変身と謹慎、先輩と私
ある朝のこと。筒見すみれが夢から覚めると、全身が妙にだるい感じがした。
ただ起き上るのが面倒というだけではない、まるで自分が虫になって、さなぎか何かに包まれているかのような、本当に奇妙な圧迫感。ただでさえ変な夢を見て気分が悪いのに、それに追い討ちをかけるように体の不調が、体を起こす気をなくさせる。
(風邪引いちゃった……かな? いや、昨日はちゃんと温かくして寝たはずだし……)
全身のだるさが、目を開けることをためらわせる。暗闇で明かりのスイッチを探すように、もぞもぞと手を動かし体に触れると、毛皮か何かに触った感触があった。
(…………?)
それもまた、おかしな話だった。彼女が昨日、寝る前に着ていたのは、間違いなく綿素材のパジャマだったはずだ。
そして彼女の肌には、手に直接触られるくすぐったい感じ。服越しに触っているだけなのに、この感じは何だろう。まるで……そう、まるで。直接自分の体に触っているような。
(……え?)
初めて、だるさとは違う感覚が体に走った。そう、これは――悪寒。
その嫌な感じに、促されるように目を開く。うっすらと広がる視界。自室中に広がる朝の光に、自分の手をかざしてけ見てみる。……のはずが、そこに出てきたのは彼女の手ではなかった。パンダか何かの腕のような、白い毛皮に包まれた、太い獣の腕。なのに、なぜだろう。彼女の思う通りに、動く。握れ、と命じれば、先端の手の部分が、握り拳を作る……。
夢にしてもやり過ぎだ、と思った。たまらず飛び起き、両手を見る。……両手とも、毛むくじゃらだった。思わず触った肩も……胸も、ふっくらとした体毛に包まれている。
(……何これ…………どういうこと!?)
思わず周囲を見回して……視界に入った自室の窓に、彼女は見慣れない影を見た。大型の哺乳類のような、異様な影を。
……ごくり、と唾を飲みこんで、ベッドから出る。そして窓ガラスを凝視する。……彼女自身とは似ても似つかない、クマのような生物が映ったガラスを。そこに映っていたのは、まぎれもなく人外の存在で、そして……無意識のうちに顔を触ると、目の前の珍獣も同じように、顔を触ってみせた。
まるで……その珍獣が、彼女自身であるように。
「な…………なっ……」
もはや、思考が追いつかない。驚愕と、焦燥と。それら全てを吐き出すように、彼女は――
「何じゃこりゃぁぁぁーーーーーーっ!?」
――近所一帯に響くような叫びを、上げたのだった。
「……んでその後、両親を巻きこんでの、上へ下への大騒ぎだったってわけ?
くっくく……いやお前……本当、面白いな……」
心底愉快そうに、まるで漫才でも見ているかのように、目の前の少年の顔がにやけた。
その顔を不愉快そうに見つめながら、筒見すみれは――元・16歳の女子高生、現・クマと見紛うほどの大型哺乳類は、不機嫌さを露わにした。手元に携えたスケッチブックに、素早くマジックペンを走らせ、一通りの文章を書き出すと、それを少年に掲げて見せる。
(笑わないでくださいよ! いや本当、両親に説明するのにすらすごい大変だったんですよ? 笑いごとなんかじゃありませんから!)
