第十三話 ハナハナの森III 『ばり強ぇ妖鬼』
グリンドルの命令に従って、ハナハナの森を駆け抜ける書陵部の面々。彼らの纏う並々ならぬ気迫は、どこからきていたのか。
その答えは、プライドだった。
グリンドルという強大な個に全てを任せることしか出来ない自分たち。九尾と対面した際に感じた威圧に、身動き一つ取れなかったふがいなさはむしろ発憤剤として作用していたのだ。
だからこそ、異常生物だけはこの手で処理を。その思いを胸に、隊員たちは疾駆する。
「副長! さっきの……マジで百年前に封印された九尾なんですか!? ちょっとプレッシャー半端じゃなかったですけど!」
隊員五十名の先頭を駆ける副長の背後から聞こえた言葉。
視線だけで振り返ると、副長は足を止めずにそれに答えた。
「ああ……おそらくは」
思い返すと悔しいが、あの重圧はまさしく伝説の九尾足り得るものであった。書陵部の人間たちですら、太刀打ちすることなど出来はしないであろう個の災害。
今クチイヌ捜索に全力を振り絞っている彼らとて、決して弱い訳ではない。公国のブレイヴァーを基準にすれば、B級のベテランに匹敵する凄腕ばかりが集められた栄誉ある部隊。それが帝国の誇る帝国書院書陵部なのだ。
だが、その彼らですら鎧袖一触に滅ぼされかねない相手というのは居る。
もちろんそんなものは例外中の例外だ。今回だって、魔導司書であるグリンドルの役目は"念のための監視"だったのだ。
いつどんな状況になるかわからない、正体不明の敵であればこそ"魔導司書"を使う理由になる。異常生物討伐の戦力に数えられている訳ではなかったのだ。
そしてイレギュラーな事態は往々にして起きるもの。
現れた九尾に対抗する"力"としてのグリンドル。たった二人だけ帝国書院への連絡に向かわせて、当のグリンドル本人は自分で九尾を狩るつもりだろう。
あんな化け物と相対し、勝てると思わせるだけでも魔導司書というのは破格の怪物である。
だからこそ、副長以下書陵部暗殺部隊は別の役割の為に動く。
異常生物討伐を任せると言われたのだ。ならば、その任務を危なげなく遂行することこそが彼への信に応える結果となりうる。
「通達スクロールによれば、ウェンデル高原で大規模な魔導パルスが確認されたらしい。時期的な符合を考えると、やはり」
「……異常生物だけでもやっかいだって時にッ!」
「だから我々が異常生物を片づけ、第十席に九尾をお任せした。一掃出来れば、また帝国にはすばらしい歴史が刻まれることになる」
「……そう、っすね!」
実際のところ、副長とて自信がある訳ではない。九尾のプレッシャーにあてられて弱気になっていたのは事実であるし、差し引いたとしても異常生物がどれほどのものかなど見当がつかない。
「しかし……!」
駆ける、駆ける。
南東に向けて、ただひたすらに。
異常生物の痕跡こそほとんどないが、異常生物の発見地帯はハナハナの森南東区域であったはず。まずはそこに向かい、その動きをたどるのがよいと考えていた。
だが、あまりに生き物の気配が少なすぎる。
異常生物がいくら恐ろしいという話でも、一週間程度でこれは脅威の度を超えていた。副長は警戒を含めて周囲を見渡しつつ、鬱蒼とした森を跳躍して進んでいった。
「そういえば副長! 妖鬼も居るらしいですが!」
「……ああ、そうだったな」
と、先ほども話しかけてきた隊員からの声。
この速度で駆けながら気軽に話しかけることが出来るのは十分に評価したいところだが、緊張感が足りないのは些かいただけない部分であった。可愛がっている良い後輩だとしても、少し厳しさを加えるべきかとも思案するのであった。
しかし、そうか。と思う。
