第九話 アルファン山脈IV 『可愛い嫉妬』
ヴェローチェ・ヴィエ・アトモスフィアはご機嫌であった。
というのも、自らが開発した妖鬼発見器が十全に機能したからだ。
魔界地下帝国を出て数日。
彼女は一人、黒のフリルアンブレラを差してアルファン山脈の切り立った桟道を登りながら物思いに耽っていた。鼻歌交じりで、らしくもなく口元に弧を描きながら。
今となっては、いつから考えていたことなのかは分からない。
けれど、思い出すのは教国で起きた出来事だ。
記憶がダブっているとはいえ、教国での軌跡はあまり大きく異なる訳ではない。
結局は、導師という肩書きの有無があっただけでどちらも盛大にフラれているのだから。
もちろん、心情の違いは大きい。
誰も仲間が居ない状況で、家族と呼べる者などどこにも見あたらない。導師などという階級に祭り上げられ、信頼も信用も庇護も忠義もへったくれもない部下たちから心ない言葉を浴びせられていた、"改変前"に歩んだ軌跡。あのズタボロだった精神で、よく自分はまともに居られたと思う。
いや、と首を振った。
あの時、もし。
結局シュテンとの繋がりも途絶えて、魔界地下帝国での再会時にはユリーカの配下になってしまっていたら。その時はもう、臨界点を突破して、正気を失っていたかもしれない。彼は、味方になってくれるかもしれない最後の希望だったのだから。
幾人もの、力のある魔族を当たった。既に魔界地下帝国に居るような魔族はもう無理だ。既にどこかの派閥に属し、言わずもがな人間を見下し家畜ないし獲物としか思っていない。そんな相手の仲間になろうだなんて、とてもではないが思うような連中は居るはずもない。
地上でも、名のある魔族は多かった。とはいえ、殆どが最強の魔導司書"アイゼンハルト・K・ファンギーニ"や、歴代トップの光の神子"ランドルフ・ザナルガンド"によって、或いは魔導司書のトップである"アスタルテ・ヴェルダナーヴァ"やS級ブレイヴァー"アレイア・フォン・ガリューシア"によって駆逐されてしまった後ではあったが。
どれもこれも、ヴェローチェですら敵うか分からない猛者共だ。闇魔力持ちの彼女だが、いくら"国士無双"の影響を受けないからと言って詠唱中に串刺しにされては元も子もない。世界程度の速度では間に合わないなど、前提からして狂っている。
そんな訳で、残るのはこの二年の間に力をつけた魔族だけだった。それだけでも数が少ないのに、案の定"人間"の彼女に組みしようなどという者は居なかった。というよりも、まともに話が出来たのが、あの妖鬼だけだったと言っていい。
だからこそ、彼への接触は楽しかった。
向こうは身構えていたようだし、眷属の九尾も居たせいか随分と警戒されていたように思う。ああして、無意識にでも大事にされるという経験が無いからか小さな嫉妬も芽生えていないといえば嘘になる。
エーデンでの戦いは、ちょっと自分も気が動転していた節があった。
今思い出すと、随分と恥ずかしい台詞を口走っていたような気もする。
「わたくしのものになれ、ですか……」
ちょっぴり頬を赤くして、ヴェローチェは小さく呟く。心なしか、傘を持つ手に力が入った。
無我夢中で叫んだ言の葉は、隠し切れない本心であったに違いない。
あの時は本当に、心の底から味方を求めていた。誰もいなかったから、誰も振り向いてくれなかったから。寂しいというちいさな言葉ではとても埋め尽くせない孤独。重く辛い責め苦が、ひたすら彼女を蝕んでいた。
「……ようやく、ですね」
一歩一歩、山道を登る。この上に奴が居るのは分かっている。
別に、空を飛んでいくことも出来るが、そうしないのはただの気分だ。山道歩いてわざわざ来ましたよ、と見せつけるのが重要だとヴェローチェは思っている。一生懸命で健気な女の子は可愛い、などとユリーカが朗々と語っていたのを半ば鵜呑みにした形ではあるが、実際のところヴェローチェは楽しそうだ。
少々、体力的にしんどそうでもあるが。
「……体力、ないっすねーわたくし。思ったより。これから旅しようっていうか、旅狂いと一緒に行こうっていうのにこれはない……」
