第十九話 ネグリ山廃坑III 『んっんー!』
「……ぁ……ぁあ……」
『……』
正面で崩れ落ちた少女を見据えるフレアリールの瞳は冷たい。
冷たいが、冷たいながらに"現実を直視させた"自覚がある強い瞳だった。
翻って、自らの生まれ、役目、定命を理解してしまったミネリナの瞳からは、なにもかもが失われていた。ハイライトすら消えてしまった瞳からは、ぽろぽろと無機質に滴がこぼれ落ちるのみ。
顔を塞いでいた両手すら力を失い、だらんと地面に情けなく垂れて。
まともな言葉を発せないほどに嗄れた喉からは、ただただ嗚咽のようなものが漏れるだけだった。
『……怒りは、覚えるかもしれない』
す、とその紅の瞳に月輪を映す。見上げた夜空はいやになるくらいにいつも通りで、月明かりも、ほんのりかかった雲も、星々の輝きも、途絶えることなどない。
いっそ大雨でも降ってくれれば気の一つ程度は紛れただろうに。
それすら許さない変わらない天候は、ある種もっとも自然の残酷さを感じさせる。
目の前の少女が"造られた命"であることがよけいに、自然から見放されているような感覚を思わせて、フレアリールは一つため息を吐いた。
『……己の存在理由を嘆くのもいいけれど』
長く伸び、腰のあたりでふわりと広がったドレスのような黒髪を軽く払う。
彼女にとって、ミネリナの洗脳を解除したのはついでにすぎない。
ミネリナ・D・オルバ……ミネリナ・ドラキュリア・オルバと会う為にわざわざ生命を削って精神体になった理由は決してお人好しなどではないのだ。
既にネグリ山廃坑から逃げ出すことなど不可能。帝国書院と冒険者協会は既に廃坑を包囲しているし、A級冒険者も何人も詰めている。挙げ句帝国書院書陵部の魔導司書が三人もいるとなれば、ほぼほぼお手上げ状態だ。
そこに吸血鬼の一団も現れるというこの状況において、フレアリールがしたいことなど多くはない。
『せめてシュテンさまの憂いを断ちたいだけ。……貴女だって、あのテツという人を想うのなら……することがあるでしょう。自らの命を張ることも出来ない程度なら、逃げてしまっても構わないけれど……その程度の吸血皇女がシュテンさまと対等に会話をしていたなんて言わないでくれる?』
「……ぁ……ぁ」
鋭い視線を浴びせてみても、ミネリナは立ち直る気配を見せない。
苛つくフレアリールだが、ミネリナの反応は当たり前と言えば当たり前だろう。
欠落していた自分の記憶。
己の存在理由。造られた命。
挙げ句、好きになった相手を、自爆で殺す為にあの場に居たこと。
共に楽しく過ごした日々はすべて偽物で、彼に対する裏切りを知らず知らずのうちにさせられていた。
そんなもの、ミネリナにしてみればたまったものではない。
大好きな相手とこれからも日々を紡いでいきたい。その意志が固まった直後だからこそ、よけいに簡単に想いごとかち割られる。
砕け散った破片を集めるには、自らの手はあまりにも汚れているのだと気づかされてしまった。
縁がほとんど切れたと思っていた吸血鬼派は、気づかぬうちに彼女を利用し、利用しつくす気でいた。
ほかならぬ、大切な人を殺してしまう為に。
『アイゼンハルト・K・ファンギーニが居ない間、吸血鬼派はずいぶん好き放題やっていたみたいね。人類最強が居ない"確証"が、ミネリナ・D・オルバから得られていたおかげで』
「……や……やめて……」
『やめて? 結果は変わらないのよ。さっさと立ちなさい』
立て、という割には手を貸すつもりもないらしく。
その小さな腕を組んで、じっとミネリナを見据えるのみ。
記憶を甦らせたこと、かけられていた魔法を解除してくれたことに関しては感謝の気持ちももしかしたら生まれるかもしれない。けれどミネリナは今それどころではない。
信じていたすべてがまがい物だと思い知らされた時、人はここまで為す術もないのだと。
壊れ物というより、既に壊れてしまったものとしてフレアリールはミネリナを見据えた。
『私はシュテンさまの障害になりたくない。死ぬならせめてお役に立って死にたい。帝国書院に吸血鬼派。どちらもシュテンさまの邪魔になる存在なのだから……せめて命と引き替えに滅ぼす。その覚悟は出来ている。貴女はどうなの。吸血鬼派筆頭は、どうあったとしてもテツって人を殺すつもりなことくらい、分かってるんじゃないの』
