初陣
○三十郎○
「……なぁ、頼むよ……隣の山に移ってくれよ……」
「うっ、うっ、わっ、わてが、何した言いまんねん……ひ、酷いんとちゃいまんか……」
信仁は、しくしくと泣いている体長二mの大狸を前にして途方に暮れていた。
「わては、此処に二百年住んでまんねんで……せやのに、行き成り、出て行け言われて、どつかれて……無茶苦茶でんがな……」大狸は恨めしそうに、痛む頭を撫でながら信仁を睨んだ。
「悪かったよ、めそめそすんなよ……だけど、お前だって……最初に襲って来たのは、お前の方じゃないか……」
「そりゃ、そうでっしゃろ!あんたら人間の勝手で、行き成り出て行け言われたら、誰でも怒りまっせ!ええ加減にしなはれや!」泣いていた大狸は、今度は力強く拳を握りながら立ち上がり、信仁に怒鳴り付けると、
「うっ……そりゃ、そうだけど……」信仁は大狸の迫力に押され、続く言葉が無かった。
「動物虐待反対!官憲横暴反対!妖怪差別反対!自然破壊反対!暴力行為反対!」
「な、なんなんだよ……」
「……また、面倒な奴に当たったな……」信仁の隣で、歌舞伎衣装の様な派手な着物姿の将鬼丸が、地面に付きそうな長い灰色の髪を手持ち無沙汰に弄りながら、面倒臭そうに呟いた。
「わ、わてかて、此処いらじゃ三十郎狸言うて、齢三百の大狸で通ってまんねん。意地でも退きまへんで!」と、三十郎と名乗った大狸は、どかっと、その場に胡坐をかいて座った。
その姿を見て、困った顔で二人は顔を見合わせて溜息を付いた。
下等で自我の無い凶暴な化物が、力尽くで襲って来るなら事は簡単なんだが、大した霊力も無いくせに口だけが達者な三十郎に、二人はどうした物かと悩んでいた。
「工場予定地に測量に来た作業員を、化物に化けて脅かしたり、着工準備の資材を、こっそり谷底に落としたりして、工事の妨害をしたしなぁ……」
「されど、人を傷付ける様な事は、しては居らんし……力尽くと言うのも……」
「確かに……気が引けるよなぁ……」
「そもそも、こ奴の言い分も正論じゃ……如何致す?信仁」
「如何致すったって……昨夜は企業持ちで芸者を上げて遊んだしなぁ……大見得を切った手前、このまま、すごすごと引き返す訳にも行か無いし……」と、信仁は、ほとほと困っていた。
将鬼丸が困っている信仁を見て、何とか説得しようと、居座った三十郎の前にしゃがみ、
「しかしな、三十郎殿。このままでは、我らも困る……手荒な事は、したくは無いが……このまま、争えば……その、少々痛い目に……」おずおずと言いかけると、
「おお、上等やないか!」将鬼丸の言葉を遮って、三十郎が叫んだ。
「人間に言われて、あっさり逃げ出したと知られたら、わての面子がおまへん!そんならいっその事、一思いに、ばっさりと遣ったってんか!その方が、わてかてすっきりするわ!」
さっきまで、信仁に殴られて情けなく泣いて居たくせに、二人が強行手段に出る事を躊躇っている事を知ると、今度は一変して大見得を切る三十郎に驚いて、将鬼丸は思わず後ろに仰け反り尻餅を付いた。
腕を組んで、そっぽを向いている三十郎を見て、将鬼丸は尻餅を付いたまま、困り果てた顔で信仁の方を見た。
苦虫を噛み潰した様な顔で、腕を組んで考え込んでいた信仁が、徐に三十郎を見ると、
「面子が立てば良いんだな……」と、重々しく言った。
「えっ?」信仁の言葉に、二人は注目した。
「……お前、神様になりたくねぇか?」
「はぁ?」信仁の意外な言葉に三十郎は、訳が分らず眉を顰めた。
「お前は、この土地を人間に貸す。その代わり、社を建てて祀る。詰まり、お前は其処の神様に成るって事だ……」信仁は、目論見を三十郎に説明した。
「……えぇ……でも……それって……わてに何の得が有るんでしゃろ?」
今ひとつ、信仁の条件のメリットが読めない三十郎は、確かめる様に身を乗り出して、信仁に尋ねた。
三十郎が自分の話に興味を持った事に、
「何だよ……お前、神様に成りたくないのかよ……中々成れないぞ、神様なんて……」と、意味深な笑みを浮かべて、信仁が誘うと、
「あっ、いや、そりゃ……成りたいでっけど……」と、三十郎は本音を漏らした。
話に乗って来た三十郎に信仁は、しめしめと笑みを浮かべながら、
「いいか、たとえ小さくても良いから、社を建てて祀って貰うと、社を中心に清浄な気が流れ込むんだ。そうしたらお前の霊力も強く成るってもんだ」と、説明した。
霊力が強くなると聞いて、
「ふむふむ……」と、三十郎は更に身を乗り出して、興味深々の目で信仁の話を聞いた。
「土地神として祀られたお前は、此処を治め鎮護する……評判が立てば、芝右衛門や団三郎と並ぶんだぞ……お前の格式も上がるってもんだ……」
「……そ、そんな、有名所と並ぶやなんて……」実力の無い者ほど、格式には弱いものだ。
「そして有名になれば、毎月の例祭と、年に一度の大祭に集まる人々の信仰の心が、更に気を清浄にしてくれる……どうだ、悪い話じゃないだろ。これだけ広い山なんだ、ちょっとぐらい人間に貸してやれよ。その見返りに神様に成るんだ、お前の面子だって立つだろ?」
信仁が、どうだと言わんばかりに、三十郎の顔を覗き込むと、
「追い出されるやのうて、貸すんか……その見返りに、祀って貰ろうて、神様に成って、格も上がる……悪うは無いな……」ぶつぶつと呟きながら、三十郎はニヤニヤとにやけて居た。
齢三百と強がってみた所で、所詮は化ける事しか出来ない臆病な三十郎は、〝ばっさりと遣ったってんか!〟と、大見得を切ったものの、その実は怖くてしょうがなかった。
それに、面子に拘り意地を張ってレジスタンスした所で、どうせ最後は叩き出されるのが落ちだと言う事は、三十郎も十分理解していた。
「どうなんだ?悪くは無いだろ……」三十郎の顔を見て、信仁が駄目出しをすると、
「よっしゃ!わても男や!」三十郎は、ぽんっと腹を一つ叩くと立ち上がり、
「しゃぁない!乗ったろ、その話!」と、信仁の手を両手で掴んだ。
実力の無い臆病者が、それを悟られまいと虚勢を張って、面子に拘る。
そんな三十郎にとって、信仁の提案は、正に渡りに船。願ったり叶ったりだった。
信仁と三十郎が両手を強く握り会いながら、
「じゃ、後は任せてくれ。俺がちゃんと話を付けるから」と、笑顔で信仁が言うと、
「よっしゃ、任した!」と、三十郎も笑顔で返した。
三十郎を説得出来た事で信仁は、三十郎以上に嬉しかった。
昨夜の宴会で散々飲み食いをした挙句、駄目でしたでは、非常に不味い事になる。
こんな簡単な祓いで手こずって居ては、言わば、信仁一人の評判を落とす事に止まらず、お役目全員の評判を落とす事に成るからだ。
そう成れば、何れは嫁である百合の耳にも入るだろう……信仁は、そんな恐ろしい事だけは絶対に避けたかった。
「いやぁ、良かった良かった!」
「ははは、頼むでぇ!」
乾いた笑いを浮かべながら肩を抱き合う二人を見て、
「なんだかなぁ……」と、将鬼丸は呆れていた。
○玉江○
「はぁーい」インターフォンが鳴り、百合はパタパタと走って玄関に向っている。
インターフォンなんだから、台所にある受話器を取れば済む事なんだが、田舎では、近所の耳の悪いお年寄り達が、取れたての野菜等を持ってやって来る為、直接応対した方が早い。
百合が、無駄に広い玄関の、鍵なんぞ盆と正月に行く家族旅行の時以外、閉めた事の無いドアを開けると、其処にはレディースーツに身を包んだ二十歳ぐらいの女性が立っていた。
「あら!」
「ご無沙汰いたしております」
不意の訪問者に驚く百合に、その女性は丁寧に頭を下げて挨拶をした。
微笑んでいる女性の、気品ある美しい顔の額には、刺青の様な赤い十字の文様が有り、後ろで一つに束ねて居る長い白髪が、聊か、レディースーツには不釣合いにも見える。
「玉ちゃん、お久しぶり……元気だった?」懐かしそうに微笑みながら尋ねる百合に、
「はい、百合殿も、お変わり無い様で……」若い女性も、微笑みながら答えた。
玉ちゃん……近江の玉江。現役時代の百合に憑いていた、齢千年の白狐だ。
「ええ、さっ、上がって」百合が玉江を招き入れると、
「失礼致します」と、玉江は一礼をして玄関を潜った。
「何も玄関から来なくても、霊体なら何処からでも入れるのに」
「いえ、それでは、ご無礼かと……」
「暫くは居てくれるんでしょ」
「ええ、ご迷惑でなければ」
「そんな、迷惑だなんて……ずっと居てくれても構わないわよ」
懐かしそうに話をしながら二人はダイニングに入り、玉江は椅子に座った。
そして、キッチンに入った百合が、暫くしてお盆を持ってやって来て、
「玉ちゃん、久しぶりでしょ。お稲荷さん食べる?」と、玉江の前に、稲荷寿司を三個乗せた皿とお茶を置くと、
「おお、これは……忝い!」玉江は、上品な顔に笑顔を炸裂させて礼を言った。
玉江も白菊同様、お稲荷ときつねうどんには目が無い。
