その弐
8月1日修正
○疑惑○
昼食も済んで、美術部のメンバーは、まだ二日酔いで寝ている葛西先生を無視して陶芸教室へとやって来た。
皆は、教材のセットを受け取り、手回しの轆轤の前に並んで座り、銘々に茶碗や湯飲みを作っている。
「どうしたんですか?先輩……元気無いですね……」司が、隣に座る龍之介に声を掛ける。
「あっ……うん……」龍之介は、心配そうに覗き込む司に、無気力に返事をした。
「先輩、楽しみにしてたんじゃ、なかったんですか?」司が、小首を傾げる可愛らしい仕草で、龍之介に尋ねると、
「あ、うん……ちょっとな……」と、龍之介は、司の方を見ようともせずに、無表情のまま、気の無い返事をした。
司は、そんな龍之介を訝しげに見ていると、その隣に座る邦博も元気が無い事に気付いた。
司は二人を見ながら、少し不満げに、可愛らしく唇を尖らせ、自分の作品に取り掛かった。
取り合えず、すし屋の湯呑みの様な豪快なコーヒーカップ(ジョッキとも言う)を作った龍之介は、皆と一緒に、焼き上がった後の発送手続きを済ませて、一人、教室の外へと出た。
皆は、陶芸教室に隣接している土産屋で、バスが来るまでの時間を潰している。
龍之介は、真っ青に抜ける青空に、遠くの山から湧き出す様に立ち昇っている入道雲を、自動販売機の前のベンチに座り、ぼーと見ながら昨日からの事を考えていた。
「なんだったんだよ……あれは……」考えれば考える程、もやもやした疑問が龍之介の心に降り積もって行き、更に、美貴に対して、
「ちゃんと謝らなきゃ……」と思うが、何と言えば良いのか分らない。
その、積もり積もった苛々に、我慢出来ずに、
「あぁぁぁぁぁ!」と、叫び、頭を掻き毟った時、
「あっ……」少し驚いた表情の美貴が、建物の中から出て来た。
「あっ……」龍之介も美貴に気付く。
二人は、気不味い沈黙が続く中、じっと見詰め合って居る。
暫くして、突然美貴は振向いて、建物の角を裏の方へと駆け出した。
「あっ、ちょっと……」
美貴の走り去る姿を見て龍之介は、咄嗟的に美貴の後を追った。
龍之介が追い掛けて建物の裏に回ると、フェンスで行き止まりに成った所に、美貴はじっと俯いて立っていた。
「……なんで、逃げるんだよ……」龍之介が後姿の美貴に、気不味い思いで尋ねると、
「……」美貴は、只、黙って俯いているだけだった。
尋ねてから龍之介は、昨日から起きている事を、聞いても話し辛そうにしていた美貴が逃げるもの当然かと、我ながら間の抜けた質問をしたもんだと悔やんだ。
ただ龍之介は、自分を見て怯える様に逃げる美貴に、無理やり問い質す様な事はしないと伝えたかった……そして、嫌な言い方をした事を謝りたかった。が、女の子の嫌がる様な事は、絶対にしたくないと思う優しい龍之介だが、女性経験皆無と言っても過言では無い彼は、怯える美貴に、どの様に話せば良いのか分からずに戸惑っていた。
「……あのさ、別に……」
龍之介が、遠慮気味に声を掛けながら美貴に近付くと、美貴は急に振向き、龍之介の横を逃げる様に駆け抜けた。
「おいっ!待てって!」
龍之介は反射的に振向き、美貴を止め様と咄嗟に美貴の腕を掴んだ……が、その瞬間、身長百七十五cmの龍之介が、信じられない事に、身長百四十三cmと小柄な美貴の勢いに引っ張られてバランスを崩した。
「えっ?」予期せぬ事に驚きながら、龍之介は手を掴んだまま、美貴へと倒れ込む。
「きゃっ!」美貴は、左手を掴まれたまま体を押され、尻餅を付いて倒れた所に、
「あっ……」と、龍之介が美貴を押し倒し覆い被さって来た。
そして美貴の、凹凸も弾力も、なあぁぁ・・・っんにも無い胸に、顔を押し当てている事に気付いた龍之介は、
「す、すまん……」と、気不味い雰囲気の中、慌てて体を起こし美貴の顔を見ると、
「……お前……」顔を赤く染め、目に涙を溜めている美貴に気付き驚いた。
龍之介は美貴の涙に戸惑い、掴んでいた手を放した時、
「せっ、先輩……」二人の前に、驚いた様に両手で口を覆って、司が立っていた。 龍之介が司の方を向いた瞬間、地面に寝そべる様に倒れていた美貴が、勢い良く立ち上がり司の横を駆け抜けて、その場を逃げ出した。
「あっ、美貴ちゃん……えっ、涙?」司は、自分の横を駆け抜けて行く美貴の涙を、振向き様にしっかりと確認した。 司は龍之介に振向くと、無言で軽蔑の眼差しを送っている……確実に誤解しているな。
「先輩……何やってたんですか?」司が横目で睨みながら龍之介に聞くと、
「……別に……」と、司の疑惑を知らずに龍之介は、美貴が泣いていたのは自分のせいなのかと、困惑して司から顔を逸らした。 そんな龍之介の様子を見て、司の疑惑は確信となった。
「美貴ちゃん、泣いてましたよ……ひどい!」と、司が睨みながら、龍之介に詰め寄ると、
「……」女の子を泣かせてしまった事に、龍之介は自己嫌悪に陥り、黙って俯いた。
「こんな所で、美貴ちゃん押し倒して……」司が、汚い物を見るかの様な目で睨むと、
「えっ?」と、龍之介は、やっと司の軽蔑しきった目の意味に感づいた。
「美貴ちゃんに、何したんですか!」司は、更に龍之介に詰め寄り叫ぶと、
「ちょっ、ちょっと待て!お前、なんか勘違いして無いか!」龍之介は慌てて問い質した。
司は、膝を付いている龍之介を軽蔑の眼差しで見下ろしながら、
「……言い訳……ですか……」と、冷たく言い放った。
「だから!違うって!お前、誤解してるって!」更に必死に訴える龍之介に、
「……けだもの……」と、再び司は冷たく言い捨てて、ぷいっと横を向いた。
そんな司を見て龍之介は、膝を付いたまま、
「だあぁぁぁぁ!違う!違う!違う!」と、両手で頭を抱え、絶望の叫びを上げ否定した。
叫ぶ龍之介を無視して、
「とにかく、警察へ……」と、振向き、その場を去ろうとする司を、
「まっ、待てっ!」と、止め様と手を伸ばした時、龍之介の脳裏に『高校二年生の男子、合宿で後輩の女子を襲う!」と言う、新聞の見出しが過ぎった。
「あ、あのう……何、騒いでいるんですか」と、錯乱する龍之介の前に、美貴が再び現れた。
