第二十九話 リンドバルマX 『ジュスタの成長』
「テメエ、既に壊れてやがんな。……いや、誰に壊された」
瞳を眇め、モノクル越しの眼でガラフスを見やる。
その言葉の意味がうまくつかめなかったのか、思わずといった様子でジュスタはデジレを見上げた。
宵闇のさなか、相対するは二と一。しかしながら、この膠着した状態の原因は戦力の拮抗でもお互いの探り合いでもなく、もっともっと純粋な部分に起因するものであった。
果たして、敵として対峙しているのだろうか。
まず明確にそれを判断することを、ジュスタは出来ていなかった。
「……壊れてる、って?」
「あのおいぼれモンキー、もうほとんど自我がねえっつうか、妄執の塊だ。人としてはもう終わってやがる」
「っ!?」
人として終わっている。その言葉が真に意味することまでは、ジュスタは分からない。
だがそれでも、もう目の前の老人が"懐かしい祖父"ではないと突き付けられたことに息を呑んだ。
今も幼い自分ではあれど、それでも幼少期に感じた温かさを思い出として大切に抱えている。
故にデジレの言葉は突き刺さったが、しかしそれを不思議と嘘だとは否定できずにいた。
言われてみれば確かに目の前の老人は並々ならぬ力を感じさせると同時に、狂気のようなものまで漂わせているのだから。
「壊された? 異なことを言うのう、小僧。儂はただ一人の忍にして、誇りに生きる老骨よ」
「だからその思考がおかしくなってん……まあいい。おいクソガキ」
対話を早々にあきらめたのか、軽く嘆息したデジレは肩を竦めてから両手で大薙刀を握りしめた。半身を傾け刃を下に持ったそれは、デジレの臨戦態勢だ。困惑が治まらないジュスタを横目で見据えて、軽く声をかける。
「……なんだよ」
「構えろ」
その瞬間だった。
「っ!?」
鈍い鉄同士がぶつかり合う音。
構えろと言われて条件反射で構えたダガーに重くのしかかる何か。
「――ほお、今のを受けるか」
「――油断してんのはテメエだけだ。目の前に居るのは爺ちゃんなんつー優しいもんじゃねえ、ただの化け物だ」
「……お、爺ちゃ……!」
ぎりぎりと、軋んだ音を立てる彼女のダガー。飛びかかるほどの勢いで叩きつけられたガラフスのそれに対して、二つのダガーをクロスさせることでようやく凌ぐ。しかしそれでも押さえつける力の強さは変わることなく、踏ん張りで呼吸さえも苦しい中でジュスタは訴える。
瞳で、どうして、と。
「主であるシュラーク様に従い、忍の繁栄をもう一度。そのためには、今妨害されては困るんじゃよ」
「そのシュラークは! 本当に良い人なの!? ストルムの町でも、ここでも、"特導兵"って人たちがすごく偉そうにしてた! オルドラの忍はみんな肩身が狭かった! 魔族を狂化させるなんて、おかしいじゃない! それも全部シュラークって人の仕業なんでしょ!? なのにお爺ちゃんはなんで従うの!?」
「それが帝国に弾圧された共和国領最後の希望なれば、忍を極めた男の示す道なれば、儂は従う理由がある!」
「っ……!」
鉄と鉄とが打ち合う衝撃に、爆ぜる赤の火花。
身軽に宙がえりして着地したガラフスは、そのしわの増えた細い瞳でジュスタを見据える。
そのジュスタはといえば、弾かれた状態でたたらを踏んで下がっていた。すぐさまダガーを構えなおすも、その瞳に力はない。ほぅ、と一つ息を吐いて、乾いた唇を小さくなめる。極度の緊張状態、というよりはどちらかといえば混乱状態。
デジレが言うからにはきっとガラフスは壊れているのかもしれない。そう思う自分も居た。
そして、確かに。ガラフスの言葉はジュスタの心に何も響かない。
「……おい、クソガキ」
冷静に自分を分析し始めているジュスタが、頭から聞こえてきた声に顔を上げる。相変わらず不機嫌で、そしてどうしようもなく苛立った風に瞳の奥を怒りに染めた男が一人佇んでいた。
俯いていたせいで、ジュスタの表情はきっとデジレには分からなかったことだろう。
だが、ジュスタにも自分の今の感情がわからない。どうしていいのか、分からない。
「ねえデジレ。ボク、今どんな顔すればいいんだろうね」
「んなもん――」
ちらりと、横目でデジレはジュスタを見据えた。
彼女は両手にダガーを構え、正面にガラフスを見据えて立っている。
たった一つの油断もなく、たった一つの隙もなく。
だからデジレは呆れて言った。
「――行動に伴ってくるだろうよ」
「そっか。じゃあ……怒って、いいんだね?」
「それがテメエの"意志"ならな」
ガラフスの前に立ったジュスタの瞳が、困惑から焔に切り替わる。
お爺ちゃんが何を言っているのかわからない、から、目の前の男の言い分が許せない、へと思考が切り替わる。
混乱状態にあったのは、お爺ちゃんがそんなことを言うはずがない、との希望との落差。
であるが故に、ジュスタの怒りの矛先は目の前の男へと向かう。
「ああ、ボクの意志だよ。お爺ちゃんは、間違ってる」
「そうか。ただ、先に言っておく。そいつを正すのは、もう無理だ」
