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第一章 いつかの春⑦

 三年生になって一週間が過ぎた。今日は四月の十五日。永井は部活終わりの文芸部の部室で、唐突に切り出した。

「誠太くん。今日は、二人きりで帰りたいの」

「え、どうしたの? 遥花。急に」

「うん。あのね、ちょっと、ね」

「はるちゃん。だから学校内でもいちゃいちゃすることはダメだって、あれほど言ったではないか」

 亮祐が、眼鏡もないくせに、眼鏡を押し上げるような仕草をして、どこか冗談っぽく言った。そして、驚いたような表情で僕と永井を見つめる一年生に「誠太とちゃんとはるちゃんは、付き合ってるんだよ」と紹介した。

 一年生は、「そうだったんですか。知りませんでした」と好奇心と興奮の混じったような目で、僕と永井を交互に見ていた。

 永井はそんな視線など気にする様子もなく「ね、誠太くん。いいでしょ?」と、再度促してくる。

「うーん」

 まさか、別れ話じゃないよな……と、僕は少しの不安を胸に過ぎらせて、ドキドキしていた。やっぱり時田と付き合うことになりましたって、そんな話が頭上に浮き上がる。

「お願い!」

「分かったよ。今日は二人で帰ろう」

 永井が手を合わせて頼み込んでくる姿を見ると、断れなくなってしまった。僕が了解すると、永井は安堵の表情を浮かべる。

「だったら、そんなところでぐずぐずしてないで、早く帰りなさいよ」

 美紀が帰りの支度をしながら、僕たちには目も向けずに不機嫌そうな声を上げた。

「美紀、何か、怒ってる?」

 僕は恐る恐る尋ねる。

「怒ってない」

「いや、でも……」

「いいから、はるちゃんと二人で帰るんでしょ。明日はいつも通り、朝迎えに来てくれればいいから。部室の後片付けとかは私たちでやっておくからさ。早く行きなさいよ」

「う、うん。分かった。じゃあ、悪いけど、部室の戸締りとか、お願いね。じゃあ、また明日」

 僕はドアに向かいながら文芸部のみんなに手を振った。一年生が「お疲れ様でした。さようなら」と頭を下げる。美紀も「じゃあね、はるちゃん」と軽く手を上げた。亮祐は「ばいばーい。誠太ちゃん、はるちゃん、またねー」と無邪気に大きく手を振る。

 永井も文芸部のみんなのお別れの言葉に応えて、微笑みをたたえながら「また、ね」と手を振った。


 僕と永井は二人で下駄箱まで降りて、校舎をあとにした。外はもう、だいぶ薄暗くなっていて、夕闇がすぐそこまで迫っていた。

「ごめんね、何か無理やり誘ったみたいで」

 正門をくぐるなり、永井は申し訳なさそうに頭を下げた。

「ううん、大丈夫だよ。それよりもどうしたの? 何かあったの?」

 僕の心臓の鼓動は高まる。嫌な話じゃなければいいのだけど。

「あ、えっとね。これと言って特別に何かがあったわけじゃないんだけど……。ただ、最近は二人きりになれるときって、あんまりなかったから。その、ちょっと、誠太くんと手をつなぎたくて……」

 永井は恥ずかしそうに首を縮め、僕を見上げた。その永井の表情は、やはり僕の大好きな永井だった。

「う、うん。いいよ。手、つなごう」

 答えるとすぐに、きゅっと永井の手のひらが僕の手のひらを包み込んでいった。

 辺りは少しずつ暗闇に包まれていく。青紫色の空が僕たちを見下ろす。歩道の脇に立っていた電柱の電気が、一斉にぱっと点き始めた。

「私、誠太くんのこと、好き」

「ど、どうしたの、急に。何だか、今日の遥花、変だよ」

「変じゃないもん。好きな人に好きって言って、何が変なの?」

 永井は、ぷくーっと頬を膨らませてしかめっ面を作って見せた。その表情がおかしくて、僕は思わず笑ってしまった。

「僕も、遥花のこと、好きだよ」

 心配していたことが嘘のようだった。何が別れ話かも、だ。僕たちは大丈夫。こうやって、いつまでもそばにいることができる。そう、いつまでも、ずっと。

「ねえ、誠太くん」

「ん?」

「いつまでも、私のそばにいてくれる? 私から、離れていったりしない?」

「もちろんだよ。僕はずっと永井のそばにいる。そばにいたい。永井も、僕のそばにいてくれたら、嬉しい」

「そばに、いるよ。私は、いつでも、いつまでも、誠太くんのそばにいる。誠太くんが分からなくても、そばにいるの」


 巡り橋に差し掛かった。橋の上は、明かりがなくて暗い。永井の表情は、何とか見分けることができたが、視界は悪い。たまに通る車のライトが、一瞬だけ照らしていくだけだった。