「それにしたって『何じゃこりゃあ』はないだろうよ。お前それでも女子高生か」
目の前の少年はその文章に対し、まだ少し苦笑の残る顔で答える。
「……いや、大変なのはわかるさ。何てったって、姿かたちが一晩で激変しちまったんだからな。俺たちみたいな手合いならともかく、普通の人間サマがそんなことになったら、ひと騒動どころじゃ済まないだろうよ」
(……そうですよね……)
少年の言葉に対し、すみれは同意の文を書きつける。そしてそのまま、沈黙してしまった。少年はばつが悪そうに頭を掻くと、立ち上がって言う。
「悪かったな、笑っちまって。台所って玄関の右だったか? お前さえよければ、お茶淹れてくるけど」
(そんな! 先輩はお客さんですよ! 本当は私が用意しなきゃいけないのに)
「気にすんなよ。今の状態じゃあ、何をするにも一苦労だろ。
それぐらい俺にもわかるさ」
少年が笑顔を見せる。今度は柔らかい笑顔だった。
「そこに座って待ってろよ。うまくいけば、そう時間かけずに用意できるだろうから」
そう言って、先輩と呼ばれた少年は部屋を出て、階段を下りていった。部屋にはただ1人、すみれだけが残される。彼女は手元の、もう枚数があまり残っていないスケッチブックを見ながら溜息をついた。
――彼女が今の姿になってしまった日から、既に5日が経過していた。
結果を言ってしまえば、彼女が大型哺乳類になってしまったことは両親を大いに驚かせたが、しかしそれほど時間をかけずに受け入れられた。彼女はすぐに“専門の”医者の診察を受け、「薬では治せない」という診断を下された。そして今はこうして、自宅で療養という形をとっている。
こんな異常な事態に対し、そんな自然な流れでの対処がとられた原因は――彼女自身が、純粋なヒトではないからだ。彼女は“妖種”と呼ばれる、特殊な存在なのである。
妖種は、現代社会に生き残った妖怪であるといわれている。数百年・数千年前には実在し、大いに人間を畏怖させた妖怪は、しかし文明化した世界に対する適性をほとんど持っていなかった。
自然が消え、人工物に置き換わった世界で人間と共に生きていくうち、妖怪の力は衰えていき、ついに人間とそう大差ないまでになってしまった。
そんな状態で、異様な姿を晒していたところで、迫害の対象になるだけである。それを恐れた一部の妖怪は、人間の姿に化け、人間として社会の中で生きていくことを選択した。それがすみれたち、妖種の正体であるという。――教科書で一通り教わっただけの内容なので、どこまで正しいのかはわからないが。
いずれにせよすみれや、両親たちは普段は人間として生きているが、実は妖怪としての別の姿を持っている。そしてそのことを周囲に隠して生きているのである。……だが、稀に何かのきっかけで、突然人間から妖怪の姿に戻ってしまい、人間に戻れなくなってしまう妖種がいるという。彼女も話だけは聞いていたが……まさかそんな出来事が、自分の身にも起こるとは思わなかった。
薬で、この状態を治すことはできない。副作用の恐れのある薬を使うよりは、自宅で健康な生活を保ち、人間の姿に戻れるようになるのを待つ――それが、彼女を受け持った妖種の医者の診断だった。そのおかげで彼女は今、感染の恐れのある病気にかかったことにされ、自宅での謹慎を強いられているのだった。
当然、友人からの見舞いも厳禁である。クラスメイトから何通かのメールが届いたことがせめての慰めだったが、体が人間に戻らない以外はまるで健康なのに、人に会うでもなく運動するでもなく、1日中家に閉じこもっていなければならないのはなかなか退屈なことだった。……下手に外出して人間に目撃されるわけにはいかないので、当然ではあるが。
本当に、妖種の知り合いがいて良かった、とすみれは思った。そう――唯一の、妖種の友人。棍悟史先輩がいなければ、今の謹慎生活は、もっと退屈だったに違いないのだ。
「お待たせーっす。お茶持ってきたぜ」
扉を開けて、悟史が入ってきた。彼が差し出すお茶を受け取ると、すみれは少し考えこみ、そしてすぐにスケッチブックを取って書きはじめた。
妖怪化に慣れておらず、その状態で長く話すことが難しい彼女にとって、スケッチブックは手放せない必需品だ。その貴重な1ページを使って、彼女は書き、悟史に見せる。
(ねえ先輩。私たちどこで会ったか覚えてます?)
「何だ? 急に意味深な質問だな。……ああ、覚えてるとも。
あれは忘れねえよ。お前が川で溺れて、タヌキの姿で這い上がってきたんだ」
(タヌキじゃありません、ムジナです!)
