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その壱

8/1修正

 □○変形六角関係顛末記○□


○始まりの露天風呂○


「いい……湯だなぁ……」ふうぅ……

「景色も良いし……」うんうん……

「極楽ですねぇ……」だよなぁ……

 視界いっぱいに、地球の曲率を教えてくれる水平線が広がり、緋色に輝く夕日が今にも沈みきろうとしている。

 夏休みの序盤を利用した三泊四日の合宿初日、私立斑鳩大学付属高校の美術部男子三人は、越前海岸を一望出来る露天風呂から夕日を眺め、幸福感に浸っていた。

 掛け流しの広い岩風呂から、雄大な美しい風景を眺め、

「この良さが分かる、日本人に生まれてよかったよ……」と、二年生の海神龍之介(わたつみりゅうのすけ)は、同級生の本田邦博(ほんだくにひろ)と後輩の羽山司(はやまつかさ)と共に、しみじみと感じ入っていた。

 貸切状態の露天風呂で、心と体を癒されていると、

「海神先輩、中学の時、柔道部だったて本当なんですか?」と、司が何気なく龍之介に尋ねた。

 海神龍之介は、身長百七十五cm、容姿は、目付きが悪い……いや、失敬、鋭く、季節の変わり目には散髪する無精な髪形と相俟って、見方によってはワイルドなタイプ……かもしれない。

「おお、これを見れば分かるだろ。初段取って、結構強かったんだぜ」龍之介は、にこやかに引き締まった逆三角形の体をアピールし、腕に力瘤を作って司へと自慢げに見せている。

「まぁ、筋肉を膨らませただけの、キモイへなちょこボディビルダーとは違う、無駄の無い格闘系の筋肉ってとこかな」と、自画自賛する龍之介に、

「でも、体育会系特有の脳味噌筋肉的な厳つさは無いですね」と、司が感想を述べると、

「でしょうぉ」龍之介は嬉しそうに、人差し指を口の前に立て、お(ねぇ)のポーズを決める。

 目付きが悪い割には、お茶目な龍之介だった。

 しかし司は、ポーズを決めている龍之介を、汚物を見る様な目で見ながら、

「……じゃ、何で美術部に入ったんですか?うちの学校にも柔道部在るのに……弱いけど」

 当然の事を、当たり前の様に尋ねると、

「まぁ、色々と有ってな……でも、考えてみろよ。男ばっかしのクラブなんて、面白いか?俺はそれが嫌に成ったんだよ……第一、何で俺が斑鳩選んだと思ってんだよ」

「えっ?」思いも寄らない質問に、司は戸惑った。

「結構、必死で受験勉強したんだぜ。進学校とまでは行かなくても、此処、結構レベル高かったからなまぁ、大学が付いてるのも魅力だけど、なんと言っても女子が多い……しかも、女子の制服が可愛い……これは重要なファクターだ……」

「はあぁ……」

 右手の人差し指を立てて、司に顔を寄せて真剣な目で語る龍之介に、女子の多いこの学校を選んだ龍之介の目的が、司には何となく分かり、呆れる様に返事した。

「まぁ、五年前までは、お嬢様学校だったしねぇ。まだ、四分の三が女子だね」少子化の影響を龍之介の隣に座る邦博が、ニコニコしながら解説した。

「やっぱさ、高校生活で彼女が居るか居ないかで、天国と地獄だろ」

「……いや、其処までは……」拳を握り力説する龍之介に邦博が呆れている。

「本田先輩も女の子が目当てなんですかぁ?」司が龍之介の目的を露骨に上げて、軽蔑する様な目付きで邦博に尋ねた。

「いやぁ……僕は……」邦博が言い難そうに、引きつった笑顔を浮かべていると、

「こいつとは、小学校からの友達なんだけど、凄いんだぜ、ずっと成績は学年でもトップクラスだったんだ。まぁ、本来なら、俺と同じ学校なんて来るはず無かったんだけどな……」と、龍之介は苦笑いしながら邦博を見た。

 本田邦博は、身長は龍之介より少し低く百七十三cmで痩せていて、如何にも秀才タイプと言った感じで、ひ弱な印象がする。長めの髪の毛を横分けにして、眼鏡を掛けているが、まぁ、イケメンの部類に入るのでは?……因みに、ヨン様には似ていない。

「僕、本命の学校の受験日に、三十九度の熱を出しちゃって……それで、滑り止めに受けた斑鳩に通う事になっちゃって、ははは……」邦博が、少し恥かしそうに笑いながら答えると、

「そうだったんですか……」と、司は少し身を捻り軽く握った拳を口の前に当てて、まるで女性の様な仕草で邦博を同情する様に見詰めた。

「おい……司……」そんな司を、龍之介は白けた目で見ながら、

「その仕草、何とかならんのか……」と、呆れながら言うと、

「何の事ですか……」司は頬を膨らませて、龍之介を可愛い目で睨んだ。

 一年生で後輩の羽山司は……なんと説明していいのやら……

 身長は百五十五cmと小柄で、華奢で色白……その姿は、どう見ても女だ……

 背中の中程まで伸ばした綺麗なストレートの黒髪、しかも美人(?)と言っても良い顔立ち……流石に声までは女とは言えないが、高く澄んだ声は容姿に合っている。

 露天風呂で、ぶら下がった現物を確認しても、司は女に見える……結構立派な物でしたが。

「その、お釜みたいな……」龍之介が言い掛けた時、

「失礼な事、言わないで下さい!あんな変態と一緒にしないで下さい!」と、司は両手の拳を握りながら、龍之介に激しく抗議した。

「私は女の子が好きなんです!だから女らしくして何が悪いんですか!」だから何処が、どう違うんだと、聊か解釈しがたい理屈を、司が龍之介達に力強くぶつけると、

「……よう分らんが……」と、龍之介と邦博は顔を見合わせて、首を捻った。

 因みに、司の愛読書は『マリア様が見てる』である。

「……私、元々女の子みたいだから、中学の時、男子達に苛められていて……裸にされて……酷い事されて……」司が悲しそうに語って居るかと思うと、

「だから、男なんて大嫌いなんです!」急に、握り拳を胸の前で強く握り締めて叫んだ。

「うっ、そ、そうか……」司の力強い主張に、龍之介は驚きながらも、

「まぁ、男が嫌いだと言うのは、ある意味健全だな……」と、同意した。

「だから、本当は女子校に行きたかったのに……こんな物が付いてるから……女の子が好きなのに、こんな物のせいで行けなくて……」司は悔しそうに、龍之介達から顔を逸らす。

「……」苦悩する司の姿を見て、龍之介達は呆れながら、どう対応して良いのやら分らずに困惑している。

「いっその事、ちょん切ってしまおうかと……」歯噛みして、無念の思いに涙を浮かべる司。

「 !  」その言葉に、龍之介達は思わず股間を両手で押さえた。

 それは、健全な男子だと自負している龍之介にとっては、到底同意出来る事ではなかった。

「だから、女の子の多い、斑鳩を選んだのに……美術部に入ったら、こんなのが居て……」

「おい……」“こんなの”と言われて、思わず二人は同時に突っ込んだ。

「でも、良かった。先輩達、良い人で。私、最初は随分と警戒してたんですけど、先輩達って、馬鹿みたいにお人好しで……」と、にこやかに話す司の言葉を遮り、

「おい!」と、今度は力強く、二人は再び突っ込んだ。

 二人の抗議の声に驚きながら、司は自分の失言に気付き、

「あっ、ごっ、ごめんなさい!あの、お節介なぐらい、面倒見が良くてって言いたくて……」

「あのな!」訂正になっていない司の言い訳に、更に二人は突っ込んだ……その時、

どぼおぉぉぉん!と、突然、目の前で爆発したような水柱……いや、湯柱が上がった。

「あっ!」と、大きく目を見開く龍之介。

「いっ!」と、腕で防御する様に体を反らす邦博。

「うっ!」と、湯の中に頭をめる司。

 三人が三様の反応を示し、何が起きたのか理解出来ない現状に困惑していると、高く立ち昇ったった湯柱が納まり、雨粒の様な飛沫が降り注ぐ中、目の前約三m前方の露天風呂中央から広がる、大きな波紋がお湯を揺らしていた。

