第二章 この世界⑥
文芸部の部室を出たのは十八時過ぎだった。お昼過ぎに降り出した雨は、時間とともに雨脚が強くなり、部活中もずっと窓ガラスを叩く音が部室に響いていた。考えてみれば、今日は六月二十五日で、梅雨真っ只中である。
「雨、強いねえ」
北棟の昇降口におりると、永井は息をはくような口調で言いながら、傘を差した。赤色の可愛らしい傘だった。
「あーめ、あーめ、ふーれ、ふーれ、美紀ちゃんがー」
ビニール傘を差しながら、でたらめな節回しで、でたらめな歌を歌って昇降口を出たのは、亮祐だ。
「何なのよ、その歌。あーめ、あーめ、ふーれ、ふーれ、かあさんがー、じゃないの?」
美紀も僕も、傘を持ってくるのを忘れていて、外に出ることができなかった。昨日、天気予報を見るのを忘れていたのだ。タイムスリップ――『タイムループ』のことで頭がいっぱいで、次の日のことにまで気が回らなかった。
「あれれ? 今野も誠太も、どうかした? 早く帰ろーぜ」
亮祐がくるりと傘を回して小首を傾げた。
「うるさい。今行くから」
下駄箱の前で美紀が地団駄を踏むように言った。
「あっ、分かった! 今野も誠太も傘忘れたんでしょー。もう、しょーがないなあ。今野は、俺の傘入りなよ」
「……じゃあ、入れてもらう」
美紀は嫌がりながらも、濡れて帰るのはもっと嫌だったのだろう、しぶしぶと亮祐の傘に入った。美紀も、亮祐のことが嫌なわけではないのだ。
「じゃあ、誠太ちゃんは、はるちゃんの傘に入れてもらいなよ!」
「もう……亮祐くんったら」
永井は、赤い傘の下で俯きながら頬を赤くさせて「と、遠野くん。どうする?」と僕を上目遣いに見つめた。
「じゃ、じゃあ、お邪魔させてもらおう、かな」
僕が頬を人差し指で掻きながら答えると、永井は昇降口まで僕を迎えに来て、傘の中に入れてくれた。永井の傘は小さく、肩と肩がぶつかるほど近づかないと雨に濡れてしまいそうだった。
「ごめんね、遠野くん。この傘じゃ、狭いよね」
「そんなことないよ。入れてくれてありがとう。あ、僕が傘持つよ。僕の方が背高いんだし、入れてもらってるんだから、このくらいしないとね」
「うん。ありがとう」
永井から傘を受け取った。一瞬、永井の指先が僕の指先と触れ合った。見上げた永井の瞳の中に、僕の顔が映りこむ。
校門を出て、僕たちは、巡川駅へ向かって歩き出した。
「永井、ごめんな」
横断歩道で赤信号を待っている間、僕は永井に今朝の教室での出来事を謝った。
昨日、僕が永井に抱きついたことで、クラスのみんなから僕と永井は付き合っているんじゃないかという噂をたてられてしまったのだ。常盤くんの言うとおり、一年前の『この世界』では、僕は永井とは付き合っていないのだから。
「ううん。遠野くんは、気にしないで。噂話とか、好きな子たくさんいるもんね。勝手に騒いで、勝手に盛り上がってさ」
「そうだけど。永井にも、嫌な思いさせちゃって……」
「本当に気にしないで。それに、噂をたてられたくない人とだったら、困るけど、その、遠野くんと、だったから、あの……」
胸が鳴った。僕は思わず照れてしまう。このとき――二年生の梅雨時――永井はすでに僕のことを好きになっていたのかもしれない。
永井の肩が傘を差している僕の腕に寄り添う。永井の小さな体を感じる。一年後のことを思い返す。幸せだった。ずっといっしょにいたいと思った。でも、永井は死んでしまった。今、僕は永井の隣にいられる。それがたまらなく嬉しく、その嬉しさが、これから起こるであろう事件に思いを向けさせる。
このまま、前と同じように永井と恋人同士になったら、また永井は死んでしまうんじゃないか……?
