第二章 この世界⑦
巡川駅の近くにあるコンビニエンスストアに寄ってもらった。そこで、僕と美紀はビニール傘を買った。
巡川駅に着くと、僕と美紀と永井の三人は、二番線乗り場に、亮祐は一番線乗り場に分かれた。丁度来た電車に乗り込んで、僕たち三人は帰路に着く。電車の中は混んでいて、二人分しか座る席がなかったので、美紀と永井が座って僕は吊革につかまることにした。
「やっぱり、傘差してても足元は濡れちゃうね。ソックスもぐっしょりになっちゃた」
僕が立っている目の前のシートに腰掛けた永井は、ハンカチで膝の辺りを拭いていた。確かに、ウサギの絵柄がついた紺色のソックスも、じっとりと濡れていそうだった。
「ちょっと、誠太。あんた、どこ見てんの。はるちゃんのスカートの中見ようとしてたでしょ。いやらしい」
美紀が冷たい目を向けてくる。
「え。いや、本当に濡れてるなあって思っただけだよ。ねえ、永井」
「うふふ。遠野くんもエッチなこと考えるんだあ」
永井は目を細めていたずらっぽく、にこりと笑った。
「はるちゃん、気をつけてよ。誠太のやつ、何考えてるか分からないから」「あはは。そうだね、気をつけるよ。今野さんも、注意してね」「そうだね。まあ、私のは見られないからいいけどね」「そうなの?」「うん。誠太は私には興味ないから」「そんなことないと思うよ。遠野くんも男の子なんだから」「それって、誠太も男だからエッチだってこと?」「うーん、そうかもね」「あはは、はるちゃんも言うねー」「そんなことないよお」。
美紀と永井が「あはは」と笑い合う。どうして僕が変態扱いされなくちゃいけないんだ……。でも、永井の笑顔がこんなにも近くにある、それが、嬉しかった。
僕の腕には、さっきまで相合傘をしていたときの永井の体の感覚が残っていた。温かくて、小さくて、いじらしい感覚――付き合っていたころの、手をつないだときの感覚を思い出す。
守りたい、永井を。僕が永井を守らなければならない。それが、未来の永井への贖罪だ。永井を死へと向かわせる原因が僕ならば、永井を生へと向かわせる責任も、僕にある。いや、責任とか罪とか、そういうことじゃない。僕は、永井に、生きていてほしいのだ。一年後の四月。僕と永井の世界は壊れる。さくらが散るように、音もなく静かに壊れる。守る。僕の世界ではなく、永井の世界を。
もしもこの世界に神様がいるとしたら、僕は静かに手を合わせて、そう誓うだろう。
途中のさくら台駅で永井が降りた後、美紀が、ふうっとため息をつきながら、言った。電車の窓には雨が一段と強く打ち付けている。
「『タイムループ』、ね。本当にそういうこと、あるんだねえ。何か、変な感じ」
美紀は座席に座って、視線を虚空に投げ出していた。これから起こる、過去の出来事に思いを馳せているのかもしれない。
「うん。本当に、ね」
「でもさあ。変だとも思わなかった? いくら『タイムループ』してきたからって、どうして常盤は、あんなに色々なこと知ってるのよ。亮ちゃんが『タイムループ』していないって、常盤のやつ、亮ちゃんと会ってないじゃん」
言われてみれば、確かに、そうだった。常盤くんの穏やかな表情を思い浮かべる。僕は常盤くんの言葉をまるっきり鵜呑みにしてしまっていたが、もしかしたら、まだ何かあるのかもしれない。
「これから、何が起こるんだろうな。過去に起こったことと、全く同じことが起こるのかな……」
「かもしれないし、そうじゃないかもしれない。神様じゃないんだから、分からないよ」
電車は走り続ける。電車の揺れの中で、僕は、電車と時間の動きは似ているのかもしれない、なんてことを考えた。生まれたときが始発駅、死ぬときが終着駅。僕は、この道のりの、どの辺りにいるのだろう。どうやら気がついたら、一つ前の駅へ戻されていたみたいだけど。