すっかり忘れていたが、今ハナハナの森には九尾・異常生物に加えて妖鬼まで居るのだ。どんな天外魔境だと嘆息の一つもつきたくなるが、それでも妖鬼ならば幾分かほかの魔族よりはマシだろう。
「一週間でこの森を変えてしまった異常生物と、第十席が直々に相手している九尾に比べれば数倍は余裕がある。妖鬼ともなれば、尚更な」
「それはまあ、確かに。俺たち、帝国魔導最先端ですし」
背後で頷く隊員を一瞥して、副長は再び前を向いた。
帝国書院書陵部とはすなわち、帝国中の英知を集め研究している施設にほかならない。もっぱら特殊攻撃に弱い妖鬼がいくら居たところで、近づけさせなければ敗北はない。
そう考えるからこそ、異常生物と九尾に比べれば数段危険度は低かった。
とにかく、異常生物だ。
この森を荒らし、帝国に脅威をもたらす者。どういう経緯で現れた魔獣なのかは知らないが、帝国書院のメンツにかけても駆除する必要があった。理由があった。義務があった。
「ギャアアアア……ッ!」
「っ!?」
その咆哮に、副長以下隊員たちは皆気付いた。
低く、不気味。しかし、どこかせっぱ詰まっているようにも聞こえるそれ。
瞬間、激震。
「ぐっ!?」
「うわっ!」
「っ!?」
森全体が酷くブレたと感じるほどの酷い振動に、慌てて地面に伏せる隊員たち。ざわざわと木々がざわめき、軋んでか細い枝が次々と折れる。
残り少ない鳥たちの羽ばたきが、嫌に強く耳朶を打つ。
「な、なんだ……!?」
収まったか、と顔を上げたその矢先、またしても激しい慟哭が周囲全体に響き渡る。
「グギャオオオオオオ!!」
「副長!」
「総員退避!!!」
その叫び声とどちらが速かったか。凄まじい風圧と共に襲い来る、空が一瞬消えたかと錯覚するほどの巨大な岩山のような何か。飛来するそれの速度は巨体に見合わないほど高速で、慌てて散開する隊員たち。
地面がめり込むと同時、またしても大地が悲鳴を上げた。ぴしり、と散開先の足元にまで走る地割れ。クレーターのように半球型に凹んだ地面には、拉げ潰れた哀れな木々が。
「グルル……ッ!」
むくり、と小さな山ほどもある巨体が起き上がる。その体長は、巨木の中にあってさらに一回りほど大きく。
「クチ……イヌ……?」
震えた声をあげたのは誰だったか。
副長もその声の主と同意見だった。あれは、異常生物に違いない。
巨躯だ巨躯だと言われども、まさかあれほどだとは思いもしなかった。だが、確かにクチイヌのように見えなくもない。
スコップのような、鋭くとがった特徴的な顎。ぐり、と不気味なまでに見開いた瞳。効きそうな黒い鼻と、三角耳。間違いなく、纏うオーラとサイズ以外はクチイヌのそれだ。
「グガッ……?」
「ッ!?」
じろり。
確実に副長を視界に入れた巨大クチイヌ。本能がアラートを最大限に警鐘。身構え、睨みつける。間違いなく、襲いかかってくる。
森に殆どの魔獣が居なくなった今、肉食のバケモノは腹を空かせて暴れていた。人間の半分ほどの大きさでしかない普通のクチイヌですら、群れを成して人間を襲う肉食獣だ。それが、巨大化した今になって、空腹で、見逃すはずがない。
視線、一瞬の交錯。
しかし、巨大クチイヌは視線を逸らした。
「グギャアアアアアア!!」
咆哮。
そして、勢いよく後ろ脚を駆って弾かれたように前方へと飛びかかっていく。
「……見逃された?」
「副長、しっかりしてください!」
「あ、ああ、すまない」
何故だ。何故襲い掛かってこなかった。
副長の中で疑問が渦を巻く。
報告では、空腹で暴れているから帝国に入ってくる危険があるとのことだったのだ。それを差し引いても、この森の寂れた現状を見れば察しくらいはつく。
