私の誕生日に、ほかの女性への贈り物を選ばせないでください
銀の葉の間に、小さな青い石が一粒ついていた。
店員が黒い布の上へ置いた首飾りを、私は椅子から少し身を乗り出して眺めた。華やかすぎず、普段の外出にも使えそうだ。隣のヴィクトルに感想を尋ねられる前に、口元が緩んでしまう。
「それがいいと思うわ」
「そうか。では、それにしよう」
即決する彼に、胸が温かくなった。十九歳の誕生日に、婚約者と二人で宝飾店へ来ている。朝、母にどこへ行くのか聞かれたときには、まだ分からないと答えたけれど、薄々期待はしていた。
店員が首飾りを持ち上げ、私の襟元へ近づける。その手を、ヴィクトルが止めた。
「着けるのは彼女ではありません。贈り物なので、包んでください」
私は首を傾げたまま、彼を見た。
「誰に差し上げるの?」
「レオニーだよ。先日の夜会の礼を、まだしていなくてね」
幼馴染の名を聞いて、私は背筋を伸ばした。店員が首飾りを布へ戻す。鎖の先が、小さな音を立てた。
レオニー様の髪は明るい金色で、青い石もよく似合うだろう。いつも大ぶりな飾りを身につけているから、もう少し華やかなものの方が喜ばれるかもしれない。そう言いかけて、自分の膝へ視線を落とす。
今日は彼に会うために、新しい手袋を下ろしてきた。
「私、今日が誕生日なの」
「ああ、そうだったね」
彼は一度頷き、店員へ向き直った。
「彼女の分もお願いします。エステル、好きなものを選ぶといい」
店員は何も言わず、別の箱を開けた。真珠の耳飾りが並んでいる。綺麗だったけれど、さっきのように手を伸ばしたいとは思えなかった。
「私への贈り物を選びに来たのだと思っていたわ」
「ついでに選べるのだから、よかったじゃないか。何が欲しいか分からなくて、毎年困っているんだ」
去年、彼から届いたのは薔薇の香水だった。私は香りが強いものが苦手で、瓶を開けられずにいる。その前は、手の甲が余るほど大きな手袋だった。
喜んでみせたのは私だ。だから伝わらなかったこともある。それでも、何が好きか、尋ねてもらった覚えはなかった。
「欲しいものなら、先月お話ししたわ。銀鈴座の千秋楽を見たいって」
「あの喜劇か。君もよく飽きないね」
彼は笑い、首飾りの箱を指で押して店員の方へ寄せた。
「レオニーは贈り物にうるさいから、先にそちらを決めよう。カードには何と書けばいい?」
いつもなら、そこで考えた。彼女が夜会で着ていたドレスを褒めるか、招待のお礼だけにするか。彼の祖母への膝掛けも、上司への筆記具も、そうやって一緒に選んできた。
選んだあと、彼はよく言った。私に任せれば間違いがないと。その言葉が嬉しくて、誰かへの買い物に誘われるたび、私は出かけていた。
「ご自分でお考えになって」
ヴィクトルがこちらを見る。
「どうしたんだ、急に」
「今日は帰るわ」
「まだ君の分を選んでいないだろう」
「いらないの」
店員へ頭を下げて立ち上がると、ヴィクトルも慌てて腰を浮かせた。
「彼女に贈るのが、そんなに気に入らないのか?」
その言葉に、扉へ向けた足が止まった。彼は困ったように眉を寄せている。少し前まで、この顔をさせると、私の方が謝っていた。
「私の誕生日に、ほかの女性への贈り物を選ばせないでください」
声が思ったより大きく響いた。店員がそっと目を伏せる。
「だから、君にも買うと言っている」
「分かっているわ」
分かっていた。私が今ここで真珠を選べば、彼は代金を払い、二人分の箱を持って店を出る。そして私の誕生日を祝ったつもりになるのだろう。
私は扉のそばで待っていた侍女に、馬車をお願いした。
*
婚約を解消したいと父に話したのは、その晩だった。
父は、宝石が欲しかったのかとは聞かなかった。私の話を最後まで聞き、明日の朝になっても同じ気持ちなら、先方へ連絡すると言ってくれた。
翌朝、私は同じことを頼んだ。
解消が決まるまでに三週間かかった。ヴィクトルからは、機嫌を直してほしいという手紙が二度届いた。三通目では、彼の母への誕生日祝いに何を贈ればよいかと尋ねられていた。
私は候補を書きかけ、便箋を丸めた。お母様は好きな方だったけれど、息子が選んだ品を喜ばれるだろう。それはもう、私が間に入らなくてもよいことだった。
正式な書面が交わされた日の午後、私は机の引き出しから銀鈴座の案内を出した。千秋楽は、まだ四日先である。
