第一章 いつかの春①
桜の木が、グラウンド一面を、春色に染めていた。
指先を窓の上に置いて、グラウンドを見つめる。ガラスに添わせた指が、窓に映る桜に寄り添うように見えて、僕の頬もいっぱいの桜色に染まっていくような感じがした。
からからと窓を開ける。緊張しているのだろう、窓を開けた拍子に指先が震えて、かたかたとガラスの鳴る音がした。
春休み中ということもあって、グラウンドにも教室にも、誰もいない。物音もせず、ただ春の匂いと柔らかさが満ちている。静かに、静かに時が流れている。
「遠野くん」
戸口の方から永井の声が聞こえてきた。振り返ると、永井は、半分だけドアを開けて、遠慮がちに教室を覗いていた。
「永井、おはよう」
永井は、眉毛を恥ずかしそうに下げて、「えへへ。もうお昼すぎだけどね」と笑いながら教室の中に入ってくる。制服のスカートと柔らかな黒髪が、春の風にふわりと流れた。
「ごめんね、わざわざ呼び出して」
「ううん、大丈夫。春休みだからね、外に出ないと、私、一日中引きこもって本ばかり読んじゃうから」
「そっか、永井らしいね」
「あはは。それだと、褒め言葉なのかどうか分からないね」
永井は、首を傾けてにこりと微笑む。こめかみのあたりで前髪を横流しに留めた桜色のヘアピンが、春の日差しにきらりと光った。
「今日も、暖かいね」
「春だから、ね」
「遠野くんは、春って好き?」
「うん」
「私も」
永井の春色の姿に、僕の胸は、きゅっとしめつけられて、少し苦しくなって、だから何だか温かくもなった。
「ねえ、遠野くん。話したいことが、あるんだよね?」
永井はスカートの前で手をもじもじと動かして、うつむいた。その姿勢のままか細い声で言った。
「うん」
僕は震える手をぐっと握りしめた。でも、緊張で拳にうまく力が入らなかった。
「話したいことが、あるんだ」
たったこれだけの言葉なのに、僕の声は緊張で震えてしまった。けど、永井は僕の言葉を受け止めて「……はい」と頷いてくれた。
鼓動が速くなる。ドンドンと内側から叩いてくる。心臓が喉から出てきそうだった。
「僕は、僕は……」
うまく言葉が出てこない。一番伝えたい言葉だからこそ、一番口にできない言葉なのだった。
怖かった。どうしようもなく、怖かった。でも、伝えたかった。僕の気持ちを、永井に伝えたかった。
「僕は、永井のことが」
永井は、黙って僕の目を見て、僕の言葉を待っていた。ひたすらに待っていた。少しだけ、微笑んでくれているように見えるのは、気のせいだろうか。少しだけ、泣き出しそうな表情をしているのは、気のせいだろうか。
「永井のことが、好きです。ずっと、好きでした。だから、僕と付き合ってください!」
「ありがとう」
永井の瞳は、何度でも巡る春を映して、揺れながら滲んでいた。
「私も、遠野くんのこと、好きだったよ。ずっと、ずっと好きだったよ」
永井の瞳から、ぽろりと涙が転がって、そっと足元に落ちた。永井は泣きながら嬉しそうに笑っていた。
だから、僕の瞳もじんわりと温かくなって、永井を愛おしく思って、永井の涙を指先でそっと拭った。永井の涙も、やっぱり温かだった。
「永井」
「遠野くん」
僕も永井もその一言を発したきり、黙り込んだ。嬉しくて、恥ずかしくて――だから、僕は胸いっぱいの幸せを感じて、言葉なんていらないんじゃないかと思った。
きっと、永井も同じように思っているのだと思う。沈黙が、静かに喜びを伝えてくれる。そんな幸せの形があってもいい。だから、僕は思うのだ。永遠のように感じられるこの時が、永遠に続けばいいのにと。