二人はお稲荷を食べながら、他愛の無い雑談を懐かしそうに話していた。
「そう言えば、どうなの……相変わらずなの?」百合が真面目な顔で尋ねると、
「……ええ、相変わらずです……」玉江は、少し悲しそうに微笑んだ。
「やっぱり、許して貰えないの?」
「……そうですね……妾も赦免されるとは思っては居りませぬ」
「でも……」
「いえ、それで構いませぬ……妾の犯した罪は、決して許される事では有りませぬ故……」
「でも、ずっと弔ってるじゃないの」
「……百合殿、弔うと言う事は、死者の為では無いのやも知れませぬな……」
「えっ?」
寂しそうに話す玉江の言葉に、百合は意外そうに少し驚いた。
「死者の魂の安寧を願い弔う事は、結局は、妾の為やも知れません……五百年前……三十年の間、夫婦 (めおと)としてお慕いした殿と、その家臣、百人以上を殺した妾の……怒りに任せて殺した妾の罪の贖罪やも知れませぬ……」
「そんな……」
「幾ら弔った所で、死者は帰っては参りませぬ……三十年の間、一途にお慕いした殿……なのに裏切られた……それは、妾が白狐である事を謀り、人として殿に近付いたせい……全ては愚かな妾の罪……弔う事は、そんな妾の虚しい贖罪……弔う事で、罪の意識に苛まれる妾の心は、一時の安らぎを得る事が出来ます……言わば、自己満足に過ぎませぬ」
「玉ちゃん……」
玉江は、寂しそうな顔で窓の外を眺めている。
遥かな昔、人間の男に惚れて、人に化けて近付いた玉江。
一途に愛し、幸せの内に共に夫婦として暮らした三十年。
しかし、正体がばれて殺されかけた玉江。
愛した男に刃を向けられ、その絶望感に正気を失い、殺戮に狂った玉江。
百合は、そんな玉江の深い悲しみを誰よりも理解していた。
「本来なら、妾はその罪で滅せられる筈でしたが、伏見様は妾を滅する事無く、真の贖罪の道を見付けよと仰せられた……百合殿と出会うまでは、妾はその意味が分からず、あれ以来、人なぞ信用出来ぬ者と思って居りました」
遠い昔に思いを馳せる様に、遠くの景色を眺めながら、寂しそうに話す玉江の話を百合は黙って聞いている。
「全く、情け無い話です。額に咎の十字を刻まれ、死者への贖罪を命じられたのに、人に不審を持つなんぞ……そんな事では、何も見付ける事なんぞ出来んのに……妾はそれに気付かず、五百年の時を無駄に迷い苦しんで居りました……未だ、贖罪の道を見付ける事は出来ませぬが、人に不審を抱き迷い苦しんでいる妾を、百合殿は救って下された」玉江は、静かに百合へと振向き微笑んだ。
「そんな、救っただなんて……助けて貰ったの私の方だわ。玉ちゃんのお陰で、あの大戦をお役目として戦えた……本当に感謝しているわ」
「勿体無い……妾は使徒として当然の事をしたまで。褒められる様な事はしておりませぬ」玉江は、そう言って静かに頭を下げた。
「ううん、そんな事無いよ。役目だけじゃ無く、まだ若かった私の、心の支えにもなってくれて……私ね、ずっと思ってるよ。玉ちゃんと出会えた事を感謝して、共に戦えた事を誇りに思ってるよ」百合は、目に涙を浮かべながら、玉江の手を両手で強く握った。
「主……有り難いお言葉……妾も主と出会えた事を幸せに思い、主のお役に立てた事に喜びを感じて居ります」百合の握る手の上に、もう片方の手を置き、玉江も強く握り返した。
人とあやかし。
その壁を乗り越え、心を通い合わせた二人は、強い信頼と尊敬で結ばれていた。
○初陣○
「よし!終了。白ちゃん、もう良いよ離れて……」白菊が百合の背中から姿を現す。
「五時過ぎか、あぁぁ、喉、乾いた……」白菊が離れた後、美貴に疲労と喉の渇きが襲う。
真夏の太陽が照付ける中、険しい斜面の昇り降りに、美貴は汗だくになっていた。
木陰はあると言うものの、用意したペットボトルの水は既に無くなっていた。
へたり込む美貴の姿を見て、
「大丈夫?」と、白菊が心配そうに美貴の顔を覗き込むと、
「うん……喉、渇いちゃって……」美貴は力なく答え、その場に寝転んだ。
「あれ……川?……主!川、有るよ!」白菊が、崖下を覗きながら美貴に伝えた。
それを聞いて美貴は、這うように崖に近付き覗き込み、
「おぉ、ラッキー!白ちゃん飛んで!」五十m程下に川を確認して美貴は歓喜の声を上げた。
「承知」白菊が実体化し、美貴が負ぶさる。
麓まで、休憩を入れると二時間程掛かる為、此処で飲めれば助かると美貴は思った。
白菊は、下の木々の間に見える川へと飛び降り、あっという間に下に降りた二人は、急に顔色を変えて辺りを見回した。
「……何?此処……」
「…………」川の傍に着地した二人は、異様な雰囲気に警戒した。
幅三mぐらいの浅い川が流れている谷間には、特に変わった様子は見えないが、空気が体に重く圧し掛かり、何かどろどろとした物の中に居る感覚に、美貴は軽い吐き気を模様した。
初めて体験する、明らかに尋常では無い気配に、美貴は恐怖を感じ身を縮める。
「主……此処、空気悪いよ……」警戒する白菊の釣りあがった目の淵に、刺青の様な赤い筋の隈が浮かび上がり、長く白い髪の毛は波打つ様に逆立っている。
「分かってる……気を付けて……」
「承知」
美貴は、警戒しながら川にペットボトルを沈め、幾らか入った水を一気に喉に流し込んだ。
「白ちゃん、早く離れよう……」美貴が周囲に目を走らせなが言うと、
「何じゃ、あ奴等……」白菊は目を細め一点を見つめながら呟いた。
「えっ?」と、白菊の目線の先にある物を見た瞬間、美貴の頭の中がホワイトアウトした。
「……じ……るじ……あるじ!」
「あっ!えっ!何?」白菊の叫び声を聞いて、何で自分は寝ているのだろうと思っていると、
「こんな時に、気絶しないでよ!」と、目の前で白菊が叫んでいる。
一瞬ではあったが、美貴は気絶していた事に気付き、
「なっ、何よ!あれ!」状況を思い出した美貴は、慌てて上半身を起こし後ずさりした。
「ムカデの化身です!」
長さ十mは有ろうかと思われる黒いムカデ達が、川の下流の方から狭い谷間を覆い尽くす様に蠢き迫って来る。
「な、何匹いるのよ!こんなの見て、気を失わない方が変よ!……気持ち悪うぅい!」
美貴は腰を抜かした様にへたり込み、震えながら自己弁護した。
「……後ろからも……」白菊は振向き、背後から迫る気配を感じていた。
「主!早く掴まって!」白菊が美貴に向って叫ぶと、
「うん!」美貴は、飛び付く様に白菊に掴まった。
白菊が、飛び上がろうと上を向いた瞬間、辺りは急に薄暗くなり、
「えっ!……」と、声を上げて白菊は、動きを止めた。
高さ五十m程の、緩やかな斜面に挟まれた谷間の上空には、どす黒い紫色の雲が蓋をする様に掛かり、辺りを薄暗くしていた。
「……結界……」白菊が不安そうに呟くと、
「えっ?結界……って……」美貴は、始めて見る結界に戸惑いながら、上空を見詰めた。
「何者だ?……」白菊が、迫るムカデ達を見越す様に、周囲の気配を探る。
「主!鬼斬丸を!」
「えっ?逃げないの?」
「だめ、結界を張られたら逃げられない」白菊が、周囲を警戒しながら美貴に言うと、
「そんな……」美貴は、不安そうに呟き、白菊から離れた。
「隠れる場所も無いし……やるしか無いでしょ……」
「う、うん……」美貴は、初めての体験に戸惑いながら、不安そうにリュックを下ろし鬼斬丸を取り出した。
白菊が辺りを見回していると、後ろから迫って来たムカデ達が姿を現した。
「主、憑きます」
「お、お願い……」
不安を隠せない美貴の背中に、白菊が溶け込む様に入って行くと、美貴の背中から青白い炎が立ち昇り、美貴の瞳が青白く光る。
この程度の化物なら、白菊単独でも相手出来たが、数が多すぎる。
隠れる場所も無い狭い谷間で、美貴と別行動を取れば、美貴を守りきれないと白菊は判断した。
「あっ!で、でも、私……どうしたら良いの!初めてだよ!こんなの!」
初体験に戸惑う美貴。嫌!優しくして……と、まぁ、誰でも最初は不安です……
「落ち着いて!妾が、繰ります」白菊の声が美貴の頭の中で響く。
「えっ?何?どうするって?もう!どうすれば良いのよ!」美貴は、未体験の不安から苛付き、訳の分からないまま、取り合えず鬼斬丸を刀袋から取り出し、封じの鞘から抜き放った。
と、その時、いきなりムカデが数匹飛び掛って来た。
「ちょうぅ!まだ準備が……」ムカデが襲い掛かると同時に、慌てふためく美貴の意思とは関係なく、体が勝手に飛び退きその場を離れた。
「あれ?何これ?……勝手に体が動いてる」と、美貴は不思議に思っていると、
「主、急いで!」と、白菊が催促した。
「うん!」美貴は、抜き放った鬼斬丸に気を送ると、鬼斬丸は緑色の光に包まれた。
その瞬間、又、体が勝手に動き、迫るムカデへと飛び掛った。
「いやあぁ!アップはいやあぁ!」ムカデのアップは思いっきり、きもい!