母を誘うと、行きたいのは山々だけれど、笑う場面を間違えるから遠慮すると言われた。前に一緒に見たとき、悲劇の最中に居眠りしていた伯爵役が起きるたび、母だけが笑っていた。
「ダミアンさんはどうかしら。あの方、この前の食事会でもお芝居の話をしていたでしょう」
ラクロワ伯爵家の長男、ダミアン様。父の友人の息子で、王宮の書記官をしている。いつも襟元をきっちり留め、話す前に一度考える人だ。
思い出したのは、食事会で私が銀鈴座の話をしたとき、彼が主演役者の名前まで知っていたことだった。もっと聞きたかったのに、ヴィクトルが別の話を始め、私は黙ったのだ。
私は新しい便箋を出した。観劇のお誘いを書くのは初めてで、時候の挨拶だけを三度書き直した。
返事は、その日のうちに来た。
ぜひ、と書かれたあとに、私が挙げた演目の題名があり、その下に小さく、二度目ですが構いませんか、と添えられていた。
*
ダミアン様は、笑うと片方の目尻に深い皺が寄った。
そんな顔を初めて見たのは、舞台上で、浮気を隠していた男爵が衣装箪笥へ逃げ込んだときだった。妻に見つかりたくない男爵が、中から扉を引っ張っている。それを知らない使用人が、蝶番の不具合だと思って油を差す。
隣で肩が揺れた。見ると、ダミアン様は拳を口に当て、必死に息を整えている。二度目なのに、と思った途端、私も笑いをこらえられなくなった。
幕が下りたあと、母の侍女に付き添ってもらい、劇場向かいの喫茶室へ入った。席に着くなり、彼は少し気まずそうに眼鏡を直す。
「うるさくなかったですか」
「あの場面で笑うのをご存じなら、先に教えてくださればよかったのに」
「教えると、油差しが出てくるまで待ってしまうでしょう」
「私はあなたが笑うのを待ってしまうわ」
彼が口を閉じた。ほんの少し耳が赤くなったので、からかいすぎたかと心配になる。けれど、運ばれた紅茶を一口飲むと、彼は真顔で言った。
「次は離れた席を取ります」
「それは困ります。舞台が二つになるもの」
今度は彼も笑った。
最後に男爵が許されたのは納得できないと私が言うと、彼は、妻が鍵を預かったから今後は逃げられないのだと答えた。私には、次は窓から逃げるように思える。彼はしばらく考え、それなら一階の寝室を取り上げるべきだと言った。
紅茶が冷めるまで、架空の男爵の住まいを二人で改築していた。
「あの使用人役の方が好きなんです。台詞がないときも、ずっと余計なことをしているでしょう」
「椅子の脚を直していましたね」
「そう! 主人が叱られている横で。最後には椅子だけ立派になっているの」
勢いよく身を乗り出してから、私は背もたれへ戻った。食事会では、よくそのくらいにしておけとヴィクトルに言われた。好きな芝居の話になると、加減を忘れる。
「ごめんなさい。こんな話ばかり」
「椅子だけ立派になる、というのは気づかなかった」
ダミアン様は残念そうに劇場の方を見た。
「もう一度見たいのに、今日で終わりか」
私は膝の上で握りかけた指を伸ばした。
「来月は、あの方が主役なの。ただ、水曜のお昼だけなのですって」
「題名は?」
続きを聞かれると思わず、すぐには答えられなかった。彼は急かさず、私が鞄から公演案内を出すのを待っている。
私は題名を指で示し、その下に載っている役者の小さな絵まで説明した。
*
翌月、その芝居に誘ってくれたのは、ダミアン様だった。
手紙には公演日が二つ挙げてあり、都合のよい方を教えてほしいと書かれていた。私は嬉しくてすぐ返事を書き、それから水曜日だと気づいて、仕事は大丈夫なのかと一行添えた。
返事には、休暇を取るので問題ないとあった。
当日、迎えに来た彼は、いつもより明るい色の上着を着ていた。玄関で父に挨拶をし、私を見ると、何か言おうとして一度口を閉じる。
「お待たせしました?」
「いえ。……その色が、よくお似合いです」
私は袖へ目を落とした。淡い黄色のドレスだった。彼がそこを見ていたのかと思うと、用意していた挨拶がどこかへ消えてしまう。
馬車に乗ってから、ようやく仕事のことを尋ねた。
「お休みを使わせてしまって、ごめんなさい」
「使うために残していたので」
「この演目、お好きなの?」
「初めてです。筋も知りません」
私は彼の持つ封筒を見た。中には今日の切符が二枚入っている。
「では、私が見たいと言ったから?」