だというのに、何故肉食のクチイヌが目の前の人間を見逃した。
「グギャアアアアアア!!」
「追いましょう! 我々の仕事はアヤツを殺すことです!」
「そ、そうだな! 行くぞ!!」
追いかけようとして、ふと気づいた。
気づいてしまった。
「副長……?」
「……おい、今クチイヌは。自分の意思でここまで飛んできたと思うか?」
「……い、いえ」
思わず、隣にいた部下に言葉を振る。
自分の考えが、誤りであって欲しいと祈りながら。
だが、同じ場所に思考が至ったのであろう部下は、顔を青くして首を振るのみ。
となれば。
あのクチイヌは。
「……本当にただバックジャンプしただけだとしたら、盛大にこんな無様なクレーターを作るはずがないでしょう」
「何者かに、吹き飛ばされた?」
「……まさか」
さっと血の気が引いた。
今、たった今。あのクチイヌのプレッシャーに当てられただけでも恐ろしかったというのに。これから向かう先には、クチイヌを弾き飛ばすような化け物が居るのかと。あれほどの巨体を空中へ打ち上げるほどのバケモノがいるのかと。
「い、いくぞ!」
「は、はい!」
いつからハナハナの森はそんな人外魔境になったのだ。
心中で悪態をつきながら、ふと考えてしまう。
先ほど起き上がったクチイヌが、遠く睨み据えた先。
南東を睨むクチイヌの瞳は、どこか怯えたようではなかったかと。まるで、未知の怪物に出くわしたかのように、恐怖に染まっていなかったかと。
今の、そして九尾と遭遇した時の自分たちと同じように。
「い、居ました!! 巨大クチイヌです!!」
「急げ!」
副長以下、隊員たちは南東に向かって駆け抜ける。
居た。
巨影に気付いた副長は、木々の間をすり抜けながらその動きを眼で追った。
「グギャアアアアアア!!」
咆哮と共に、何かに向けてその巨岩を幻視するような前足を振るう。三本の爪が太陽に反射し、地面へと叩きつけられた。爆風と共に木端と土くれが弾け飛ぶ。と、その瞬間何か小さな影がクチイヌの反対方向に向かって跳躍した。
クチイヌのターゲットは、あれか。
副長が勘付くよりも先に、クチイヌの追撃。
その鋭い顎が、空中にある小さな影を目がけて強襲する。
だが。
「ギャアアアアアアアアアアアア!!!」
「ッ!?」
「なんだ……斧!?」
小さな影が背中から引っ張りだした、身の丈ほどもある得物。振りおろされるのは一瞬だった。巨顎とぶつかりあった瞬間、逃げ遅れた空気が一気に爆散する。
「くっ……!?」
「レベルが……違いすぎる」
風圧に吹き飛ばされそうになりながら、立ち尽くす隊員たち。
その中で一人、副長は戦いを見据えて睨みつけていた。巨顎から明らかに血が吹き出て、叫び声をあげるクチイヌ。だが、それでも大きな隙を見せることなく巨大な足で影を潰しにかかる。
着地した小さな影は小ステップでその足の攻撃を回避すると、そのまま巨大クチイヌ目がけて跳躍した。
ドン、と地面が炸裂するかのような足腰の入れ込み。その反発に見合った凄まじい速度で、柄を叩きつけるようにクチイヌの首を強襲する。
「グペッ!?」
悲鳴をあげることすら叶わないクチイヌに、さらに回転して斧を叩き入れようとする影。だが、そんなことをされてはたまらないと思ったかクチイヌも反転、斧ごと腕を持っていかんばかりの気迫で牙をむく。
「チッ……」
舌打ちが聞こえた気がした。小さな影はそのまま斧を回転させ、横薙ぎの要領でその牙を迎え撃つ。
再びの交錯は、まるで金属同士が打ち合うかのような甲高い音を生じさせるものだった。
その威力に飛ばされたのは、双方。
ざざざ、と地面を滑るように着地した小さな影と、顎から大量に出血しながらも耐え抜き地面に落下したクチイヌ。
