第二十二話 ネグリ山廃坑VI 『狼煙』
風が吹いていた。
かつてネグリ山の炭坑は緑豊かな山中を切り開いて造られた場所であったのだが、廃坑となり、ダンジョンとして姿を変えて以降はずいぶんと荒れた区域になっていた。
とはいえ緑は残っていたはずなのだが、今ではそれも殆ど皆無。
荒廃した山は切り崩されて剥き出しの大地が弱々しく廃坑の入り口を支えるのみだ。
ダンジョンを構築する魔素が、未だにダンジョンの姿形を保っている主な要因ではあるのだが、それすらも今は心許ない。
その大きな理由が、今ここにある。
「……」
「第一席。どうかされたのですか」
「いや、特に何も。吸血鬼たちが襲い来るという報があってからしばらく、動きがないのが気がかりなだけだ」
「確かに、奴ら姿を見せませんね」
「冒険者協会も馬鹿正直に廃坑に突貫するのは辞めたようだ。大人しく吸血鬼に背後を突かれる餌になってくれれば良かったのだが」
「あ、あはは……」
冒険者協会の目的など、だいたいは予測が出来ようというものだった。
吸血鬼が大量に来るというのなら、当然その死屍を晒すことにはなるだろう。そうなった時に、翼だろうが牙だろうが瞳だろうがくり貫いて売り捌こうというのだ。
「帝国臣民の高潔さは、こういう時に仇になるな。どうにも、卑賎なものには嫌悪を覚えてしまう」
「やはり魔族といえど、人には違いないからでしょうか」
「いや、魔族は人間とは違う。……とはいえ、亜人ではある。確かに人間が死して部位を売られるなどということがあったら、僕は全力で一族郎党皆殺しにしているだろう。見た目が似ているが故に、卑賎だと思うのやもしれないな」
アスタルテ・ヴェルダナーヴァ。帝国書院の頂点に君臨する現人神。
彼の率いる帝国書院書陵部と、公国の冒険者協会が魔族を相手にこの地で散々戦闘を繰り広げたせいでネグリ山廃坑の手前は随分と荒れた。
特に彼女ら帝国書院書陵部は魔導司書を筆頭に百戦錬磨の強者ばかりで構成されている。
故に、魔獣を一体狩るにも行動が派手で、気づけばこの場所は決戦場にも近いほどに平たく開拓されてしまっていたのだった。
「吸血鬼共が現れれば、この場所は本当に決戦場になるはず。平地でなら我々の方が有利だろう。そうでなくとも、僕が敗北する要素は何も……いや、そうか」
「第一席?」
きょとん、として問いかけるのは、アスタルテの部下である書陵部の少女だ。
次に魔導司書の任命があった際にはおそらく彼女が新たな魔導司書になるだろうことは想像に難くないほどの。
そして、その彼女をちらりと見てアスタルテは思う。
新たな魔導司書の任命をするというのは当然欠員が出たからだ。
そしてその欠員というのが、アスタルテにとっての不確定要素の一つなのだ。
「……アイゼンハルト。"鬼神の影を追う者"。きみたちが何をしようとしているのかは分からないが、邪魔はさせない。そして、運命をねじ曲げられるのは困る。次に相まみえる時には、必ず処分させてもらおうか」
風に靡く髪を撫でながら、地平線を見据えて呟いた。
すると、隣に居た少女が。
「あ、そういえば第一席」
「ん?」
「この前いただいたケーキ、おいしかったです」
「それは良かった」
アスタルテ・ヴェルダナーヴァ。
この現人神、ケーキ作りが唯一の趣味である。
こつ、こつ。
反響する足音。
真っ暗な廊下を、石畳の廊下を、一歩一歩踏みしめて。
もう何度階段を降りたかもあまり定かではないが、それでも確かに目的地に向かっているのは分かっていた。
ぼんやりとした明かりが、道の先にある。あの場所に向かえばいいのだろう? と誰にでもなく心の中で問いかけながら、ミネリナは歩みを進めた。
ここはネグリ山廃坑。その隠し通路。