迫るムカデから、美貴は目をそらす。が、手が勝手に動き鬼斬丸を振り下ろす。
すると、緑の光に包まれた鬼斬丸がムカデの頭を切り裂き、美貴が着地した直後、ムカデはどす黒い紫の煙を出しながら塵となって消えた。
「なっ、何がどうなっているの?」美貴は、光る鬼斬丸を不思議そうに眺めている。
「落ち着いて!妾が繰るから、主は気を送り続けて!」
「くる?繰るって……あっ!」美貴は今、白菊に操られている事を理解した。
理解して美貴は、母親と一緒に戦っていた経験者の白菊を心強く思い、初体験に対する不安が和らいだ。
安心感から気を取り直した美貴は、
「ファッキュゥ!カモオォン!かかって来んかい!」と、中指を立てて挑発すると、ムカデ達が一斉に体を起こし、戦闘態勢に入った……女の子が言う言葉じゃねぇだろ……
美貴は、体を起こしたムカデ達の黄ばんだ薄紫の腹を見て、
「いやあぁぁ!やっぱり気持ち悪い!」と、顔を背けながら、一気に気を送ると、鬼斬丸から緑色の光が五十cm程延び、それを青白い炎が包み込み日本刀の様に形を作る。
襲ってくるムカデを飛び退き交わしながら、次々とムカデ達を薙ぎ払って行く美貴は、
「ちくしよう!行け!やれっ!やれっ!白ちゃん!」と、気分は、すっかり応援団。
美貴は、自分自身が戦っていると言う道理を忘れ、完全に傍観者になっている。
但し、目にムカデの姿が映ると、
「きゃあぁ!こっち見ないでぇ!こっち来ないで!」等と、とんだ我ままを言っている。
「きゃあぁ!きゃあぁ!きゃあぁ!キモイのいやあぁぁ!」まぁ、分からなくも無いが……
美貴が叫んでいる間に、白菊の活躍で何時の間にか辺りは嫌な臭いを残して静かになった。
白菊が美貴の背中から、すうっと抜け出すと、美貴の体から急に力が抜け、体の重さに思わず膝を付いた。
「主、大丈夫?……」白菊は周囲を警戒しながら、美貴を気遣った。
「うん、大丈夫……はぁ、はぁ、片付いた、みたいね、はぁ、はぁ」美貴は、叫び疲れ、大きく息をしている。
「まだ、油断しないで……」白菊は、まだ警戒している。
「うん……でも、私もう限界かも……」美貴は、そのまま座り込み、大きく息をしている。
まだ、気の力は残ってはいたが、激しい動きをした事で、体力は限界に近付いていた。
元々、鬼の血筋の者は、普通の人より身体能力は上でも、所詮は人間、筋肉も骨格も同じ組成に変わりない。
それが、あやかしを憑けて超人的な動きをするのだから、限界は直ぐにやって来る。
特に、未熟な美貴は、始めての経験と言う事も有り、限界は早かった。
美貴は叫び疲れた事は別として、今の戦いで可也体力を消耗していた。
「……早く此処を離れて、信仁殿に報告しないと……」
「うん、とにかく、逃げましょう……」何とか息を整えた美貴は、ゆっくりと立ち上がった。
「でも……あの結界が、妾で破れる程度の物であれば良いんだけど……」と、上空の結界を眺めながら、白菊は実体化した。
「駄目なの?……」と、美貴が不安そうに白菊に尋ねると、
「主、下がって……やばいかも……」白菊は何かに気付き、怯える様に身構える。
「そんなに、やばいの……」白菊の様子を見て、美貴は不安な気持ちが更に膨らんだ。
「ええ……小さいとは言え、結界が張れる奴ですから……大将のお出ましか……」
白菊は、何かの気配を感じて一点を睨みながら身構えている。
「下賎なムカデの化物達に、結界など張れる訳が無いとは思ってたけど……」
「えっ?……」美貴は、白菊の言葉の意味が分から無いまま、白菊の見詰める方を見た。
その視線の先に、灰色の靄が掛かったかと思うと、次にどす黒い紫の煙が、小さな竜巻の様に渦を巻き始め、徐々に姿を固まって行く。
それを見て美貴は、
「もうムカデは止めてよね……」と、怯えながら思っていた。
立ち昇る渦は、徐々に人の姿へと変化し始め、ムカデでは無い事に美貴はほっとした。
しかし変化が進むどす黒い影に、ムカデとは違う恐怖を美貴は味わう事となった。
姿を現したのは、戦国時代の甲冑を身に纏った鎧武者だった。
三mを越える鎧武者は、赤黒い禍々しい色の甲冑を身に纏い、面体の奥で目を光らせて美貴達を睨んでいる。
離れて立っているのに、鎧武者の重圧感が、美貴に恐怖として圧し掛かかって来る。
鎧武者はゆっくりとした動作で、腰から二m近くある太刀を抜き、片手で頭上高くに振り上げた。
「主、逃げて!」叫ぶと白菊は、身構え飛び退く。
「えっ?」と、白菊の叫び声に振り向いた瞬間、鎧武者が太刀を一気に振り下ろし、太刀から放たれた衝撃波が、三日月の様な形で飛んで来て美貴を直撃した。
「きゃあぁ!」美貴は、悲鳴を上げ十m程弾き飛ばされ、地面に三度バウンドして転がった。
「ぐうぇ……」まるで暴走した車に跳ね飛ばされた様な衝撃を、まともに食らった美貴は、地面に転がりながら呻き起き上がれない。
「しまった!主!」飛び上がった白菊が、美貴を置いて飛び上がった事を後悔し叫んだ。
再び太刀を振り上げる鎧武者の姿を見て、白菊は美貴の危険を察し、
「こっちだ!」と、叫び、狐火を放った。
鎧武者の上空十m位から、白菊が連続で固まりとなった狐火の炎弾を放つ。
鎧武者は、刀で炎弾を払っていたが、放たれた一発が鎧武者に命中した。
炎弾の爆発で鎧武者が怯んだ瞬間、続けて命中した炎弾が次々と爆発して、鎧武者は炎に包まれた。
白菊はその隙に、美貴の傍へと着陸した。
「大丈夫ですか、主」心配そうに見つめる白菊の目の淵には、赤い隈取が浮き上がっている。
「何とか……」
美貴は全身の痛みに耐えながら上半身を起こし、
「くそっ……普通の人間なら死んでいたな……」と、思った。
次第に鎧武者を包む炎が治まると、何事も無かったかの様に鎧武者は立っていた。
白菊は鎧武者を睨みながら、
「おのれ……我の炎弾では効かぬか……」と、己の非力さを痛感した。
「妾が囮になります。その隙に鬼斬丸で」
「えっ?」白菊の言葉に驚き、美貴が白菊へと振り向いた。
「結界を張られて居ては逃げられません……何とか、相手の隙を作らなくては……」
「そんな……私一人で?」不安そうに尋ねる美貴に、白菊は無言で頷いた。
「白ちゃんが憑いて操ってくれないの?」
「繰れば細かい動きが出来ません……先のムカデなら単純な動きでも十分でしたが……奴には効きますまい……」白菊は、炎が消え二人に向って歩いて来る鎧武者を睨みながら思った。
鎧武者が二人の十mぐらい前で立ち止まり、光る目で睨んでいる。
「それに、隙を作らなくては、又あの技でやられる……時間が有りません、行きます」
「うん……やってみる……」美貴は、自信の無い声で返事した。
美貴は、全身の痛みに耐えて立ち上がって、何とか自分の体が動く事を確認した。
「いざ!」と、叫び白菊は、目にも留まらない速さで一気に急上昇する。
上空の結界ぎりぎり迄、一気に上昇した白菊は、そのまま体を捻り込み全力のスピードで急降下し、勢いを殺さず鎧武者に体当たりをすると、弾かれた様に再び上昇する。
白菊の、渾身の体当たりを喰らった鎧武者は、吹き飛び地面に転がった。
上空で霊体に戻り、白菊が両手に狐火を溜め、炎弾を作ると、
「どおぉりゃぁ!」気合と共に、倒れて居る鎧武者に、炎弾を有らん限りの力で放ち続けた。
其処には、何時もの可愛いゴスロリ白ちゃんでは無く、目が釣りあがり、鼻が突き出し口が裂けて狐の形相を露にした白菊がいた。
白菊の放った炎弾が爆発し、倒れている鎧武者を凄まじい炎が包み込んだ。
美貴はこの隙に、鎧武者に気付かれない様に身を屈め近付きながら、
「幾ら何でも……あの炎の中で無事な訳、無いわよね……」と、思っていた。
が、しかし、鎧武者は炎の中でゆっくりと立ち上がり、体制を立て直し刀を構える。
その様子を見て、
「まさか!効いて無いの!」と、美貴は驚いた。
立ち上がった鎧武者は白菊を睨み付け、構えた刀を白菊に向って振り下ろすと、一筋の光が飛んで行き、白菊の腹を貫いた。
