第三章 花火大会③
二年一組の教室に入る。窓際の前から三番目、永井の机で、永井は常盤くんと話をしていた。常盤くんの頬がほころんでいるのが、遠目からでも分かる。いつも何かを分析するような落ち着いた目をしているのに、常盤くんの眼鏡の奥の瞳は、嬉しそうに垂れ下がっていた。
そうなのだ。永井を好きなやつは僕以外にも、いる。時田だって、そうだ。好きな気持ちがあれば、きっと、その人は、永井を守ってくれる。だったら、永井といっしょにいるのは、僕じゃなくたって全く構わないじゃないか……。
そして、僕が永井から遠ざかることで、永井を守れるなら、それはきっと、素晴らしいことなのだ。
僕は真ん中の列の一番後ろ、自分の席に腰をおろした。「ふうー」と胸の奥から長いため息がこぼれると、その音を聞き取ったかのように、永井が僕の方を振り返った。にこにことした表情で手を振ってきて、嬉しそうに席を立つ。
「遠野くん、おはよ」
「お、おはよう」
どう対応しようか迷っていたら、ぎこちない挨拶になってしまった。
「あのね、合宿の日にち、決めたんだ。八月の二日から五日の三泊四日にしようかなっって」
永井は目を輝かせながらぐっと拳を握りしめて、顎を持ち上げた。永井の嬉しそうな表情に、僕の頬はつい緩みそうになってしまう。が、僕はそれを何とか抑え、憮然とした口調で答える。
「うん。別にいいんじゃないかな、その日にちで。僕は大丈夫だから、他のみんなにも聞いてきたら?」
「うん、そうする。今日の放課後にでも聞いてみようかなあ。えっへん。何だか、部長さんっぽくなってきたでしょ」
永井は胸を張って、誇るように鼻をツンと持ち上げる。この前美紀に言われた「部長っぽい」の一言が、よほど嬉しかったのかもしれない。
僕は言葉を返すことなく、ゆっくりと目線を逸らした。廊下側の席にいた常盤くんと目が合う。常盤くんは僕をじっと見つめていた。
「遠野くん、私、部長さんっぽくなってきたかな?」
「……」
「遠野くん」
永井の二回目の言葉かけ。それでも、僕は永井を無視した。視線すら合わせない。
「……ねえ、遠野くん」
頼むから、話しかけないでくれ。僕は、心の中で祈った。僕は永井と話してはいけないのだから。
「遠野くん……」
不意に、制服の肩口をつかまれた。いや、つかまれたというより、指先でそっと摘まれた、という感じだった。永井の視線を感じる――顔を見なくても、分かる。きゅっという音が聞こえてきそうなほど、切ない指先の感触が、伝わる。
「遠野くん、最近、冷たい」
永井が悲しそうに俯く――顔を見なくても、分かるのだ、本当に、永井のことは。
「そんなことない。いつも通りだよ」
僕は、かろうじて、それだけ答えた。
「ううん、冷たい。冷たいもん」
永井の悲しそうな声に、僕は我慢ができなくなって、永井の顔を振り仰いだ。永井の目は、寂しそうにゆらゆらと揺れていた。
「永井……」
「遠野くん……」
僕はいたたまれなくなって、思わず席を立った。永井の指先が、静かに離れる。
「ご、ごめん。僕、ちょっと、職員室に用事があるんだった」
足早に教室から出て行った。廊下をどこへ行くともなく歩き続ける。永井の悲しそうな目は、いつまで経っても僕の頭から離れることはなかった。
終業式が終わって、お昼前には放課後となった。帰り支度をしていると、美紀と亮祐が二年一組の教室に入ってきた。
「一学期終わったあ! 誠太ちゃん帰ろうぜ!」
亮祐は元気よく手をあげながら、僕の席の横に来る。
「おう。ちょっと待って、教科書とかたくさんあってさ、整理するの大変なんだ」
僕は机の中に入っていた教科書やノート、参考書をリュックに詰めながら言った。対して、亮祐の背負っているリュックは厚みもなく、何も入っていないことが一目瞭然だった。頭の後ろで手を組みながら、亮祐は間延びした声を出す。
「誠太ちゃんは偉いよなあ。俺なんて、ぜーんぶ、学校に置いてきちゃうけどなあ」
「宿題とかやるのに、教科書あった方が便利だろ。その辺、亮祐は大丈夫なのか」
パンパンになったリュックを背負って、僕は立ち上がった。肩にずしりとした重さが伝わってきて、「おっとっと」とよろけてしまった。
「誠太ちゃん、大丈夫かい。ちなみに、俺は大丈夫だよ。宿題は今年も今野に見せてもらうし」
亮祐は余裕たっぷりに微笑んでVサインを作る。と、僕の隣の机に後ろ手をついていた美紀は、「いや、見せないから。自分でやりなさいよ」と亮祐を一蹴してしまった。
「えええ? 去年は見せてくれたじゃんかよお……」
「ふーん。覚えてない」
「今野お……」
「はるちゃーん、早く帰ろうよー」
涙目になっている亮祐を置き去りにして、美紀は席に座っていた永井の後ろ姿に声をかけた。
「あ、うん。ちょっと待ってー」
永井は椅子から立ち上がって軽く振り向きながら答える。さっきまでぼーっとしていたのか、慌てて机の中からノートを取り出していた。
「亮祐、どうせ今回も成績悪かったんだろ」
永井を待っている間、僕は亮祐に声をかけて、いたずらっぽく笑った。亮祐はしょぼんと顔を下に向けて黙ってしまう。
「なんだ。落ち込むほど悪かったのか。そうなる前にちゃんと勉強しておこうな」
「うう。……ごめんなさい」
先生に怒られている子どもみたいだ、と僕は亮祐を見てくすりと笑う。
「っていうかさ、誠太、聞いてよ」
美紀が笑いながら僕に声をかけた。
「亮ちゃんさ、夏休みの宿題のプリント見ながら、『質量保存の法則』ってなに? とか聞いてくるんだよ。私、信じられなくて唖然としちゃった。それも分からなくてよく理系のクラスに進もうと思ったよね。まあ、私も人のこと言えないけど、それでも『質量保存の法則』なんて、中学生で習う内容じゃん」
「今野お。やめておくんなましー」
亮祐が泣き顔で美紀のリュックサックを引っ張った。駄々をこねる小学生みたいだな、と僕はまた笑う。美紀は亮祐を無視して、意地悪そうな微笑みを見せた。
「ちなみに、誠太は『質量保存の法則』分かってるよね?」
「もちろん、分かってるよ、」と答えようとしたところで、僕たちの輪の中に永井がひょっこりと顔を出した。
「『化学反応の前後で質量の総和は変わらない』。それが、『質量保存の法則』だよね」
「はるちゃん、大正解! さすがだねえ」
「えへへ」
「文系のはるちゃんでさえ分かってるのに、亮ちゃんときたら……」
「さ、さあ、帰ろう! 今から夏休みじゃー!」
亮祐は、美紀の視線を引きつった顔でかわし――全然かわせてないが――手を思い切り天井に上げて廊下に向かって歩き出した。
僕と美紀と永井の三人は、顔を見合わせてくすりと笑った――僕は永井には顔を向けることはできなかった。僕たちは、亮祐のあとを追って教室を出た。
夏休みが、始まる。