「鬼追!」美貴の姿を見るなり、龍之介は涙を流しながら、美貴へと這い寄った。
「鬼追!司に説明してくれ!何も無かったよな!俺、何もして無いよな!」と、龍之介は必死で美貴の腕に縋り訴えた。
「えっ?」美貴は、何の事か分からずに、叫ぶ龍之介を、きょとんとした目で見ている。
「美貴ちゃん、離れて……」司が美貴の腕を引っ張って、龍之介から引き離す。
「大丈夫?怪我は無い?」と、司が心配そうに美貴に尋ねると、
「へっ?」と、何の事か分からない美貴は、目を丸くしている。
「この獣に、酷い事されて……」司は、再び龍之介を蔑んだ目で睨んだ。
「えっ?先輩が?何の事?」美貴の頭の上に?マークが飛び交っている。
「さっき、美貴ちゃん……この獣に押し倒されて、泣いてたじゃない……」と、司が美貴を哀れむ様な目で見詰めながら尋ねた。
龍之介は、目に涙を溜めながら、縋る様に美貴を見詰め、首を激しく左右に振っている。
「あっ!」そんな龍之介の哀れな姿を見て美貴は、司が誤解している事にやっと気付いた。
「なんでもないよ、司ちゃん。誤解だよ。先輩、何もして無いよ」と、自分が居ない間に、変な事になっていた事に、美貴は少し焦りながら、司の疑惑を否定した。
「本当に……」司はまだ疑っている。
「うん、本当だよ。ごめんね、司ちゃん。心配掛けて」と、美貴がにこやかに言うと、
「……そう、良かった」と、司は安心したのか、笑顔で答えた。
「あっ、そうだ!さっきね可愛いお皿があったの。美貴ちゃん一緒に行こ」
司が、にこやかに美貴の手を引っ張って、土産屋へと誘うと、
「えっ」と、美貴は、龍之介を見て少し躊躇ったが、司に引っ張られるままに、土産屋の方へと付いて行った。
静まり返った場所に、龍之介は只一人、立ち竦んでいた。
「なっ……」今のは何だったんだよと、思い起こす龍之介は、
「ばかやろうぅぅぅ!」と、入道雲に向って、やり場の無い怒りをぶつけた……雲も迷惑。
○現実逃避○
「いい……湯だなぁ……」ふうぅ……
「景色も良いし……」うんうん……
「極楽ですねぇ……」だよなぁ……
龍之介達、美術部男子三人は、越前海岸を一望出来る露天風呂から、合宿二日目の夕日を眺めながら幸福感に浸っていた。
そうだ、平和が一番だ。此処には、理解不能な現象は無いし、誤解も無い……あぁ、心が安らぐよ……と、後少しで海に消えそうな夕日を見て龍之介は思っていた。
「そう言えば、どうしたんです?先輩達。何か、お昼から元気なくて……」と、司が二人に向いて尋ねると、
「……そりゃな……あんな誤解されて、何度も獣呼ばわりされて……」と、龍之介が不機嫌そうに司から顔を背けて呟いた。
「もう……謝ったじゃないですか……」と、司が申し訳無さそうに苦笑いをしている。
「それより、邦博、お前どうしたんだよ……午前中、篠崎と絵を描いてから変だぞ……」
龍之介は其処まで言うと、やはり男女の間の事だと邦博も言い憎いのではと思い、
「あっ、いや、何も……無理に聞く気は無いんだけど……」と、言葉窄みになった。
ただ、邦博が何時から翔子と、そう言う関係だったのかと、龍之介には疑問が残った。
邦博は、暫く考え込むように目を瞑って俯いていたが、ゆっくりと龍之介の方を向いた。
邦博は深刻な表情で、
「いや……言って良いのか、どうか……」と、言って龍之介から目線をそらした。
「何なんだよ、それ……おい、何があったんだよ」龍之介は、そんな邦博が心配になり近付いて、肩を掴んで問いかけると、邦博は何かに怯える様に強く目を閉じている。
それを見て龍之介の脳裏に、高校生として有っては成らない男女の過ちが浮かんだ。
「おい!……まさか……はっきりしろよ!」邦博を見て龍之介は心配になり、強く肩を揺すると、邦博は意を決した様に龍之介に向かって、
「篠崎の事なんだが……」と、再び深刻な顔で、龍之介を見て言った。
「うん……」やっぱり出来ちゃったのかと、邦博の表情に身構え、龍之介が頷くと、
「………………」邦博は再び黙って俯いてしまった。
「早く言えよ!」龍之介が再び邦博の肩を揺すって催促すると、
「誰にも、言うなよ……特に篠崎には“絶対”に、僕が喋ったなんて言うなよ……」と、邦博は龍之介の目を見ながら、小声で怯える様に呟いた。
「分った。絶対に言わないよ」との龍之介の言葉に、司も頷いているのを見て、
「今日、午前中に篠崎と三人で絵を描いてて……」邦博は、やっと重い口を開いた。
「あの時、お前が鬼追を追いかけて行っただろ……」
「うん……」
「その後、篠崎が僕に近付いて来て言ったんだ……」
「うん」深刻そうに話す邦博の言葉に、二人は緊張して聞いている……気分は既に怪談気分。
「何で、鬼追を追いかけてったのかって……」
「鬼追を?」龍之介は話の内容から、想像していた事では無いと気付きほっとた。
「あっ、昨日の事、喋ったのか?」
「喋ってないよ……」
「そうか……」
「それから篠崎が、色々と龍之介の事を聞いて来たんだよ……」
「なんだよ……それ……」
「よく分らないけど、何で鬼追を追いかけて行ったのか、とか、鬼追とはどう言う関係なんだって……」
「どう言う意味だ?……」
「うん、その時は僕も訳が分らずに、知らないって言ってたら……そうしたら、篠崎が……」
「篠崎がどうした?」と、龍之介が邦博に詰め寄ると、司も一緒に寄って来た。
「鬼追の事、愛してるって……それで、『海神君が、私の大切な美貴ちゃんに何かしたら、覚悟しなさい』って……龍之介をただじゃ置かないって……」
「…………」
どれぐらいの沈黙が続いたろうか……水平線に沈んだ夕日は空を赤く染め、涼しい潮風が磯の香りを運んで来る。
「いい景色だなぁ……」赤く染まる水平線を眺めながら龍之介が呟くと、
「何、現実逃避してんだよ!」と、龍之介の前に立ち邦博は叫んだ。
すると、見たくはない、邦博の物が目の前に迫り、龍之介は慌てて立ち上がると、
「現実から逃げ出したくもなるだろうが!」と、叫んだ。
嫌な物を見た、いや、そうではなく、これ以上ややこしい事は勘弁してくれと、龍之介は聞かなかった事にしたかった。
「何だよそれ!篠崎がレズって事かよ!」