「なっ、何が起きたんだ?……」三人は恐る恐る爆心地の方を見た。

 世の中には二種類の人間がいる。理解出来ない事が起きると、それに好奇心を持つ者と、それを無かった事にする者である。此処にいる三人は好奇心を持った様だ。

 三人は警戒しながらその場に立ち上がり、波紋の中心部に注目していると、何やら白い影がゆっくりと浮んで来て、白くて丸い物が、プカッと湯面に姿を現した。

「尻?……」湯面に現れた物は、その形状から“尻”であると判断出来たが、何故此処に尻が浮いているのかと、龍之介は目の前で起きている現状を理解しようと努力した。

 現状が理解出来ない三人は、取り合えず確かめようと顔を見合わせ、お互いの意思の確認をするかの様に顔を見合わせ頷くと、ゆっくりと近付て行く……と、次の瞬間、ザバアァと、お湯の中から上半身を跳ね上げて尻の本体が現れ、龍之介達に背を向けて正座の様に座った。

「えっ?女!」その後姿から“裸の女"と言う所までは認識出来たが、

「なんで……男湯に?」と、更に理解出来ない現象に龍之介は身を構え一歩引いた……全裸かどうかは分からないが、期待はしたい。

 三人に囲まれた中央で、正座する様に座っている女は、頭をプルプルと横に振ると、濡れた長い髪の毛を顔からたくし上げて、きょろきょろと周りを見回している。

 どうやら、女の方も現状が良く理解出来ていない様である。

 そして、見回している女の横顔を見て、龍之介は知っている顔だと気付いた。

「鬼追?……」何で?と言う思いと共に、龍之介の口から言葉が洩れた。

 龍之介の声に気付いて、女は振向き龍之介の方へと視線を移す……可愛い少女であった。

 目線が会い、龍之介は突然現れた女が、美術部の後輩の鬼追美貴(きおいみき)である事を確認した。     

 美貴も、目の前に居るのが龍之介である事を認識したようだが、この現状を、今もって理解出来ていないのか、キョトンとした表情で、龍之介達を見回していた……が、突然、

「きゃぁぁぁ!」と、甲高い悲鳴を上げながら、掌で顔を隠し飛び上がり、慌てて後ろを向いた。

「あっ!やば!前……」見られたか?と、無防備に立っていた龍之介は、美貴の様子を見て気付き、慌てて前を押さえて湯船に座り込んだ。

 それに連れられ、現状に気付いた邦博と司も慌てて前を隠して湯船に座り込んだ。

 風呂場で同性に見られてた所で問題は無いが(自慢するほどの物でも無いが……)面識のある、同じクラブの後輩の女子に見られたとなると、精神的なダメージは計り知れない。

「何んだよ!お前!何で此処にいるんだよ!」恥ずかしさと気まずさで、座り込んでも前を隠す様に押さえながら、龍之介は美貴に向かって叫んだ。が、今度は逆に龍之介の視線の先には、後ろを向いて立っている、美貴の可愛いお尻があった。刺激的な光景である。

 美貴は龍之介達の前方約三mの地点で、後ろ向きで立ったまま、首だけ回して指の隙間から安全と現状を確認する様に、ちらりちらりと三人の方を見ている。

 ただし、今もって美貴は“全裸”と言う自分の現状には気付いていない様子だった。

 混乱しながらも、龍之介は目をぎゅっと瞑って横を向きながら、

「おっ、お前は、遅れて明日から参加する予定じゃなかったのか!第一なんで、男湯にいるんだよ!」と、無防備に立っている美貴に対して叫んだ。

 世の中には二種類の男が居る。女の裸に興味が在る奴と、無い奴である。

 当然、龍之介は前者であり、女の尻が目の前に、と言う光景に好奇心が奮い立ったが、対象が面識のある女性である以上、見てはいけないと判断したのである。なかなか紳士である。

 龍之介が叫んだのを聞いて、美貴は覆っていた手を顔から離し、きょろきょろと回りを見渡すと、自分も全裸である事にやっと気付き、再び甲高い、所謂(いわゆる)、絹を引き裂く様な悲鳴を上げ、手で上下の“前”を隠しながら飛び込む様に湯船に座り込んだ。

 恥ずかしさのあまり身を(すく)める美貴を他所に、女性の悲鳴を生まれて初めてリアルで聞いた龍之介は、悲鳴って綺麗なソプラノだなぁ……なんて別次元に思考が飛んでいた。

「何でも良いから早く出ろ!僕達は後ろ向いててやるから!」邦博が叫ぶのを聞いて、やっと、別次元から帰って来た龍之介は、司と共に後ろを向いた。

「すみませぇん!」三人が後ろを向くのを確認する事も無く立ち上がり、美貴は泣き声に近い大声で誤りながら、慌てて走って出て行った。 

 美貴の慌て様に、後ろを向いたままの龍之介は、転ぶなよと、心に念じたが、露天風呂から中に入る扉の辺りで、どてっ☆!と、転ぶ音が聞こえた。お約束な奴だ。

「ちょっと!男子!何、騒いでるの!」行き成り響く女性の怒鳴り声に、

「あっ、部長!」と、龍之介は隣の女湯の方を向いて、

「何でもありませえぇん!」としか、返答する言葉が見つからず、半ばやけくそ気味で女湯の方に向かって叫んだ。

「まさか……司ちゃん襲ってんじゃないでしょうね!司ちゃん大丈夫!」との問いに対して、

「するかっ!」と、龍之介と邦博は、間髪入れず二人揃って、強く握り締めた拳を女湯の方に突き上げ、力の限りの叫びで抗議した。

 シュプレヒコールを挙げる二人の横で、

「大丈夫でえぇす……」と、司が二人の剣幕に、少し怯えながら女湯の方に返事した。

「……そう……静かにしなさいよ」司の返事に、明らかに不審そうな声が帰って来た事に龍之介は、自分の人格が身に覚えの無い事で疑われている事に不満があったが、

「はあぁい」と、現状を説明する(すべ)も無く、他の二人と共に声を揃えて返事した。

 暫く、大人しく湯船に浸かり、景色を眺めていた龍之介が、

「そろそろ出るか……」治まったか?(何が?)と、隣に座る邦博に問いかける。

「そうだな……」どうやら邦博も治まった様だ……なにが。

「ほんと、男の体って嫌ね。大きくなちゃって……(みにく)い」司が軽蔑した声で小さく呟くと、

「悪いかあぁ!」と、二人は立ち上がり司に向かって、不可抗力による正当性を訴えた。

「ひっ!」突然の二人の怒鳴り声の合唱に、司はビクッと体を震わせ驚いた。

「全く……恥かしいだろうが……」若い男子として、正常な反応ではあるのだが……

「ごめんなさい……」と、申し訳無さそうに手を前にして下を向く司だが、その仕草も女性的で、龍之介にとっては目のやり場に困る始末である。

 今時、ネットで女性の裸なんぞは、龍之介も見飽きるぐらい見てはいるものの、面識のある女性の全裸(なま)とあっては話は違ってくる。

 先程の突然現れた鬼追美貴は、美術部の後輩で司と同じ一年生だ。

 容姿は、目がクリッと大きいのが特徴で、腰まである長いストレートの黒髪は、普段は高い位置でポニーテールにまとめている。身長は百四十三cmと高校一年生としては随分と小柄で、体型は、はっきり言って、小学生である。