「どうしたの? 遠野くん」
「ううん。何でもないよ。ちょっと、考え事をしていただけ」
「そっか」
雨は降り続ける。僕の右肩は、雨でびっしょりと濡れてしまっていた。それに気がついて、永井は心配そうに僕を見上げる。
「遠野くん、肩、濡れてるよ。傘、もう少し、遠野くんの方に向けても大丈夫だよ」
「それこそ、大丈夫だよ。それよりも、永井が風邪引いたら、僕はそっちの方が心配だから」
僕は永井の目を見てにこりと微笑んだ。永井は、照れたように俯いて、頬を淡いピンク色に染めて、「ありがとう」と言った。
後ろでは、亮祐が楽しそうに美紀とお喋りをしていた。雨の音に紛れて会話の内容までは聞き取れなかったけど、亮祐の右肩も、僕と同じように濡れていた。
相合傘、濡れている方が、惚れている。
どこかで聞いたことのあるような句を心の中で諳んじて、僕は前に向き直った。今朝の常盤くんとの会話を思い出す。
「常盤くんも、タイムスリップしてきたって……。本当?」
「はい。タイムスリップではなく、『タイムループ』ですが」
常盤くんが僕の言葉を即座に言い直す。
「名前なんて、どっちでもいいじゃない。とりあえず、未来から過去に来た、ということでしょ」
部室の壁によりかかっていた美紀は、背中を起こしながら常盤くんに体を向けた。
「名前は大事ですよ。そこにはちゃんと意味があるんですから。言葉が違えばそれは違うものを差していることになりますよ」
「あー、はいはい。頭いい人はすごいねー」
「今野くんのその性格、何とかなりませんか……」
美紀と常盤くんは、本当に相性が悪いみたいだ。美紀も常盤くんも、それぞれ優しい人なのに、二人が揃うとちぐはぐになってしまう。
「まあ、常盤くん。ここは、幼馴染の僕に免じて許してあげて」
僕は苦笑いで常盤くんにお願いした。常盤くんも苦笑いを返し、「……分かりました。それでは、話を先に進めます」と言った。
太陽の光は、完全に雲に隠れてしまったみたいだった。電気をつけないといけないほど、教室の中は暗くなっていた。
「遠野さんと今野くんは、一年後から『タイムループ』してきたみたいですが、私はもっと未来から来たんです。私は、当時四十五歳でしたから、もう二十九年後ですか……」
「すごい未来から来たんだね……」
驚いて僕が言うと、美紀も常盤くんの話しに反応した。
「ふーん。三十年後かあ。私たち、そのときには何をしてるんだろう……。ね、常盤。私と誠太って、大人になったあと何をやってるのかなあ」
美紀の言葉に、常盤くんは一瞬何かを言いかけて、口をつぐんだ。僕は不思議に思って、常盤くんに尋ねようとしたけど、その前に常盤くんは口を開いた。
「どうなんでしょうね。私には、分かりませんけど」
「え、だって三十年後から来たんでしょ? じゃあ、私と誠太も四十五歳になってるってことだよね」
「……その年になっても高校の同級生と連絡を取り合うことはしませんよ」
「まあ、それは、そうかあ。大人になるって、寂しいことだねえ」
美紀は残念そうに唇に指を当てて、しみじみと呟いた。
僕は三十年後の美紀の姿を想像して、一人でくすりと笑った。美紀のおばさん姿は、意外と悪くない。美幸さんみたいに綺麗なおばさんになっていそうだ。今よりも口はさらに悪くなってるだろうな、とも思うけれど。
「ねえ、常盤くん。タイムスリップと『タイムループ』って、何が違うの」
僕は常盤くんに尋ねた。常盤くんは「そうですね」と一呼吸置いて、答えた。
「タイムスリップは、自分の身体ごと、過去に行くものと考えてください。だから、私がタイムスリップしたというのなら、今、ここに四十五歳の私が立っていなきゃおかしいわけです。対して、『タイムループ』というのは、自分の意識だけが過去に行って、過去の自分の身体に宿る、とお考えください。だから、今のあなたたちの身体は、一年前のあなたたちの身体ですが、記憶や性格など、意識だけは一年後のあなたたちのものです」
なるほど、確かにタイムスリップ映画とかは、身体ごと過去に行ったり未来へ行ったりしているもんな。僕の意識は、一年後から『この世界』へ『タイムループ』してきた、か。
「じゃあ、常盤くん。もう一つ聞きたいことがあるんだけど、いいかな」
「はい。私に答えられることであれば」
「亮祐は、タイムループしてないのかな? タイムループする直前まで亮祐もいっしょにいたんだ。僕と美紀だけタイムループして、亮祐だけしていないって、そんなことあるのかな? 昨日、亮祐と話したんだけど。亮祐、『タイムループ』前のこと、全く覚えていないみたいだったんだ」
沈黙が続いた。空気が蒸し暑く、重くなってきているのが肌で感じられる。
常盤くんは僕の顔をじっと見つめ、さらに美紀にも目を向けて、何かを言おうとしているのか、言うことを躊躇っているのか、分からなかったが、口が小さく動きかけて、でも、何も言わなかった。
「何か言いなさいよ」
美紀の声に促されるように、常盤くんは「あっ、すみません」と、頭を下げて、「そうですね」と答えて、続けた。
「亮祐さんは、タイムループしていないみたいですね」
常盤くんは、ゆっくりと、教科書を朗読するみたいに言って、「だから、亮祐さんと話すときは、できるだけ普通に接してください。もちろん、未来から来たなんてことを言っても不審がられるだけだと思いますけどね」と小さくぎこちない笑みを浮かべた。
それは、きっと、永井にも言えることなんだよな、と僕は常盤くんの話しを聞きながら考えていた。