「知らないよ!本人はそう言ったんだよ!」
「第一、それで何で俺が篠崎に狙われるんだよ!」
「知らないよ!自分で聞けよ!」何やら、やけくそ気味に勢い付いて怒鳴りあう二人に、
「ちょっと男子!何、騒いでるの!」と、女湯から部長の怒鳴り声が聞こえ、慌てて二人は、
「何でもありませえぇん……」と、声を揃えて答え、すごすごと湯船に座った。
「そう……静かにしなさいよ!」
「はあぁい……」と、二人は素直に返事をした。
そして二人は、女湯の方を気にしながら近付き向かい合う。
「おい……それってまじか?」
「うん……それで龍之介が鬼追の事をどう思っているのかとか、色々聞かれて……」
「何か言ったのか?」邦博に詰め寄り問い質す龍之介に、
「何も言って無いよ。僕だって知らないし」邦博は不機嫌そうに答えた。
「だよな……でも何でそんな事で、怯えるみたいにしてんだ?」
不思議そうに邦博の顔を覗き込む龍之介に対して、邦博は少し間を置いて、
「……本当に何も知らないって言ったら篠崎が『嘘だったら分っているわね』って鉛筆を突きつけて来て……」と、怯える声で邦博は答えた。
「そんな……」一瞬、まさかと思ったが、翔子なら有り得ると、割と素直に龍之介は理解出来、自分も対象になっている事に恐怖し、美術部から犯罪者は出て欲しくないと思った。
「それでも、僕は本当に何も知らないって言い張ってたら、篠崎が……僕の首に手を回して……首に鉛筆を突き付けて……『強制的に喋らせる方法も有るのよ』って……」と、話す邦博の首筋には、以前は無かったはずの、ほくろの様な黒い丸がぽっちりと付いていた。
それを見て龍之介の背筋に何やら冷たい物が走り、
「本当に、犯罪だけは止めてくれよ……篠崎……」と願いながら、あの場所に帰って来た時は、そういう状態だったのかと理解した。
「嫌……そんなの、嫌……」
「えっ?」
今までの龍之介と邦博の会話に加らず、静かにしていた司が、話し込む二人の横で、肩を小刻みに震わせながら俯いて、何か呟いたかと思うと急に、
「いやあぁぁ!そんなの、いやあぁ!」と、拳を胸の前で握り締め、立ち上がり泣き叫んだ。
「なにっ?!」
「えっ?!」
一瞬、何事かと戸惑う二人だったが、この状態が非常に不味い事だと直ぐに気付き、
「いやあぁようぉぉ!そんなっぶっ、ごぼっ、がぼっ……」
司を黙らせるために、二人は同時に飛び掛り、湯船の中に押さえ込んだ。
「ちょっと!男子!何よ!今の悲鳴!司ちゃんなの!」
二人の懸念の通り、すぐさま女湯から部長の怒鳴り声がし、
「なっ、何でもありませぇん!」と、力いっぱい邦博が叫び返事した。
「がぼっ……ぶぼっ……」お湯の中から、声にならない泡が浮かんでは弾ける。
「何でもないって、今の悲鳴!司ちゃんでしょ!」
「ぶっ、ぶっぶぶぶぶ……」大きく弾けていた泡が次第に小さくなり消えて行く……
「何やってるの!司ちゃん、大丈夫なの!」
動かなくなった司に気付かずに、押さえている手を緩める事無く邦博は、
「大丈夫です!転んだだけでぇす!大丈夫です!」と、何と返事したら良いのか分らず咄嗟に答えたが、
「なによ!それっ!」その説明は、まったく部長を説得出来ていない。
「おい!邦博!」龍之介が動かなくなった司にやっと気付き、
「やば!」邦博と共に、気絶した司を慌てて引き上げる。
「司ちゃん!司ちゃん!」部長の絶叫が露天風呂に響いている。
「おい!司!しっかりしろ!」邦博が、司の後ろから肩を揺すり、
「つかさぁ!おきろぉ!」と、叫びながら龍之介が、司の頬に往復ビンタを食らわす。
「司ちゃん!司ちゃん!」部長の叫びが聞こえる中、
「あぅ……あっ」気絶していた司が気付き、
「いややぁぁぁ!」と、再び血の吐く様な叫びを上げる。
その瞬間、慌てて邦博が後ろから司を羽交い絞めにして、
「おいっ!黙れ!司!静かにしろ!」と、龍之介が前から、もがく司の口を必死に押さえ込んだ。しかし、この状況は第三者から見ると、明らかに襲っているとしか見えませんが……
「司ちゃん!司ちゃん!どうしたの!何があったの!」
「げっ!」他の女子達も騒ぎ出し、その状況に危機感を覚えた龍之介が、
「と、とにかく落ち着け!」焦りながら司を怒鳴り付けると、司はやっと我に帰り、
「落ち着いたか?落ち着いたか?」と、尋ねる龍之介を涙目で見ながら、こくこくと頷いた。
「落ち着いたな、落ち着いたな……」龍之介は確認しながら、慎重に司の口から手を離すと、
「部長に説明しろ!早く!」と、女湯を指差し、司に命令した。
「大丈夫でぇす、部長。何でもありませぇん」女湯に向って悲しそうな口調で司が答えると、
「司ちゃん、本当に大丈夫なのぉ?……警察呼ぶ?」まだ疑っている部長の最後通牒に、
「なんでやねん!」と、龍之介は強く抗議しながら『男子高校生二名、後輩の男子高校生を襲う!』と、言った新聞の見出しが目に浮かんだ。
「すみません、本当に大丈夫でぇす。ご心配かけましたぁ」
「本当に大丈夫?犯されて無い?お尻大丈夫?」
「するかぁ!」部長の一方的な偏見による疑惑に、二人は再び拳を振り上げ力強く否定した。
部長のディープな質問に、司は顔を赤くしながら、
「大丈夫でぇす」と、部長を安心させるためか、今度は少し明るく答えると、
「……そう?……静かにしなさいよ……」部長の少し残念そうな声が返って来た。
司の軽率な行動で、危うく自分達が社会から抹殺されそうになった事で、二人は司と向かい合い、睨み付けて殺気を放っている。
「まったく……どうしたんだよ……」
「説明しろよ」と、二人が司を睨みながら、にじり寄る。
迫る二人に司は、涙目のまま、何故か顔を赤らめ恥ずかしそうに俯いている。
その様子を見て、龍之介達は訳が分らず顔を見合わせていると、
「私、翔子お姉様の事……愛しているんです……」と、司が、はにかみながら答えた。
その言葉に二人は暫くは“空耳か”と、聞こえた事を繰り返し頭の中で確認していたが、やがて徐に振り返り、二人並んで海の方を向いて座った。
どれぐらいの沈黙が続いたろうか……暗くなり始めた空は、茜色から紺色へと美しいグラデーションに染まり、涼しい潮風が磯の香りを運んで来る。