そうスケッチブックには書いたが、しかし彼の記憶は確かだった。彼女と悟史が初めて会ったのは、近所の河原だった。気に入っていた帽子を川に落としてしまい、拾おうと川に入っていったすみれだったが、川が深くなっていることに気づくのが遅れ、危うく溺れかけたのだ。
やむを得ず彼女は、無我夢中だったが妖怪としての姿を現し、何とか泳いで岸に這い上がった。幸い、目撃者はいなかった。……この、棍悟史を除いては。
(あの時私、割と本気で先輩を消そうとしてました)
「怖ぇこと言うんじゃねえよ! 気持ちはわかるけど。
まあラッキーだったよな、偶然見てたのが身内でさ」
(ええ。まあ、先輩が本当に妖種だってわかるまでは、生きた心地がしませんでしたけど)
だが結局、悟史も妖種という仲間であることが判明した。人を化かすタヌキの妖怪“ムジナ”の一族であるすみれに対し、悟史はキツネ妖怪の一種“妖狐”。お互いに人間の中に1人ぼっちだと思ったまま、同じ学校に通っていたのだ(といっても彼の学年は1つ上なので、気づかないのも当然だが)。
血統は違えど同じ妖種である2人は、その事件を経て友人となったのである。……もっとも。
「さっきからお前を見ていて、1つ思ったことがある」
(何です?)
「お前のそれ、何かに似てると思ったんだよな。
……あれだ、ほら、男の子が女の子になっちゃうあの少年漫画に出てくる、
プラカードで会話するパンダ親父だよ」
「……………………」
「痛っ! こら、その状態で叩くんじゃない! 力強くなってるから!
痛いんだから、マジで!」
基本的に口が悪く、デリカシーもない、そんな悟史のことは、これまで大して気にしてもいなかったが。
いくら妖種とはいえ、普段は人間として生きているのである。友人は人間のクラスメイトで事足りるし、何より同性の方が気が楽だ。だからこれまで、悟史とこうしてちゃんと会話する機会はあまりなかった。
それがこうして、非常事態ともなると妙に親密になってしまうのだから、人生というのは奥深いものだ。
そんなことを考えながら、すみれは悟史と他愛のない会話を続けるのだった。
そうして彼は、夕飯時になる前に帰っていった。次は菓子でも持ってくる、と言い残して。
事実、3日後に彼は菓子折を持ってやって来た。そしてその2日後にもう一度、彼はここに来た。だから思っていたのだ。彼のおかげで、この退屈な日々を少しはマシに過ごせると。……なのに。
指を突き出して、カレンダーをたどる。最後に彼が家に来たのが月初めの2日で……1週間、2週間たち、今が18日。
つまり2週間と2日、彼は姿を現していないことになる。
「……はぁ…………」
体の力が抜けて、すみれはベッドに倒れこむ。平時ならぽすん、程度で済むはずが、ずしん、という揺れが走った。
(……いけないいけない。
もう1ヶ月経つんだから、体の変化に慣れないと……)
そんなことを考えながら、すみれはもう一度起き上った。
夕日が差しこむ部屋の中、季節の花を描いたカレンダーの傍まで歩き、それをもう一度たどりながら、この1ヶ月何をして過ごしていたのか思い出す。
謹慎生活。最初のうちは、割とノリノリだった。この緊急事態を、ポジティブに捉えようと考えたのだ。
普段見られないお昼の番組を見まくったり、気になってはいたけれど手を伸ばしていなかったサイトに行ってみたりした。でもそのうち、だんだんと飽きてきた。……ちょうど、悟史が様子を見にやって来た頃だ。
その後は方針を変更して、買ったものの読む気が起きず、本棚に積んだままの小説に手を出した。たくさん読んで、やはり普段なら書かないブックレビューとやらを投稿してやろうと考えたのだ。
……しかしそれも、あまり長続きしなかった。格別読みたいと思っているわけでもない本を何冊も読むのは、やはり気が重い。
特に『変身』というドイツの小説が彼女は気に入らなかった。ある日いきなり毒虫に変わってしまった男と、彼を持てあまし結果的に死に追い込んだ家族。まさか自分も外に出たらあんな風に、冷淡な扱いを受けるのだろうか、と考える。……考えただけでも、ぞっとした。
ゲームも、それなりにやってみた。親戚が譲ってくれたゲーム機とソフトがあるのを思い出したのだ。しかしもともとゲーム音痴な上、慣れない体つきになってしまった彼女にはどうにも馴染みづらい代物だった。