 肝心な部分は確認出来なかったものの、龍之介の脳裏には、美貴の白くて可愛いお尻が焼き付いて消えないでいた……龍之介の名誉の為に書き加えるが、決して彼はロリではない。

「でも、美貴ちゃんって、胸、小さかったですね……」しらけた場を和ませようと、にっこりと笑って司が二人に向かって言うと、

「言うなあぁ!」

「思い出させるなあぁ!」と、返って火に油を注いだ結果となった。

「お前は平気なのかよ!」龍之介は司に対して力強く抗議し、慌てて風呂に浸かった。

 再び二人の下半身は臨戦態勢に入った……お年頃ですもの。

 司はタオルを胸から垂らし前を隠して、龍之介の剣幕におろおろしている……だから女みたいにするの、やめろって。

「鳩山幸雄……小沢一郎……出川……なんまんだぶ、なんまんだぶ……」

「宇宙人……フランケン……小豆研ぎ……主よ、我を正しき道に導きたまえ……」

 龍之介達は、必死で“()える”事を、脳内に想い描く事に専念し、何とか平常心を取り戻し危機は回避され、デフコン2は解除となった。

「……出るぞ……」余計な事言うなよと言いたげに、司を睨みながら、ちょっと湯中(ゆあたり)り気味の二人が脱衣所へと向かった。

 脱衣所では、司の着替える姿は艶かし過ぎて、二人は司と距離を取っている。別に男同士だから気にする必要は無いのだが、司の裸を見る事に、二人は妙な罪悪感を持っていた。

 更に、司の裸を見て、万が一にも欲情する事なんて、二人のプライドが許さなかった。

「ん?あれ?おかしいな……」

「どうした?龍之介」

 龍之介が脱衣籠の周りを、何やらごそごそと探している姿を見て邦博が声をかけた。

「いや……無いんだ……着替えが……」

「えっ?」

 龍之介はタオルを腰に巻いたまま、確かに持って来たはずの新品の下着と浴衣を、脱衣籠を持ち上げ必死に周りを探している……旅行に行った時って新品下ろしません?

「あっ、もしかして……鬼追さんが、着て行ったんじゃありませんか?」

「あっ……あいつ……確かに、それしか考えられんな……」司の言葉に、龍之介は確信した。

 全裸で突然現れた美貴が、此処から出る(すべ)は考えるまでも無い……正に着服。

「邦博、司、鬼追を探してくれ!」

「えっ、うん……いいけど」龍之介の言葉に、邦博は疑問を持つ様な頼りない返事を返した。

「なんだよ?早く行けって、このままじゃ何も出来ないだろが!」煮え切らない邦博の態度に少し苛付きながら龍之介が怒鳴る。

「ちょっと、待って下さい……髪の毛、乾かさないと……」司が浴衣姿で、長い髪の毛を横に垂らし、バスタオルでもみもみと揉み込む様に拭きながら龍之介の所にやって来た。

 その女にしか見えない仕草と、浴衣姿の帯の位置が女性の様に上にある事に、龍之介は訳の分らない怒りを覚え、

「とっとと行って来い!」と、司に怒鳴り付けると、

「もう……分かりました、探してきます」と、司は不満そうにむくれて、バスタオルで髪の毛を包むように巻いて出て行った。

 二人が出て行った後、龍之介はする事も無く、とりあえずバスタオルだけでも腰に巻こうと探して見るが、バスタオルもどうやら美貴が持って行ったらしく見当たらなかった。 

 龍之介は仕方なく、湿ったタオルを腰に巻いて、扇風機の前に在る長椅子に座った。

 何をするでも無く、一人、扇風機を見詰め、待つ龍之介……

「あ ぁ ぁ ぁ ぁ……」扇風機に向かって声を出す……やって見たくなりません?

「せんぱぁい……」其処へ司が、入り口から顔だけ出して呼んでいる。

「わぁっと!……何だ?見つかったか?」突然の声に驚き、自分の間抜けな姿を見られたのでは無いかと心配そうに司を見た。

「はい……でも、どうします……」どうやら、見られて無いみたいですね。

「此処へ連れて来いよ」龍之介は椅子から立ち上がって司に近付き、何気なく言うと、

「そんな事、出来ませんよ!此処、男湯ですよ!」司が少し怒る様に声を荒げて抗議した。

「あっ、そうか……ちっ……」龍之介は探せとは言った物の、今更ながら邦博の煮え切らない態度が理解出来た。たしかに見つけたからと言って、どうしようも無い。

 結局、最初からこうすれば良かった思いながら、

「すまん、司。部屋から鞄持って来てくれ。それと、浴衣も貰って来てくれ」と、後悔交じりに、司に向かって頼むと、

「はあぁい」と、司は可愛い返事を残して出て行った。

 暫く待っていると、司が着替えの入った鞄と浴衣持って来て、龍之介はやっと風呂から出る事が出来た。

 風呂から出てロビーの方に曲がる角で、頭をバスタオルで巻いた美貴が邦博と共にいた。

「おい!」と、美貴を見るなり勢い良く怒鳴り付けたが、小さな美貴が更に体を小さくして、申し訳無さそうに立っている姿を見ると、龍之介は、

「勘弁してくれよ……」何か可哀そうにも思えて来て、怒りは消えて脱力感だけが残った。

「すみません!ご迷惑掛けました……」迷惑そうに話す龍之介に、深々と頭を下げている美貴の姿を見て、龍之介は今更仕方が無い事だと諦めた。

「あの、ちゃんと洗って返しますから、明日、宅急便で荷物が届きますから、それまで貸してください!」と、顔を真っ赤にして、必死になって訴える美貴の言葉を聞いて、

「何も今すぐに脱げとは言わんよ……」何なら、洗わずに返して貰っても……等と善からぬ事が浮かんだが、顔には出さない様にと堪えた。

「それより、何で鬼追は、あそこにいたんだ?それを説明してくれよ」と、邦博が聞くと、

「…………」いや、黙ってないで……

 龍之介達三人は、美貴を取り囲んで答えを待っている。美貴は困った様に俯いている。

 これじゃ、まるで苛めているみたいで、龍之介はちょっと、周りの目線が気になって来た。

「言い難いかも知れないけど……僕達、見ちゃったから、説明して欲しいな」邦博君、確かに見ちゃいましたね……色々と……いやいや、そうじゃなくて。

「そうだ、良いか、あれは上から落ちて来たんでも無く、飛び込んだのでも無い……何の気配も無かったからな。お前は、あの露天風呂に突然現れた、違うか?」

「…………」美貴は、相変わらず困った様に黙って俯いていると、

「あっ……まずいな、後で話そう……」部長達が女湯から出て来るのが見え、龍之介達は美貴を取り囲むのを止めて、少し離れた。

「あれ?美貴ちゃん、もう着いてたの?」部長が、美貴を見つけて声をかけて来た。

「はい、今さっき……」男風呂に、とは言えんだろな……

「あら?お風呂……入ったの?」美貴の頭のバスタオルを、部長は不思議そうに眺めている。

「あっ、いえっ、まだ……準備だけ……」部長の質問に、美貴は慌てて適当に答えた。

「……そう?」バスタオルを頭に巻いて準備だけも無いものだが、自分達が今まで入っていた女湯には美貴はいなかったしと、釈然としない様子で部長は美貴を訝しげに見ている。