「いい景色だなぁ……」
「明日も晴れるね」と、二人が幸福感に包まれていると、
「何、現実逃避してるんですか!」と、司が立ち上がり二人に叫んだ。
「あのな……」司に振り向いた龍之介が、
「! まぁ、座れ……」ある物に気付き、目線を反らして言うと、司は直ぐに理解して、
「きゃっ!」と、短い悲鳴と共に“前”を両手で押さえながら慌てて湯船に座った。
「……あのな、お前、本気か?」龍之介が確かめる様に司に聞くと、
「ええ……」司は、はにかみながら、こくりと頷いた。
「正気か、お前。あの、篠崎だぞ。分っているのか?」問い詰める龍之介に、
「何を言ってるんですか!翔子お姉様、素敵じゃ無いですか!」と、司は、むっとした表情で力強く反論した。
「素敵って……お前……」邦博が呆れたように聞くと、
「そうじゃないですか!綺麗で優しくて……理想の女性じゃないですか!」と、断言した。
龍之介と邦博は困惑を隠せない顔を見合わせると、再び司に向き直り、
「あのな、確かに綺麗なのは認める。異論は無い。だけど篠崎がリストカッターで、メンヘラ、電波なのは知っているな?」と、龍之介が心配そうに司に尋ねると、
「そんなの、個性じゃないですか!」と、司はきっぱりと答えた。
その、司の堂々とした態度に龍之介は戸惑いながら、
「はあぁ?個性で済ませるのかぁ?」と、肩を落とし呆れた。
「さっきの僕の話、聞いていただろ……」邦博が首筋を司に見せながら言うと、
「そんな事……例え傷付けられようと、陵辱されようと、恥辱の限りを受けようと……」
陶酔した様に目をきらきらと輝かせながら、遠くを見詰めて語る司を見て、
「うっ!」二人は危険な物を感じ、身構える。
「罵られ、鞭打たれても……あんな事やこんな事……ふふふ、翔子お姉様になら、何をされても……うふっ、嬉しい……」司は両方の頬に手をあて、恥ずかしそうに身を捩っている。
倒錯の世界に、どっぷりと浸かっている司の姿を見て、
「こ、こいつはMか!」と、二人は嫌悪を露わに後ろへと身を引いた。
どん引きの空気が流れる中、気を取り直した龍之介は長湯に疲れたのか、露天風呂の淵に積んである石の上に腰を掛け、タオルを腰に架け前を隠して、
「そりゃぁ、人、好き好き(すきずき)だろうけど……でも、お前、部長の事が好きだったんじゃ無いのか?」と、司に向かって聞いた……好き好きで済ますのも、どうかと思うが……
司も淵の岩に座りながら、
「部長は好きですよ。でも、部長は頼れるお姉様で、翔子お姉様への気持ちとは違います」と、タオルを胸から垂らし前を隠して答えた。
「でも、何で篠崎なんだ?」邦博も、龍之介の隣に腰をかけながら問い掛けると、
「先輩達は翔子お姉様を見て、何とも思わないのですか?あんな綺麗な人、滅多に居ませんよ。それに、私達一年生に優しくしてくださるし……素敵なお姉様じゃないですか」と、自信たっぷりに司が答えた。
司の言葉を聞いて、半ば呆れながら、
「でも、それだけじゃぁ……」と、言いかけた龍之介に対して、
「先輩!人を好きになるのに、何か理由が要るのですか!」と、司が立ち上がり力説する。
「いや、そう言う訳じゃないけど……」司の勢いに二人は驚いた。
日頃は、女の子にしか見えない容姿に、華奢で儚げな雰囲気の司が、龍之介達を迫力で押している。
「この気持ち……自分ではどうにも出来ない、熱く込み上げて来るこの気持ち……先輩達は人を好きになった事が無いんですか!この気持ち……分らないんですか!」
司は二人の前に歩みだし、悲しそうな顔で二人の顔を交互に見ながら問い掛けた。
「・・・・・・・」司の真剣な目に、二人は言葉が無かった。
○鬼の血○
夕食の時、龍之介達の前に翔子が座っている。
司と美貴は一年生達で集まって食事していたが、二人には笑いが無かった。
龍之介は、話でしか聞いた事の無い同性愛者が、目の前に居る事に妙な好奇心が沸いて、ちらりちらりと翔子の顔を見ていた。
そして、夕食が終わって龍之介達は部屋に戻って行った。
途中、邦博がトイレに向かい、龍之介は一人部屋に帰り、布団の上へ大の字に寝転がると、司が言っていた“人を好きになった事が無いんですか?”と言う言葉を思い出していた。
絵なんてまったく興味の無い龍之介が美術部に入ったのは、可愛い部長に釣られたからだ。
「……俺、本当に部長の事、好きなのかな?……いや、あんな可愛い人、他には居ない!」
肋が浮き出る胸は別として、スタイルも良く成績優秀で美人。
その部長を恋人に出来れば、周りの彼女が居ない暦=年齢の男共が羨ましがるのは目に見えている。
大学生の、二人の兄にも自慢出来る。
部長を連れて、町でデートしたら、きっと皆注目されるぞと、身勝手な自分に都合の良い妄想を広げていた龍之介だったが、
「……でも……」と、自分は司の様に、真剣に思っているのかと疑問に感じた。
「恋人欲しいよなあぁ」と、思っては居る物の、司みたいに真剣に成れない自分が居る。
「何で真剣になれないのだろ……」いや、真剣な筈なのに、
「振られたらなぁ……」と、振られた時に格好悪い自分が居るから。それが怖いから。
龍之介は、そんな怯えきっている自分に愛想を尽かし、
「どうせ相手にされないだろうなぁ……」と、冷めた気持ちに包まれた。
負のスパイラルに落ち込む龍之介は、更に、
「部長、誰か好きな人がいるんじゃ……」と、考える。それは自分では無い、他の誰か。
振られたら、それが誰かに知られたら格好悪い、恥かしいなんて、下らない体裁ばかり気にかかり、そして振られた後、部長に嫌われたら、部長の本心を知って自分が傷付いたらと、龍之介の心を恐怖が縛り付ける。
そして、嫌われたりするぐらいなら、嫌な思いをするぐらいなら、
「憧れているだけでも良いじゃね?……」と、投げ遣りな考えに逃げる自分に、
「本当に、それで良いのか?……それで満足なのか?……」と、問いかけると、
「くそっ……」見えない恐怖に、尻込みする自分が居る事に気付き情けなくなった。