「ええ」
彼は頷き、何かまずかっただろうかという顔になった。
「前に、平日は難しいと仰っていたでしょう。私なら休める日があったので」
「それは、あなたのお休みなのに」
ダミアン様は少し黙った。それから、切符の封筒を持ち直す。
「一人で見てきてほしいなら、切符を送ります」
彼の耳が、あの日と同じように赤くなった。
「私は、見終わったあとに君と話したかったんです」
馬車が角を曲がり、膝の上の鞄が滑った。慌てて押さえる私へ、彼が手を伸ばしかける。大丈夫です、と言う声が少し上ずった。
私は窓の方を向き、流れていく店先を眺めた。いつも誰かのために覚えていた好みを、今度は私のために覚えてくれた人がいる。
それだけで、まだ始まってもいない芝居を、もう忘れられない気がした。
劇場で切符を出すと、受付の女性が目を細めた。
「本日もありがとうございます。昨日とはお連れ様が違うのですね」
私は隣を見た。ダミアン様は、机の角をじっと見つめている。
「昨日?」
「……母と」
「初めて見ると仰いましたよね?」
「昨日は別の演目です」
受付の女性が切符を返しながら、微笑んだ。
「お席のご相談でしたら、いつでもお受けいたしますのに」
彼は礼を言い、私を案内した。二階席へ上がり、椅子に腰掛けてみる。舞台の端までよく見えた。前の人の帽子にも隠れない。
「下見に?」
「初めての劇場だったので」
「お母様まで?」
「一人では目立つと思ったんです」
私は扇を開いた。口元を隠すのが間に合わず、彼が肩を落とす。
「結局、母にも同じ顔をされました」
「だって、お仕事のお休みだけでも嬉しかったのに」
彼がこちらを向いた。
言ってから恥ずかしくなったけれど、聞こえなかったふりはできない。私は開いた扇を膝へ置き、もう一度、ちゃんと彼を見た。
「ありがとうございます。楽しみにしていました。今日、あなたと来るのを」
ダミアン様は、手にしていた公演案内を裏返した。表紙に戻し、また裏へ返してから、ようやく膝へ置く。
「それは、よかった」
舞台が暗くなったので、それ以上からかわずに済んだ。
*
芝居は、彼と私で、まるで違う感想になった。
私は主人公が最後まで嘘をつき通したのがおかしかった。彼は、あそこまで嘘を重ねるなら最初から正直に言えば済むと、ひどく真面目に考えている。
「それでは、お芝居が十分で終わるわ」
「嘘が下手すぎるんです。私なら、もう少し」
「昨日も来たことを、あんなに簡単に知られたのに?」
彼は紅茶の杯を持ったまま止まった。それから私を見て、降参するように笑った。
その笑い方が好きだと思った。目尻の皺も、困ると眼鏡の端へ触れる指も、次に何を言うか考えている間も。
次の誘いは、私からした。
彼が何年も前に見た芝居をもう一度見たいと話していたので、再演の知らせを見つけた日に手紙を書いた。返事には、舞台を思い出して仕事中に笑いそうになったとあった。私はその手紙を、二度読み返した。
会うたびに、彼について知ることが増えた。甘い菓子は好きなのに、熱い飲み物は苦手。席に着くと、無意識に卓上のものを真っ直ぐに並べる。笑っているときには、それを忘れる。
私は次に頼む紅茶を、少し早めに注いでおくようになった。彼は私が食べ終わるまで、自分の皿を下げさせない。帰りの馬車を呼ぶ前には、必ず、もう一杯飲むかと尋ねてくれた。
*
ヴィクトルが訪ねてきたのは、冬の初めだった。
父から会うかと聞かれ、私は少し考えて頷いた。断る理由を何度も練習していたころと違い、今は、何を話しに来たのか知りたかった。
応接室で彼は立ち上がり、私の顔を見て、少しほっとしたようだった。卓上には細長い箱が置かれている。母が隣に座ったままでいることには、何も言わなかった。
「母が、君によろしくと」
「お元気?」
「ああ。誕生日には庭仕事の道具を贈った。君なら、もっと上手く選んだだろうけれど」
私は頷いた。お母様は薔薇を育てているから、よい贈り物だと思う。
彼は私が続きを言うのを待ち、やがて自分から箱を開いた。銀の葉に、青い石。あの日、私が綺麗だと思った首飾りだった。
「同じものを作ってもらった。あれが欲しかったんだろう」
私は首飾りを見た。今見ても好きだった。それが少し悲しい。
「レオニーには似合わなかった。もっと大きな石の方がよかったらしい。君はいつも、相手に合うものを選んでいたから、あの日も間違いないと思っていた」