「……まぁ、良いわ。じゃ、温泉入ってらっしゃいよ、食事まで時間あるし……あっ、食事……今からでも増やせるかな?」と、部長が気付き、心配そうにフロントの方を見た。

「私、フロントに言って来ます」傍にいた司がにこにこしながら、部長に申し出た。

「じゃぁ、司ちゃんお願い」微笑みながら、部長が司に頼むと、

「はあぁい」と、司は、にこやかに返事して、パタパタとフロントに走って行った。

「ご迷惑掛けます……勝手しちゃって……」申し訳なさそうに頭を下げる美貴に、

「いいわよ、それぐらい……本当に迷惑な人がいるんだから……」と、悩む様に部長は、可愛い顔の眉間にしわを寄せた。

 部長は東郷碧(とうごうみどり)と言って、身長が百七十二cmと高く、スリムな体型が更に長身を印象付けている。

 ボブカットしたストレートの黒髪に、彫りの深い整った顔立ち。

 美少女!……いや、歳から言うと、美人と表現した方が良いのかも……ともかく美人だ。

 その上、只の美人じゃない。地味なブラウンのメタルフレームの眼鏡から受ける知的なイメージ通り、学年での成績が常にトップテンに入っていると言う才女でもある。

 まあ、欠点と言えば、未開の平原の様な胸か。いや、それはそれで需要が無い訳では無い。

 龍之介が美術部に入ったきっかけは、この部長にあると言っても過言ではない。

 入学当初のクラブ説明会で、当時二年生だった部長を見て龍之介は一目ぼれした。

 龍之介にとっては、可愛い女子のいるクラブなら何処でも良かったようだ。

 まぁ、ギャルゲーやエロゲーなら、これから見え透いた展開となるのだが、そうは問屋が卸さない……って、なんやねん、それ……

「毎年の事だけど、全く、あの人には責任感と言うものがあるのかしら……」と、あきれる様に、不快感を表している部長が気になり、

「あの、葛西先生……ですか?」と、部長に声をかけると、

「そうよ!」と、龍之介の質問に、間髪いれず部長が声高に答えた。

 葛西(かさい)先生とは、御歳三十歳の美術部の顧問で、これがまた色っぽい先生である。

 解けば長い髪の毛をアップでまとめて、きつい目付きに黒縁眼鏡を掛けている美人だ。

 男勝りで気の強い人だけど、さばけた性格は生徒達には人気がある……いや、それよりも、巨乳と言っても過言では無い胸は、多くの男子生徒のファンを持っている。

 今日も浜辺で、揺れてた揺れてたと、龍之介は回想している。

 合宿の初日の今日は午前中が移動で、午後からは、せっかくの海なんだからと美術部の皆で海に入って遊んだ。

 しかし龍之介は、どちらかと言うと部長の様な貧乳が好きな異端者で、部長の水着姿を浜辺でしっかりと目に焼き付かせていた……白く長い足が眩しかった……

 余談だが……普段、制服姿しか見る機会の無い女子のプライベートな水着姿って……健全な男子にとっては非常に萌えるものがある。

「先生たら、お銚子三本も開けちゃって……今、四本目よ。付き合ってらん無いわ!」

「えっ、風呂で……ですか?」部長から女湯の現状を聞いて龍之介は驚いている。

「そうよ」怒り半分で、諦めたように部長が答えた。

「それ、危ないんじゃ……昼間も随分と、缶ビール飲んでいた様な……」

「言ったけど、聞くもんですか!」部長は、風呂場では随分と苦労したみたいだ。

 気が強く正義感の強い部長は、その分面倒見が良く、皆から信頼され頼られている。

 葛西先生も“碧が居れば大丈夫だ“と部長に頼る傾向にあり、今も風呂場では、杯片手に羽を伸ばしている、と言った辺りだ。

 龍之介と、部長が話している所に、フロントまでお使いに行っていた司が帰って来た。

「お食事、大丈夫だそうですよ」司がにこやかに報告すると、

「あら、ありがとう」飼い主が子犬を可愛がる様に、部長は微笑みながら司の頭を撫でた。

 その光景を見て、部長の事を想っている龍之介は、心の片隅に(かす)かな怒りを覚えた。

「そうだ、司ちゃん、男子達に変な事されなかった?」司の頭を撫でながら部長が聞くと、

「何でそう思うんですか!する訳無いでしょ!」と、龍之介は、力強く部長に抗議した。

 部長の理不尽な疑いに、こいつにも、ちゃんと立派な物がぶら下ってるんですよ!と、言いたかったが、他の女子も居る中、この発言は控えるべきだと判断した。

「分かるもんですか……司ちゃん、嫌だったら、私達と入っても良いのよ」龍之介を疑うような冷たい目で見ながら提案する部長に、他の女子達も頷いている。

「ぐっ……」おかしいだろ!それ!と、龍之介は、思わずつっこみたかったが、多くの女子を前に、今は形勢が不利だと判断し堪えた。

「あっ……いえ……大丈夫ですから……」司は、少し心引かれる所があるらしく、はにかみながら頬を赤く染めて部長から目をそらした。

 その様子が龍之介にとって益々気に入らず、

「部長!俺は誘ってくれないんですか!」などと、思わず口走ってしまった。

 女子達の冷たい視線が龍之介へと注がれ、重く()し掛かる沈黙が続く中、部長が、

「……社会的に抹殺されたい?……」と、一言、背筋に冷たい物が走る様な冷酷な目で、龍之介を睨み付け言うと、他の女子達も、ひそひそと何やら龍之介について囁き合っている。

 何だよ!この差は!と思いつつも、軽はずみな発言を龍之介は後悔していた。

「私、お風呂に行って来ますから、先生見てきます」

 殺伐とした場の雰囲気を変える様に、美貴が明るく部長に申し出た。

「そう、美貴ちゃんお願いするわ。甘やかしちゃ駄目よ」

「はい……」

 部長の言葉に美貴は、困ったように微笑ながら会釈し風呂場へと向かって行った。


○危険物注意○


 次の日、龍之介達は葛西先生抜きで朝食を取っていた。先生は、まだ寝ているらしい……

 あの後、美貴が風呂に入った頃には、葛西先生は露天風呂の大きな石の上に胡坐をかいて、五本目のお銚子を上機嫌で味わっていたそうだ。当然、すっぽんぽんで。

 先生は、美貴が諌める言葉など聞く耳持たずの状態で、美貴が出る頃には、空になった六本目のお銚子を握り締めたまま、大の字で石の上に寝ていたらしい。当然、すっぽんぽんで。

