第三十一話 リンドバルマXII 『集結というにはあまりにもあれなあれ』
ダン、と地面を蹴る音がした。周囲に響き渡る振動を煩わしく思ったヴェローチェは魔導を行使して浮遊する。
陥没しクレーターを作った大地には既に誰もおらず、次の瞬間にはシュラークの眼前に金色の瞳。
「なにっ……!?」
「ぶん殴るっつったよなァ!!」
シュテン初めての攻勢は、まさしく一瞬の出来事だった。
ヴェローチェによって解除されたミッドナイトの固有魔導。シュラークに出来た僅かな虚を突いたシュテンの襲撃は、まさに電光石火と言える代物。シュラークは屍霧を纏うことすらできず、即座に両手を交差させて衝撃を和らげようと防御する。
「オオオオラアアアアア!」
「ぐ、ぉおおおおおおおおおおお!?」
振りぬかれた妖鬼の拳。
それはつまり、圧倒的な力差があったということに他ならない。
勢いよく吹き飛んだシュラークは、住居の壁を一枚貫通して二転三転。丁寧に受け身を取ることでダメージを最低限に抑えるも、だらんと下がった左腕が今の一撃の威力を証明している。
「……貴様」
「ふぅ、すっきりした。一撃入れたは良いが……次から奇襲の手に困るな。あの変な靄出されたらどうしようもねえ」
軽く手をぷらぷらと振りながらシュテンは口角を釣り上げる。ようやく一発入れることが出来たという爽快感からか、それとも宣言通り怒りの理由を叩き込むことが出来たからか。何れにしても、ミッドナイトの固有魔導を断ち切ることが出来たこのタイミングからがようやくの反撃開始の合図だった。
地面に叩きつけられてバウンドしようがすぐさま立ち上がって見せたシュラークの耐久も見事なものだが、シュテンの拳の威力は本来ふつうの人間が耐えきれるようなものではない。クラスチェンジを重ね、突然変異として誕生し、なおかつ筋力方面を鍛えていたシュラークだからこそまともに一発を受けても何とかなった。だがそれでも、おそらく次はない。
そもそもシュラークの戦闘スタイルは、敵の攻撃にあたることを考えていないのだから。
「……不覚、か」
力を込めてもぴくりとも動かない左腕を一瞥して、シュラークは呟く。
その間に、ヴェローチェは周囲の状況を把握していた。
彼女の混沌冥月によって消し飛んだのは、シュラークの屋敷がある方向ではなかったようだ。
真逆とまでは行かなかったが、軌道はそれなりに逸れていた。口元で小さく「惜しい」とこぼしながら、彼女は残った狂化魔族たちの様子を観察する。ほとんどが彼女の鏡面包囲によって氷漬けにされていたものの、それでもまだ生存し彼女をけん制している者たちの姿はあった。
さてそれらをどうしてくれようか、思考を巡らせながらシュテンの様子を窺う。
彼は彼でシュラークと相対しつつ、黒い靄に備えているようだった。
「あれに当たったら確かにまずそうですねー」
ふむ、と一つ頷く。
既にシュラークの両拳にはまた靄――屍霧が展開されていた。腕を折られ、動かずとも遠心力や魔導の力を使ってどうにか戦おうという腹積もりのようだ。その状況を観察しつつ、ヴェローチェが今取るべき最適解を考える。
もし自分の祖父であればもっとうまく立ち回れたのではないかとの思いが脳裏をよぎるが、今考えても詮無きことだ。
ひとまずは、牽制。そして、シュテンの妨害をさせないこと。
ここで予期せぬ敵などがシュラーク邸から現れないように、周囲に意識を張り巡らせる。
「……ぁれ?」
シュラークとシュテンが向き合う中、ヴェローチェは新たな三つの気配を感知した。
何かが来る。それをシュテンに知らせようとして、それよりも先にシュラークが一つ言葉を口にした。
「――なぜ」
「あん?」
「何故貴様が共和国の、忍の子供を気遣うのかと問うのは、無粋なのだろうな」
「俺にとっちゃ人間も魔族も等しく"人"だ。そら、子供が大人の手にかかろうとしていたら、ましてやそれが理不尽なもんだったら、庇いたいのが、守りたいのが、防ぎたいのが人情ってもんだろうよ」
「魔族も人間も等しく人、か。貴様は異端だ」
「異端だとか異質だとか不可解だとか珍妙だとか、そんなもんは聞き飽きたね。確かに俺ほどこの世界に在って特異なもんはねえだろうよ」
「だが」