「いやあぁぁ!白ちゃあぁぁん!」美貴は、その衝撃的な光景に絶叫し、腹を貫かれて力無く落下してくる白菊を見て、美貴の中で恐怖と怒りが爆発した。
ドックンと、鼓動が一つ大きく脈打ったのを感じると、全身が震え、熱くなり、体が仄かに光り、気が揺らめく様に立ち昇る。
「おおぉぉぉぉぉ!」そして、美貴の体を流れる鬼の血が〝戦え〟と、美貴を煽り立てる。
怒れる美貴は、生まれて初めて〝敵〟と言う者に出会った。
「このやろう!」頭に血が上り、怒りだけが美貴を支配した。
両手で握った鬼斬丸を頭上へと振りかざし気を送り込むと、一気に飛び掛り、勢いを付けて振り下ろした鬼斬丸を鎧武者の背中に突き立てた。と、同時に、鎧武者は苦しそうに体を反らす。
「やった!」と、美貴は確信した。が、その瞬間、鎧武者が体を捻り、肘を振り出した。
「ぶっ!」肘は腹部に直撃し、美貴は弾き飛ばされ、
「ぐうえ……」と、苦しそうに地面に転がりながら美貴は、腹部を押さえている。
その時、何故かは分らないが結界が解け、辺りが明るさを取り戻した。
苦しみながら美貴は、未だに無事でいる鎧武者の方を見て、
「鬼斬丸は、奴の背中に刺さったままなのに……何で平気なの?」と、不思議に思っていた。
「主!無理です!飛ばします!」叫び、美貴の傍に降り立った白菊の腹には、腕が楽に通りそうな穴が開いていた。
「だっ、大丈夫なの!其の穴!」霊体であるため血は出てはいないが、今にも千切れそうな胴体を見て美貴は驚き、白菊を心配している。
「霊力を、ごっそり持っていかれました……申し訳ありません。勝ち目はありません……主!飛ばします!」白菊は、美貴の前で鎧武者との距離を見て、余り時間が無い事を悟った。
「飛ばすって?何?それ?……」白菊の言葉が理解出来ずに、美貴は狼狽えている。
「説明している時間が有りません!」白菊は、近付いて来る鎧武者を気にしながら叫び、青白い狐火で美貴を包み込む。
鎧武者は弱っているのか、動きが鈍くなっている。
「海なら……何とかなるか……」白菊は呟きながら、美貴の肩越しに遠くを見据えている。
鎧武者はゆっくりと刀を振り上げながら近付いて来る。
「見えた!」と、白菊が叫んだ瞬間、白菊の体が眩しい光を放った。
其の時美貴は、光の向こうで、鎧武者が刀を振り下ろすのを見た。
○再会○
『あぁ……何か、温かいな、此処……ふわふわしてて……私、死んだの……』と、暗闇の中で美貴は、心地良い浮遊感に包まれていた……が、
「がぼっ!くっ苦しい……」と、急に心地良さは打ち消され、息苦しさが襲った。
その苦しさに耐えかねて、
「ぶっはあぁ!」と、一気に体を跳ね起こし、
「何?何なの?此処何処?」と、美貴は前を見たが、真っ暗で何も見えない。
見えない原因が自分の髪の毛である事に気付き、頭を振り髪の毛を手でたくし上げると、美貴の目の前には、既に日が沈み茜色に染まる空と、水平線が広がっていた。
つい先程まで山の中にいたのに、何故水平線が見えるのか、現在の状況が一切把握出来ず、美貴は此処が何処なのかを確認するため、辺りをきょろきょろと見回していると、
「鬼追?……」聞いた事のある声に美貴は、はっとして振向いた。
肩越しに振向くと龍之介と視線が合い、何で此処に龍之介がいるのかと不思議に思いながら、暫く龍之介の顔を見つめていた。
美貴の思考が徐々に落ち着いて来て、周りの風景が認識出来始めて来た時、龍之介の他に邦博と司がいる事に気付いた……が、同時に龍之介達が全裸である事にも気付き、美貴の目の前には、大小取り混ぜて三本の、ぶら下がっている”物”が、視界に入った……誰が小とは言いませんが……
「きゃぁぁぁ!」父親と弟の物以外では、始めて見る危険物に美貴は、掌で顔を覆いながら、飛び上がり悲鳴を上げた。
美貴の悲鳴を聞いて、無防備に危険物を曝して立っていた龍之介達は、
「あっ!やば!前……」と、それに気付いて、慌てて前を隠して湯船へと座り込んだ。
「何んだよ!お前!何で此処にいるんだよ!」
龍之介に、そう聞かれても、何がなんだか分からない現状に美貴は混乱していた。
とにかく、現状を確かめようと、恐る恐る振向き、顔を覆った掌の指の隙間から、ちらりと、龍之介達の様子を伺った。
そして龍之介達が、湯船の中に座っている事を確認して、美貴は少し安心した。
湯船に浸かりながらも、気不味さから両手で前を押さえ、
「お前は、遅れて明日から参加する予定じゃなかったのか!第一なんで、男湯にいるんだよ!」と、叫ぶ龍之介の〝男湯〟と、言うキーワードが更に理解出来ずに、
「えっ?」と、顔から手を離し辺りを確認しようとすると、自分の寂しい胸が目に入った。
「きゃぁぁぁ!」やっと自分も全裸である事に気が付いた美貴は、再び悲鳴を上げて、少しでも見せたく無い、一番見られたくない、絶対、ぜったぁい、づえぇったあぁぁいに、知られたく無い部分を慌てて手で隠して、湯船に飛び込む様にしゃがみ込んだ。
『なっ、なっ、なんなの?どうしちゃったのよ!』美貴の思考は、オーバーヒート寸前で、
『見られた!先輩に見られた!どうしよう!見られた!先輩に見られた!見られた!見られた!どうしよう!どうしよう!見られちゃったよおうぅぅ!!!』と、憧れの龍之介に、自分の裸を暴露してしまった事に、恥ずかしいやら情けないやらで、完全にパニックに陥っていた。
「何でも良いから早く出ろ!僕達は後ろ向いててやるから!」
「すみませぇん!」
邦博の叫び声に反射的に反応して、美貴は湯船から飛び出した。
飛び出しダッシュで出口へと向かったが、パニクってる美貴は足元が疎かとなり、足を滑らせ見事に尻餅を突いた。
「何でこけるのよ!」泣きっ面に蜂と言う奴か、転んで可愛いお尻を思いっきり打ち付け、美貴は痛みと恥ずかしさが入り混じり、やり場の無い怒りに半ばやけくそになっていた。
それでも何とか脱衣所に辿り着いた美貴は、此処から脱出する為には、必要な物がある事に気付き辺りを見回した。
「どうしよう……何か無いかな……」そう、お気付きですね。着る物です。
美貴は置いてある脱衣かごの中に、まだ開封していない新品の下着を発見した。
「誰のかな?……ええぇい!お借りします!」誰の物か分からないが、この際、仕方が無いと判断し開封して取り出したが、やはり男物の下着を身に着けるのには勇気がいる。
美貴は躊躇い、暫く手にしたブリーフを眺めていた……確かに勇気がいる……
しかし、緊急事態だと割り切り、先程からの出来事で、やけくそ気味の美貴は勢い良くブリーフを履き、そのままの勢いでバスタオルで濡れた髪の毛を簡単に拭き、続いて開封した、美貴には、可也大きめのTシャツを着て、髪の毛を乾かしている暇は無いと判断し、バスタオルで髪の毛を包み込み、浴衣を着た。
そして美貴は、出口へと向かい、暖簾の所で少し顔を出して左右を確認してから、脱兎のごとく逃げ出した。
そして、ロビーのソファーが並べてある所まで来ると、ソファーに倒れ込んでしまった。
倒れ込んで美貴は、今此処に居ない白菊の事をが心配になり、
「しろちゃぁん……無事でいてよおぅ……」と、美貴の平滑な胸は、張り裂けんばかりの思いに痛みを感じた。
鎧武者が刀を振り下ろした所までは覚えている……しかしその先は、自分は無事に此処にいるが、白菊はもしかしてと思う不安が、無制限に湧いて来た。
百合に連絡を取りたかったが、携帯も小銭も無い。おまけに鬼斬丸も置いてきてしまった。
「あ、美貴ちゃん……」途方に暮れている美貴の後ろから、司が声をかけて来た。
「えっ?」美貴が振向くと、司と目が合い、
「あの……さっきは……」と、司は恥ずかしそうに顔を赤くして俯いた。
それを見て、露天風呂での事を思い出し、美貴も顔を真っ赤にした。
「あの、もしかして……海神先輩の、その……下着……着てる?」司が遠慮気味に聞くと、