 酔っ払って寝てしまった葛西先生を、美貴一人ではどうする事も出来ずに、部長達を呼びに行って、葛西先生を介抱し部屋まで連れて行ったのだ……ご苦労様です。

 そんな事とは知らずに朝食を取っている龍之介は、

「何で旅館の朝食って、こんなに美味しいんだろう……」と、呑気に小さな幸福感に満たされていた。

 普段、朝はトースト一枚の龍之介が、ご飯をお代わりする。

 本人も不思議だと思いつつ三杯目を食べていた。ほんと、不思議だ。

「ちょっと、皆聞いて。今日は、午後から陶芸村に体験学習に行きます。お昼ご飯食べたらバス停に集合ね。午前中は自由時間にしますので、各自、スケッチ等をして下さい。ただし、あまり遠くには行かないで、必ず二人以上で行動する事。分かった?」

「はぁい!」と、龍之介達は、夕べの事で少々不機嫌そうに話す部長に返事をした。

 合宿参加者は十五名。美術部は幽霊部員を含め二十五人いて、其の内、男子は龍之介達三人だけだ……が、約一名、例外的な存在が居るために、実質は二名なのかも知れない。

 入学当初、2年生だった部長に釣られて入った龍之介は、ずっと部長の事を思い続けて居るのだが、告白するに至っていない。

 皆の前で話す部長の姿に見とれていた龍之介は、ふと美貴の方を見た。

 美貴は、龍之介から少し離れたテーブルで、一年生の女子達と一緒に朝食を食べている。

 その姿を何となく見ていると、昨日見た全裸(なま)の破壊力と、今、美貴が龍之介の下着を着ていると言う事実が入り混じり『あぁれぇ……おやめ下さい御代官様……』『良いでは無いか。どうせそれはわしの下着じゃ!」などと、龍之介の頭の中で、何やら善からぬ妄想が自然と湧き上がって来た……が、浴衣のままで、臨戦態勢になれば隠しようが無いため、非常事態は避けたいと考え、慌てて脳内の妄想を打ち消した。

 鬼追美貴は、何時も元気で明るくて、何て言うか、馴れ馴れしい……いや、人懐っこい性格で、美人とまでは言えないものの、童顔で整った顔立ちは、龍之介のストライクゾーンのほぼ中央に入っている。

 だだし、個人の感想で、全ての皆様が実感されるとは限りませんって、言う奴だけど……

 龍之介も美貴の事は可愛い思っている。美貴の明るい性格がプラスして、部長以外の女子の中では一番気にかかる存在で、一言で言って、ちっちゃくて可愛い……ロリではないが……

 直視で確認は出来なかったものの、好みの貧乳であると想定出来る事と、風呂場で見た白くて可愛いお尻は、龍之介の心を引き付けるのに十分なものだった。ロリじゃないよ……


 九時前に龍之介達は旅館を出て、付近をロケハンのために、うろうろとしていた。

 山が海に迫るような此処は、旅館や民宿と民家が混在する集落が、狭い道路を挟み山の斜面か海に面して立っている。

 海岸を見ると少し離れた所に港が見え、大小取り混ぜて何隻かの漁船が停泊していた。

 皆は、それぞの場所で二・三人のグループになって、スケッチをしている。

 絵心等無縁だった龍之介にとっては、れた裏路地、船が見える風景、狭い道を挟んで建つ家並み等は、どうって事無い風景にしか見えず、クロッキー帳に鉛筆を走らせている部員達を見ながら、自分は何を描けば良いのか決めかねていた。

 感性と言うものだろうか、何気ない風景に何かを感じて絵に起こす事を、龍之介は未だに出来ず、どうしても珍しい物とかをモチーフにしようと探してしまう。

 “見るんじゃない、感じるんだ”有名な台詞だ……ちょっと違うか……でも、武の世界も、美の世界も、そこなんだなと龍之介は漠然と感じていた。

 龍之介と邦博は、取り留めの無い雑談をしながら歩いていると、なにやら騒々しい。

 何事かと騒音の発生源へと近付いて行くと、犬が吠えまくっているのが聞こえて来た。

 龍之介達は騒音の拠点である路地に入り、そこのいる女の姿を見て少し後悔した。

 そこに居たのは龍之介と同じクラスの篠崎翔子(しのざきしょうこ)だった。

 翔子は……危ない奴だ。

 外見は、美しい長い黒髪と白い肌が特徴的で、まるで日本人形の様な凄い美人だ。

 身長は百六十五cmで、スリムな体型に手足がスキッと伸びきった、ファンションモデルとしても十分通用するスタイル。それは、道行く人々が必ず振り返ると言って過言ではない。

 しかし、そんな翔子は、一年生の時、体育教官の目の前で“大嫌い!”と、叫んでカッターナイフで手首を切った……しかも職員室で……

 体育教官には、まったく身に覚えが無かったらしいが、女子高生が目の前で手首を切るなんて余っ程の事だと、周りの目は善からぬ方へと考えを及ばした。

 結局、最後まで翔子は理由を話さず、それが返って周囲の疑惑を膨らませる事となり、体育教官は同じ学校法人系列で、田舎の山奥にある体育系の男子校へと移動させられた。

 噂では奥さんとも離婚したそうだ……哀れな……

 まあ、元々、体育教官に有り勝ちな、ガキ大将みたいな奴だったし、好き嫌いで生徒を判断する為、多くの生徒から嫌われて居た奴だから、誰も体育教官に同情などしなかった。

 翔子は、見た目は綺麗な奴なんだが、あの事件以来、不倫説、強姦説、妊娠説等が飛び交い次第と孤立して行った。

 騒音の発生源である土佐犬の様な大型犬は、繋がれている車で引っ張っても切れそうに無い太い鎖を、引き千切らんばかりに暴れながら、牙を剥き出しにして吼えている。

 翔子は吼える犬の前に立ち、犬を睨み付けている。龍之介はその状況に対して、何が起きているのか把握出来なかったが、騒がしく吼える犬は、近所迷惑になる事は理解出来た。 

 事情を問いただそうと、龍之介が翔子に近付こうとした時、翔子は近くに落ちていた鉄パイプを握り、大きく振り上げて一気に犬へと振り下ろした。

「ぎゃん!」鈍い打撃音と共に、犬が悲鳴を上げる。翔子は再び鉄パイプを振り上げる。

「馬鹿!やめろ!」龍之介は、反射的に駆け寄り、翔子を後ろから羽交い絞めにして引き戻し、次の一撃を止めた。

「放してよ……こいつ、私を見て、笑ったのよ……」翔子は、犬が逃げ込んだ犬小屋の方を睨み付け、振り上げた手を振り回し、怒りで震える声で龍之介に言った。

「落ち着けっ!誤解だ!犬に悪意は無い!……えぇっと、その……ほらっ、きっと、性格の明るい、お茶目さんなんだよ!」事の前後が分からず、龍之介は何をどう言えば良いのか分からないまま、とても説得出来そうに無い、適当な思い付きを言い放った。

「……あら……そうだったの……ごめんね、ワンちゃん」龍之介の出鱈目な思いつきを、何故か翔子は納得し、優しくそう言って、あっさりと鉄パイプを手放した。 

 龍之介が、乾いた金属音を響かせ落ちた鉄パイプを確認して、羽交い絞めの手を離すと、翔子は振向き龍之介に向かって、何事も無かったかの様に、にこっと微笑んだ……怖。

 吠えていた犬は、犬小屋に入ったまま出て来ない。

「……生きてるんだろうな……」と、龍之介は心配になり、可愛い花柄模様の犬小屋を覗き込もうとした時、

「どうしたの?レイチェル……」と、犬の名前を呼ぶ声が、家の中から聞こえて来た。

「あっ!」その場に居てはいけない事を察した龍之介は、翔子の細い腰に手を回し、タックルするように抱え、その場をダッシュで駆け出し、路地の入り口付近で待機していた邦博と合流して、表の道路へと駆け抜け、路地から見えない様に身を隠した。