アクションRPGというジャンルのゲームは、しばらくプレイした後断念した。ちゃんとプレイできたのは、コマンドだけでバトルをする型のRPGと、ミニゲーム集。しかしミニゲームもすぐに飽きた。RPGもクリア自体はしたものの、2周目に行ったり、やりこんだりする気はあまり起きなかった。
……結局、彼女にとって一番の過ごし方は、目一杯自室で眠り、起きたら両親のいない家で、テレビでも見つつ適当に過ごす。そこに尽きたのだ。
時々、親に頼まれた家の中の掃除をしたり、学校の勉強が遅れないように、教科書や友達が送ってきてくれたプリントに手をつけたりする。母親が帰ってきたら、彼女と話しつつ夕飯の準備を手伝う。それだけでも、なかなか気は紛れた。
……だが。しかし。
そういう無難なやり方にも、限界というものがあった。暇な時間が、長すぎる。
テレビを見ていると少し時間の流れが早くなるのだが……どこを見ても面白い番組がやっていない、あるいは不愉快な番組に当たってしまった場合、テレビを消した後の何とも言えない空気が、彼女は嫌いだった。
(お風呂で気晴らししようとしてもなぁ……見ちゃうんだよなぁ、洗面所の鏡。
アルフォンス・エルリックは好きだけど……何で私自身がアルの鎧に激似な姿にならなきゃいけないんだか……)
すみれは深く、溜め息をついた。どうにも、退屈だった。そしてここまで退屈で気が滅入っているのに、悟史が一向に来る様子がないというのが、また腹立たしかった。
一応、この2週間の間にも、メールのやり取りはあった。その中で、次はいつ来るのか、それとなく聞こうとした。しかし最終的に、彼が何も言ってくることはなかった。
ただの世間話。……ただの気晴らし。
そう、彼がここに様子見にやって来たのも、退屈な日常に降ってわいた、面白い出来事に乗ってみようと思った、それだけのことだったのだろう。
(何かホント……いろいろ、しょうもないよな…………。
…………っていうか私……本当にしばらくしたら、元に戻れるのかな……?)
問いかけても、誰が答えてくれるわけでもない。ただ時間だけがじりじりと過ぎていく。
すみれの頭に浮かぶのは、多様な妄想。もし彼女がずっとこのままだったら、両親は何と言うだろう。それ以前に、彼女自身の人生は?
友人たちは詳細不明の病気でフェードアウトする彼女に見切りをつけて、彼女がいたことを忘れるかもしれない。
……きっとそうだ。先生も、先輩も、多分同じ。
そして続く、自宅での謹慎生活、というより軟禁生活。彼女はそれに耐えられるのだろうか。
……もしかしたら途中で頭がおかしくなりそうになって、この姿のまま外に飛び出すかもしれない。そうしたら、彼女はどうなるだろう。
クマのような異様な生物が闊歩する姿に、周囲の人間はきっと怯えるだろう。向けられる恐怖の視線。威嚇射撃や、保健所による捕獲作戦。
……そしてその後、人間に捕らえられるにしろ、妖種の側に保護されるにしろ、多分彼女は一生、外には出られない。
すみれの頬を、一筋の涙がつたう。
――嫌だ。そんな結末は嫌だ。私は生きたい。人間としてちゃんと生きたい。
だが彼女に、今の自分の現状をどうこうするだけの力はない。彼女自体の意思は関係ない。
彼女の身体に致命的な欠陥があった場合、その欠陥が、彼女の人生を決めてしまうのだ。
(……いや、駄目だ。…………そんなこと言ってたって、意味ない。
…………私にはどうにもできない。もう、運に任せるしかないじゃない…………)
そんな風に、投げやりに思って目を閉じる。全身の気だるさが、ちょうどすみれの意識を眠りに近いところまで落としてくれる。それを少し心地よく思いつつ、彼女は考えるのをやめて――
――唐突に鳴らされた玄関のチャイムが、その静かな時間を終わらせた。
親からは、妖種以外のヒトがセールス等の目的で来た場合、無視していいと言われている。だからすみれはベッドに寝転んだまま、居留守を決めこんだ。
だが……彼女がそこにいるのを知っているかのようにもう1度、そしてさらにもう1回、玄関のチャイムは鳴り響いた。
そして――充電器に繋がったままの携帯に、メールの着信。狙い澄ましたようなタイミングに驚きつつ、携帯をとると、そこには「棍先輩」の表示が浮かんでいた。
(……え、今更…………どういうこと?)