「えっ!海神先輩のだったの!」と、美貴は飛び上る程の勢いで驚いた。
美貴は、今、自分が男物の下着を、龍之介の下着を、しかもブリーフを着けている事を、憧れの龍之介が知っている事を知り、全てが終わったと目の前が真っ暗になった。
しかし冷静に考えてみれば風呂には三人しか居なかったのだ、結局の所、龍之介の知る事になるのは分かりきった事なのだが、あの時パニクっていた美貴には考える余裕など無かった。
「美貴ちゃん!美貴ちゃん!」ソファーに座ったまま、気を失った様に白目をむいている美貴を、司が心配そうに揺り動かすと、
「……はっ!」と、美貴は我に帰り、絶望の淵のどん底の更にヘドロに深く埋もれた心境で、
「先輩……怒ってる?」と、涙目で司に尋ねた。
「ううん、怒って無いよ……でも、ちょっ来て欲しいって……良いかしら?」司は美貴の様子を見て、龍之介に怒られるのを怖がっているのだと思い、笑顔を浮かべ優しく言った。
「うん……」と、返事はしたものの、美貴は龍之介に会うのが恥ずかしくて仕方が無かった。
---◇---
昨日は散々だったなと、美貴は合宿二日目の朝食を取りながら昨日の事を思い出していた。
白菊の事が心配で食欲が無い。
そして服もお金も無い今の状況で、何も出来ない自分を情けなく思っていた。
美貴は、少し離れたテーブルで朝食を取っている龍之介達を見た。
白菊の事も心配だったが、昨日、憧れている龍之介に、自分の醜態を一部始終曝した事に立ち直れず落ち込んでいた……お年頃ですものねぇ……
常識的に、自信が有るからと言っても、見せびらかす物では無いのに、コンプレックスだらけの裸体を、憧れの龍之介に曝してしまった精神的なダメージは、波動砲の直撃を受けた以上に凄まじかった。
更に美貴は、龍之介の前で一緒に朝食を取っている司に対して、神様は不公平だと愚痴を言いたかった……男なのにあんなに綺麗と、嫉妬に似た気持ちが湧いてます。
自分も司みたいに綺麗だったら、きっと龍之介の気を引く事が出来るのにと、浅き夢に浸っていた。
そして、あんなに綺麗な子に、あんなに立派な“物”が付いていたなんてと、昨日の露天風呂での出来事が脳裏を過ぎると、再び顔を真っ赤にして奈落の底まで落ち込んでしまった。
食事の後、皆はスケッチに出かけて行ったが、美貴は一人、旅館の部屋で宅急便が届くまで何も出来ないでいた。
何をするでもなく、落ち込んで部屋で待っている美貴は、自分には大き目の下着を、時折、浴衣の上から腰の辺りを摘んで、ずいっと引き上げ、
「男物はしっくり来ないなぁ……」と、思っていると、美貴は重大な過失を犯した事に気が付いた。
「あっ、ちょっと待ってよ……洗って返すって、言っちゃったけど……やだ、何言ったのよ、そんなの恥かしいじゃないの!」今更ながら、自分の愚かさに気が付いて慌てた。
「……捨てよう……先輩には悪いけど、一度、身に着けた下着を、男の人に渡すなんて……出来る訳無いじゃない!」などと、龍之介の気持ちも知らずに、無慈悲な判断を下した。
美貴にとって、これ以上、龍之介に対して恥ずかしい思いをする事は、死を意味していた。
需要と供給から、使用済み下着を販売している者も居るが、一般的な常識ある女性にとっては出来る事では無い。
況してや、面識ある男性、更には憧れている男性になど出来るはずが無い。と、思いたい。
「あ・る・じ!」突然、窓から聞こえた聞き覚えのある声に、美貴は驚き振り向くと、
「白ちゃん!」窓際に白菊が笑顔で浮かんで居た。
美貴は白菊の姿を見るなり、立ち上がり窓の所へと駆け寄った……下着を引き上げながら。
「無事だったのね!」美貴は喜び、窓を開けて笑顔で白菊を迎え入れると、
「遅くなりました。これ」白菊は、山に置いて来た美貴の荷物や衣類を差し出した。
「何してたのよ!もう!心配したんだからぁ!」美貴は、笑顔に涙を浮かべている。
「へへへ、主を飛ばして、すぐに逃げたんだけど、やっぱり、もう限界で……最初に降りた辺りで、動け無くなって……でも、さすがに龍神の杜だけありますね。結構早く回復しましたよ……それで、一旦戻って荷物を拾って、主を追って来ました」白菊は涙目で見詰る美貴に、少し照れながら報告した。
「もう、大丈夫なの?お腹は?」美貴は、荷物を持つ為に実体化している白菊の腹を見ると、
「もう、大事無いです」と、白菊は照れながら、自分の腹を撫で回している。
「主も無事でよかった……本当は自信なかったんですよ……あんな大技、成功するとは……」
笑顔だった白菊が、一変して腕を組んで難しい顔になり、しみじみと思い出している。
美貴は、白菊の様子を見て急に不安になり、
「えっ、ちょっと待て……何それ?」と、問いただした。
「いえね、初めてだったんですよ。飛ばすのって、難しいんですよ……行き先をちゃんと思い描いていないと、何処行っちゃうか分かりませんし……下手したら、地面の中だったりして……」白菊は腕を組んで、うんうんと感心する様に頷いている。
「あんたね!そんな危険な技、一か八かで私にかけたの!」急に怒りが込み上げて来た美貴は、白菊に顔を着き付け怒鳴り付けた。
「だって、しょうが無いでしょ!死ぬか生きるかの時で、他に方法なんて無かったんだからぁ!」白菊も負けじと握り拳を握り閉め怒鳴り返した。
顔を着き付け怒鳴りあったが、美貴はあの危機的状況を思い出すと、
「そうか……ごめん……そうだったね……うん、ありがとうね」結果オーライかと、むしろ助けてくれた白菊に感謝した。
美貴はとりあえず、白菊が届けてくれた荷物から携帯を取り出すと、昨日の事を百合に詳しく報告した。
百合は予期せぬ出来事に、もの凄く心配していたが、二人が無傷である事を告げると少し落ち着いたみたいだった。
そして百合は、信仁と相談するから、もう気にしなくて良いと伝えたが、美貴は鬼斬丸をなくした事に責任を感じている。鬼斬丸は百合の母親、つまり、祖母の形見でもあった。
「ねえ、何で昨日の奴、鬼斬丸で滅っせ無かったのかな?」美貴は、昨日の化物が魔斬りの法具である鬼斬丸で、滅っせなかった事を不思議に思った。
「おそらく……妾が見た所、主があ奴めに鬼斬丸を突き立てた、とたんに結界が解けた……あ奴めは、とっさに結界を鬼斬丸に張りおったのでは無いかと……」白菊は昨日の事を思い出し、考えながら話している。
「鬼斬丸に結界……そんな事出来るの?」
「封じの鞘があるじゃないですか。あれも、結界の一つですよ。抜き身の鬼斬丸なんぞ、妾は触れる事も出来ませんから……霊力ごっそりと削られますからね……」
「でも、ムカデなら、一撃で倒せたのに?」
「ムカデ程度なら、一撃で倒せますけど、霊力の高い化物なら、浄化が進む前に影響を受けた部分を切り離したり、鎧武者の様に結界で包み込んだりして、逃れる者も居るんです……」
「そうなんだ……」
「しかしながら、そこいらの、並みの化物に出来る芸当ではありませぬ……我らが歯が立たぬのも分かります……恐ろしい奴です……」白菊は、恐怖に顔を曇らせている。
「何者かな?」
「そこまでは……ただ、他の化物とは違いますね……」深刻な表情で話す白菊を見て、
「うむぅ、やっぱ、ラスボスか?」と、美貴は訳の分らない事を口走った。
その時、部屋の備え付けの電話が鳴った。
「はい……はい……あっ、分かりました」電話に出ると、荷物が届いていると伝えてくれた。
美貴は、フロントで荷物を受け取り、再び部屋に戻って早速着替えた。
「あぁ……やっぱり女性用の方が、しっくり来るわ……この、フィット感」と、白地に小さなイチゴ柄のショーツを、食い込むぐらい(何処に?)きゅっと上まで引き上げ、小さな幸福を感じていた。
そして龍之介のTシャツを脱ぐと、何となく名残惜しくなり、そっと頬を寄せ、
「男の人って……先輩の胸って、こんなに大きいんだ……」と、自分には大き過ぎるサイズのTシャツに、龍之介の胸の大きさを想い重ねて頬を赤く染めていた……所に、白菊が美貴の目の前で、龍之介のブリーフをひらひらさせている。