「……壊された、んだったね。魔導の専門家に出来ないと言われたら、ボクもあきらめるしかない」
「……ほぉ、随分とまともになりやがったな」
「自分で考えろって意味を、ボクも考えていたから」
ガラフス・ウェルセイアを目の前にして、ジュスタは改めて一歩踏み出す。
戦う意志を見せるのと同時に、彼女が一人の人間として一歩を踏み出す証。
軽く目を見開いたデジレに向かって、視線はそのままに彼女は呟く。
「目先の状況情報に惑わされず、そうでありながら事実をしっかりと受け入れて、そのうえで答えを出すこと。それが、自分で考えるということ。共和国領に戻ってきて、色々と思うこともあったけれど。身内の事情だからこそ、より外側から見ないといけないんだって、そう思った」
「ならクソガキ、テメエは祖父をどうするよ」
「ここで倒れてもらう。操られた、壊された。それがもう、誇りを語るに落ちた忍だから。そしてボクは、シュラークを問いただす」
「そうか」
ふ、と。
小さくデジレが笑った気がした。
初めて、のはずだ。ジュスタの前で、自然に笑ったのは。嘲笑でも失笑でもなく、自然な微笑み。
たった一瞬ではあったが、それでも確かに笑ったように思えた。
だから。
「もういいかの。……悪いが、デジレとやら。そして愚かな孫娘よ。ここで、死んでもらうとするかのう」
ざざ、とガラフスの存在が、気配が、その場から一瞬で消えたことにジュスタは気が付かなかった。
ガラフスの武器もダガー二本。ジュスタの武器も、同じ。であるから飛び道具として扱われるか握って振るわれるか、その判断はまず行わなければならないというのに。完全に油断して、どんな攻撃が来るのか分からなくなってしまう。
「しまっ――」
その瞬間、鉄が叩き折られたような、痛々しい音が響き渡った。
「お……おお……」
「――研究院でもな」
振るわれたのはダガーではなく大薙刀。
ガラフスのダガーが両方とも根元から叩き折られており、その首には刃が突き付けられている。
静かに呟かれた言葉はこの場所にまるで関係のないもので、ガラフスもジュスタも、思わず彼に視線を向けた。
「どうしようもねえバカが、一生懸命学んで学んで、それでもクソほど的外れな答えを連発する時ぁ、殺したくなるもんなんだよ。だが、それでも殺さねえ理由は。――こうしてきちんと自分の答えを得た時のそいつの喜びようを見るのが好きだからだ。……無粋な真似すんじゃねえよクソが」
「な……研究院、じゃと……?」
驚愕に目を見開くのは、今度はガラフスの番だった。
研究院。その言葉の意味するところは、つまりは敵国帝国にとっての"軍"に相当する――
「帝国書院研究院名誉院長――なんて肩書も持っちゃいるが。悪かったな、テメエの孫娘にコートパクられてるもんでよ」
「……見慣れぬ服に身を包んでいると思ったら」
ガラフスがジュスタを一瞥すると、ずるずると裾を引きずったコートを羽織ったままだった。
そしてその背中には、確かに刻まれた二本の筋。
「……魔導司書」
「お察しのとおりだ。クソ妖鬼にかまけて魔導司書をこの場所に入れるなんざ、ド三流もいいとこだな。そんな奴に帝国が敗れるなどと思うなよ」
ちらり、とデジレがジュスタを見やる。
大薙刀をガラフスに突き付けたまま、そのままの状態で。
「……うん」
「いいんだな」
彼女の頷きは、いったいどういう意図であったのか。
それがわからないほど、デジレもガラフスも馬鹿ではない。
だからこそ、歯噛みしたガラフスは、振り上げられた大薙刀が己の首を掻き切るよりも先に自らの奥歯をかみ砕いた。
「っ!」
その瞬間。
何かに気が付いたデジレがジュスタを抱えて飛び下がる。
――神蝕現象【清廉老驥振るう頭椎大刀】――
その爆音は、大薙刀が力を行使するのとほぼ同時であった。
自爆。
そう評して相違ない、自らの離脱を考えないエネルギーの暴発。
土煙と、威力に見合った風圧と。炎熱に関しては、彼の大薙刀で防ぐことが出来たのは幸いだろう。
魔素によって練り上げられたエネルギーは、デジレの前では無力。
故に、腕の中に縮こまっているジュスタはおそるおそる爆心地を覗き見ることが出来た。
「……まさか」
「派手に死んだな、クソが。それだけは他の忍と変わらねえか」
ち、と舌打ちした彼の視線に映るのは、大きくへこんだクレーターと、その中心に飛び散った赤。
デジレ自身も血しぶきを軽く浴びたせいで、不快げに頬についた血をぬぐう。
「あ、あの、デジレ」
「なんだよ」
「ありがと、助けてくれて」
抱きかかえられた少女は、少し恥ずかしげに頬を掻く。
自らの胸の内に彼女が居ることに気づいてか、デジレは目を丸くして、ついで青筋を立てて彼女を地面に捨てた。
「ぎゃん!」
「次からは自分で身を守れるようにしろ雑魚が」
「そだね。ありがと」
「……?」
どこか、あか抜けたような。
そんな印象を受けて、しかし面白くないデジレは彼女を無視して歩き出す。
この先にはきっとシュラークが居る。
暗闇の中、ジュスタは最後の問いを投げるために、デジレのあとを追うのだった。