第一章 いつかの春⑧
時田は、あの日以降学校には来なくなった。退学になったのか、転校していったのか、もうすでに刑務所の中にいるのかは分からない。
警察の人から事件当時の話を聞かせてほしいと頼まれたとき、僕は時田のことを少し聞いてみた。
時田は、永井のことを殺すつもりはなかったと繰り返していたそうだ。しかし、その先の言葉は、「本当は僕を殺すつもりだった」というものだったという。
永井の言葉を思い出す。時田は、永井のことが好きだったというのだ。僕が永井と付き合ったから、永井を僕に取られたと感じたから、永井を取り返すために、僕を殺そうとして――永井を殺した。
そして、あのとき、永井が背中を刺された直前に、僕を突き飛ばしたことも、僕の胸にまざまざと思い起こされる。永井は時田の存在に気づいていて、僕を守ろうとしてくれたのかもしれない。いや、きっと、そうなのだ。
そして、もしそうだとすると、永井が殺されたのは、僕がいたから、ということになるんじゃないだろうか……。いや、そもそも僕が永井と付き合わなければ、こんなことは起こらず、永井が死ぬこともなかったんじゃないか……。
自責の念に、押しつぶされそうだった。その罪の意識が、永井がいなくなった悲しみを鮮明に胸に刻み付ける。悲しみはとても悲しいだけではなく、苦しいものでもあるのだと、流すたびに胸に突き刺さる涙を頬に転がしながら、思った。
だって、永井はもう、いないのだから……。
永井がいなくなったあとも、当たり前のように僕の日々には続きがあった。永井のいない日々など考えられないのに、永井のいない日々は、考えるまでもなく僕の目の前にある。
本当は、もう何もしたくなかった。けど、学校だけは毎日行った。部活にも、少しだけだが顔を出した。
美幸さんがいなくなったあとも、頑張って毎日を送っている美紀のことを考えたら、僕だけ辛いような顔をしているわけにはいかなかった。
今はとにかくがむしゃらに生きよう、と決めた。それでも辛くなったら、永井からもらったお守りを握りしめた。そしたら、少しだけ、心を落ち着かせることができた。
「私のモットーは、今を一生懸命に生きることです!」
一年生のときの、最初の自己紹介で言っていた永井の言葉を思い出す。その言葉を、僕自身で体現することで、いつまでも永井は僕の中にいられるんじゃないか……。なんて、考えている僕を、美紀は「大丈夫、大丈夫」と言って支えてくれた。亮祐も、いつものように僕に抱きついて「誠太ちゃんには、俺がいるから」と冗談なのか本気なのか分からないようなことを言ってくる。
永井がいなくなってから、二ヶ月が過ぎた。季節は初夏を迎え、梅雨が目の前に迫っている。じとじとと蒸し暑い毎日の中で、僕は少しずつ、永井のいない世界に順応していった。
いつもなら、僕と永井と美紀と亮祐の四人で歩いているはずだった部活の帰り道。今はもう、三人で歩くことが当たり前になっていた。
時間の流れは、恐ろしいほどに残酷だった。
「ほーら、誠太ちゃん。暗い顔なんかしてないで笑えってー」
亮祐が僕の脇をくすぐってきた。
「こちょこちょ怪獣のお通りだぞー。へっへっへー」
「ちょ、ちょっと、やめろって、亮祐。はは、あは、あははは。くすぐったい! やめて、やめて! はははは」
「もう。本当、亮ちゃんはやることがいちいち子どもっぽいし、面倒くさいのよ。うるさいから、やめてあげて」
「え? そんなこと言うなら、今度は今野にやっちゃおうかなー。へっへっへー」
「子どもっぽいっていうか、もはや酔っ払いね。そんなことしたら、セクハラで訴えるから」
「あーはっはっは! 亮祐、本当にもうやめてくれ!」
「ほい」
突然、ぱっと亮祐の腕が離れる。僕は、「やっと終わったー。何の罰ゲームだよ、これ」と笑いながら言うと、緩めた目尻から、つーっと涙が伝った。
「あれ?」と思う間もなく、涙は僕の意志と表情に反してとまらなくなってしまった。慌てて腕で顔を拭ったけど、そうしたら今度は嗚咽がもれてしまった。
そうなのだ。僕は、こんなにも笑えるようになってしまったことが、たまらなく悲しかったのだ。永井がいなくても笑えてしまう。それが、笑えるほど悲しかったのだ。こやって、僕はだんだん永井のことを思い出さなくなるのかもしれない。
僕は、永井を守りたかった。永井がいなくなったあとになって思っても、仕方のないことで、時間は、戻って来はしないのだから。
「誠太……」「誠太ちゃん……」
美紀と亮祐が、辛そうな顔で僕を見る。亮祐が、口を開いた。
「ねえ、誠太ちゃん。来週の三連休、空いてる?」
「え……?」
「今野とも話してたんだけど、誠太ちゃんと今野と俺の三人で、東京に遊びに行かないか? たまには、どでかい街でぱーっと遊ぼうよ」
「でも、僕……」
「いいから! 行くよ! 現、副部長の俺の権限を使います。これは文芸部の活動の一環ということにします」
「亮祐……」
「まあ、いいじゃない。せっかくだし、行こうよ。はるちゃんもいっしょでいいから」
最後の美紀の言葉の意味はよく分からなかったけど、なぜだか、その言葉に反応して「うん」と頷いてしまった。
「よっしょー! 決まり!」