 間一髪だった……龍之介達がいた路地の方では、住民が出て来た気配がしている。

 龍之介は、翔子を抱えてダッシュシした為、手を膝に付いてかがみ込み大きく肩で息をし、

「な、何……やってんだよ……お前は……」と、翔子を睨み付けながら聞くと、

「犬の絵を描いていただけよ」と、龍之介の疲れた様子にお構いなく、涼しい顔で乱れた髪の毛をたくし上げながら平然と言い放った。

「どういう描き方してんだよ……電波でも飛んで来たか?」龍之介の問いかけに、翔子は無表情のまま龍之介から視線を離さず、画材を入れた鞄から2Hの鉛筆を取り出し握り、

「……喧嘩……売ってるのかしら?」と、冷ややかな怒りを込めた目で睨みつけた。

「うっ!……いえ……失言でした。忘れてください……」翔子の声から、只ならぬ殺気を感じ取った龍之介は、素直に頭を下げた。

 翔子は、少し変わっているが絵が極端に上手い。

 その腕前は、一年生の時から展示会で金賞等の高い評価を貰っていた。

 そして翔子は、高い評価を自慢とも思わず、美術部の後輩達に優しく指導すると言う一面も持っていて、リストカットの怖い人と思われいる反面、優しい先輩として一年生には人気がある。

「それより篠崎、一人か?良かったら一緒に書かないか?」気難しく付き合い難い翔子であったが、未だに絵心が未熟な龍之介にとって、翔子の存在はありがたい物があった。

「別に、拒否はしないけど……」頭だけを傾ける様に振向いて龍之介に答える翔子に対して、傍で聞いていた邦博は何故か不機嫌な様子であった。

「で、何を、書くんだ?」モチーフを決められない龍之介は、翔子に期待を込めて聞いた。

「……そうね……あのガードレールなんかどうかしら……」翔子は辺りを見回すと、道路の海沿いに立っているガードレールさんを推薦した。 

 推薦されて龍之介と邦博は、たっぷり三分間ガードルを見つめた後、翔子に振向いて、

「……篠崎さん……このガードレールが、どうかしましたか……」と、推薦されのがあまりにも普通の物だった為、龍之介はどう解釈して良いのか分からない。

「分からないの海神君?このガードレールの良さが」翔子が見下すように龍之介を見ている。

「何処が、でしょう……」どう見ても、何の変哲も無い普通のガードレールの、何処がどう良いのか龍之介には理解出来なかった。

「だめだね……良く見なさい。普段、町で見かけるガードレールは、歩道に車が飛び込まない様にと、人を守っているよね……」翔子が、しょうが無いわね、と言った雰囲気で首を振り、説明するのを聞いて、

「その為のガードレールだ……」と、龍之介はうんうんと頷いた。

 そして翔子は、大げさに振り上げた手を、ガードレールに向かって勢い良く振り出し、

「だけど、このガードレールは、車が海に落ちない様にと、車を守っているのよ!」と、堂々とした態度で、ガードレールさんのプロフィールを紹介した。

 翔子の解説が、理解出来ない龍之介達は、

「……だから……何だ?」と、ガードレールさんを見詰めている。

 龍之介と邦博は、翔子の言った事を出来るだけ理解しようとがんばったが、それは到底自分達、凡人レベルのセンスでは無駄な努力である事に気付き、二人は顔を見合わせて、

「分かった……」と、承諾した……翔子の思考は、少し違った次元と繋がっている様だ。

 龍之介は、やけくそ半分の気持と、結局自分ではモチーフを選べなかったので、少し助かった様な気はしたが、

「何が悲しくて、海迄来て、ガードレール描いてんだよ……」と、少し情けなくなって来た。

 しかし龍之介は、翔子の言う事を素直に受け入れて、この何の変哲も無いガードレールが、車を守っているんだと感情移入しようと、五分間、必死に努力したが、

「……駄目だ!……まだ、修行が足りん……」と、龍之介はあっさりと挫折した。

 それでも悩みながらも、鉛筆を走らせている龍之介は、ふと、翔子の方を見た。

 翔子の描いている絵は、龍之介のとは明らかに次元が違う。

 広角レンズで撮影した様な構図で、ガードレールが堂々と自己主張している絵を見て、

「やっぱり凄いなぁ……」と、龍之介は素直に感動した。

 その時、翔子の方を見ていた龍之介の視界に美貴の姿が横切った。

 龍之介は、美貴が既に私服に着替えているのを見て、今日、宅急便で荷物が届くと言っていた美貴の話を思い出していた。

 美貴は、どう言う訳か全力疾走で、龍之介達に気付かず駆け抜けて行った。 

 気になった龍之介は、昨日の事も聞きたかった為、美貴の後を追う事に決めた。

「邦博、ちょっと行って来る」

「えっ?あ、鬼追?了解」

 龍之介は邦博に声をかけ、荷物を置いて立ち上がり、美貴が走って行った方へ駆け出した。

 龍之介が走って行ったのを見て翔子は、

「……本田君、ちょっと……」と、邦博のすぐ後ろから声をかけた。

「え?……」翔子の声から、殺気にも似た恐怖を感じた邦博は、恐る恐る振り返った。

 そこには、般若が居た。

「ちょっと、話があるんだけど……」と言いつつ、翔子はぞっとする様な冷酷な目付きで邦博に近付いて行った……2Hの鉛筆を握り締めて。

 

○予兆○

 龍之介は、美貴を呼び止めようと後を追っているが、走り出した時の美貴との距離はおよそ五十メートル、そして五秒後、龍之介はある事に気が付いた。

 ダッシュから全速力で走っているのに美貴に追い着けない。

 百m、十一秒前半の龍之介が、画材を入れた鞄を持って走っている美貴に、追い着けないどころか、むしろ離されている。

 龍之介は、五百m程走った辺りから持久力の限界が近付き、スピードが極端に落ちて来た。

 しかし、美貴は全然平気なのか、スピードが落ちずに龍之介との差は百m以上に広がって行った。

 そして集落が切れた緩いカーブの所で、龍之介は美貴を見失い、一km近く走った辺りで、とうとう疲れて立ち止まってしまった。

 龍之介は、かがみ込み両手を膝に付いて上半身を支え、肩で大きく息をしながら息を整えていると、大粒の汗が額から滴り落ちて、アスファルトに染みを付けた。 

「なんなんだよ……いったい……」息を整えながら、龍之介は不思議で仕方なかった。

「陸上部だったのか?……なんて話は、聞いてないけど……」一年生の女子に、しかもあんな小柄な美貴に、なんで追い付けなかったのか。

 そう考えていると、ふと、山の方へと昇る狭い地道が目に付き、何気なく見ていると、

「もしかして……」明らかに新しい足跡が、くっきりと残っているのに気が付いた。

 七月末の十一時前、龍之介は汗だくになりながら、木々に挟まれた狭い坂道を、ゆっくり息を整えながら五十m程登って行くと、緩やかな斜面に囲まれた、木々の少ない開けた所が見えて来た。