困惑しつつも、メールを開ける。そこには、
「棍だ。今外にいる。
周りに人はいなさそうだし出てきてくれ」
と書かれていた。
もう意味がわからない。しかし悟史が今戸口にいることだけは確実だ。すみれは、机の上のスケッチブックを掴んだ。
慣れない動きで階段を下り、音を立てないようそっと玄関の扉を開けて、外の様子を見る。そこには確かに悟史が立っていた。無造作に整えた髪に、着崩した制服。いつも通りの彼だ。
(何の用です。こんな時間に今更来られても困るんですけど)
「……家に閉じこもってばかりじゃ、気が滅入るだろうと思ってな。ちょっとした憂さ晴らしを用意してきた」
悟史はいつもと同じ半笑いの、しかし妙に真剣味のある表情で言った。
「今から出かけても構わないか? ……バレない用意は、ちゃんとしてある。その点は心配しなくていい」
そう言って、門の外を指さす。そこには、なぜか白いワンボックスカーが止まっていて、その運転席にいる女性が、こちらに向かって手を振っていた。
(……誰ですあの人。先輩の知り合い?)
「母親だよ」
「……!?」
驚愕するすみれを尻目に、悟史はその女性に素っ気なく手招きする。一方の女性は手早く車から降りてきて、悟史の傍に並んだ。目が大きく丸いところが特徴的だったが、その点以外の顔立ちは割と悟史に似ていた。悟史の母親というのもわからないでもない。
「あなたがすみれちゃん? 悟史がお世話になってます!」
(は、はあ……)
「いや、この子最近、全然あたしと話しないんだけどね。あなたのことに関しては、ちゃんとあたしにも、話してくれるのよ。
それで今回、たっての願いで、車で会場まで送ってくれって言うでしょ? こりゃ、やるしかないなーと思ってさ」
「おい……しょうもないことをべらべら話すなよ……」
上機嫌な女性とは反対に、悟史はどこか苛立たしげだ。その反応がいかにも思春期の息子といったところで、すみれは思わず面白い、と思ってしまった。
(え、えと。ご用件は何となくわかったんですけど……一体、どこへ行くっていうんです?)
「ここだ。……市内だからちゃんと、夜までには戻ってこれるし、この地図を残した上で連絡すれば、お前の親御さんも余計に気を揉んだりせずに済むはずだ。
……まあ、心配はするかもしれんが」
そう言って、悟史が差し出してきたのは1枚の地図だった。……どうも場所は、市内にあるスタジオらしい。そこでイベントが開催される。
イベント名は……「妖たちの宴 ―ウィキッド・ナイト―」。
(何ですか、コレ)
「名前は気にするな。パーティみたいなもんさ、ただし妖種限定の、だが」
悟史はそう言って、すみれを見る。
「行きたくないっていうなら、それでも構わないさ。お前次第だよ。
……さ、どうする?」
「……………………」
その問いに、まるまる1分ほど思考を費やした後――
すみれはようやく、一つ頷いたのだった。
すみれがスタジオの扉を開けると――そこは、ワンダーランドだった。
大音量で流れるディスコ調音楽の中、大柄な犬――のような姿の妖種が吠え、巨大な壁――のような姿の妖種がゆっくりと移動し、その足下を、鋭い爪を持つイタチ型の妖種が素早く走り抜ける……そんな異様な空間が、目の前に広がっていた。
この空間を、正確に言葉で表現するならば――百鬼夜行。この4字しかないだろう。そんな日常とはかけ離れた光景を、すみれは呆気にとられ、黙って見ているしかできなかった。
――まさか、地元にこれだけの数の妖種がいたなんて。
「驚いただろ。……俺も前に行った時はそうだったさ。
お互いが秘密主義にしているからなかなか気づけないだけで、意外と周りに、同類はたくさんいる。そのことに、前回気づかされたんだよ」
悟史はそう言って、すみれに目配せしつつ、人間の姿のままたくさんの妖種の間を縫って歩いていく。すみれは慌てて、その後に続いた。
悟史が案内する、その先には1人の河童がいた。頭に皿。全身は緑。しかもテーブルに乗せたきゅうりの盛り合わせをかじっている。その河童に、悟史は挨拶する。
「高見沢さん、お久しぶりです。前回はどうもありがとうございました」
「お、悟史くんか。ちゃんと今回も来てくれて、ありがとうよ」