つらつらと言葉を並べ立てるフレアリールが、ミネリナの事情を知っている理由は簡単だ。
洗脳解除の魔力パルスから、ある程度の記憶は感情の噴出と共に読みとることが出来た。
テツとシュテンが不思議な踊りに興じているところを、"美しい舞"だと解釈しているあたり、視点はフレアリールのものになるのだが。
くずおれて、脱力して、意識も朦朧としているだろうミネリナに、フレアリールは手をかざした。
『……どの道、貴女がテツとやらのところに戻るのは害でしかない。私のところに来るか、それとも今この場で死ぬか。どちらかにしてほしいところね』
アイゼンハルト・K・ファンギーニとシュテンが共に居る状況は好ましい。シュテンは結局助けにきてくれようとしているようではあるが、グラスパーアイのあの古代呪法は生半可な力で太刀打ち出来るものではないのだ。
であればこそ、最強の魔導司書と一緒に居られるというだけで少しは安心出来る節があった。
最強の魔導司書が居たとしても、状況は芳しくなどないのだが。
未だに身動き出来ないミネリナを、見据えていたその時だった。
「んっんー! よくないよくないよくないなぁ……! 精神体になってまで、わざわざこういうことをしちゃうのはぁ……!」
『っ!? どこから!』
突如吹いた一陣の風。
吹き止んだと同時に、ミネリナの前に立っていたのは見ず知らずの男であった。
貴族風の豪奢なマント、エレガントに整えた緑の頭髪。
何者かは分からない。だが、フレアリールの結界内に易々と入ってくるのは、ただ者ではない。
「……ぇ……?」
「んっんー。見覚えがあるのかね、ミネリナ・D・オルバ。それはなによりだ。親の顔はぁ……覚えておくべきだぁ!」
がば、となにやら万歳でもするかのように諸手をあげて喜ぶ不審者。
フレアリールはとりあえず殺すことを決め、漆黒の矢を複数放つ。
『地面に這い蹲りなさい』
「おっとと!? 危ない危ない危ないなぁ! 野蛮だよ、そういうのはぁ!」
へらへらと笑いながら、エレガントに緑の髪をかきあげる。相変わらず判然としないが、ミネリナの関係者のようであることは言動から察することが出来る。かといって、不快なことにかわりはない。
漆黒の矢は軽々とかわされて、森の中へと溶けて消えた。
「……お、前」
「んっんー。もしかしてワターシのせいで自我が戻った? よくないなぁ……そのままであれば優雅に誘拐したというのに!」
「……っ」
ゆらり、とミネリナが立ち上がる。
自らの記憶の中にある、目の前の男の存在。
それが今明らかに警鐘を鳴らしているのだ。なにをされるか分からない、と。
『ミネリナ・D・オルバ。変質者の登場で立てるようになったのはとても不愉快なのだけれど』
「……今は、なにも考えたくない」
足下は覚束ない。
だが、ある程度の魔力なら扱える。吸血皇女の実力は生半可ではない。挟まれた形となった男は、きょろきょろと二人を順に見回してから、一つ頷いた。
「んっんー。後ろからそろりと浚えば良かったのかもしれない。しかしそれは紳士としてよくないと思ったんだ。まずは落ち着こう。きみたち二人相手を出来るほどワターシは強くない」
『じゃあ何ででてきたのよ……変質者』
「変質者……!? それはよくないなぁ……! ミネリナ・D・オルバのパスが消えたから慌ててやってきた一介の研究者だよ、たぶん」
「パス……? お前は、やっぱり」
「ミネリナ・D・オルバの親っぽいものだよ、ワターシはね」
額に手を当て、横目でミネリナをエレガントに見据えるその仕草が尋常ではなく苛立ちを誘う。
「まぁしかし……ただの爆弾のつもりが結構"人"になってきたじゃないか。それは悪くないなぁ。……グラスパーアイには悪いが、今回は様子見と行こう。その方が、スマートだ」
ふわりと宙に浮いたその男は、ミネリナとフレアリールを見据えて哂う。
「また、今度会う時があったらその時は……もっとおもしろくなっているかもしれない。それはとても、良い。グッド」
『貴方……何者よ……』