「ちょっと……何やってんのよ……」美貴は、甘い想像の世界にトリップしていたのをぶち壊されて、むっとした。
「主ぃ、こんなの履いてたのぉ?」白菊がブリーフを指で摘みながら、あからさまに嫌な顔をして美貴に尋ねると、
「しょうが無いでしょ、無かったんだから……」美貴は、Tシャツから顔を上げて呟いた。
「これ、どうします?」と、訊ねる白菊に、美貴はTシャツを手渡し、
「……燃やして」と言って、AAAカップのブラを付け始めた。当然パッドも入れてます。
「へっ?」
「燃やすのよ!跡形も無く!完璧に!」下着姿で、力強く拳を握り締め美貴は命令した。
「はあぁ……承知……」と、何の事だかと美貴の真意を測りきれず、白菊は命令通り、両手に持ったブリーフとTシャツを、その場で燃やそうとすると、
「ちょっと!待ちなさいよ!部屋の中で燃やさないでよ!」慌てて美貴が叫び止めた。
「えっ?」訳が分らず目を丸くする白菊に、
「外!窓開けて外!」美貴は、窓を指示した。
「火災警報器が鳴りでもしたら、大恥よ!」と、怒鳴る美貴に、
「はあぁい……」と、面倒臭そうに返事をして、白菊は窓を開けた。
白菊は、不満そうに窓から下着を持った手を差し出し、狐火で一瞬にして灰にした。
「これで、一安心……先輩……不義理な後輩ですんません!」と、ほっとした美貴は、燃えた下着の方に向って、下着姿で深々と頭を下げた。
「どうしたの?白ちゃん……」美貴は、プリーツの入ったアイボリーのスカートを履きながら、まだ窓の傍に居る白菊に訊ねた。
「……追っ手かも……」白菊は遠くの方を眺め、顔に緊張を走らせている。
「何処?」美貴は、慌ててパステルブルーのTシャツを着ると、白菊の横に走りよった。
窓から首を出して気配を探るが、美貴には何も感じられなかった。
「まだ……遠いかも……」白菊も気配を見失ったみたいだ。
「みたいね……でも、警戒はした方が良いかもね……」美貴の顔に緊張が走った。
こんな人里で、昨日の鎧武者が現れる事を想像すると、鎧武者に対して何も出来なかった美貴の不安は広がった。
「どうします?」
「……とにかく、外に出ましょうか……」
不安を抱きながら美貴は、荷物を片付け画材を持って旅館を出て、
「さて、どうしようか……今は気配を感じ無いし……」と、美貴は左右を見渡し、
「皆は港の方かな?……取りあえず、そっちに行って見るか……」と、歩き出した。
緊張の中、美術部の皆が鎧武者に襲われたらと考えると、美貴に言い知れぬ不安が湧いて来て、皆の事が心配になって来た。
港へと向かう美貴は、龍之介は邦博達と一緒なんだろうなと思いながら、龍之介に会いたい反面、昨夜の事で会うのが恥ずかしいと言うジレンマに陥っていた。
せっかくの合宿なのに、普通に話す機会が少なくて残念だなと、美貴は思っていた。
龍之介の事に思いを馳せていると、
「……あれ?何?この気配……嫌な感じ……」と、美貴の頭に警報が鳴り響いた。
「白ちゃん」美貴は、姿を消して傍に居る白菊に声をかけた。
「主……以外に近かったみたいですね……気配を消しておったのかも……もしかして……」
もし鎧武者なら、美貴には勝算など無かったが、異様な気配に鬼の血が反応して、美貴に戦えと煽る。
「白ちゃん!行くよ!」全身に熱い物を感じながら美貴は、気配のする方へと駆け出した。
駆け出した美貴の前に、立ち塞がる様に姿を現した白菊は、
「待って!主!昨日の奴ならどうするのじゃ!」と、叫んで美貴を止めた。
「でも、だからと言って放っておけないでしょ!早く!」
「そんな!鬼斬丸も無いのに!」
「あんな奴が居たら、皆が危ないわ!なんとかしなきゃ!早く、行くよ!」
自分の横を駆け抜けて行く、美貴の後ろ姿を目で追いながら、
「……承知」と、白菊は、しぶしぶ了解し、再び姿を消して美貴を追った。
美貴は海岸線沿いの道路を、気配のする方へと走っていると、
「こっちか?この上、気配が強い……」と、何かを感じ立ち止まる。
小高い山を見詰めている時、美貴は山へと登る山道を見付け、再び走り出した。
山道を登り、少し開けた所に来ると気配を更に強く感じ、美貴は警戒して立ち止まった。
辺りを神経を集中して見回すが、何も変わったものは見付けられない。
しかし、前方から感じられる禍々しい気配に、美貴は背中に冷たい物を感じた……と、其の時、近付く人の気配がした。
「これは……えっ?海神先輩?」自分の背後で、龍之介の気配がする事に驚いた。
美貴は、前方の禍々しい気配から目をそらさずに、
「何にしに来たんですか!……すぐに、引き返してください!」と、叫んだが既に遅く、あたりは結界で包まれ薄暗くなった。
「主、もう遅い……結界を張られた」白菊が警戒しながら、霊体の姿を現した。
『えぇい!やるしか無いか!……でも、先輩が見ている……』と、美貴は躊躇した。
鬼の血筋だと言う事を知られたく無い美貴は、自分が戦う姿を龍之介に見せたくなかった。
しかし、今はそんな事で躊躇していれば龍之介の身が危ない。
憧れている龍之介に、知られたく無い事を知られる恐怖より、龍之介が傷付く事を恐れた美貴は、断腸の思いで覚悟を決め、
「白ちゃん憑いて!」と、戦う事を決意した。
「承知」美貴の言葉に白菊が答え、青白い炎を上げて美貴の中へと入って行った。
「先輩!こっちに来てください!」美貴は龍之介の身を案じて呼んだ。
「おっ……おいっ!お前!おいっ!背中!おいっ!燃えてる!おいっ!」
「えっ、何で!」龍之介の言葉に驚き、美貴は恐る恐る首だけを振り向かせ、
「……見えるんですか?」と、龍之介を不安な気持ちで見詰ながら、背中から立ち昇る狐火の炎は、普通の人には見えないと油断し、白菊を憑けた事を美貴は後悔した。
「みっ、見えるも何も……熱くないのか?えっ?お前どうしたんだその目!」白菊が付いて青白く光る目を見られて、美貴は慌てて顔を背けた。
「おい、どうしたんだよ、お前……それに、さっきの声……さっきいたの誰だ?」
明らかに怯えている龍之介に、
「後で、説明します……私から離れないで下さい」覚悟はしたものの、知られたく無い事を知られてしまい、美貴は絶望的な思いに涙が出そうだった。
「何の事だよ!昨日から……早く説明しろよ!分かんねぇよ!」
龍之介が取り乱しわめく姿を見て、美貴は巻き込んでしまった事を後悔し、昨日からの事や今起きている事を説明したって、自分はもう、龍之介に嫌われてしまったのではと思えて来て、美貴の目に涙がにじんだ。
が、しかし、今は泣いても居られない。
気を取り直し美貴は、自分達を取り囲む異様な気配を察知し、辺りを見回すと、木々の枝に無数のカラスが止まり美貴達を取り囲み見下ろしていた。
「何だよ……これ……」龍之介は、不気味な雰囲気に戦いている。
美貴は、カラス達は何者かに操られていると考え、辺りに神経を配り、操っている者を見つけようとしていたが、今の美貴の能力では見付ける事は出来なかった。
カラス達は、今にも襲って来る様に羽をばたつかしている。
美貴は、鞄から鉛筆を一握り取り出し鞄を捨てた。
「主、数が多すぎます」
「分っている……」龍之介だけは、なんとしても守ろうと、美貴はカラスを睨む。
その時、カラス達が二人を目掛けて一斉に飛び掛って来た。
美貴は、気を送り込み緑色に光った鉛筆を、龍之介に向かったカラス達に投げ付けた。
飛んで行った鉛筆は、光の矢と成って襲って来るカラス達を貫いた。
更に、次々と鉛筆を投げ付けながら、襲って来るカラスを躱す。
貫かれたカラス達は、地面に転がりもがいている。
残り一本となった手持ちの鉛筆に、更に気を送ると、光が五十cmぐらい伸び、それを刀のように青白い炎が包み込こんだ。
そして美貴は、炎の刀でカラス達を薙ぎ払いながら、