『それが人を好きになるという事か?そんな体裁を気にする事なのか?臆病になることなのか?真剣に好きなら形振り構ってる場合じゃないだろ。行動しなきゃだめだろ。そんな事じゃ何時までも恋人なんて出来ないぞ』と、自分に言い聞かせるが、それが自身への虚勢である事を知っている龍之介は、更に情け無い思いが込み上げて来た。
「……ぱい……先輩!」
「あっ……なんだ司か……」食事から帰って来た司が、部屋の襖を半分開けて自分を呼んでいる事にやっと気付き、龍之介は寝返りを打つ様に司の方を向いた。
「あの、美貴ちゃんが、お話があるって……」まだ、露天風呂での事から立ち直れない司が、暗い表情で龍之介に伝えた。
「鬼追が……分かった」龍之介は、ゆっくりと立ち上がり、部屋の出口へと向う。
「邦博、呼んで来るから、待っててくれ」
「本田先輩なら、美貴ちゃんと一緒に、先に海岸で待ってます」
「そうか、分かった」龍之介は、司と一緒に部屋を出た。
龍之介は、司の案内で旅館を出て裏に回ると、海岸へ降りる階段があった。
其処には街頭が一つ点いていて、歩くには不自由しない明るさだった。
階段で海岸に下りると、幅が二mぐらいのコンクリートの道が堤防沿いに続いていて、其処に邦博と美貴がいた。
下に降りると少し暗くなったが、顔は確認出来るぐらいの明るさはあった。
美貴は、龍之介を見るとペコリと頭を下げた。
「どうした……やっと説明してくれるのか?」龍之介が近付きながら美貴に尋ねると、美貴は、こくりと頷いた。
「じゃ……お前が説明しやすいように進めてくれ」
「分かりました……じゃあ……まず驚かないで、下さいね……白ちゃん……」美貴が躊躇いがちに、三人を見ながら言うと、美貴の後ろに青白い光がぼおぅと現れた。
邦博も司も驚いて声が出ない。
その青白い光は、徐々に人の形へと輪郭を現し、少女の姿へと形作って行った。
三人の前に現れた、膝丈の白装束に赤い帯を巻いた、人間ならば十二・三歳ぐらいに見える少女には、尖った大きな耳と太く長い尻尾があった。
「やっぱり狐か?」目を細め訝しげに龍之介が言うと、
「海神先輩、やっぱり見えるんですね……」龍之介の反応は美貴には分かっていた様だ。
「えっ?狐って何だよ……人魂じゃないのか?」
「えっ?」邦博の怯える言葉に龍之介は思わず邦博の方を見た。
司は、邦博にしがみ付いて震えている。
「今、白ちゃん……この子の名前なんですが、白ちゃんには、霊体の姿を表してもらっています。でも、普通の人には狐火……と言うか、人魂にしか見えないんです」
「我は、伏見様の使いの眷族。八幡ノ白菊じゃ」見た目は十二・三歳位の女の子が、龍之介の背より少し高い所に浮いて、怖い目で睨んでいる。
「妖怪……」思わず龍之介が口走ると、
「無礼者!我を何と心得おるか!伏見様の使い、白狐の一族ぞ!下賎な妖狐供と一緒にするな!」と、龍之介を怒鳴り付けながら全身から青白い炎を上げると、その炎の迫力に男子三人は慌てて身構え後ずさりした……龍之介以外の二人には、人魂が炎を上げた様に見えてます。
「こら!白ちゃん!皆を怖がらせたら駄目でしょ!」美貴が一括すると、
「だってえぇ……」白菊から迫力の炎が、すっと消え、甘える様に美貴に訴えて……可愛い。
「この子は、まだ百歳にもなっていない子狐なんです」美貴の言葉に、
「ひどおぉい!主!妾はもう大人ですよ!」だだっ子みたいに抗議して……可愛い。
「何言っているの、大狐にも成れないくせに……」美貴は両手を腰にあて、白菊を睨みつけ冷たく言い放つと、
「……」白菊は美貴の冷たい言葉に、ふてくされた様にしゅんとして……可愛い。
最初とのギャップに呆気に取られて見ていた龍之介は、まだ脳味噌の整理が付かず、
「で……こいつが、どうかしたのか?」と、やけくそ気味に美貴に聞いた。
「白ちゃんは、私に取り憑いているんです……」
「取り憑くって……」あまり穏やかで無い事に、心配そうに龍之介が聞くと、
「あっ大丈夫です。取り憑くと言っても、パートナーみたいな物で、私が白ちゃんの力を借して貰っているんです」と、何でもないかの様に美貴が明るく答えた。
「それで、今日、鉛筆が燃えてたってか」龍之介は少しづつ、部分的に理解し始めた。
「そうです。あれは、白ちゃんの力を借りてたんです」
「言っときますけどね、我は神格化された白狐の一族なんですからねっ!まだ百にもなっていないからと言って、舐めてたら承知しないんだからぁ!」威勢良く腕を振り上げ、龍之介達に息巻く白菊だが、龍之介には普通の女の子にしか見えなかった。
「ちょっと黙ってなさい……この子は、こう見えても神通は高大なんです。だから、朝はなんとか出来ました……」そう言う美貴の表情は暗かった。
「朝って何だよ……何があったんだ」邦博は、少し慣れて来たみたいだ。
龍之介は、二人に午前中の事を簡単に説明した。
「何だよ……その化物みたいな奴は……」邦博は、信じられないと言う顔して美貴に聞くと、
「其の通りの、化物です」邦博の質問に、美貴はあっさりと答えた。
「でも、どうして……美貴ちゃんが……そんな事をしてるの?」司が、邦博にしがみ付いたまま、恐る恐る美貴に尋ねた。
「私が……と、言うより、私のお父さんの事なんだけど……お父さんは修験道の一派で瑾斂宗、鵬願寺と言うお寺に所属しています。本山の開祖は、役の行者様と言われています」
「じゃ、お前は何処かの宗教団体か?」龍之介が怪しいものをみる様な目で美貴を見ると、
「少し違います……お父さん達のグループは、僧侶でも信者でもありません……所属はしていますが……傭兵みたいなものです」美貴は言葉を選びながら慎重に答えた。
「傭兵?……で、何やってんだそこで」
「ちょっと簡単には説明しにくいのだけど……お父さん達がやっている事は……瑾斂宗の目的は、大雑把に言うと、この世の善悪のバランスを、保つ事にあるんです」
「善悪のバランス?」
「そうです。ある人に取っては善、でもある人に取っては悪……この世の全ての物は、そう言ったバランスの上に成り立っているのです」
「つまり、人によって、善悪は変わると……」
次第に白菊に対する恐怖が薄れて来たのか、龍之介と美貴に邦博と司が近付いて来た。