ほう、と少し大きく息を吐く。結構高いところまで来ている為か、息が白い。
特に寒く感じないのは、このドレスのおかげだろう。とはいえ、靴は結構歩きにくい。やっぱり浮いてやろうか、と思いかけて、やっぱりやめた。あと少しであるし、これくらいなら我慢しよう。
ところで。
「ユリーカといい、あの眷属のヒイラギといい、今回の吸血鬼といい……ちょっとあの男、女引っかけ過ぎじゃないですかね。アレのことだから、気がついてすらいなさそうだしー……まぁ、いいですー」
彼から貰った、15年の楽しい日々というプレゼント。導師という肩書きもなくなり、大切な祖父と、ちょっとめんどくさい姉が居る生活。それはとても楽しいものであった。経験したかどうかについては少々微妙だが、記憶という形でしっかりと胸に刻まれている。
あんなものを貰ってしまっては、一度引き下がらざるを得なかった。
過去への旅に同行したユリーカにも少しだけ借りができてしまった訳であるし、それに一度ちゃんと、対話する必要があると思った。自分に、いつの間にかできていた家族と。
でも、それも終わった。
結局ヴェローチェは、最初から欲しかったものだけは手に入れることができていない。
彼をほしがった代わりに、15年の大切な時間を貰ってしまったのだから。
だから。
だから、今から貰いに行く。
せっかく、なぜかわからないが今の彼は一人旅だ。
ならそのままでいい。自分が、隣を歩けばいい。
導師という肩書きの無い今、導師シャノアールの孫娘である以外には特に魔界から必要とされている訳でもない。単独戦力としては相当なものではあるが、それだけだ。
なら、いいだろう。
好きに、楽しく旅をしてみたって、いいだろう。
「こんな清々しい気持ちで外を出歩けるのなんて、初めてなんですからねー……」
小さく進めていた一歩一歩。見下ろせば、自分の黒いミュールがようやく平坦な場所に踏み込んだところだった。よく、この靴でずっと歩いていたと思う。
そして。
「ようやく、着きましたー。あーしんど……」
山頂に、たどり着いた。
グリモワール×リバース~転生鬼神浪漫譚~
巻之陸『妖鬼 鬼神 共和国』
「やー、しっかしこうしてヴェローチェさ……ヴェローチェと一緒に並んで旅することになるなんざ、しばらく前は思ってもいなかったぜ」
「そーですねー。だってシュテン、いっつもびびってたじゃないっすかー」
「び、びびびビビってねーし!!」
「……じとっ」
「声に出してじと目するでないやめたまえ」
ヴェローチェがアルファン山脈の山頂を訪れてから、しばらくして。
山道をひょいひょいと下っていく人影が二つ。
一つは、軽やかな足取りで歩く和装の男。三度笠をかぶった、黒髪の青年。
もう一つは、その隣をふよふよと浮いて進むゴシック調のドレスを纏った金髪の少女。
余りにも雰囲気の違う二人の組み合わせに、しかし振り向くような者は居ない。この場所を訪れる旅人などそうそうおらず、よって二人は特に周囲を必要以上に警戒することもなく山下りを続けていた。
相も変わらず、ヴェローチェはご機嫌であった。
楽しげに口元をゆるめ、青年――シュテンの隣を浮いてついていく。
「……こうして、嫌なことを考えずにシュテンと一緒に旅をするのが夢でしたからー」
「そう、かい。ならまあ、前は悪いことしたな」
「いえ。いいんですー。前は、わたくしも強引すぎましたー……」
「そういや」
「はい~?」
ふと思いついたようにシュテンは指を一つ立てた。
何のことやらと、特に警戒するでもなくヴェローチェはシュテンの顔を覗き込む。
彼女のそのアメジストのような半開きの瞳と、長いまつげがぱちくりと動くのに併せてシュテンは口を開いた。
「兄さん呼びはやめたの?」
「うぐっ……や、それはこう……ちょっとやっぱり恥ずかしいといいますか……」
「いや別にいいんだけどさ」
「た、たまに……たまにこう……ええっと」
「あん?」
さっと顔を俯かせて、ヴェローチェは絞り出すような声で言う。