『……確かに、数が多過ぎる……このままじゃ、先輩を守りきれない。操っている奴を見付けなきゃ……でも何処だ……気配を消されては、心眼の開いていない白ちゃんじゃ見付けられない……』と、考えていた。
すると、龍之介が木を振り回し、カラス達を叩き落としている姿が目に入った。
木をめちゃくちゃに振り回しているが、的確に襲ってくるカラスから身を躱している龍之介の姿を見て、美貴は何とかなるかと思った。
「先輩!暫く頼みます」
美貴は、そう言って後ろに飛び退き、クロッキー帳を拾い上げ、開けたページに思い出しながら円や三角の図形を描き始めた。
それを見て龍之介は、
「頼むって……こんな時に、何やっているんだよ!」カラス達を叩き落しながら、
「守ってくれってって事かよ!」と叫び、庇う様に美貴の前に出た。
「どおぉりゃあぁぁ!」龍之介は、必死でカラス達を払い除けながら。
「女の子に頼むと言われちゃ、引く訳には行かねえな……くっそうおぉぉぉ!」と、気合を入れなおす。
『先輩すみません……確か、探査の法陣は、簡単な組み合わせだったはず……えぇっと、こうだっけ……よし、多分こうだろう……いい加減だな……』と、美貴は図形を書き上げた。
美貴はクロッキー帖を地面に叩き付け、法陣を踏んで、
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前」と、目の前で刀印を切りながら、九字を唱え精神を集中させる。
『見えた!……良かった、合ってた……』と、美貴がほっとした時、足を滑らせて倒れた龍之介を通り過ぎ、カラス達が美貴に向って来た。
「そこか!」と、叫ぶと同時に横に飛び退き、向って来るカラス達を交わし、鞄からまた鉛筆を一握り取り出すと、美貴は姿を消している者に向けて、気を込めた鉛筆を投げ付けた。
鉛筆は命中し、姿を消して居た者は、黒い紫の煙を上げながら、塵が崩れる様に消えた。
黒い影が消える瞬間、薄笑みを浮かべたのを美貴は見逃さなかった。
結界が解け、夏の眩しい日差しが照りつける中、
「……見逃してもらった?」と呟き『昨日の奴じゃない、探りに来たのかしら?』と、考えていた。
戦いの跡に、カラス達が地面で羽をバタつかせていた。
白菊が美貴から離れ、美貴は漠然とした不安を抱いて、倒れている龍之介の傍へ行った。
「大丈夫ですか、先輩……」美貴は申し訳ない気持ちと、見られたく無い自分の姿を見られて、嫌われたのでは無いかと言う不安な気持ちが入り乱れ、今にも泣きそうな気分だった。
「別に、怪我はしてないけど……それより……」
龍之介は、地面で苦しんでいるカラス達に目をやっている。
「ごめんね……貴方達は何も悪くないのに……」美貴は自分がもっと早く、あいつを見つけられていたらと、カラス達を見て後悔していた。
「白ちゃん!」美貴は振向き、白菊に声をかける。
「承知……」
白菊は静かに返事をして、カラス達に近付いて行き、掌を広げ差出すと体が光だし、体力を補い治癒力を高める癒しの術をカラス達に掛ける。
手から広がった光がカラス達を包み、治ったカラス達は、何事も無かったかの様に飛んで行ったが、既に死んでしまったカラス達はその場で動かない。
美貴は、動かないカラス達を見て、
「ごめんね……白ちゃん、お願い……」と、涙を浮かべながら、白菊に言った。
白菊は静かに頷き、手に狐火を溜めると、
「成仏せいよ……」と、弔いの言葉を掛けながら、一羽ずつに狐火を落として行く。
既に魂の離れてしまったカラス達を、弔いの炎が包み、やがて蒸発する様に消えて行った。
美貴は、全てのカラスを荼毘に付したのを見て、龍之介に振向き、
「すみません、巻き込んでしまって。あの、私……」不安な気持ちで声を掛けると、
「いいよ……今は聴きたくない」龍之介は、素っ気無く美貴の言葉を遮った。
「でも……」明らかに不機嫌な龍之介に、遠慮気味に美貴が声を掛けると、
「だったら……気を付けて喋れよ。今の俺は気が立っているんだ……」と、龍之介は美貴を睨んだ。
「……ごめんなさい」龍之介に睨まれ、美貴は完全に嫌われたと思った。
龍之介を危険な目に合わせて、自分が普通では無い姿を曝してしまった。
美貴は、その絶望感から涙が滲んで来た。
更に、立ち上がった龍之介が、
「行くぞ……」と、吐き捨てる様に言った言葉に、
「……はい」と、返事をした時、涙が一筋零れた。
○鬼百合○
「信仁!信仁!起きろ信仁!……携帯鳴ってるぞ!……」将鬼丸が何故か焦った様子で、寝ている信仁を起こそうと揺り動かして居る。
三十朗の一軒で、企業とも折り合いが付き、昨夜は再び芸者を上げての宴会で、調子に乗って遅くまで飲んで酔い潰れた信仁は、午前十時前だと言うのに高鼾を上げて寝て居た。
携帯が鳴り続ける中、
「信仁!信仁!……」と、将鬼丸は必死で信仁を起こそうとしているが、
「うっ……あぁ……ふぅ……」と、信仁は寝返りを打って起きない。
将鬼丸は、携帯のサブモニターに表示されている名前を見ながら、
「信仁!百合殿だぞ!百合殿から電話!」と、焦って伝えると、
「へっ!」信仁は一瞬で飛び起き、携帯を手に取り見た。
サブモニターに〝鬼百合〟と表示されているのを見て、
「いっ!」と、驚き、焦ってお手玉の様に落としかけた携帯を掴んで、
「はっ、はい!もしもし!」信仁が慌てて電話に出ると、
「何やってたのよ!早く出なさいよ!」と、耳を劈く怒鳴り声が響いた。
信仁は、顔面を蒼白にしながら、
「ご、ごめん!トイレに入ってたから……」と、言い訳をして誤魔化した。
「まったく、呑気にトイレに入ってる場合意じゃ無いわよ!美貴ちゃん大変だったのよ!」
「えっ!美貴が?」聊か、理不尽とも思える百合の怒鳴り声で、信仁の二日酔いの頭は覚醒した。
そして百合は、美貴から聞いた事を信仁に報告した。
「それで、美貴は無事なんだな」百合の話を聞いて、信仁は狼狽ながら聞き直した。
「ええ、電話では何とも無いって言っていたわ……それで、もう近付いちゃ駄目だって言ったんだけど……ねぇ、おかしいと思わない?」百合が真面目な声で尋ねると、
「何がだ?」無事と聞いても美貴の事が心配な信仁は、他の事に頭が回らない。
「その、鎧を着た化物よ。ムカデなら分るけど、鎧を着た化物なんて……おかしいわよ」
その上、二日酔いで頭の重い信仁は、百合の問い掛けに、
「……あぁ、そうだな……」と、上の空で返事をした。
百合は、信仁の反応が遅いのと、話し方が普段とは違う事に気付き、
「……なに?……あなた……酔ってるの?……」と、信仁に尋ねると、
「えっ!な、何言ってんだよ、酔ってる訳無いだろ!」と、信仁は慌てて虚偽の報告をした。
実に、女の感とは恐ろしいもので、さも受話器の向こうから此方が見えているかの様に、的確に指摘する事がある。だから皆さんも気を付けた方が良い……何がだよ……
「……そうぉ……」信仁の慌て様に、百合は思いっきり不審な声を返して来た。
別に、祓いの仕事も無事終わり、今、酔っていても何ら問題は無いのだが、可愛い娘の美貴が危ない目に会っていた時に、自分は高級旅館で芸者を上げての宴会で享楽的な時を過ごしていた事が、重く負い目として圧し掛かっていた……更に、それが百合にばれたらと思うと……
「とにかく……美貴が無事なら良いじゃないか」
「良くないわよ!何、呑気な事言ってるのよ!」
「えっ?な、何がだよ……」百合の言葉の意味が分らず、信仁は狼狽ながら尋ねた。
「あなた、本当に大丈夫?頭、回ってる?」電話の向こうに、不機嫌な百合の顔が見える。
「何でだよ……」百合の馬鹿にした様な言葉に、信仁は少しむっとした。
「気の流れを監視している“お守り様〟達は、明後日にはマーキングの札を起動させるのよ!それまでに、本山に化物の事、報告しないと不味いでしょ!」
「あっ……」百合に怒鳴られて、信仁の思考はやっと現状を理解した。
「早く報告しないと、本山の命令に従わ無いで、アルバイトしてた事がばれるでしょうが!」