「ワターシイ? そういえば自己紹介がまだだったね。ワターシはルノアール・ヴィエ・アトモスフィア。宜しくどうぞ、死亡予定の吸血皇女」
『……』
既に半分以上、男――ルノアールの姿は消えかかっていた。
捕らえられないと分かった以上、フレアリールも魔導を無駄打ちするつもりはないらしい。
さらさらと夜風に紛れて、風のように現れた男が風のように消えていく。
『……生身で会ったら全力で殺していたかもしれないけれど』
今はいいわ、とフレアリールは嘆息混じりに呟いた。
その視線の先には、呼吸を整えて立つ少女。
『……おかげで落ち着いた? ずいぶんな皮肉だけれど』
「それなりに、ね……うぷっ……」
憔悴しきった表情で、力なくミネリナははにかんだ。
短時間でここまでもちなおしただけでも大した精神力ではあるのだが、フレアリールにとっては会話が出来るだけで十分。止まない吐き気にたまらずしゃがみこむ彼女を見据えて、フレアリールは言う。
『ルノアールだかなんだか知らないけど、あの不審者は後にして。私のところにきなさい。グラスパーアイは粛正と称して私のところに来るはず。貴女はグラスパーアイの指一つであっさり死ぬ吸血皇女。なら、奴を巻き込める位置に居た方がいいでしょう』
「…………なぁ、フレアリール」
『なに』
いつ、ネグリ山廃坑が戦場になるか分からない状況だ。
さっさと、周囲の魔力でミネリナを覆い隠してネグリ山廃坑の地下へ連れていきたい気持ちで山々であったが。当の本人は、自らの手を見つめてから、情けない笑みを見せた。
「私は……何の為に生きていたのだろうね」
縋るような視線。
アイゼンハルト・K・ファンギーニを殺すために生まれて、
アイゼンハルト・K・ファンギーニに恋をして、
アイゼンハルト・K・ファンギーニを殺す道具にされかけて、
アイゼンハルト・K・ファンギーニの為に今、死ぬしかない未来。
グラスパーアイが居る以上、ミネリナは命をいつ失ったとしてもおかしくなくて。
その一番大きい可能性は、アイゼンハルトを巻き込んだ自爆で。
だから、一緒には居られなくて。
殺す為に生まれて、殺さないように死にたい。
だとすれば、自分の生とはいったい何だったのだろう。
「私は、何の為に……」
『バカじゃないの?』
「え?」
だというのに。
その、どうしようもないやるせなさは、目の前の少女によって一蹴される。
きょとんとしたその表情は、本当に、まるで違う言語を話された者のようで。
『何の為に生きる、何の為に死ぬ。……貴女、その言葉自分で矛盾してるの分かってる?』
「矛盾……?」
『何の為に生まれた? そんなもの貴女自身の目的と何の関係があるわけ? 貴女が生まれたことに理由を持たせたいのは生んだ側であって、貴女には関係がない。私を生んだ両親にどんな思惑があっても、私には関係ない』
決まってるじゃない。
『尽くしたい人の為に生きて、尽くしたい人の為に死ぬ。生きる理由なんて、それだけで十分でしょ』
何を当たり前のことを。とばかりにフレアリールはそう言って。
『私はお役に立つ前に死ぬことになってしまったのだから、少しでも尽くせた貴女が羨ましいくらい。せめてシュテンさまの為になる死に方が出来れば、それでいいわ』
「……なんともまあ、たくましいね」
『命を救われた。私に全てをくれた。だから、私の全てはあの方のもの。それだけの話よ』
「シュテンが聞いたらイガグリ食べちゃいましたみたいな顔をしそうだ」
膝を立てる。
よろけそうになる体を必死に支えながら、ミネリナは言った。
"シュテン"と呼び捨てされたことに若干不快そうに眉をひそめて振り向いたフレアリールは、しかしそれを飲み込んで。
『最愛の人に遺言でも残しておいたら?』
「……そうだね。そうしようか」
自らの指を爪で傷つけ、ミネリナは自らの血液を踊らせる。
術式をかけ、特定の人物がこの場所を訪れた場合に湖に浮かびあがるようにして。
「……私が死んだら、テツは悲しむだろうか」
『……さぁね』
あっさりと、ミネリナは前を向いた。
「案内してくれ。私を……黄泉の国まで」
『覚悟するまでは、早かったわね』