高見沢さんと呼ばれた河童は、流暢に言葉を話した。話し方や態度から察するに、そこそこ年配なのだろうか。
「えーと、そこにいるのは例の子か。確か名前は……」
「筒見すみれです。学校の後輩。
……ちょっと今、人間の姿に戻れなくなって、困ってるみたいなんです。
外出もできない感じだったんで、家族に協力してもらって連れ出してきました」
「ほう、なかなか大胆なことをやるじゃないか」
高見沢は目を細め、にやりと笑った。
「あ、そうそう。この間話に出たバンドだけどね、メンバーを1人呼んでこれたよ」
「本当ですか!?」
「本当だとも。今、あそこに1人でいるから、話をしてくるといい。
……彼女のことは心配するな。君が帰ってくるまでの間に、僕が説明を済ませておくから」
「あ、はい……お願いします」
そう言って、悟史は高見沢の指した方向に歩いていき――その途中で、炎のような光を発し姿を変えた。全身を彩る、くすんだ金の体毛。ひょろりとした体に、大きな耳。すみれも何度かは見たことのある、妖孤の姿になったのだ。
「……えーと、すみれさんだっけ?」
不意に高見沢が話しかけてきた。すみれは慌ててスケッチブックを取り出す。
(は、はい)
「ああそっか。まだ発声に慣れてないのか。まあその年じゃあしょうがないかな。
……僕は高見沢洋平。このパーティの主催者だ。このパーティの目的は、この辺りの地域に住む妖種の交流を深めることにある。
今、妖種同士のネットワークなんてほとんど残ってないからね。この情報革命の時代に、随分お粗末な話だが」
(私、知りませんでした。この地域にこんなにたくさん、妖種のひとたちがいるなんて……)
「そうだね。みんな正体がバレることを警戒してる。
そんな状況じゃあしょうがないことだ」
ここまで言って、高見沢は頭の皿を拭くように撫でた。
「実はこのパーティもね、なかなか会場を見つけるのが難しいんだ。安易にその辺の会場で済まそうとすると、あっという間に正体がバレてしまうからね。
妖種が所有する会場を見つけて、信頼のおけるスタッフを集めて……そんな感じで、チケットがあの値段になってしまうんだ。
君ら高校生には、申し訳ないと思っているよ」
(え? チケット? 値段?)
「ん? ……ああ、そうか。その辺りは悟史くんが手配したのか。
ならいいや、一旦忘れてくれ。
それでこのパーティの進行だけど……」
続けて高見沢は、パーティのプログラムの内容について詳しく教えてくれた。
……だが、すみれはその話がなかなか頭に入ってこなかった。高見沢が口にした言葉が、胸に引っかかっている。
“チケットがあの値段になってしまう”そして“その辺りは悟史くんが手配した”。
彼の言葉が意味するのはつまり……かなり値の張るこのパーティにすみれを連れてくるために、悟史がかなりの金銭負担をした、ということではないだろうか?
「あれっ? ……ちょっと、やだー! ムジナの子がいるじゃない!
ねえ洋平ちゃん、何で教えてくれなかったの!?」
いきなり横から、黄色い声がした。振り返ると、そこには自分と酷似した姿の大型哺乳類が――ムジナが立っていた。
ムジナは高見沢と知り合いのようで、すみれと彼の間にずずいと割りこんできて、彼と話しはじめる。
「お、やあ、大葉さん! ……別に君に教えなかったわけじゃないさ。飛び入り参加みたいなもんだ。
彼女は筒見すみれ。あの悟史くんの知り合いらしいんだけどね、彼がここに連れてきたんだよ」
「え、そうなの? ……ってことはあなた、悟史くんの知り合い?」
(ええ、あ、はい……お姉さんもひょっとして、先輩のお知り合いですか?)
「そうだよー。私は彼のバイト仲間。大葉美樹っていうんだ」
そう言って、大葉さんと呼ばれたムジナは、少し意地悪そうに笑った。
「最近ね、悟史くん、妙に熱心に働いてたんだー。これまでのだらしない様子が嘘みたいにね。
一体どんな風の吹き回しかと思ってたけど……こんなかわいい彼女がいるなら、それも納得かなー」
「……大葉さん、早とちりはよくない。知り合いというだけで、別に彼女というわけではないようだよ」
「え、そうなの? あ、これは失礼しました……ともあれ、よろしくね、すみれちゃん」
(あ、はい! こちらこそよろしくお願いします!)