 其処は、小学校のプールぐらいの広さで、其の中程に美貴の後姿が見えた。

「何で、付いて来たんですか!」

「えっ?」龍之介は、後ろ向きのままで叫ぶ美貴に驚いた。 

「すぐに、引き返してください!」

 美貴との距離は十m以上離れていて、しかも今着いたばかりの龍之介を、後ろ向きのままでで姿なんか見えるはずなのにと、龍之介は不思議に思っていた。

 すると急に、今まで真夏の太陽が照らしていたその場所が、今にも夕立でも降りそうな薄暗さに包まれた。

「なんだ?……」龍之介は空を見上げると、その現象が普通では無い事に直ぐに気が付いた。

 周囲の薄暗さは雨雲のせいではなく、どす黒く紫がかった霧が空だけでは無く、周囲を切り離す様に壁と成り包み込んでいる。

(あるじ)、もう遅い……結界を張られた」

 急に美貴ではない誰かの声がして、空を見ていた龍之介は、驚き慌てて辺りを見回した。

 その声の主は美貴の直ぐ後ろに居た。しかし、それが人なのかは龍之介には分らなかった。

 青白く光る霧の様な塊で、確かに人の形はしているが、人ではない……幽霊かとも思ったが龍之介の幽霊に対するイメージとも違う……何故なら、一見、子供に見える白い影の頭には、尖った耳が生えていて、お尻からは太く長い尻尾が生えていた。

「狐?……」龍之介には、そんな印象だった。

「白ちゃん憑いて!」周囲を警戒しながら身構える美貴が叫ぶと、

「承知」人間ならば十二・三歳位に見える白装束の狐少女が答え、揺らめく姿が人魂の様な青白い炎へと変わった。

「えっ!えぇぇぇぇ!」龍之介は、自分が今まで生きて来た十七年間で身に付けた、常識と言う範囲での知識では、到底理解出来ない目の前の現象に、目が飛び出すぐらいに驚いた。

 そして、その青白い炎が、美貴の背中に吸い込まれる様に消えると同時に、美貴の背中から青白い炎が上がった。

 龍之介の脳味噌は、既に思考する事を拒否していた。早い話、茫然自失(ぼうぜんじしつ)ってやつね。

「先輩!こっちに来てください!」

 美貴の叫び声で、やっと我に帰り、美貴が炎を上げているという現在進行形の箇所から龍之介の思考は始まった。

「おっ……おいっ!お前!おいっ!背中!おいっ!燃えてる!おいっ!」龍之介の思考は始まったものの、混乱して単語でしか表現出来ない。

 美貴は、背中から青白い炎を一mほど上げながら、ゆっくりと振り向き、

「……見えるんですか?」と、背中越しに睨む様に龍之介を見た。

 龍之介は、美貴へ恐る々ゆっくりと近付いて行き、

「みっ、見えるも何も……熱くないのか?……えっ?お前どうしたんだよ!その目!」

 美貴の瞳を見て驚く龍之介に、美貴は慌てて顔を背けた。

 背中から炎を上げる美貴の瞳は、炎の色と同じに青白かった。

「おい、どうしたんだよ、おまえ……それに、さっきの声……さっき居たの誰だ?」と、龍之介が、おどおどと怯えながら声をかけると美貴は、

「後で、説明します……私から離れないで下さい……」と、伏目がちに、少し悲しそうな表情を浮かべ小さな声で答えた。

「何の事だよ!昨日から……早く説明しろよ!分かんねぇよ!」

 完全に自分の思考レベルを超え、パニックに陥った龍之介は、不安から来る恐怖に自制心を喪い、美貴を怒鳴り付けてしまった。

 怒鳴り付けた後に、物悲しい困惑した表情を浮かべる美貴を見て、やっと今の自分の無様な姿に気付き、気まずい気分で龍之介は、

「何やってんだ俺は……」と、後輩の女子を感情任せに怒鳴りつけてしまった事を後悔した。

 龍之介は、気を取り直し冷静になろうと周囲を見渡す。

 周囲は、真夏の昼前としては暗すぎると言う事意外に変わった様子は無かった……様に思えたが、その不気味な現象に気付き龍之介はぞっとした。

 木々の枝に止まる無数のカラスが、龍之介達を取り囲み、狙う様に見下ろしている。

「何だよ……これ……」龍之介の背筋に冷たい物が走った。

 せっかく、冷静を保とうとしている龍之介に、新たなパニックの材料が降りかかり、この四面楚歌の状況をどうして良いのか分からず、きょろきょろと辺りを見回していた時、美貴が鞄の中から鉛筆を一握り取り出し、鞄を捨てた。

「主、数が多すぎます」

「分ってる……」

 次の瞬間、空気を叩き付ける音が響き、カラス達が一斉に、龍之介達に向かって来た。

 襲って来るカラスに対して龍之介は、慌てて一歩下がり身構えた……その時、龍之介の横を、三本の短い緑色の光が矢の様に通り過ぎ、向かって来るカラスを五・六羽貫いた。

 龍之介が驚き、光の矢が飛んで来た方へと振り向くと、美貴が迫るカラス達へと次々に緑に光る鉛筆を投げつけている。

 美貴は、残り一本となった鉛筆を握り締め大きく振り上げると、鉛筆から緑の光が五十cmぐらい伸び、青白い炎が美貴の手と鉛筆を包み込み、日本刀の様な形と成り炎を上げる。

 炎を上げる鉛筆を振り回しカラス達と戦う美貴の姿を、

「熱くないのか?……」と、思いながら、ただ呆然と眺めている龍之介に、カラス達が特攻をかけて来た。

 迫るカラスの口ばしに(すんで)の所で気付き、羽に叩かれながら、ぎりぎりで身を躱した龍之介は、すぐ側の握りやすそうな木を握って引き寄せ、根元辺りに踵で蹴りを入れて折る。

 そして、先の細い部分を足で踏み付けて折り、龍之介は、二mぐらいの生木で襲ってくるカラス達を払い除けた。

 生木を振り回す龍之介に対して、カラス達は恐れもせず飛び掛ってくる。

 嫌な手応えだった。

 幾ら襲って来るからとは言え、生き物を殴る事は、龍之介にとって嫌なものだった。

 剣道の心得は無かったが、柔道で鍛えた動体視力が、的確に襲って来るカラス達を捕らえて叩き落していたが、さっきの全力疾走が祟って、龍之介の体力は限界に近付いていた。

 疲れた踏ん張りの利かない足で、必死でカラス達を払っていると、

「先輩!暫く頼みます!」と言って、美貴が後ろに飛び退き、クロッキー帳を拾い上げた。

 何の事かと、カラス達から目を離さないように美貴の方を見ると、美貴はクロッキー帳に何かを描いている。

「頼むって……こんな時に、何やっているんだよ!」と、龍之介は疑問に思ったが、

「守ってくれって事かよ!」と、理解し、龍之介は美貴の前に移動した。

「どおぉりゃあぁぁ!」龍之介は、息が上がり動きが鈍くなって来たが、

「女の子に頼むと言わちゃ、引く訳には行かねぇな……くっそうおぉぉ!」と、気力を振り絞り気合を入れなおした。

 美貴は考えながら、クロッキー帳に円や三角形の図形を組み合わせた、よくある魔方陣の様な絵を描いている。

 そして、書き終わったクロッキー帖を地面に叩き付ける様に置くと、右足でクロッキー帖を踏み付け、目の前で人差し指と中指を揃えて立て、

「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前」と、目の前で刀印を切りながら、九字を唱え精神を集中させる。