そもそもこんなに表情豊かな少女だとは知らなかった。シュテンは目を丸くしつつも、いつもダウナーな彼女の赤らんだ頬を見て、面白いものをみたとばかりに口角をあげた。
「こう……やっぱり記憶があってもその、実感はないので……家族のようなものが、恋しくなった時にだけ……」
「お、おう。強要してるつもりは皆無だし、やっぱり名前で呼ばれてる方が慣れてるからそれでいいと思うぜ俺も!」
「え、ええ。ちょっとやめましょうかこの空気ー、毒でも撒かれたような気分が」
「そんなに嫌だった!? ごめんね!?」
三度笠をかぶり直すシュテンの横で、ヴェローチェは気を取り直して前を向いた。
ほう、と小さく息を吐くだけでも気持ちの整理というのはつくものだ。元魔王軍導師たる者、ポーカーフェイスはしっかりと。
「……なににやけてんだヴェローチェ」
「いえ別にー?」
……嬉しさとか、喜びとか。
そういったものを隠すのには、耐性がなかった。
「それはそうと、これからどこに行くんですかー?」
「とりあえず帝国かねえ。今回の捜し物はたぶん帝国か、その奥の共和国領にある気がするんだわ」
「うっへー、この寒くなってきた時期に北の共和国っすか……豪雪に飛び込んで自らかき氷になるスタイル?」
「お前さん結構スプラッタなこと平気で口にするよね!?」
「まあ、シロップを撒き散らした回数は一度や二度ではないのでー」
「シロップって言わないでくれるかなァ!?」
かき氷。実はグリモワール・ランサーシリーズではジャポネで販売されている名物だ。赤、緑、青、黄の四種類。プレイヤーの視点ではおそらくいちご、メロン、ブルーハワイ、レモンに相当するであろうそれ。それぞれの状態異常回復に加えて微量のHP回復ができる、RPGではよくある"ご当地系ちょっとしたお得回復アイテム"だ。
ところでブルーハワイとはいったい何物なのか、シュテンは未だに知らずにいる。
「帝国、帝国。……まあシュテンも三度笠ありますしー、わたくしも人間なのでー、大丈夫じゃないっすかねー。問題は背中に数字刻んでる自営業の方々に見つからないようにすることです、が――」
「魔導司書が一気にやばい職業に聞こえてきたんだけどその言い回し!?」
「……あの、シュテン」
くだらないことを口走っているその最中。ふと、ヴェローチェの動きが止まった。
元々シュテンの隣を浮いていた彼女を、何かあったのかとシュテンは振り向いて。
す、とヴェローチェが指を向けた。
シュテンに。
「あん?」
「それ……わたくしの記憶が正しければー……わたくしと牢で会った時にはしていませんでしたよねー……?」
「それ……ああ、この笠?」
心なしか、ヴェローチェの声のトーンが低い。
半開きの目が、妙に鋭く。何故か覇気まで纏っているような、闇魔力がすでに周囲に漂っているような、そんなような気がしないでもなくもなくもない。
「そうですねー……その、"笠"ですねー……ええ、わたくしも元導師、その笠に付いている効果くらいはわかりますー。斬撃軽減というのは、確かに笠にはうってつけ、いいことではありますねー」
「お、おう。結構気に入っててな。やー、ほんとありがたいんだわ」
「……そんなことができるのは、剣魔力の保有者くらいですよねー……?」
「ああ、ユリーカに――っととと!?」
「ちっ」
「なんで今混沌冥月が頭掠めたんですかねえ!?」
冷や汗混じりにシュテンが叫ぶ。
しかしヴェローチェは小さく暗い笑みをそのままに、シュテンに目を向けた。
「いえ、可愛い嫉妬ですー……ほら、姉への」
「そ、そうかい……お宅の姉妹喧嘩こっわ」
慌てて三度笠を被り直すシュテンを見て、ヴェローチェは思った。
何か、自分も。
それは果たしてただの姉への嫉妬なのか、それとも。
少なくとも、目の前の男はただの嫉妬だとしか思っていなさそうで嫌になる。
「ま、まあいいや。行こうぜ、帝国」
「そーですねー」
嫌な汗をかいたと、シュテンは一つため息を吐いた。
しかし、彼の受難は当然これで終わりではない。
彼は、気づいているのだろうか。
この状態で、今から帝国に入ることの意味を。
ウェンデル高原をぬけ、ハナハナの森を抜けたらどこに繋がっているのかを。