 決して都会とは言えない街の、夕方と夜の狭間は、こんなにも暗くなってしまう。

「ねえ、遥花。今度の日曜日、どこか遊びに行かない?」

「誠太くんは、どこか行きたいところあるの?」

「うーん。そう言われると、とくにはないんだけど……」

「もう。何よ、それ」

「あはは。ごめん、ごめん」

 頭を掻きながら、空を見上げた。月がぼんやりと浮かんでいる。もしかしたら、明日は雨になるのだろうか、水蒸気に包まれたような、ぼんやりとかすんだ朧月だった。

「あれえ? 私のケータイ、電源がつかないよ。さっきまで、電池もちゃんとあったのに。壊れちゃったのかなあ?」

 永井がケータイを触りながら、首を傾げた。ため息をついて、ケータイを制服のポケットにしまう。と、同時に、永井の右手が、するりと僕の手から離れていった。

「遥花?」

「誠太くん、ごめんね」

「どうしたの、急に?」

「ありがとう、ね」

「あ、もしかして、部室に忘れ物しちゃったとか? だったら、取りに……」

 永井は、僕の言葉を遮るように、静かに首を振った。微笑んでいた。僕は、何だかどうしようもない不安に襲われて、隣にいる永井の手を再び取ろうとした。

ド ンッ、という突然の衝撃とともに、僕は前方に突き飛ばされた。永井が、僕の背中を押したのだった。

「ちょっと、遥花。急に何を……」

 僕は慌てて後ろを振り返って、永井を見つめた。

 永井の体が、ゆっくりと前のめりに倒れていく。ドスン、という音とともに、地面にうつ伏せに崩れ落ちた。アスファルトの上に、血の染みが広がっていく。

「はる、か……?」

 僕は呆然と立ち尽くしていた。目の前の光景が、現実のものとは思えなくて、目玉をぴくぴくと動かした。

 永井が倒れた後ろに、誰かの黒い人影が見えた。大きかった。どこかで見たことがあると思っていたら、それは時田の影だった。

「時田……?」

 一歩進んだところで、「はっ」と足を止めた。

 時田の手に握られた包丁から、ぽたぽたと赤い滴が垂れていた。

 心臓に圧迫されるような鈍痛が走る。呼吸が止まりそうになった。頭の中にかかった靄が消え去って、ようやく目の前の出来事にピントが合った。

「うわああああああああああ!」

 僕は一足飛びに駆け出して、永井のそばに膝を立ててしゃがみこんだ。いや、膝から崩れるように永井のそばに顔を近づけた。

「遥花!」

 僕が叫んでも、永井は反応しなかった。永井の綺麗な髪の毛が、夜の闇の中でも分かる。赤い液体は、止まることなく溢れ続けている。

「遥花、起きてよ……。遥花、遥花……」

 目に涙が滲んでくる。視界が揺れながら霞む。何もできない無力な自分が、情けなかった。

「そうだ、救急車。救急車を呼ばないと!」

 僕は震えた手つきでリュックを下ろし、ケータイを取り出した。

「あれ、あれ?」

 指先が、がたがたと震えて、押したい数字が押せない。早く、早くしないと、と焦れば焦るほど、指先は痙攣してしまう。胸に重りを押し付けられたように、息ができなくなる。はあ、はあと息が荒くなる。苦しくなる。

「遥花……。どうして、遥花……」

「違う……」

 からん、と金物が落ちる音が聞こえた。時田の足元に、血のりがべったりとついた包丁が転がっていた。

「違う、僕は、永井さんを殺そうとしてたわけじゃない……。違う、違うんだ……」

 うめくような声が目の前から聞こえてきて、僕は震えた瞳で、恐る恐る顔を上げた。時田が、真っ青になった顔をがたがたと震わせながら、僕を見下ろしていた。

「そうだよ、遠野くん、お前が悪いんだ。お前が、永井を奪ったから。そうだよ、遠野くん、お前が悪いんだ。お前が、永井を奪ったから。そうだよ、遠野くん、お前が悪いんだ。お前が、永井を奪ったから……」

