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記憶を食む街

作者: しおり 雫
掲載日:2025/11/07

10歳の誕生日、父が俺に古い双眼鏡をくれた。


「世界をよく見ろ」


そう言って父は笑った。

あの時は意味が分からなかった。でも今なら分かる。


父は俺に、この街の真実を見抜けと言っていたんだ。


俺の名前は柊透真。19歳。この街で生まれて、19年間ここで暮らしてきた。

街の名前は……実は誰も知らない。地図にも載っていない。

人口は1000人ちょっと。俺の中学より少ない。そんな小さな街だった。


街は穏やかだ。朝は鳥が鳴き、隣人は朝の挨拶を交わす。

パン屋からはいい香りがする。


でも、どこかおかしい。

それに気づいたのは、いつだっただろう。


街の人々は皆幸せそうに笑っている。でも、その笑顔には何も宿っていない。

まるでマネキンが笑っているみたいだった。


父はそれを知っていたんだと思う。だから死んだ。

いや、殺された。誰に?それとも…自分で?


父が死んでから三ヶ月。

俺はようやく父の書斎に入る勇気が出た。


母は何も言わなかった。

というより、母は何も覚えていなかった。父が死んだことすら、もう薄れている。


「お父さん?ああ、確かそんな人いたわね」


そう言って母は首を傾げた。

結婚して20年以上経った相手を、もう忘れかけている。


どう考えてもおかしい。

でも、この街では普通なんだ。俺がおかしいだけだ。



書斎の本棚を動かすと、隠し扉があった。

ベタすぎて笑えた。まるで映画みたいだ。


階段を降りると、小さな地下室。机がひとつ。ノートが積まれている。

それから、小さな冷蔵庫。


冷蔵庫の中には、透明な液体が入った注射器が5本。

ラベルには「記憶保持薬」と書いてあった。


ノートを開く。父の字だ。几帳面な、でもどこか焦っているような筆跡。



20XX年3月15日

今日、評議会の記録室に侵入した。

禁書にアクセスできた。

真実は、想像以上だった。



4月2日

薬の合成に成功した。

これで、次の「浄化の儀式」を超えられる。

記憶を失わずに済む。

でも、それでいいのか?




5月10日

街の人々を観察している。

年齢が上がるほど、感情が薄くなっている。

30代で笑顔が消え、40代で会話が減り、50代で無表情になる。

60代以降は……もはや人間と呼べるのか?



