夏の聲
大学の最寄り駅、ホームの階段に近い場所。
それは、自宅の最寄り駅では、庇のない場所だった。
初夏だというのに、日中はまぶしすぎるほどの陽光。
ふわりと風が吹くと、背中の汗のせいか僅かに、ひんやりとした。
電車の到着を待ちわびながら、トンネルを視界に入れる。
線路の先、長いトンネルの奥には出口の光が、暗闇の道しるべのように灯っていた。
電車到着のアナウンスが響く。
今日もいつもと変わらない日常が始まる。
授業を終えて、まっすぐ帰宅。
家の中は、ふわりと出汁の香りがする。
母が夕飯を作っているようだった。
「ただいま」
居間に顔を出して、キッチンに向かいカウンター越しから何を作っているのかを見る。
少し暑いから冷房つけようか?という前に。
「あら、早いじゃない」
手を止めずに、母は一瞬俺を見た。
「母さんこそ、仕事は?」
「半休よ。言ってなかったかな」
俺は首をかしげた。俺の返事など期待してなかったのか、母はそのまま言葉を続けた。
「そういえば、今日、駅にまた救急車きてたわよ」
母が話を唐突に切り替えるのは、いつものことだ。
「帰りには見かけなかったな」
「早くホームドアつくといいわよね。あーそれより、カバン、部屋に片づけてきなさいよ」
俺は頷いて、居間を出た。
窓が開いているせいか、電車のドアを閉めるための音が風にのって届いてくる。
家独特の暑さに拍車がかかった気がした。
月曜は朝一から講義。
電車のラッシュ時間は、他人の体温が容赦なく押し寄せる。
そんな通学を終えて、たどり着いた教室は、今日も涼しい。
そう思いながら、この講義の定位置になりつつある席に座る。
「うっす」
少し遅れて、友人が俺の隣に座った。
俺は軽く手をあげる。
「よぉ」
「あれ、あの席あいてるじゃん」
友人の視線を追う。
一番前の窓際から二個目の席のことだと察した。
俺たちが真ん中あたりを定位置にしてるように、あの席も定位置にしているやつがいる。
結局、講義が始まってもその席は空のままだった。
講義終了のチャイムが響く。
「次、違うやつだよなぁ。俺一人だよ。昼またな!」
「またな…」
いつもの大学での出来ごとだった。
午後の講義を終えて、家路を急ぐ。
大学の最寄り駅には、ホームドアがずいぶん前に設置された。
だが、この駅の線路の先には、トンネルはない。
冬なら真っ暗なこの時間も、日がまだまだ伸びるこの時期は、じっとりとした日差しが、線路を照り付けていた。
『毎日暑すぎだよ、まじで』
『この先何か月も続くと思うと学校に飛んできてほしいぜ』
電車を待ちながら、くだらない会話を思い出した。
数年前、大体一緒だった朝のホーム。
一瞬、涼やかな風が抜けて、緊張のない沈黙の時間。
『あのトンネルって吸い込まれそうだよな』
『うーん、呼ばれてる?』
自宅の最寄り駅のホームで、あのトンネルを見ながら交わした会話が、やけに脳裏に残っていた。
あの日もちょうど、こんな暑い初夏の日だった気がする。
容赦なく照りつける太陽に、お互い汗をかき、シャツの胸元をバタバタさせていた。
電車の中で、あの時の会話と風景が心に過る。
今年もどんどん暑くなるのかもしれない。
最寄り駅で降りれば、隣の車両から母が降りてきた。
俺を見かけて少し困ったような顔をする。
何かあったかと考えても、思い当たらなかった。
「母さん?」
改札を出るまで母は「ちょっとまって」と画面の消えたスマホを取り出しながら、なにやら考えていた。
「坂の上の同級生いたでしょ」
普通に名前を言えばいいのに、不思議な言い方に先を促す。
「昨日、お葬式だったんですって」
「……え、どうして?」
俺は一瞬、時間が止まったような錯覚を覚えた。
「わからないのよね。どうしたのかしら。病気とは聞いていなかったけど……」
しばらくして、俺は講義が早く終わる日に、坂の上を目指していた。
じりじりと肌を焦がすような熱が、俺に降り注ぐ。
吹き抜ける風は、涼しいはずなのに、汗はとめどなく流れていた。
目的地に着けば、インターホンを鳴らす前に、ドアが開く。
出かけるのかもしれないと、少し気まずく思った。
連絡してから来るべきだった。
目が合ったのは、同級生の母親だった。
少し疲れた感じが見て取れる。
「きてくれるなんて、ありがとう」
少し、瞳が潤んだように見えた。
「すみません。連絡もせずに」
俺は頭を下げる。
「いいの。いいの。よかったら線香あげていって」
俺はさらに頭を下げた。
「この度はご愁傷さまでございます。線香だけ失礼させていただきます」
ちゃんと言えていただろうか。
作法も知らない。
夜、いや、夜明けか、SNSの通知の音で目が覚める。
寝るときはいつもオフにしていたのに、うっかり切り忘れていたようだった。
知らぬ間に二桁の未読。
高校のグループだった。
俺は、急いでチャットをさかのぼる。
『先週、駅であったばっかりだぞ』
『何があったんだ』
『嘘だろ』
『たち悪い話だぞ』
『まだ信じられん』
読み終えて、目をきつく閉じた。
「あのトンネルって吸い込まれそうだよな」
強い日差しが刺すように庇のない駅のホームに降り注ぐ。
視線の先、線路の彼方は、陽炎のように微かに揺らめいていた。
今年の夏の暑さもまた、きっと。
ほら、今日もトンネルの先が呼んでいる聲がする。