「で、善悪のバランスって、どうやって保ってるの?」と、腕を組んで、邦博は怪しげな者を見るような目をして美貴に聞いた。
「気の流って……分ります?」邦博の当然の態度に、少し遠慮気味に美貴が聞くと。
「えぇっと……風水だっけ?」確か、テレビでやってたなと龍之介が答えた。
「そうですね、風水で言う気とは少し違うんですが……」美貴は少し考え、
「陰陽五行の思想に近い物だと聞かされています。陰陽道って聞いた事ありませんか?」と、説明する美貴に、
「安倍の清明とかって言う奴か?」と、邦博が聞いたが、龍之介には誰の事か分らなかった。
「有名所では、そうですね。さまざまな要因の組み合わせが、力を相乗したり、打ち消したりすると思ってください」
「火、水、風、土とか言う奴だろ」と、説明する邦博の言葉を聞いて、
「おぉ、ゲームに良くある設定だな」やっと自分の知る範囲に有るものだと感じた。
「ははは……そんな所です」美貴は、細かい事は良いかと、諦めた様な顔で笑ってる。
「この世の物は不完全な存在なのです。不完全故に変化します。つまり、さまざまな要因が絡み合って変化し続けるのです。」
三人は分った様な、分らない様なという表情を浮かべている。
「概念として、分りやすい言葉で言いますと、良い気と、悪い気の流れを監視して、都合の悪い変化をしようとした時に、矯正すると言う事です」
「もうちょい、分りやすく……ならない?」
雰囲気は掴めるものの、今ひとつ理解出来ない様子で龍之介が聞き返した。
「そうですね、具体的に言うと……例えば、よく交通事故が起きる場所があるじゃないですか、事故の原因の一つに良くない気の流……つまり、人に取って都合の悪い気が流れ込んでいる場合が有るんです。事故が起きない様にするために、その気の流を止めたり、流を変えたりするんです。ただし、それはあくまでも人間の都合なんですけどね」
「どう言う意味だ」と、邦博が問い質す。
「この世には、人間だけが、存在している訳ではありませんから。重要なのは、様々な観点から見た、善悪のバランスなんです。無理に気の流れを変えたり止めたりすると、何処か他で弊害が生まれます。だから、本山は全体を監視して調整しているのです」
「で、鬼追は、気の流を変えたりしている訳?」邦博は、まだ疑いの目を向けている。
「とんでもない!私にそんな力はありませんよ。それをするのは修行を積んだ出家の僧侶達です。私達は“お役目”と呼ばれていて、おかしな所があれば其の原因を調べたり、バランスを崩して起きた弊害の除去……分りやすく言うと人に害をなす化物、妖怪の退治です」
「じゃ……昼間の奴も妖怪?」はっとして、龍之介が美貴を見る。
「そうですね……あれは少し違うと思うのですが……」考えながら美貴が答える。
「じゃぁ、あれはなんだったんだ?」
「……正直、分りません……私もあんなの始めてだったから……」
「そうか……」困った様に俯く美貴に、龍之介は諦めるように言った。
「普通、妖怪とは、気の変化した者なのです。気と言うエネルギーが、何かに取り込まれて変化したり、方向性を持って具現化した者なんです」
「だけど、そんな危ない事を高校生の……女の子の美貴ちゃんが何でしているの?」司が心配そうに美貴を見ながら尋ねると、
「お父さんの手伝いで……まだ、正式に役目は負った事は無いのよ。まあ、アルバイトね」と、美貴は、まだ怯えている司を気遣い、勤めて明るく答えた。
「でも、妖怪退治なんて、何で、お前に出来るんだよ……」
「それは……私達には、特別な、力があるんです……」龍之介の質問に美貴は答えながら、言葉窄みに黙ってしまった。
黙ってしまった美貴を、どうしたのかと見ていた龍之介は、
「特別な力って、昼間、背中が燃えたり、鉛筆が光ったりした事か?」と、聞いてみた。
美貴は、暫く黙っていたが、決心したかの様に龍之介の顔を見て、
「はい、そうです……私達の力は、血統によるもので、鬼の……鬼の血筋って言われています。起こりは、開祖の役の行者様に使えていた、前鬼、後鬼だと言われています……」
美貴にとって、それは普通の人には知られたく無い事だった。
「えっ?美貴ちゃん……鬼なの?」美貴の説明を聞いて司は怯える様に聞き返した。
「あっ、いえっ、そうじゃなくて……一応……人間なんだけど……」美貴は、予想通り自分が化物の様に思われた事が辛く、俯いて黙ってしまった。
「おい、司……」美貴の様子を見て、龍之介が司を睨むと、
「あっ……ごめん……そんなつもりじゃ……ごめんなさい」自分の言葉が、美貴を傷付けた事に司は気付き、慌てて美貴に謝った。
「ううん、いいの……鬼と言っても、御伽噺や、伝説に出て来るのとは違うの。特殊な能力を持った者を、人とは少し違うと言う意味で、鬼と呼んだと思うの。私達に受け継がれている血は……まあ、遺伝みたいなものね。普通の人より体力があったり、感が良かったりするの。それと、闘争心が強く、目の前の敵に対して戦う事には躊躇しないらしいんだけど……余り実感ないな、普段は、戦う事なんて無いし……それと自分の体から発生する気を制御したり、白ちゃんみたいな存在と一体化して、自分の力を高める事が出来るの」
そう言うと、美貴は手を前に突き出し、広げた掌を緑色に光らせる。それを見て、驚いている三人は、その現象が決して下らないトリックでは無い事を十分理解していた。
「ええっと……じゃ、少し整理するね」邦博は、そう言って、上を向いて考えている。
「まず、この世には、気と言う力があって、それは絶えず変化している。その、何とかと言うお寺は、其の流が不都合な変化をしない様に、監視して、不都合があればバランスを取ろうとする……此処までOK?」
「はい」と、美貴が邦博に向かって頷いた。
「で、鬼追達は、おかしな所があれば、調べたり、気の変化の影響を受けて、悪い妖怪となった者を退治している。其の力は、鬼の血統によるもので、白ちゃんとか妖怪の力を借りる事が出来る」
「妖怪とは何事じゃあぁ!それに、なれなれしく呼ぶなぁ!お前に、白ちゃんて呼ばれたくないわい!」と、白菊が叫びながら全身から大きな炎上げた。