フレアリールが強力な隠蔽魔法をかけたおかげで見つからずに済んでいたその道を、ミネリナは今辿っていた。どうやらフレアリールの精神体も、この通路を伝ってあの湖に現れたようだった。
「……テツは、あのメッセージを見てくれただろうか」
『術式発動を感知出来るようにしなかった訳?』
「いや、みたことが分かるというのはそれはそれで、少しつらいんだよ」
『……そう』
先行するフレアリールの精神体の姿はもう見えない。殆ど消えかかっているのだろう。それはそうだ、ミネリナを案内するに当たって、ここまで来てしまえばもう精神体に魔力を割くのももったいないのだろうから。
しかし、彼女の最後の声色には、心なしか同情のようなものが含まれていた気もする。同情というよりは、自分にも思うところがあったのだろうか。お互い、求めていた人を捨てざるを得ない状況になってしまった者同士なのだから。
「……ここ、か」
そのミネリナの一言に対する反応はない。
暗がりから開けた、その場所は広く大きかった。
洞窟の最奥を切り崩したかのようなドーム状の一室。
まるで玉座の間だ。
ミネリナが少々とはいえプレッシャーを感じるほどの、その威圧。
ぐるりと周囲を見渡せば、地下とは思えないほどに天井が高く、吸血皇女の彼女としても居心地は良さそうだった。
「それで……」
と言葉を切ってミネリナは。
この部屋の最奥にある豪奢な椅子に腰掛ける、一人の少女を見た。
「生身で会うのは初めてになるね……フレアリール」
「そもそも私が、外に出ることが出来ないから。羨ましいわ、デイウォーカー」
まだ幼く、舌もうまくは回りきっていない。しかし何故だろうか、圧倒的なその力が、この部屋全てを満たしているように思えた。
否、違う。先ほどから感じていたプレッシャーは部屋からのものではなく、彼女から発せられていたものだ。それに気づいたミネリナは、椅子から立ち上がった少女に笑いかける。若干、その頬がひきつっていることは否定出来ない事実であった。
「かなり……強いようじゃないか」
「魔力量なら貴女と大して変わらないのではないかしら」
「その全てが、私に使えるものであればね」
「……流石にその解放は無理ね。随分頑丈よ」
黒の長髪を払って、苛立たしげにフレアリールは言った。身長はミネリナよりも頭一つ分ほど小さな少女だが、どうしてか"子供"と話している気がしない。
いや、"まともな子供"と話している気がしなかった。
たとえばそう、幼少から死と隣あわせで生きてきた野生の者のような。
「……言いたいことがあるなら、言ってくれると嬉しいのだけど」
「ああ、いや。凄い生き方をしてきたようだね、と」
正直なことをそのまま口にすると、フレアリールはその端正な顔を歪めた。
今度こそ子供にあるまじき表情をされて、ミネリナは若干苦笑い。
「それ、この前どこかの失礼な冒険者にも言われた気がするわ」
「ふむ? 冒険者が討伐対象に無駄口をたたくとは思えないのだが」
「居たの。ああもう、思い出すだけでもう……」
それを聞いて、ミネリナはふと思い出すものがあった。
「もしかしてその冒険者は四人パーティではなかったか?」
「なに、知ってるの?」
ぎろり、と睨み据えてきた彼女の不快そうな瞳に、案の定と言った風にミネリナは笑った。
きっとあのお節介な少女が、フレアリールをここまで苛立たせたのだろうと思うとつい口元が緩んでしまう。
「ハルナ、という少女がきみを助けたいと、そう言っていたよ」
「あの女、まだ懲りずに」
「今はシュテンに懐いていて、"シュテンせんぱい"と呼んで甘えている」
「あ゛ぁ゛!?」
凄い顔をした。
「シュテンさまに甘えるっ……!? あまつさえせんぱい……!? あの淫乱、結局偽善で私を……!!」