「……確かに、それは……不味い……」信仁の額から冷や汗が流れ出した。
「何も無い時なら問題ないけど、作戦期間中なのよ。懲罰ものよ……ばれたら……」
「そ、そうだな……」
「他のお役目達も、ばれない様に上手くやってるのよ……こんな事で、報酬ランク下げられでもしたら……分ってるでしょうね……」
「……はい……」殺気の篭った百合の声を聞いて、信仁の背筋に冷たい物が走った。
「だったら、早く行って調べてらっしゃい!」激怒する百合の怒鳴り声に、
「はいっ!」信仁は、慌てて返事をして電話を切った。
「ほんとに、もうぉ……頼り無いんだからぁ……」百合は、唇を尖らせ電話を切った。
「くっ……信仁殿ですか?」百合の不服そうな顔を見て、玉江は失笑して尋ねた。
「ええ……ほんと、未だに頼りない弟みたいだわ」そう言って、百合は椅子に座りなおした。
「そうでも有りますまい。信仁殿程の実力者も、そう多くは居りますまいに」
「そりゃ、そうだけど……」笑いを堪えながら話す玉江に、百合は不機嫌そうに答えた。
「百合殿が強過ぎたのですよ……」
「もう、止めてよ……」懐かしい思いに微笑む玉江の顔を見て、百合は恥ずかしそうに頬を赤く染めた。
「ねぇ、玉ちゃん。お願いがあるんだけど……」
「はい、何なりと」
「あの人の様子見て来てくれないかな……」
「それは、構いませんが……何故に……」
「どうも、緊張感が無いのよねぇ……あいつ……だから、玉ちゃんが居ると、気合が入ると思うの」
「はあぁ……」
「面倒だとは思うけど、お願い。もし、信仁が呆けた事してたら、がつんと言ってやってね」
「ええ、承知しました」再び、笑いを堪えながら玉江は、百合と信仁の若い頃を思い出し、変わっていないなと懐かしく思った。
○絶望○
合宿二日目の午後、バスに乗ってやって来た陶芸教室で、美貴は完全に放心状態だった。
昼食に何を食べたかすら覚えていない。
美貴は、手回しの轆轤の前に座り、焦点の合っていない目で手元を見詰めながら、ぺち、ぺち、と、粘土を機械的に叩いていた。
思い返せば返す程、今朝の事と言い、昨日の事と言い、龍之介に見せた失態は、美貴にとっては致命傷だった。
もう、情けなくて涙も出ない……
美貴は、始まりもしなかった恋愛の崩壊に、未練だけが心に重く残った。
「美貴ちゃん……何、作ってるの……」隣に座る同級生の弥生が、轆轤の上の粘土を不思議そうな目で見ながら尋ねた。
「えっ?」弥生の言葉に、美貴は我に帰り自分の手元を見た。
美貴は、轆轤の上でお好み焼きの様に広がっている粘土を見て、今、自分が何をしているのかに、やっと気が付いた。
「あっ……」龍之介の事で思い悩んで、自分でも何をしていたのか自覚の無い美貴は、陶芸教室で作る物とは思えない、奇妙な物体を作っていた自分を恥かしく思い、顔を赤くした。
同じテーブルの一年生達も、美貴の作っている、お好み焼きに注目している事に気付き、
「あ、あはっ、なんだろうねぇ……はははは……」と、笑うしかなかった。
結局、美貴は最初から作り直す事となり、フィンガーボウルの様な、口の広がった巨大なティーカップを作った。
落ち込んだまま、焼き上がった後の発送手続きを済ませて教室を出た時、自動販売機の前で、頭を掻き毟っている龍之介と目が会った。
「あっ……」美貴は、龍之介を見て固まった。
予期せずに落ち込んでいる原因の龍之介に突然会った事で、美貴は蛇に睨まれた蛙の如く、体が硬直して動かなかった。
見詰め合う二人の間に、気まずい沈黙が重く伸し掛かる。
美貴は、其の沈黙と龍之介の前に居る事が辛くて耐えられなくなり、突然、その場から逃げた出した。
夢中で走っていた美貴は、目の前にフェンスがある事に気付き、立ち止まる。
行き止まりのフェンスの前で美貴は、
「駄目だよ……先輩の顔、見れないよ……」と、目に涙を貯めながら呟いた。
次第に溢れる涙は、ぽたぽたと地面を濡らす。
その時、美貴は後ろから追いかけて来る龍之介の気配を感じた。
「……なんで、逃げるんだよ……」背後から、問い詰める様に龍之介が声をかけて来た。
美貴は、不機嫌そうな龍之介の声を聞くと、確実に龍之介に嫌われたと確信し、その絶望感から目の前が真っ暗になった。
そんな美貴の頭の中に、色々な思いが蘇って来る。
新学期が始まって二日目、図書室の場所を尋ねると、龍之介は『分かり難いから』と言って、隣の校舎の三階に有る図書室まで一緒に案内してくれた。
学食で、始めて見る食券のメニューに戸惑っていると、後ろから『早くしろ!』との声が飛んで来て、更に焦っている所を『一年生なんだぞ、待ってやれよ!』と、美貴の後ろに偶然並んだ龍之介が、後ろに向って怒鳴り助けてくれた。
其の後、戸惑っていた美貴の後ろから、お勧めメニューをレクチャーする龍之介が、美貴にはキラキラと輝いて見えた。
そんな美貴は、龍之介が美術部員だと聞くと、全くの未経験の美術部に躊躇いも無く入部した。
入部して、たった二ヶ月の短い時間だったが、美貴の思いは、長さに関係無く膨らんだ。
遠くから、見詰めているだけの時間。
テノールの響きに聞き惚れている時間。
溢れる思いを、伝えたい、知ってもらいたいと願いラブレターを認めた時間。
想いをいっぱい詰めて書き上げたラブレターを胸に抱き締め、届けようと時めいた時間。
そして、勇気が無く、渡せない事を悔しく思った時間。
そんな時間が好きだった。
思い悩みながらも、憧れているだけの時間が楽しかっ。
何気ない小さな幸せを思い描いて居る時間が幸せだった。
だけど……もう、幸せな時間は終わった。
龍之介に嫌われたと思うと美貴は、龍之介の前に居る事が、辛くてたまらなかった。
「……あのさ、別に……」
龍之介が後ろから掛けた言葉が引き金となって、美貴は振向き、その場を逃げ出した。
「おいっ!待てって!」
龍之介の隣を駆け抜けようとした時、突然腕を掴まれたが、
「えっ?」鬼の血筋である美貴の脚力が、龍之介の腕力に勝り、龍之介を引った。
「きゃっ!」バランスを崩し、美貴の腕を引っ張ったままの龍之介の体が、美貴にぶつかり、二人は、重なる様に倒れ、
「あっ……」気が付くと、龍之介が美貴の上に覆い被さって居た。
「すっ、すまん……」慌てて体を起こす龍之介と目が合う。
気不味い雰囲気の中、龍之介の顔を見ていると、美貴の目には再び涙が溢れて来た。
「……お前……」龍之介は美貴の涙を見て驚き、掴んでいた手を緩めた。
美貴は、近過ぎる龍之介の顔に、顔を赤く染め戸惑っていると、
「せっ、先輩……」突然、沈黙を破る声の方を見ると、司が驚いた様に、両手で口を覆って立っていた。
龍之介が司の方を向いた瞬間、美貴は勢い良く立ち上がり司の横を駆け抜けて、その場を逃げ出した。
美貴は勢い良く、前を良く見ずに走って、建物の角を曲がった瞬間、
どがぁっん!と、自動販売機に頭突きをかました。
「いったぁ……」と、再び尻餅を付いて倒れた美貴は、思いっきりぶつけた頭を両手で押さえた……頭突きをかまされた自動販売機は迷惑な事に、三cm程へこんでいる……
流石、鬼の血筋と言おうか、自動販売機の鉄板をへこまし、いったぁ……で済んでいる美貴は、其の痛みで少し冷静さを取り戻した。
そして、考えて見れば、自分のせいで迷惑を掛けたのに、ちゃんと説明もせず謝らないのは、龍之介に対して失礼だと美貴は感じた。
「そうよね……ちゃんと説明しないと……謝らないとね……」
美貴は、龍之介には既に嫌われたと思うと、逆に気が楽になって来た。
「もう、見られたんだし、鬼の血筋の事も話したって、構わないよね……ははは、そうよ……もう、怖い物なんかないわ……」と、虚ろな目で、真夏の真っ青な空に沸き立つ入道雲を見詰め、投げ遣りな気分に陥っていた。
『もう、どうせ……』と、虚しい思いと共に美貴は、ゆっくりと立ち上がり、龍之介の居る方へと向った。