ふう、と一つ息を吐いて、シュラークはどこか諦めたように笑った。
「その異端はきっと、正しいものなのだろう。皆がお前のような異端であれば、だれも悲しまずに済んだのかもしれない」
その言葉に、シュテンは眉根を顰める。
人間と魔族の間にはどうしようもない溝があり、今目の前で形を取ってそこに在る。
それは数年などという生易しいものではない断絶があった証拠であり、魔族と人間が互いを人として認識していないという他でもない大きな証明。
狂化魔族を戦わせるというのは人間にとっては大発明であり、それ以上でもそれ以下でもない。
人間を家畜として扱うのは魔族にとっては酷く当たり前のことであり、咎められるようなことではない。
だからシュテンは異端であり、しかしシュラークはそれを正しいと言った。
「……さぁ、どうだろうな」
シュテンは皮肉げに口元を緩ませる。その瞳にあるのはいったい何だろうか。先ほどまでの怒りは、少なくとも灯していない。されど敵意は相変わらずで、そしてどこまでも相手に寛容であった。
「俺みたいのがわんさか居たら、常人って奴はみんな発狂するぜ?」
「それでも、涙を流す者はいない。ワタシは共和国がこぼす絶望の雫を、拭ってやりたかったのだ」
「そのために払う犠牲はテメエが全て背負うつもりで居たか、このバカチンが」
「ああ、そうだとも。だが、帝国が滅び魔族が滅び忍が滅んでも、共和国が笑っていられるのであればワタシはそれでいい!」
言い切った。
どこまでもまっすぐに、大きく声を上げて。
一点の曇りもなくただ一人共和国の守護者たらんとするその言葉に、一瞬といえどシュテンも言葉を失った。
どれほどの罪悪がこの男にあるだろう。どれほどの人がこの男に救われるだろう。
おそらく、そのどちらもが山とある。容認は出来ないが、無責任に止めることは許されないと強く思わせられるほどに、シュラークという男はどうしようもなく真摯であった。
だから、そこに言葉を投げることが出来るとすれば、それはこの国の民だけ。
「……シュラーク、あんたという人は」
「ポール!? 生きていたのか!」
ヴェローチェの混沌冥月によって粉みじんにされた瓦礫の山に手をかけて、胴体を真っ赤に濡らしながらもゆっくり一歩一歩歩んでくる一人の青年の姿があった。その足は当然ながらおぼつかない。体を支えるために、瓦礫で手に傷を作りながらもそれでもシュラークに歩み寄る。
「何故、ですか」
「何がだ、忍」
「何故貴方はそれだけの意志をもっていながら……この期に及んで共存という考えに至らなかったのですか」
「帝国に支配されている限り、きっと共和国の民は笑っていられない。忍は何にも使えない。なれば、民を傷つけずに外敵を追い払う方法はこれしかなかった。それだけだ。……そんなことを、貴様ら忍が問うのか。自分たちだけが隠れられる"里"とやらに逃げおおせ、共和国の民が死んでいくのを指をくわえてみていただけの貴様らが!!」
吼える。
強く、大きく。恫喝ではなく、叱責のように感じられるシュラークの叫び。
きっと、シュラークに味方はいなかったのだろう。
突然変異として旅立った自らの慕う兄貴分は世界を守って死んだ。だというのに、共和国という国の危機にあって忍は無能だった。誰一人として忍という人間は信用できず、だからこそ自力でシュラークは共和国の立て直しを図った。
帝国書院に睨まれながら、信用できない忍を利用し、私欲を捨てて共和国の再興のために戦ってきた。
「……確かに、確かに我々忍は役立たずでした。しかし、我々は決して民を見捨てたりはしなかった。里に、孤児院に、まず真っ先に逃がしたのは子供たちだ。我々は多くが死に、それでも民を殺させまいと奮闘した。……それに」
「……」
「それに、帝国は弾圧なんてしなかった。リンドバルマであんたの執政に、皆満足していた。第一層の人々の笑顔はあんたが作ったものだろう。なのになぜ、こんなことをする! 忍の誇りだとガラフス様を誑かして、ジュスタ姫をはじめとした子供の忍を軒並み騙し、情報戦で数々の民を失って、ここまでする必要があったか!? 帝国は形こそ共和国を併呑したにせよ、ほとんど政治には介入していないじゃないか!」
ポールが訴えると同時に、瀉血した。せき込み、力なく膝をつく彼はもうほとんど虫の息だ。