「で、シュテンにどうしてもきみを助けたいんだと頼みこんでいた」
「チッ……よけいなことばかり……!」
がん、と地面を蹴り飛ばそうとして石畳に足がめり込んだ。
ふっつーに怖くてミネリナの頬を汗が伝う。
だが、背を向けたフレアリールの呟きは、決して怨念からのものなどではなく。
「どうして……人間が私のことなんかを構うのよ……!」
「関係ないのさ、きっと」
「……何よ」
その背にそっと手を合わせて、ミネリナは言った。
恋した男も人間で、自分は紛いものの命でしかなかったけれど。それでも、ハルナとフレアリールの間にあった関係が、自分たちの願いの一端を叶えてくれていることが嬉しかった。
「人間も、魔族も。同じ時を生きる仲間なんだって」
「そんな妄想……今更信じられる訳がないでしょう……!」
フレアリールが命を狙われたのは、吸血鬼を仲間だと思わない人間のハンターだ。
狩られる側の恐怖は、今でもこの身に染み着いている。
だというのに、今さら人間を信じられようものか。
「きっとハルナは、年下の女の子を助けたかっただけなんだ」
「ふざけないでよ……。ふざけないで……!」
ば、とミネリナの手を払って、フレアリールは玉座の方へ歩いていく。
「この前聞いたんだ。あの子は孤児院の生まれで、ずっと年下を支えて生きてきたのだと。だから、きみも同じ。苦しんでいる小さな女の子に、手をさしのべたかっただけだろう」
「……知らない。そんなもの、知るか」
大股で、彼女はミネリナの言葉を振り払うように歩く。
しかし、その頬は若干赤く染まっていて。
感情の起伏が激しいあたりは、やはり年頃の少女だ。
勢いよく踵を返し、頭をわしゃわしゃ掻きながら椅子の方に戻っていく彼女の後ろ姿を眺めているとどこか穏やかな気持ちになった。
このまま、二人とも死ぬかもしれないというのに、そんな感情を抱くのがおかしくて。ミネリナは小さく笑った。決してフレアリールの振る舞いや行動を、という意味ではなく、一つの決意の現れだ。
自分は、生きているだけできっとテツの害になってしまう。
けれどこの少女は違う。必死に生きてきた分、幸せになってもらいたい。
願わくば、自分が叶えられなかった、大切な人との日々を。
「ミネリナ・D・オルバ」
「ミネリナで構わないよ。どうかしたのかい?」
名前を呼ばれて、ふと声の方を向く。
すると、どうやっているのかは分からないがネグリ山廃坑の外の様子が映し出されていた。ドーム状の部屋の中央に、まるでホログラムのように浮いた画面。
「貴女がやられていた、記憶の共有。私の配下に試して、監視を頼んでみたのだけれど……結構鮮明に共有されるみたいね」
「……釈然としないが、もう外は戦いが始まるようだね」
フレアリールの隣に立ったミネリナは、彼女と同じように画面を眺める。
共有したのは鳥類系の魔獣だろうか。空中を旋回するようにして周囲の情報を得ているようだが、なるほど。帝国書院書陵部と冒険者協会は一時的に手を組んでいるようだ。相対するように吸血鬼の一団が反対方向から現れた。
人数は同等。そう考えると明らかに吸血鬼の方が有利だ。
冒険者協会のA級冒険者と、帝国書院書陵部魔導司書を除けば。
「問題は……」
「グラスパーアイの古代呪法」
グラスパーアイ自身の強さに依存しないあの古代呪法だけは、どうしようもない。
帝国書院と冒険者協会の連合軍ですら、勝ち目は五分以下と言わざるを得ない。
「……グラスパーアイは、必ずここに来る」
「魔導司書が居れば、古代呪法は外で使うほかないでしょう」
「そうなった時に、奴を殺せるかどうか」
「……シュテンさまの為にも、必ず奴は亡き者にする。私の命に替えても」
そっと胸に手を当てるフレアリールの瞳は、この上なく本気であった。