 時田は、焦点の合わない目で僕を見つめ、何度も同じ言葉をぶつぶつと呟き続けていた。ぞくっと背中が寒くなった。時田の表情は、壊れたような、感情がとんでしまっているような、この世のものとは思えないほど、狂気に満ちていた。

 お前が、悪いんだからな。お前が、永井を奪ったから。

オマエガワルインダカラナ。オマエガナガイヲウバッタカラ……。

「わあああああああ!」

 時田は背中を向けて、叫びながら走り去っていった。その背中を、ぼんやりと見つめ、倒れている永井に視線を移す。涙がひとひら、僕の頬を転がって、落ちた。

 僕はがたがたと震えながら、桜のストラップを握りしめた。永井からもらったストラップ――お守りを、握りしめた。

 来年も、いっしょに桜を見られますように。その祈りを込めたお守りを胸に抱くと、一粒だけだった涙は、線になって頬を伝っていった。

誰か目撃者がいたのか、救急車がサイレンを鳴らしながら走ってきて、永井のすぐそばで停まった。


 永井は、一度も目を覚ますことなく、運び込まれた病院で死亡が確認された。背中から刺された包丁は、心臓にまで達していた。ほぼ即死だったという。


 数日後、僕は永井の家で執り行われた葬儀に参列した。美紀も、亮祐もいっしょだった。永井の家の前には、常盤くんが、悲しそうな目で、永井の家を見つめていた。けど常盤くんは、中には入ってこなかった。

 美紀は永井の遺影を前にして、正座をした格好のまま、ぼろぼろと涙を流した。亮祐は、そんな美紀にそっとハンカチを手渡して、必死に涙を押し殺していた。

 亮祐も悲しいはずなのに、辛いはずなのに、その背中は、まるで、俺の分まで誠太ちゃんと今野が泣いてくれ、と言っているみたいだった。俺よりも悲しいのは、はるちゃんのことが好きだった誠太ちゃんと、はるちゃんと仲良しだった今野なんだから、ちゃんと悲しんで泣いてあげてくれ、と自分の涙を僕たちに預けているみたいだった。

「遠野誠太くん」

 葬儀が終わったあと、僕は永井の両親に呼ばれた。一番悲しいはずの永井の両親は、まだまだ涙の止まらない僕に、優しく微笑みかけてくれていた。

「すみませんでした……。僕は、僕は、遥花さんを守れませんでした。最後まで、そばにいたのに、いつまでも、そばにいるって約束したのに、僕は遥花さんを守れませんでした……。すみませんでした。すみ、ません、でした」

 最後の方は、嗚咽混じりになってしまった。そんな僕の肩を抱いて、永井のお父さんは、涙で赤く腫れた目を、潤ませながら笑ってくれた。

「遥花は、君のことをいつも私たちに話してくれていたんだ。君から好きだと言ってもらえた日には、もう眩しいほどの笑顔だったんだ。遥花は、本当に君のことが好きだった。父親としては、それが、寂しくもあり、少し悔しかったんだがな。でも、遥花がこんなにも誰かを好きになってくれて、嬉しかった。そして、遥花の最後の一瞬が、遥花の大好きな人といっしょでよかった。遥花は、君を選び、君といられて幸せだった。最後の最後で君といっしょになれて、絶対に、幸せだったんだ」

 永井のお父さんは、そう言い終えると、一滴だけ、涙を流した。自分の言葉に自分で頷くように、お父さんは首を何度も縦に振った。永井のお母さんは、そんなお父さんの背中をなでで、僕に言った。

「遠野くん。本当にありがとう。少しだけでもいいから、遥花のこと、覚えていてくれると、嬉しい。そんなの親のわがままだって、分かってるんだけどねえ。遥花はきっと遠野くんのことは忘れない。だから、あなたも、少しだけでもいいから、たまにでもいいから、遥花のこと、思い出してくれると、嬉しいの」

「はい……。忘れません。絶対に、忘れません。できることなら、もう一度……」

 そこから先は、もう声にはならなかった。いや、言葉にして永井の両親に言ってはいけない言葉のような気もした。どちらにしても、「もう一度会いたい」という言葉は、嗚咽にまぎれて僕の心の中に刻まれていった。


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