そう書いて、彼女と握手と交わす。そして談笑する。
しかし心の隅の方では、やはり悟史のことが引っかかっていた。
悟史はこのパーティにすみれを参加させるために、結構な額の料金を支払ったらしい。そしてそれと前後して、以前は真面目にやっていなかったアルバイトに、精を出すようになった。
……それが意味するところはつまり……彼はただ、見舞いに来るのを止めたわけではなかった。このパーティにすみれを参加させてやろうと考えて、額に相当するだけの仕事をこなしていた。
それに時間をとられて、家に来ることがなくなっただけだったのか。
それに気づいた時、すみれの心の中の固い何かが、水に溶ける薬のようにとろけて、広がっていくように感じた。
そしてそれと同時に、全身に走る鈍痛と、耳鳴り。
思わず目を閉じると…………しばらくの間、何も見えず、聞こえなくなったが、痛みと耳鳴りはすぐに止んだ。
おずおずと目を開けると……大葉美樹が、きょとんとした顔でのぞきこんでいた。
「すみれちゃん……あれ、何で人の姿に戻ってるの? ていうか……何でパジャマ?」
彼女の言葉の意味が、すぐにはわからなかった。しかし間を置いて理解する。
体が、軽い。全身を包む、気だるい感じもない。……そして何より、目に映る手足が、人間のものに戻っている。
身に纏う服を、確かめる。いつも着ている、パジャマの上下。あの朝着ていたはずの服装。…………妖怪化が、解けたのだ。いきなりと言うべきか……ようやくと言うべきか。
「……心配は、不要だったようだ。良かったな、すみれさん」
振り返ると、高見沢が柔らかい表情を浮かべていた。純粋にすみれの快復を、喜んでくれているのがわかる。
……そうだ、心配は要らなかった。彼女はただ、ちゃんと誰かの助けを借りて、家を出ればよかっただけなのだ。なぜなのかはわからないが、そう確信できた。
すみれは、まっすぐに高見沢の目を見た。そしてふかぶかとおじきをする。
「いえ……高見沢さん、ありがとうございました」
「……ふーん。一応、高見沢さん以外に大葉さんとも、仲良くなれたってことか」
「ええ……ちょっと、他の人とは、まだそんな感じじゃないですけど。
せっかく連れてきてもらったのに、申し訳ないです」
「いや、初参加だったらそんなもんだろ。あんま気にしない方がいい」
月明かりが差しこむ、車の中。流れていく街あかりを横目で見つつ、すみれと悟史の会話は続く。
でこぼこした道を走ると、車が揺れ、鈍い音が響く。しかしそれ以外は、とても静かだった。運転席の棍家の母は、黙って運転を続けている。
……結局、すみれは帰りも、棍家の世話になることになってしまった。というのも、人間の姿とはいえパジャマでは、電車に乗ることさえ難しいだろう、と周囲が判断したためだ。できればこれ以上、迷惑をかけたくないとすみれは思ったが、棍家の母の強い勧めもあり、現在に至る。
しかし不思議な1日だった、とすみれは思った。朝からずっと家にいる、それだけの状態だったのに、自分は人生に絶望しかけ……そして、ただ少し外に出ただけなのに大いに元気づけられた。今はこうして何とも言えない気持ちで、生きている。
「……そう、大葉さんからあそこを紹介された時、思ったんだ。何だかんだ言って人脈って相当大事なんだってさ。
俺たちの場合、人間相手の人脈じゃあ頼りにならないこともある。
だからお前もああいうところで、もうちょい妖種の知り合い、作った方がいいかもな」
「そうですね……でも先輩、世の中人脈だけではないと思いますよ?
妖怪化が解けたきっかけも、人脈っていうのとは、ちょっと違った気がします」
「ん? どういうことだよ。人脈じゃなかったら……何がきっかけだっていうんだよ」
何を言っているのかわからない、という顔で、彼女の方を見る悟史。その顔を見て、すみれは、答えを言うのをやめようと決めた。
「いや、自分でもよく、わからないんですけど。でも先輩のおかげであることは、確かだと思います。
ありがとうございます、先輩」
唐突に、直球でお礼を言われて、悟史は少したじろいだようだった。だがすぐに気を取り直し、言う。
「どういたしまして、だ。……明日辺りから、また学校だろ。
まあ、よろしくな。後輩」
その答えを聞いて、すみれはにっこりと微笑んだ。
今夜ばかりは悪夢は見ない。そんな気がしたのだ。
―終わり―