「白ちゃん!」美貴に、また怒鳴られて白ちゃんはしゅんとしている……マジで、子供だな。
「本田先輩の仰った事で、良いと思います……」
どうも、家の子がすみませんと、悪戯をした子供に代わって母親が謝る様に、美貴は白菊の激怒に怯える邦博に、申し訳無さそうに少し笑みを浮かべ頭を下げながら答えた。
「で、何で露天風呂に、素っ裸で現れたんだ?」
龍之介の質問に、美貴の顔が薄暗い海岸でも、はっきり分るぐらい真っ赤になった。
「それは……その……前の日から、お父さんのお手伝いで、ちょっと調査に行っていたんです……そうしたら、私達には手におえない化物が現れて、少しは戦ったんですが……全然歯が立たなくて、はははは……ねえ……」と、情け無い笑顔で白菊を見る。
「ははは……駄目だったねぇ……」と、二人は顔を見合わせて、恥ずかしそうに笑っている。
「それで、やばかったので、慌てて主を、飛ばしたんじゃ」
「飛ばしたって……」言葉の意味が理解出来ず、龍之介が聞き返した。
「空間転移みたいなものかな?簡単に何度も出来るものじゃないんですけど……」
「慌てていたから、結局、主の体だけを飛ばす事になって仕もうて……」
白菊が恥かしそうに照れながら話すのを、美貴が恥かしそうに笑って聞いている所へ、
「で、何で男風呂?」と、龍之介が核心を突いて来ると、
「おっ、男風呂は偶然です!」美貴は顔を真っ赤にし、慌てて答えた。
「いわゆるテレポートみたいなものか……」横から邦博が割って入る。
「上手く空間転移出来れば、ですけど……実際、死ぬか生きるかの瀬戸際でなかったら、出来ない様な危険な業なんです……だって、出た先が地面の中……だったら……」
「それは……怖いな……」想像して邦博はぞっとした。
「線で移動する瞬間移動と違って、点で移動する空間転移は、距離は稼げますけど、力の消耗も大きいし、制御が難しいんです。遠見で先の空間を見据えるのですが、具体的なイメージが結べたとしても、出現先の……遠近感みたいなものが、少しでもずれると危ないんです」
「ははは、海なら大丈夫と思ったのじゃが……ちょっと短かったみたいで……ごめんなさい」
白菊が申し訳無さそうに美貴に謝っている。
「確かに、方向を決めても、ちょっとでも角度や距離がずれると、空の上か地面の中……か、今回は、お湯でよかったなぁ……」龍之介が美貴の顔を見ながら、しみじみと言うと、
「はい……」美貴は、恥かしそうに微笑みながら答えた。
「しかし、白狐の姿も力も、この目で見たけど……まだ、信じられない気分だな……」
龍之介が改めて腕を組んで、考える姿を見て、
「すぐに、信じるのは無理だと思いますよ……」と、司が既に諦めた様子で答えた。
「あっ、それより、海神先輩、貴方も鬼の血筋じゃ無いんですか?」
「俺が?何で?」思い出した様な美貴の質問に龍之介は戸惑った。
「白ちゃんの姿が見えるんでしょ。本田先輩達には狐火にしか見えてないはずです」
美貴の言葉に二人は顔を見合わせて頷いている。
「多分、何代も前の御先祖様に、鬼の血筋の人が居たのかも知れませんよ」と、龍之介ににこやかに話す美貴に、
「そっ、そう言うものなのか?」と、龍之介は驚きを隠せ無ず呟いた。
「じゃ、たまに幽霊みたいのが見えるのも、鬼の血のせいだったのか?」
「えっ?そうなのか?龍之介……お前、そんな事、一度も言わなかったじゃないか……」邦博が、始めて知る龍之介の秘密に驚いている。
「……だって、俺だけ見えるんだぜ……変な奴だと思われるだろうが……だから、言わなかったんだよ」
はにかみながら邦博に答える龍之介を、白菊が顔を寄せ、間近でじっと見ている。
「鬼の血が流れてるみたいじゃの……随分と薄いが……」目を細め呟く白菊の言葉を聞いて、
「えっ?」と、思わず龍之介は白菊を見た。
「普通、知らずに居る人は沢山いますよ」
「……そうか……」美貴に、そうは言われても、自分が普通では無い事を改めて知った龍之介は、妙な不安感に襲われていた。
「じゃ、俺も、鬼追みたいに手を光らせるのか?」そう言って、龍之介は自分の手を見る。
「いえ、鬼の血筋でも力が発現しないと無理です。それに、力が強く発現するのは、直系の血の濃い者と、隔世遺伝等で偶然に鬼の血が強く現れた者ぐらいです。濃い血筋の人でも発現しない人はいますし、力が発現しても消える人もいます」
「だったら、どうすれば力が発現するんだ?」
「それは……分かりません。私も自然と力が使えたので……」
「そうか……分った……」初めて知る自分の事に、消化不良的な不安が残ったが、これ以上聞いても仕方が無いかと思い、話を切り上げ、
「で、当然、秘密だよな……」と、美貴に向って尋ねると、
「はい!お願いします!」美貴は、手を合わせながら懇願した。
「分った。誰にも言わないよ。なっ、司」
「はっ、はい……」龍之介に促され、司はまだ怖いのか、ぎこちなく返事した。
どうせこんな話、誰も信じてはくれないだろうと思っている龍之介自信、美貴の話の殆どを良く理解出来ずに、何となく覚えているだけだった。そんなものである。
「で、返せよ……」行き成り、龍之介は美貴の前に手を出したが、
「えっ?……」美貴は何の事か分らず、じっと龍之介の差し出した掌を見詰ている。
「下着だよ!……返せよ」美貴の惚けた態度に龍之介は、自分の下心を顔に出さない様に催促すると、やっと理解した美貴は、また真っ赤になって俯いて黙ってしまった。
「おい……どうした?」龍之介は黙っている美貴の姿を見て『まさか、まだ俺の下着を着ているんじゃ無いだろうな』と、勘繰り期待してしまった。脱ぎたてのほかほかを……
「……ごめんなさい!燃やして捨てました!」暫くの沈黙の後、美貴は意を決して告白した。
「えっ!燃やした!」と、驚く龍之介に向って、
「はい!もう、跡形も無く!」と、美貴は力強く拳を握り締めきっぱりと言い放った。
「何でだよ!洗って返すって言っただろう!」想定外の美貴の言葉に驚き、龍之介は思わず怒鳴ってしまった。
「すみません!」龍之介の怒鳴り声に美貴は、更に頭を下げて謝っている。