「しっ、かし、なあ」
美紀が、うーんっと伸びをして口を開いた。
「亮ちゃんの相手するの面倒くさかったあ。いちいち、全部つっこまないといけないんだもん。というか、意味の分からないつまらないことを、亮ちゃんは言いすぎるのよね」
「はは、でも、亮祐、すごく楽しそうだったよ。何の話してたの?」
「ほら、亮ちゃんと昨日駅で会ったじゃない。そのときのやり取りについてよ。『どういう意味だったか教えてくれー』って」
「ふーん。何て答えたの?」
「答えようがないじゃない。だから、『別に』、とか『何でもない』とか答えてたんだけど、その度に、『今野可愛いから教えてよお』とか『あれは、昨日の出来事だった。そう、未知なる未来への入り口にすぎなかったのだ……』とかわけ分からないことしか言わないんだから」
「あはは、亮祐らしいや。でも、そこが亮祐のいいところだよね。僕は、亮祐のそういう面倒くさいところ、好きだなあ」
「誠太と亮ちゃんって、何かすごく仲良いよね。だったら、私と代わってほしかったくらいだよ」
「でも、美紀との相合傘、亮祐はすごく嬉しそうだったよ」
「何よ、急に」
「別に。ただ、亮祐、本当に嬉しそうな顔してたから」
「知ってるよ、そのくらい」
「亮祐が傘を差してくれていたおかげで、美紀も濡れなかったでしょ? 亮祐の右肩、びしょびしょになってたもんね」
「それも、分かってるよ……」
「亮祐はさ、本当に美紀のことを大切に思っているんだよ。口や態度ではあんな感じだけど」
「……知ってるって」
「美紀はさ、亮祐のこと、どう思ってるの」
「……どうだっていいじゃない。そんなこと」
「亮祐は、あれで優しいやつだからさ。美紀も、もう少し亮祐のこと、考えてあげてもいいんじゃないかなあ」
「うるさい! もう喋んな! バカ!」
美紀の声が、雨の音にも負けないくらい、電車の中に響いた。
電車を降りて、改札を抜けた。ビニール傘を差して僕と美紀は家に向かって歩き出した。美紀はしょんぼりとした様子で口を開いた。
「さっきは、ごめん。急に大きな声で怒鳴って」
「ううん。僕の方こそ、ごめん。悪かったよ」
その後、美紀が何か言ったような気がしたが、雨が地面に叩きつける音が大きくて何も聞こえなかった。本当に、強い雨だ。視界も悪い。
しばらく歩いていると、隣に美紀がいなくなっていることに気づいた。慌てて辺りを見回すと、美紀は僕の五メートルほど後ろでビニール傘を差して、じっと前を――どこと言うこともできない前を、見ていた。
「どうしたの? 美紀」
五メートル後ろと言えども、この大雨だ。声を張り上げないと、言葉が届かない。地面に打ちつけ、傘を揺らし続ける雨。地鳴りのような轟音が、空気を揺らす。車が一台、車道を通り抜けていった。ライトが、僕たちの側を走り抜けていく。
「私ね」
美紀が口を大きく開いた。けど、雨の音でうまく聞き取れなかった。
「え? 何?」
「私ね! 決めたことがあるの!」
今度は大きく息を吸い込んで、叫ぶように言った。美紀のポニーテールが、左右に細かく揺れた。
雨にも負けない澄んだ声だった。力強い声でもあった。だから、心にも届く声だった。
「この世界が一年前の世界なら。私は、一年後の世界を変えたい! お母さんといっしょに生き続ける! 変えたい、変えてみせる! それが、私が今、一年前の世界にいる意味だと思うから!」
雨の向こう側で、美紀は真剣な顔で僕を見つめる。
「僕も!」
「うん!」
「僕も、変えてやる! 永井のことを守りたい!」
「惚気るな!」
「好きなんだ! 永井が!」
「知ってる!」
雨が傘を鳴らし続ける。雨粒の音と心臓の鼓動の音が重なった。この雨の向こう側には、きっと、太陽の光がある。陽射しがあれば、虹もかかるだろう。そう信じて、僕は美紀といっしょに雨の中を走り出した。




