は無い。その感情の機微に気づく術はない。
だから、最後の最後まで分からなかった。
懸命に魔導に勤しんだ彼女の願い。
『きっとあの優しい姉を助けるんだ』
という想いを焼却し、
『魔族と人間の絆を作るんだ』
という希望を棄却し、
『己の魔導を救いの手に』
という願いを破却することで次々と、乞い祈りを犠牲にすることで完成していく魔導を眺めて男は酷く興奮した。
そして、"想い"を忘れる度に男は微笑んで少女を褒めた。
「んっんー。きみは到達することが出来る器だ。一つ一つ丁寧に――
――潰していこう。
その日は雨が降っていた。
篠突くような雨だった。
いつかと変わらぬ矮躯と、成長に合わせることもなく延々と同じ寸法であつらえた着物。
最果ての魔導に辿り着いた番傘を差して、童女は一人、集団墓地に立ち尽くす。
「わたしは……なにをしていたのでしょうね……」
思い出した。自分が何を願って魔導を始めたのか。
己の力を救いの手にしたいと願っていたことを、多くの敵兵を皆殺しにすることで思い出した。
魔族と人間の絆を作るんだと抱いていた希望を、魔族を魔導研究の糧にするのを見て思い出した。
きっとあの優しい姉を助けるんだと想っていたことを、助けられた彼女を見て思い出した。
「……あれだけ、人には言っておきながら」
他にあるだろうか。
己の願いを餌にして得た、誰も救うことの出来ない殺戮の力。
ただ到るまでにもここまで多くのものを磨り潰し、聖典に辿り着くための冷たい石段へと変えてしまって。
神に匹敵する聖域の魔導を得た代償に、さらに自分は――
己の小さな手を見つめる。
同じくらいの大きさだった手のひらはいつもどんどん大きくなって、しわがれて散っていく。
老いて死ねるだけ羨ましいと思ってしまった自分はいったい何なのだろうか。
もはや人間ではない。しかし魔族にもなれない。ならば神なのか。それも違う。
『僕は、化け物となり果てたお前も愛そう。なぜなら、帝国臣民であるからだ』
神ならば神らしく、何かを愛し何かを貫くことが出来るはずだ。
無償の愛を向けることが出来る、そんな羨望の対象でいるはずだ。
なればあの時言われたように、自らは肉体を置き去りにした化け物なのだろう。
化け物に、なり果てたのだろう。
屍の山を築き、血の河を流し、躯で大地を埋めて尚、己の心に気付けなかった愚かな怪物。
「……ふっ」
帝国の敵を殲滅する。攻撃するまでは、殺すまでは忘れていた、己の願い。
第一席が持つ信念にただ従って行った殺戮は、その行いそのもので原初の祈りを思い出させてくれた。
皮肉、などとたった二文字で表すには残酷すぎる軌跡。
もはや感情によって動くことのない頬の筋に代わって、ただ皮肉の笑みが漏れる。
「けれど、それでも」
ヤタノは前を向く。
どれだけ、自分がけがれようと。その思いだけは本物だと信じて。
だからこそこれから自分が自らを犠牲にしてでも紡いでいかなければならないのだと己を鼓舞して。
その時だった。
久しく聞かなかった声が、背後に響き渡ったのは。
「んっんー、よくないよくないよくないなぁ!」
「っ!?」
雨の轟音が一度に止んだ。
それは、反射的に彼女が使った神蝕現象の証。
化け物として敵を殺戮する、神域の魔導。
到りたいなどと欠片も思わなかった、ただの暴力。
集団墓地の入り口めがけて放つ、全力の殺意。
「おっとっと、ちょぉっと危ないなあ。ワターシは非力なんだ、消し飛んでしまう」
「何を言うかと思えば、目的はそれなのですが」
「数十年振りの再会の挨拶にしては過激だなあ。よくないなあ」
「誰がッ……!」
憎々し気に歯を食いしばる童女の瞳は殺意に塗れて、衝動のままに男を睨む。
いつでもその魔導で食い殺せるであろう射程圏内に居て尚、しかし目の前の男はおどけた様子を崩すことなく佇んでいた。
「まあ落ち着こう。実はきみに話したいことがあるんだぁ」
「わたしには、ないっ……! ただの兵器に、化け物に成り下がった原因に向かってわたしが大人しく会話に応じるとでも思っているんですかっ……!!」
「応じなくても別にいいが……ワターシのこと殺せるの? キミ?」
「っ……」
「ま、そうじゃなくてもキミの知人のことだしねぇ」
「……なにを」
肩を竦めた男に、番傘の先端を向けたまま。童女の表情が凍る。