「私が身につけるつもりで選んだのよ」
ヴィクトルの指が箱の縁で止まる。
「あのとき、そう言えば」
「言ったわ。私への贈り物を選びに来たのだと思っていた、と」
彼は視線を下げた。しばらくして、箱を私へ押し出す。
「悪かった。君が怒るとは思わなかったんだ。いつも、喜んで付き合ってくれていたから」
「あなたと出かけられるのが、嬉しかったの」
初めて、彼の顔がはっきりと歪んだ。
私は、買い物のあとに二人で食事をしたかった。店先で見つけたものの話をしたかった。彼は用が済むと、助かったと言って私を馬車へ乗せた。その言葉だけでも嬉しかったころの自分を、今は責める気になれない。
「これからは、君の行きたいところへ行こう。あの劇場にも」
「もう行ったわ」
「……一人で?」
「ダミアン様と」
彼は顔を上げた。名前を聞いて驚いたらしく、口を少し開けたまま私を見る。
「あの堅い男が、喜劇を?」
「ええ。とても楽しそうに笑うの」
話してから、私は膝へ目を落とした。ここで彼の好きなところを並べたいわけではなかった。けれど、ヴィクトルは私の顔から何か読み取ったらしく、黙ってしまった。
「僕といるときには、そんなふうに話さなかった」
私は顔を上げた。
「何度か話したわ。あなたは、よく飽きないねと仰ったでしょう」
時計の音が聞こえた。ヴィクトルが伸ばしかけた手を引き、箱の蓋へ触れる。
「まだ、やり直せないだろうか」
「できません」
声は震えなかった。彼は首飾りを見つめ、長い間、顔を上げなかった。
やがて、持っているだけでいいからと言われた。私は首を振った。彼はもう勧めず、箱を閉じる。留め金が噛み合わなかったのか、一度開け直して、今度は両手で丁寧に閉じた。
玄関まで見送ると、彼は帰り際、私の誕生日の日付を口にした。
「合っているよね」
「ええ」
覚えたのだと、伝えたかったのだろう。私が頷いたあとも、彼は少し待っていた。来年の話を、私からすることはなかった。
*
ダミアン様との次の観劇は、年が明けてからだった。
終演後、いつもの喫茶室へ入る。彼は外套を預けて座ると、紅茶が来るより先に、私の前へ封筒を置いた。
「次のお誘いです」
「まだ、今日の感想を話していないのに?」
「感想を話し始めると、言いそびれるので」
中には、公演案内が二枚あった。一枚は彼が好きな劇団、もう一枚は私の好きな役者の出演作だ。
「どちらになさるの?」
「君の返事によります」
顔を上げると、彼は卓上の匙を真っ直ぐに置いていた。一度揃えたものを、また少し動かす。その手が止まり、彼は私を見る。
「友人として誘うのは、今日までにしたい」
私は案内を持つ手を下ろした。
「これからは、君との結婚を考えて、お付き合いを申し込みたいんです」
隣の卓で、誰かが砂糖を落とした。小さな音が妙にはっきり聞こえた。
ダミアン様は私を待っている。私は何と答えるか迷ったのではなく、嬉しいときに、どうすればちゃんと声が出るのか分からなくなっていた。
「私も、そうしていただきたかったの」
彼の手が、匙から離れた。
「いつから?」
「あなたが、下見を隠し損ねたころには」
彼は片手で目元を覆った。私が笑うと、その手の下で、彼も笑った。
運ばれてきた紅茶を二人分注ぎ、私は彼の杯を先に卓へ置いた。それから公演案内をもう一度開く。
「こちらを見たいわ。でも、あなたはこちらでしょう?」
「ええ。これは譲りがたい」
「では、両方」
彼が顔を上げる。
「両方でいいんですか」
「二度、出かけられるでしょう」
そう言うと、彼は案内の日付を確かめ始めた。今度は、私も手帳を出す。片方は午前の用事を済ませてから、もう片方は先に食事をしてから。二人の予定で、空いていた頁が埋まっていく。
最後に彼が、少し先の日付を指した。私の誕生日だった。
「この日も、空けておいてもらえますか」
私は頷き、彼の名前を書いた。
贈り物は何がいいかと聞かれたので、少し考えた。銀の葉の首飾りを思い出したけれど、それより先に浮かんだものがある。
「終演後の予定を、入れないでいてほしいわ」
ダミアン様が、片方の目尻に皺を寄せた。
「紅茶が冷めるまで?」
「二杯目も頼むかもしれません」
彼は手帳を開き、誕生日の日付の横へ、夕食、と書き足した。