睨み合いのさ中、小さな影が斧をゆっくりと構えた。
「……クチイヌ異常種と、互角以上に……!!」
隣の隊員の声で副長は我に返った。
そうだ、凄まじい戦いに目を奪われている場合ではない。戦っている相手はいったい何者なのか。それを確かめ、場合によっては共闘するべきだ。
一歩前へ踏み出そうとした、その時。
「……やるか」
ぞわり、と寒気が背筋を駆け巡る。
何事かとその発信源に目を向ければ、小さな影から瞬間的に噴き出した凄まじいオーラ。
あれは、何だ。九尾以上ではないか。洗練された気迫。まるで抜き身の刃を向けられたような、冷たい殺気。
おそらく自分たちに向けられているわけではないだろうその覇気に、しかし副長は動けない。
この距離で。相手の風貌も細かく確認できないようなこの距離で。
それでも小さな影の殺気に竦んでしまっている。
そんなものを真正面から受けているクチイヌはどうなっているのか。
思わずそちらに視線をやれば、歯を食いしばり、慄いたようにのけぞって。
おそらく、尻尾を巻いて逃げ出すつもりだったのだろう。
突然噴き出した凄まじい鋭気。あの九尾をも凌駕するような圧倒的なオーラ。
そんなものに当てられて、戦う気概など持てと言う方が難しい。
まるで"溜め"だ。力を極限にまで吸収し、凝縮し、今まさにはちきれんとするその気迫の塊を、目の前の相手に叩きつけようとしている。
竦んで一瞬足がもつれたのか、明らかに一歩は小さな影の方が速い。
「フッ……ッ!!」
「ギャワアアアアアアアアアアアアアア!!」
唐竹割。
天高く振りかぶられた斧が、クチイヌを真正面から両断した。
あの硬い毛並を、肉を、骨を、一撃のもとに斬り伏せた、否叩き割った。
ずしん、と凄まじい地響きを立てて沈む巨大クチイヌ。
砂塵が舞い起こり、一瞬視界が奪われる。
「やったのか……?」
おそるおそる、副長は現場に足を進める。隊員たちも、彼に続くようにゆっくりと。
しかし。
砂塵の中から、垣間見える黒い影。
幽鬼のように、斧を振り下ろしたままの体勢を起こすその影。
失われていない凄まじいオーラは、近づけば近づくほどに濃く強く。
こんな相手と、クチイヌは相対していたのかと慄いた。
「……妖鬼、だ」
「なに……?」
隊員の中でも、いつもいち早く何かを見つける"目"の優れた隊員の呟き。
慌てて視線を砂塵の中に戻せば、確かに見える、黒く捩れた二本角。
からん、と地面を軽く叩くは何等かの魔力コーティングが為された下駄。
靡くのは群青色の着流し。
余りに異色だった。
妖鬼というのは、獣皮一枚で格闘をこなす、近距離特化の危険な魔族。
だが、だからこそ帝国魔導の前では恐れるに足らず。そんな魔族であるはずの妖鬼が、巨大な斧を背負い、美しい極東衣装に身を包み、今ここで異常生物を狩った。
圧倒的な、一撃の威力で。
「あ、ああ……!」
本能が危険信号をこれでもかと点灯させる。
脳髄が逃げろとひたすら叫ぶ。
あれは、九尾程度に歯が立たなかった自分たちが相対して良い相手ではない。
「……ん?」
気づかれた、と副長は内心で叫ぶ。
その赤く染まった双眸が、副長を穿つ。まずいまずいと心臓が連呼するようにどくどくと脈を打つ。
干上がった喉を振るわせて、副長は恐怖の中、押し潰されそうな圧迫の中、口角を必死に動かして叫んだ。
「総員、退避!!!」
言うが早いか振り返りざま、背後など気にする余裕もなく元来た道をひた走る。あんな化け物、魔導司書でしか処理できない。
願わくば、さっさと九尾との戦いを終わらせてあの化け物を狩ってくれ。
そう願いながら、副長を含めた帝国書院の人間たちは第十席の居た場所へと必死で駆け戻るのだった。