ヴェローチェがふわりと近づいて彼を空中に寝かせながら、シュラークを見やる。
もしかしたらシュラークはそのまま孤児院の子供たちの仇になっていたかもしれない。そう考えれば、ヴェローチェとしてもシュラークの思想は気になるところだ。だから彼が何を返すのか知りたかった。だが、ヴェローチェの目に映ったのは先ほどまでの気丈なシュラークの姿ではなかった。
「……なにを、言っている?」
ぎょろりと。そのカエルのような瞳を瞬かせたシュラークは、ポールを凝視して固まっていた。
突然の変貌に追いつけるものはおらず、シュラークは全員の注目を集めている。
彼は動く右手を顔に当てると、震えた言葉で呟いた。
「ちょっと、待て。帝国はこの国を強く虐げているだろう。だからこそワタシは、今まで苦労して作り上げたリンドバルマの町を、レイドアの民を一度苦しめてまでこの狂化魔族を使った一転攻勢を仕掛け……!」
「おい、シュラーク! お前、何を――」
ゆらり、とその体が傾き、それをどうにかして右足で支える。
明らかに様子のおかしくなったシュラークにシュテンは声をかけるも、シュラークにはまるで聞こえていないようであった。
「シュラーク!! おいシュラークてめえ!!」
近寄ろうにも、近寄れない。
どうにかしてシュテンが怒鳴って我に返そうとするも、効果はない。
歯噛みして、一発ぶん殴るかと着流しの袖を手繰りあげた、その瞬間だった。
「――オレが想像していた百二十倍は面倒な事態になってやがるな、クソが」
ざ、と地面を踏みしめて一人の青年が現れた。
「も、モノクルハゲ!?」
「誰がモノクルハゲだクソ妖鬼がァ!!」
地面を蹴り飛ばす勢いで、突然の登場にも関わらずそのままシュテンに切り掛かろうとしたデジレ・マクレイン。
「わわわ! やめてってば!」
「離せクソガキ!」
だが、それを背後から抱き着いて止めようとするとある少女のおかげで、一瞬の攻防は無かったことになる。
その絵面を見て呆けていたのはここに居た者全員であり、ヴェローチェに至っては先ほど周囲に人の反応が三つあったことを完全に伝え忘れたことに気が付いて歯噛みしていた。
ぽつりと、シュテンが本音をこぼす。
「……なんで、ジュスタとモノクルハゲが一緒に?」
「それはいいんだけどさ。これ、どういう状況?」
「え、あ、そうだ、シュラーク!」
そんな純粋な疑問に対してジュスタから返されたその言葉に、シュテンは思い出したようにシュラークを振り向いた。
「……ワタシは、確かに帝国の弾圧をこの目で」
「ハァ? テメエがちょっかいかけて来てなお不干渉だったってえのに、何を圧政なんて妄想ぶっこいてんだクソが」
「……き、さま、帝国の」
「デジレ・マクレインだ。テメエがやらかしてるって報告を聞いてここまで来てみりゃ、まあその通りだったな」
フン、と軽く鼻を鳴らしたデジレは、鬱陶しげにジュスタの頭を引きはがしながらシュラークに応対する。
「止めてやったのにその扱い酷くないの」
「止められなければ殺せてたろうが」
「いやあの、だから」
何も会話がかみ合わない二人組の登場に、シュテンは「なんだこの犯罪者予備軍」と首をかしげつつ。
しかしシュラークがそれどころではないことの方が重要であるからか、デジレを警戒しながら彼の方を見やる。
ポールを守ったままのヴェローチェと、頭を抱えて混乱状態のシュラーク。なんのこっちゃ理解の出来ていないジュスタと、そしてなぜかいるモノクルハゲ。
どういう組み合わせだこれは。などと考えていたら、シュテンは周囲の狂化魔族たちの様子がおかしいことに気が付いた。
「……あん?」
「これ、は」
ががが、ぎがぎ、などと苦しみながら、一様に首元を掻きむしって苦しみだした狂化魔族たち。
ナーガだろうがオークだろうがオーガだろうが、全ての魔族が一斉にだ。
何が起こっているのかとシュテンはヴェローチェをかばうように立つと、そこに、声が響き渡る。
「んっんー! よくないよくないよくないなぁ!! シュラークにここで記憶を取り戻させるのは非常によろしくない!」
シュテンは察した。この声の主が、黒幕であると。
ヴェローチェは弾かれたように顔を上げた。その声の主を、知っていた。