電車に乗って夜行バスが発車する停留所があるターミナル駅へと向かった。土曜日の夜ということもあったのか、電車の中は思った以上に空いていた。
これから、僕たちは東京へ向かう。電車のシートの隣には、美紀が座っている。ぱーっと遊んでこよう。そして、毎日を生きよう。永井のいない日々は、これからも続くのだから……。
「はい、誠太。これあげる」
美紀が手渡してきたのは、三角形の形をした一口サイズのグミだった。ラムネ味なのか、水色をしていて、白いパウダーが降られている。
僕はそのグミを「ありがとう」と受け取って口に頬張った。思っていた以上に酸っぱくて、口がすぼまった。
「あは、大成功」
美紀は意地悪な笑みを浮かべて、からかうように笑う。僕は「全く、もう」と不満をもらしてグミを飲み込んだ。
「大丈夫だよ」
美紀の目は、寂しそうに揺れていた。もしかしたら、美幸さんのことを思い出しているのかもしれない。
「きっと、大丈夫。私たちは、生きていける。また会いたいと思っていれば、いつか、きっと会えるんだから。私は、そう信じているから」
「美紀……」
「私はね、誠太が一生はるちゃんのこと引きずっていても構わないと思う。私も、お母さんのこと、まだ引きずってるもの。死ぬまでこの気持ちは消えないと思うし、消えてたまるかって思うよね。でも、それでいいんだよ、きっと。だから、誠太も、一生はるちゃんのことを想って、はるちゃんを胸に抱きながら生きていけばいいんだよ。はるちゃんが生きていた日々を、はるちゃんが生きていた日々以上にするのは、はるちゃんが生きていたことを思って生き続ける誠太なんだから」
美紀は、目をつむってにこりと笑った。
「今も昔も、誠太は、はるちゃんのことしか見てないんだから」
目的のターミナル駅に着いて、構内を抜けた。外に出たところで亮祐が待っていた。
「やあ、こんばんみー」
亮祐は、自分の両頬に人差し指を突き刺して、おどけて笑う。
「早いな、亮祐」
「あら、元気そうだね、誠太ちゃん。何だか、いつもの誠太ちゃんっぽいよ」
亮祐は、今度は自然な微笑みをこぼした。亮祐も、心配してくれているんだということが、嬉しかった。だから、僕も自然と頬が緩む。今度は、それが悲しいことではなくて、嬉しいことなんだと思うことができる。
「じゃあ、行くよ」
美紀の呼びかけに、僕たちはバス停に向かって歩き出す。
「ねえ、今日って、何日だっけ?」
僕が尋ねると、前を歩いていた美紀が振り返る。
「何日かも分からなくなるなんて、バカなんじゃないの」
「うう、そんなひどいこと言わないで、教えてくれたっていいのにー」
しょぼんとしていると、隣を歩いていた亮祐が「今日は、六月の七日だよ」と僕の肩を嬉しそうに抱きながら答える。
「ありがとう、亮祐」
「いえいえ。誠太ちゃんのためだから」
「それはいいけど……。なあ、いつまで肩組んでるんだ?」
「えー、いいじゃーん。誠太ちゃんも元気そうになったし! 今まで誠太ちゃんに抱きつくの我慢してたんだからね」
ぷくっと頬を膨らませる。それを見て美紀が「あなたたち、本当に仲がいいわねえ」と冷ややかな目で見てきた。
「あ! もしかして、今野、妬いてるの?」
亮祐がいたずらっぽい笑顔を美紀に向ける。
美紀は「は、はあ?」と慌てたような声を出して「どうして誠太と亮ちゃんが仲良くしてたからって、嫉妬しないといけないのよ」と、腕を組みながら前を向いた。
いつもの会話だ。いつもの僕たちだ。僕と亮祐は顔を見合わせて笑い合う。でも、ここに永井の笑い声はない。
永井。もう一度、会いたい。僕は永井の風鈴のように響く声が好きだった。「えへへ」と恥ずかしそうにする永井が好きだった。永井の笑顔が、好きだった。
バス停に着く。僕たちが到着するのを待っていたかのように、大型バスが、「プシュー」と言う排気音とともに、バス停に停まった。
「さあ、行こう! 東京に!」
亮祐が右手を高々と上げながら、バスに乗り込んでいく。僕と美紀もあとに続いてバスの中へ入っていった。
暗闇の高速道路を、バスは滑るように走っていく。
僕と美紀の座席は、車内左側の前から三番目だった。僕が窓側、美紀が通路側に座っている。亮祐は、僕のすぐ後ろの席だった。亮祐の隣には、見知らぬおじさんが、いびきを立てながら気持ちよさそうに眠っている。
「ねえ、美紀」
僕は何だか寝付けなくて、ひそひそ声で美紀に話しかけた。
「なに?」
「さっきは、ありがとう。美紀のおかげで、何だか少しだけ元気になれたよ」
「別に、いいよ。私は私の思ったことを言っただけだから」
「そうだね。うん、ありがとう」
そのあとは、お互いに話すこともなく、ただ静かにバスの走行音に耳を傾けていた。
亮祐は、というと、寝息もたてないほどぐっすりと眠っているようだった。隣にはうるさいおじさんがいるのによく寝れるなあと、僕は亮祐の子どものような寝顔を振り向きながら、思った。
と、その瞬間だった。
大きなクラッシュ音とともに、バスの車内が大きく揺れた。座席からふわっと浮き上がり、同時に横にも揺られる。体が投げ出されそうなほど大きな衝撃だった。
何だ? と思う間もなく、僕の視界はすうっと眠るみたいに落ちていって、暗闇に閉ざされていった。