「先輩!幾ら洗っても、恥ずかしいですよ、女の子にしたらぁ」横から司が、美貴を援護すると『貴様は、女の子の気持ちが分るとでも言いたい様だが、男の子の気持ちも理解しろ!』と、龍之介は拳を握り締め、司を思いっきり睨みながら心に思った……どうやら龍之介君、随分と楽しみにしていたみたいですね。
龍之介の眼光に、司が怯えていると、美貴が小さな体を更に小さくするように恐縮して、
「弁償します!ごめんなさい!」と、龍之介に謝った。
必死に謝っている美貴の姿が、可哀そうに思えてきた龍之介は、
「いいよ……もう……」と、この件に関しては諦める事を決意した……第一、新品が欲しい訳じゃないし、これ以上しつこく言うと、本性を曝け出してしまう破目になる。
それは、たかが下着のために、自分と言う人格を貶めるどころか、もし、他の女子にその噂が流れようものなら、それは光の速さで広がり、尾鰭が付きまくって、悪意有る方へと膨らみ、挙句の果てには『海神君が、後輩の女の子のパンティーを、泣いて嫌がるのを無理やりに引き剥がしたんだって……』と成り、それこそ、龍之介が社会的に抹殺されてしまう恐れがあったからだ。
「え、でもう……」と、申し訳無さそうに美貴が言うと、龍之介は、
「いいよ、もう……忘れろよ、いいからさ」と、欲よりも保身の為に未練を捨て去った。
「おまえ……なんか変な事考えておらんか?」何時の間にか龍之介の直ぐ横に現れた白菊が、龍之介の横顔を間近で睨みながら呟いた。
「!なっ!何がだよ……」こいつ、心が読めるのか?と、ぎくっと驚き龍之介が身を引く。
「白ちゃん、失礼よ……男の子だもの、それが普通よ」
美貴が白菊に向かって悟った様に嗜めると、
「お前な!」と、龍之介はやましい心がある分、美貴の悟った態度に腹を立てた。
「あっ、ごめんなさい……つい……」
「つい、って何だよ!ついって!」
図星な分、負い目に照れながらも強く抗議する龍之介に、美貴は慌てて頭を下げている。
「まあまあ……もう、遅いし旅館に帰ろ」と、龍之介の肩に手を置いて,邦博がなだめた。
「まあ、とにかく、今日の事は誰にも言わないから安心して。僕達はどうせ門外漢だしね」
「ありがとうございます!」邦博の言葉に美貴は、微笑みながら頭を下げた。
龍之介達が旅館に帰り掛けた時、
「あっ、海神先輩……」と、美貴が戸惑う様に、遠慮気味に声を掛けた。
「えっ?……なんだ?」龍之介が振向くと、
「あの……本当に済みませんでした……あの、色々と迷惑を掛けてしまって……」と、美貴が深く頭を下げながら謝った。
龍之介は、可哀そうまでに恐縮している美貴に、
「気にすんなよ、別に迷惑だなんて思って無いから」と、優しく微笑みながら答えた。
美貴は、龍之介の笑顔を見ると、お通夜の様な暗い顔をぱっと明るくして、
「ありがとうございます!」と、元気良く笑顔を浮かべて、再び頭を下げた。
「それに、俺も御免な。何か苛々してきつい言い方になって」
恥かしそうに謝る龍之介を、
「いえ、そんな事……」美貴は、目をキラキラさせて見詰めていた。
龍之介達は部屋に帰り、お茶を飲みながらさっきの話を振り返っていた。
「どうも、実感として……湧いてこないよなぁ」
「そうですね……でも、嘘を言っている様でもなかったし……」
龍之介が天井を眺めながら呟くと、司も思い出しながら天井を見て呟いた。
「自分の常識の範囲でしか正しいと認識出来ないのは、しょうがないよ。鬼追が風呂に現れた事も、今日の昼の話も、さっき見た狐火も、僕達の知っている常識の通用する範囲じゃない。だから、それについての説明が、理解出来る常識の範囲である訳が無い……科学的でも、オカルトでもね……この目で見た事に対して、信じるとか、信じないではなく、事実である以上、受け入れるしかないんだよ」と、邦博が二人に向かって、腕を組みながら説明した。
龍之介は邦博の説明を聞いて『確かに、転送装置ってまだ無いよな』と、思っていた。
「そうだな……急に現れた事に対して、俺達が理解出来る説明が付くとは思えんな」
「そう言う事だ。それに何であれ、僕達は関わりあう事が出来ないんだらか……」
「そうだな……」龍之介は邦博の言葉で、今日の出来事を思い返していると、
「そう言えば、司、風呂で言ってた事、本気か?」と、龍之介が真面目な顔で聞くと、
「えっ?」急に聞かれた司は、龍之介の方へと振向き、
「……篠崎の事」と、龍之介に言われ、司の顔が暗く曇った。
「……本気ですよ。翔子お姉様の事、本気で愛しています」
司は真剣な眼差しで、龍之介の目を真っ直ぐに見て答えると、
「そうか……」龍之介は、そう言って司から目をそらせた。
振られる事を恐れず、誰憚らず、堂々と自分の好きな人の名前を言える司。
龍之介は司が羨ましかった。いや、格好良いとさえ思えた。
女の様な見てくれとは違い、男らしく堂々としているとも思ったが、これは司にとっては褒め言葉にはなってはいない。
「でも、篠崎は鬼追の事を好きなんだろ……どうするんだよ?」
「どうするって……そうですね、今まで通り、お姉様の事をお慕い続けます」
邦博の質問に、寂しい笑顔を浮かべて司は答えた。
「でも、何もしない訳じゃありませんよ。お姉様に振り向いてもらう努力はしますよ」
努めて明るく答える司が、二人にはいじらしく思えた。
「鬼追は知っているのかな?」
「今日、お土産を買いに行ってからは一緒にいましたけど、そんな様子は無かったですよ」
司はそう言うと、少し間を置き二人の方を向いて、
「美貴ちゃんの事は良い子だと思っているし……お姉様が、本気で、美貴ちゃんの事……好きなら……私……私……どうしたら良いのか分からない……やっぱり諦めるしか……」
話の途中で司の目から涙が溢れ出し、言葉が途切れ途切れになり、最後はテーブルに突っ伏して肩を震わせ、声を殺して泣き出した。
司は二人の前で、自分の感情を抑えようとしていたが、とうとう押さえ切れなくなった。
邦博は司の横に座り直し、肩に手を置き司を慰めている。
龍之介は、司の真剣な気持ちが分るだけに、可哀そうに思えて仕方が無かった。