 龍之介は疲労で意識が朦朧としだし、既にカラスの動きを見切る事が出来ずに、カラス達の体当たりを受けながら、闇雲に木を振り回し、何でも良いから早くしてくれと思った時、足を滑らせて横倒しに倒れた。

「まずい!」龍之介を通り過ぎたカラス達が、美貴に迫って行った時、

「そこか!」と、美貴は叫ぶと同時に、横に飛び退き、カラス達を交わし、鞄からまた鉛筆を一握り取り出すと、カラスとは違う方向に放った。

 鉛筆は緑色の光を放ちながら飛んで行き、急に空中で止まって浮いている。

 そして鉛筆の光が消えた時、鉛筆が浮かんでいる空間に、人の形が黒く表れだしたかと思うと、直ぐにどす黒い紫の煙を上げながら、黒い人形は塵が崩れる様に消え、そして、鉛筆が地面に落ちる。

 それをただ呆然と見ていた龍之介は、黒い影が消える瞬間、にやりと笑った様に見えた。

 直後、薄暗かった空間は夏の明るさを取り戻し、飛べるカラス達は何処かに飛んで行った。

 龍之介にとって、まるで夢の様な非現実的な出来事だったが、地面に転がる二十羽ぐらいのカラス達が、のたうち羽をバタつかせているのを見て現実である事を実感した。

 龍之介は改めて、のたうち廻るカラス達の姿を見て、罪の意識に心が締め付けられた。

 美貴の背中の炎は消え、狐少女が美貴の後ろで浮かんでいる。

「大丈夫ですか、先輩」美貴は、倒れている龍之介の脇にしゃがみ、心配そうに声をかけた。

 ついさっきまで、訳の分からない出来事に、怒りさえ覚えた龍之介だったが、

「別に、怪我はしてないけど……それより……」目の前に、自分のせいで死に掛けている生き物がいる事の方が気になった。

「ごめんね……貴方達は何も悪くないのに……」美貴は力無く、傷付いたカラス達を、悲しい目で見て、振り向き、

「白ちゃん!」と、後ろの狐少女に声をかけた。

「承知……」狐少女が静かに返事をして、カラス達の方へ、ふわりと飛んで近付き手を(かざ)す。

 すると、狐少女の体が青白く仄かに光り、カラス達は次々と青白い光に包まれて行く。

「なんだよ……これ……」龍之介は、その非常識な光景に驚いたが、不思議と恐怖は湧いて来なかった。

 眩しく輝く光が収まる頃、地面で苦しみもがいていた十羽ぐらいのカラス達が、何事も無かった様に元気に飛んで行った。

「……治ったのか?」龍之介は、呆然と飛んで行くカラスの後ろ姿を見ていた。

 地面には、まだ、十羽ぐらいのカラスが動かずに残っている。

「ごめんね……白ちゃん、お願い……」涙を浮かべ、動かないカラス達を見詰ながら、美貴が狐少女に言うと、狐少女は手に人魂の様な青白い炎を溜め、

「成仏せいよ……」と、弔いの言葉を掛けながら、一羽ずつ、動かないカラスへと、炎の玉を落として行く。  

 すると、カラス達は青白い炎に包まれ、蒸発する様に消えて行った。

 龍之介は、その様子を黙って見ていた。

 全てのカラス達を、荼毘に付したのを見て、美貴が龍之介に振り向き、

「すみません、巻き込んでしまって、あの、私……」と、悲しそうな顔で話しかけると、

「いいよ……今は聴きたくない」と、龍之介は、美貴の言葉を遮り素っ気無く答えた。

「でも……」

「だったら……気を付けて喋れよ。今の俺は気が立ってるんだ……」

「……ごめんなさい」

 美貴は、明らかに不機嫌な龍之介の顔を見て、涙が滲んで来た。

 龍之介自信、全力疾走で体力を消耗した挙句、脳味噌が付いていけない出来事の中、無益な殺生をした事に無性に腹が立っていた。だから今、美貴に説明を聞いたとしても、とても理解出来るとは思えない、いや、聞く気分ですらなかった。

 龍之介が気付くと、何時の間にか狐少女の姿は無かった。

 龍之介は無言で立ち上がりながら、

『なっ、なんで、あんな言い方したんだよ……』と、思いっきり後悔していた。

 幾ら腹が立っていたとは言え、女の子に対して言う言葉では無い事に、

『謝らなくっちゃ……』と、思ったが、上手く話すタイミングが掴めず、かえって苛立ち、

「行くぞ……」と、不機嫌そうに素っ気無く言ってしまった。

「……はい」そんな龍之介の、角のある言い方に美貴は、目から涙が零れた。

 龍之介と美貴は、無言のまま旅館の方へと向かい、邦博達と別れた場所まで帰って来た。

 其処で、更に理解出来ない光景を龍之介は目撃した。

「まさか……」と思い、見直す龍之介が見たものは、翔子が邦博の首に手を回し、まるで恋人同士が抱き合う様に立っている姿だった。

「うっ……邦博……お前……」動揺を隠せない龍之介が、震える声で邦博に声をかけると、邦博が龍之介に気付き二人の目が合った。

 龍之介はその状況を、咄嗟に判断し、

「あっ!すまん!邪魔した!」と言って、慌てて龍之介と美貴は、顔を少し赤くしながら、見てはいけないと気を利かせ後ろを向いた。

 しかし、事情は少し違っていたようで、邦博は龍之介の姿を見るなり、翔子の手を振り払い、龍之介の方へと駆け出した。

「龍之介ぇぇぇぇ!」泣き声で叫びながら邦博が走って来る。

「えっ?」想像とは違う邦博の声に、龍之介は思わず振り向くと、邦博が目に涙を溜めながら、力強く抱きついて来た。

「おい!……ちょっと……どうしたんだよ」幾ら親友でも、訳も分らないまま男に抱きつかれるのは、龍之介にとって気分の良いものではなく、龍之介は邦博からすり抜けようと体を(よじ)らせもがいた……突然のBLに、美貴は頬を赤く染めて、二人を興味津々の目で見ている。

 邦博は龍之介の抵抗で、はっと、我に帰り慌てて龍之介から離れて、

「ごっ、ごめん……なんでも無いよ……」と、気不味そうに答えた。

 俯き加減で申し訳無さそうにする邦博の目に、涙が浮かんでいるのを龍之介は見つけ、

「おい、本当にどうしたんだよ?」と、邦博の肩を掴んで問いただした。

 黙っている邦博の後ろを、全く関係の無い第三者の様に、翔子が通り過ぎ様とした時、

「篠崎……何かあったのか?」と、男女の仲の事なら聞くのも悪いかと、少し遠慮気味に龍之介が声をかけると、

「何でも無いわ……」と、邦博の後ろで翔子が長い髪の毛をたくし上げると、邦博は翔子の声に、びくっと体を震わせ、翔子から隠れる様に龍之介の後ろに回った。

 龍之介は、なんだ?おかしな奴だなと、邦博の態度に疑問を持ったが、男女の仲の事なら、これ以上聞くのも悪いかと思い、話題を変えて、

「昼飯に帰ろうよ」と、邦博に振り向き言うと、

「早く行こう!」と、邦博が再び龍之介に抱きつこうとするのを、

「やめんか……おのれは……」俺に其の趣味は無いと、言いたげに龍之介は、邦博の顔を手で押しのけ離した。

 翔子は龍之介を……いや、龍之介と美貴を睨んでいる。

 翔子の目線が気になったが、何にしても今日は疲れたと、投げやりな気分で龍之介は気にするのをやめた。

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