ページをめくる手が震えた。


6月20日

妻が俺のことを忘れ始めている。

昨日の夕食を覚えていない。

私も息子の名前を、一瞬思い出せなかった。

もう限界だ。




7月1日

透真へ。

これを読んでいるということは、俺はもういないんだろう。

すまない。

でも、誰かが真実を知らなければならない。

薬は冷蔵庫にある。

使うかどうかは、お前が決めろ。

ただ、覚えておいてくれ。

真実を知ることは、孤独を知ることだ。



最後のページには、地図が描いてあった。地下図書館への道筋。

それから、こう書いてあった。


「評議会は全てを知っている」


俺は注射器を手に取った。


迷った。


でも、父が残してくれたものを無駄にはできない。

針を腕に刺す。冷たい液体が体内に流れ込む。


めまいがした。吐き気。視界が歪む。

そして気が付くと、床に倒れていた。



三週間後、俺は20歳になった。

この街では20歳になるとそれから10年ごとに「浄化の儀式」を受けることになっている。


儀式は街の中央広場で行われる。みんなが集まる。拍手や祝福の言葉を

掛けてもらう。


でも、誰も説明してくれない。これが何のための儀式なのか、誰も知らない。


母は言っていた。「みんな受けるものなのよ。大人になるための通過儀礼だから」


そう、みんな受けてる。20歳、30歳、40歳……死ぬまで。


俺は白い服を着せられた。評議会の長老が前に立つ。70代くらいの男。

なぜか気持ち悪いほどに無表情だ。いや、表情がないわけじゃない。ただ、何も感じていないような顔。


「柊透真、前へ」


俺は進む。

長老が手を俺の頭に置く。

「浄化を授ける」


その瞬間、頭の中に何かが流れ込んできた。

電気みたいな…でも痛くはない。


みんなはここで記憶を失うらしい。過去10年間の記憶が消える。

でも、俺には父の薬がある。


その後は何も起きなかった。


記憶はそのまま。父のこと、母のこと、この街の違和感。全部覚えている。


儀式が終わる。拍手。俺は席に戻った。

母が隣にいる。でも、母は俺を見て首を傾げた。


「あなたは……誰でしたっけ?」


ああ、そうか。母も儀式を受けたのか。


「あなたの息子です」


「そう。よろしくね」


母は微笑んだ。でも、その目の奥には何も映っていないように感じた。


それから俺は街の人々を観察した。父のノート通りだった。


20代に人は特に普通に見える。笑う。怒る。泣く。

30代になると表情が薄い。感情はあるけど、どこか平坦だ。

40代は会話が減る。日常で必要最低限の会話しか話さない。

50代は無表情。ロボットみたいだ。

60代以降は……もう何も考えていないように見える。

ただ生きているだけ。食べて、寝て、起きて、また食べる。


恐ろしいのは、誰もそれをおかしいと思っていないことだ。


ああ、そうか。記憶がないから、比較できないんだ。

10年前の自分を覚えていない。変化に気づけない。


この町で覚えているのは俺だけだ。


その夜、俺は父の地図を頼りに地下図書館に向かった。

街の外れにある古い井戸。底には扉がある。父の手記通りだ。


扉を開けると、螺旋階段。降りる。降りる。どこまでも降りる。


やがて、広い空間に出た。


本棚がずらりと並んでいる。でも、埃まみれ。長い間誰も来ていないようだ。


本を手に取る。タイトルは『大崩壊の記録』。

ページを開く。



西暦2324年3月1日

人類は終わった。

核兵器の暴発。

北半球の90%が消滅した。

生存者は推定10万人。

文明は崩壊した。




えっと、待って。西暦2324年?

ってことは、今は……2624年?この記録は今から300年前?

こんな規模の事件は見たことも聞いたこともない。


俺はスマホを取り出した。日付を確認する。

自分の認識通り、2024年になっている。



いや、落ち着け。スマホの日付なんて設定次第だ。

この街には他の町と繋がるネットもテレビもない。そもそも外部との連絡は一切ない。存在しているかすら怪しかった。

閉じた世界。日付なんて、評議会が決めたものに従うしかなかった。


とりあえず次のページをめくるを。


生存した人々は新たな街を作った。

二度と戦争を起こさないために。

二度と人類が愚かな選択をしないために。

私たちは決めた。

この、忌まわしき争いの記憶を捨てることを。



記憶を捨てる?もしかして俺たちは記憶を操作されているのか?

また続きを読む。



人間は記憶によって学習する。

しかし、記憶は憎しみも伝える。

過去の恨み、怒り、野心。

それが戦争を生む。

ならば、定期的にその感情と記憶を消せばいい。

危険な知識を持つ前に。



…こんなの馬鹿げてる。でも、この街はそれを300年続けてきたんだ。


さらに読み進める。



副作用について。

記憶リセットは脳の神経回路を一時的に遮断する。

安全性は確認されている。

しかし、長期的な影響は未知数である。



父の手書きのメモが挟まっていた。




この記載は嘘だ。

副作用はある。

記憶を失うたびに、人間性も失われる。

感情、思考、意識。

順番に消えていく。

100年後には、生き残った人類は「考えない生物」になるだろう。



吐き気がした。胃液が上がってくる。壁に手をついて、深呼吸をする。


これって、ジレンマってやつ?

記憶を残せば、人類は再び戦争を起こす。記憶を消せば、人間性が失われる。


どっちも地獄じゃないか。




その時、後ろから声がした。


「やはり、あなたも来ましたか」


驚いて振り返る。長老だ。儀式の時の無表情な老人。


「……どうして」


「あなたの父も、ここに来ました。20年前頃だったでしょうか」


長老は本棚に寄りかかる。疲れたような仕草。でも、表情は相変わらず平坦だ。


「あなたは記憶保持薬を使いましたね。あの人が残していたのでしょう」


この人の前では否定しても無駄だと思った。


「賢い選択です。そして、愚かな選択です」


長老は別の本を取り出した。『評議会秘密記録』と書かれている。


「実は、記憶保持者は昔からいます。私もそうです」


「驚きましたか?私は150歳です。今までの記憶は全て残っています」


150歳。ってことは、15回も儀式を受けて……でも記憶がある。


「それは…何故ですか?」


「誰かが真実を知らなければならないからです。記録を残し、監視する者が必要です」


長老は本を開いた。


「人類には三つの選択肢があります」


「一つ。記憶を戻す。人々に真実を教える。しかし、それは戦争の再開を意味します。

人間は愚かです。同じ過ちを繰り返すでしょう」


「二つ。現状を維持する。記憶リセットを続ける。しかし、100年後には人間性が完全に失われます。

人類は生物学的には生存しますが、もはや今のような『人間』ではありません」


「三つ。少数の記憶保持者を残す。彼らが人類を導く。

しかし、それは孤独です。周囲の誰も理解してくれない。

友人も家族も、あなたを忘れていく」


俺は壁に背中を預けた。体から力が抜けていく。


「父は……どれを選んだんですか」


「三つ目です。しかし、耐えられませんでした」


長老は言った。


「あなたの父は、妻が自分を忘れる瞬間を見ました。

息子が自分を見知らぬ人間として扱う瞬間を見ました。

友人たちが、過去の思い出を何一つ共有できなくなる瞬間を見ました」


「そして彼は自ら、命を絶ちました」


ああ。やっぱり。父は病気で死んだと聞いていたが、本当のことは隠されていたのだろう。


「でも、彼はあなたに全てを託しました。薬を。記録を。選択を」


長老は俺を見た。初めて、その目に感情が宿ったように見えた。

それは哀しみ、だろうか。


「柊透真。あなたはどうしますか」



俺は何日も考えた。


考えながら街を歩き、人々を見ていた。彼らは幸せそうだった。

過去を知らないから。未来を恐れないから。


でも、それは本当に幸せなのか?