きみの知人。
そういうからには目の前の男との共通の知り合いではないのか。そしてわざわざ溜めた理由を鑑みるに、またこの男はろくなことをしていないのではないか。
疑心暗鬼、というよりは目の前の男に対する悪意の信頼。
今度は何が飛び出すのか、聞きたくはないが聞かねばならない。
必死に心臓の鼓動を落ち着かせ、男をねめつける。
視界に入る番傘の切っ先が細かく震えているのを、力を込めて押さえつけながら。
「ワターシは直接どんな者かも知らないんだけどねぇ……鬼神シュテン、という男の話だ」
「……男、ですか」
「ああ、そうだ」
頷くと同時、ルノアールは手を掲げて、指を鳴らした。乾いた音が響きわたると同時、ヤタノが硬直する。
――古代呪法・洗練七法――
「聞いたところではキミの友人であるところの鬼神シュテンは、二百年前にゲートを開き、わが父シャノアール・ヴィエ・アトモスフィアを救ったそうだ。"車輪"ユリーカ・フォークロワ・アトモスフィアと共に、魔王軍の戦力増加を図った。我が父を救ったということはどういうことかわかるか、ヤタノ」
「……え、や、そんなことがあるはずが」
「むっ。この状態でワターシに異を唱えられるかぁ……。しかし、効いていればいい、聞いていればいい、聴こえていればそれでいい。ワターシを生まれるようにしたのもおそらく鬼神。王国に魔狼部隊が出来たのも、帝国で第一次魔導研究企画と称して魔族実験が生まれたのも、魔王軍が肥大化したのも、全ては"導師"が生きているからだ」
「シュテンは、魔王軍になんか付かないと、断ると、あのひとは……」
「んっんー、よくないよくないよくないなぁ、憶測でモノを語るのはぁ……! そんなに言うんなら、自分で見てくればいい……」
ゆっくりと、まるで幼子を諭すように語るルノアール。
ハイライトを失った瞳に言葉を流し込んでいくような、心を蝕むようなその一つ一つの言霊を思わずヤタノは繰り返す。
「自分で、見て……」
「そう。そして、裏切られたのが分かったなら……ワターシと共においで。どれほどワターシを憎んでいてもいい。だが、キミがもし鬼神シュテンに裏切られたのだとしたらそれは――」
『きっとあの優しい姉を助けるんだ』
その優しい姉を奪われ、
『魔族と人間の絆を作るんだ』
紡ごうとした絆を断ち切られ、
『己の魔導を救いの手に』
その思いに背かれたということだぁ。
「……ぁ」
「キミの幼少の願いは全て破棄され、純粋に"八咫烏の権能"を宿した兵器として"神"と戦う力になる。それはワターシたちの目標であり、キミはその目的を達成するのに欠かせない化物だぁ」
「……それでも」
「うん?」
ぽつりと。
それでも、光のない瞳で縋るように見上げた少女の顔を、ルノアールは驚きに満ちた顔で迎えた。ゆっくりと口から出てきた言の葉が、あまりにも予想外で。
「それでも、わたしは。きっとあのひとだけは裏切らないと、信じて――」
「見てから決めようねええええ!」
「っぅ」
とどめの一刺しとばかりに洗脳魔法を叩き込んだ。
あまりにその暗示が強すぎたのか、ヤタノはその場によろけてしゃがみこんだ。
ふう、と一息吐いたルノアールは、その場に崩れ落ちたヤタノを一瞥して呟く。
「"語らない聖典"にお前が捧げたものと、ワターシが捧げたものの相性が完璧で良かったよ。く、ふふ……おかげで最高の研究が出来たのだからなぁ……!!」
八咫烏の権能を神蝕現象に昇華させたヤタノの能力。その代償に彼女は、何を選んだのか。
たった一けたの年齢で、"叡智の塊"に渡せる"知"などそう多くはない。
「ははは! また会おうじゃあないか、ヤタノ・フソウ・アークライト……きみにワターシは殺せないのだから。世界に絶望した時に、ワターシと共に来るといい……」
ゆっくりとルノアールの声が遠ざかっていく。
ぽつりと、また土の湿った臭いに新たな湿気が混ざった。
それは勢いを増していき、容赦なく斃れた彼女の背を濡らしていく。
多くの屍が眠る場所に、ただただ生きた骸が転がっているようにしか、見えなかった。
ヤタノとシュテンが白銀の街道で邂逅する、数日前の話。
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