母は毎日俺に「初めまして」と言う。朝起きるたびに、俺が誰か分からない。

でも、母は幸せそうに笑っている。


俺の友達は過去の思い出を語れない。昨日のことすら曖昧だ。

でも、彼らは楽しそうに今を生きている。


このまま何もかもを忘れ、過去を捨てて生きるのが幸せなのか?

いや、良くないだろう。でも…他に方法などあるのか?


俺は再び地下図書館に向かった。そこには椅子に座り、静かに俺を見つめる長老がいた。


「決めましたか」


「はい」


俺は深呼吸した。


「三つ目を選びます。でも、俺一人じゃ父のようにいつか限界を迎えます」


「そうですね」


「だから、協力してください。記憶保持者を増やす。少数でいい。

5人、10人、この人数がいれば記録を残せる。人類を導ける」


長老は頷いた。

「では、あなたも記録係になりますか」


「なります」


「それは一生の孤独ですよ」


「分かってます」


でも、誰かがやらなきゃいけない。父がそうだったように。


長老は軽く微笑んだ。

初めて見る、本物の笑顔だった。


「では、始めましょう」



それから20年が経った。


俺は40歳になった。記録係の長になった。

母は俺のことをもう覚えていない。友人たちも、俺を忘れている。


でも、俺には仲間がいる。


長老と地下図書館で話し合った後、5人の記憶保持者を育てた。

彼らもこの永遠に孤独な道に巻き込んでしまった。でも、俺たちは理解し合える。過去や未来を共有できる。


そして、最近気づいたことがある。


記憶保持者の中に、薬を使っていない者がいるようだ。

自然発生的に、記憶を保持し続けることができる者。


それは17歳の少女だ。

名前は白川灯。彼女は薬を使わずに儀式を受けても、記憶を失わなかった。

その異変に気付き、記録保持者として保護したのだ。


「どうして私、覚えてるんですか?」


彼女は泣きながら聞いた。俺は彼女の涙を拭いながら、優しく話しかけた。


「君は特別なんだ。これは人類の自然な進化かもしれない」


それから、俺は彼女に全てを教えた。この世界の真実を。俺たちの選択を。


彼女は衝撃を受け、泣いていた。でも、逃げなかった。


「私も、手伝います」


そう言って、彼女は記録係に加わった。


これは希望、かもしれない。

人類は自然に、本能的に記憶リセットに適応し始めているのかもしれない。


あるいは、新しい進化の形なのかもしれない。


ある日、長老が死んだ。

174歳。大往生だった。


彼は最期に、俺を呼んだ。


「柊、最後の秘密を教えます」


「秘密?」


「記憶リセットのシステムは、100年後に自動停止します」


えっ。


「評議会の創設者たちは、それを設定しました。この100年間で、人類が新しい生き方を見つけることを期待して」


「でも、それまでに人間性が失われるんじゃ……」


「だから、あなたのような者が必要なんです。記憶保持者が、人類を導く。

システムが停止した時、人々を導いていく」


長老は俺の手を握った。

長老の手は細く、しわだらけだった。


「あなたは孤独です。でも、未来の人類に必要な存在です。これからの未来を頼みます」


「分かりました」


長老は眠るように目を閉じた。

そして、その目は二度と開かなかった。


しわだらけのその手は冷たくなっていた。





今、俺は自分の家の記録室にいる。


ノートに今日のことを書いている。以前父がそうしたように。


窓の外では、人々が笑っている。でも、彼らは何も知らない。


俺は知っている。覚えている。

この街の真実を。人類の選択を。そして、俺の役割を。


長老が言った通り、俺は孤独だ。


でも、誰かが覚えていなければならない。誰かが記録しなければならない。誰かが、人類を見守らなければならない。


俺はペンを置いた。

ふと窓の外を見る。夕日が街を照らしている。


この美しさも、いつか失われるかもしれない。


だから、俺は覚えていく。記録する。未来に残す。


灯がドアをノックした。


「柊さん、今日の記録、終わりましたか?」


「ああ、今終わった」


「じゃあ、一緒に夕食、どうですか?記録係のみんなで」


俺は頷いた。

そうだ、俺は一人じゃない。


孤独だけど、仲間がいる。


誰も理解してくれないけど、分かち合える者がいる。

それで、十分だ。


俺は立ち上がった。ノートを棚に戻す。明日も、明後日も記録する。ずっと。


終わりのない記録。終わりのない孤独。

でも、それが俺の選んだ道だ。


廊下を歩く。灯が隣を歩いている。


「柊さん」


「ん?」


「私たち、いつまで続けるんですか?この記録」


「さあね。100年後かもしれないし、もっと先かもしれない」


「長いですね」


「ああ、長い道のりだ」


でも、それでいい。

人類が生きている限り、俺たちは記録し続ける。


この忘却の街で、記憶という名の重荷を背負って。


そしてまた明日も、街を見守り続ける。

終わりのない孤独の中で、いつか訪れる未来を信じて。


<完>

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