閑話 黒狼族
――黒狼族。
獣人の中でも最も力強く、誇り高き種族。
その血は古き神獣に連なり、“森の守護者”として知られていた。
だが今では、その名を恐れ敬う者などいない。
獣人――この世界における“亜人種”のひとつ。
かつては人間と共に暮らし、狩りや交易を分け合っていた時代もあった。
だが、いつからかその牙と爪は「脅威」と呼ばれ、
恐怖はやがて支配に変わった。
獣人は鎖に繋がれ、闘技場で殺し合いをさせられた。
子供は耳と尾を切られ、それを“芸術”と呼ぶ人間たちが笑っていた。
――この世界において、獣人は“魔物と同義”だった。
そんな時代の最果ての森。
そこに、黒狼族はいた。
森と共に息づき、他を傷つけることなく、ただ静かに――生きていた。
リュカオンが生まれたのは、そんな小さな部族の中。
群れは三十にも満たない。
それでも彼らは誇りを持ち、互いに名を呼び、絆を繋いでいた。
だが、“理”は、静寂を許さなかった。
ある日、森の外れに近い集落で、黒狼族の子が一人消えた。
――人間に攫われたのだ。
三日後、丘の上で見つかった小さな体。
胸には奴隷の焼印。舌を切られ、声を奪われたまま、息絶えていた。
その夜、黒狼族は泣いた。
声にならない慟哭が森を満たした。
夜明けを待たず、若き戦士リュカオンは立ち上がった。
「奪ったなら奪い返す。焼いたなら焼き尽くす。
それが黒狼の掟だろうが……!」
怒りが、悲しみを押し流した。
その夜、黒狼族は“復讐”を選んだ。
人間の街が炎に包まれたのは夜明け前だった。
狼の影が跳び、牙が閃き、血が舞う。
黒狼たちは迷わなかった。
子を奪い笑った者たち――その全てを、焼き払った。
悲鳴が天を焦がし、血が川を染める。
リュカオンは腕の中の小さな遺体を抱きしめながら、
燃え盛る街を見下ろしていた。
「……これで、守れたのか……」
風が吹くたび、焦げた匂いが鼻を刺した。
誰も答えなかった。
その朝、黒狼族は“討伐対象”とされた。
人間は報復を恐れず、ギルドは賞金を掲げた。
“黒狼族討伐”――報酬金三千金貨。
獣人奴隷百体分の価値。
金に飢えた者たちが森へ殺到した。
冒険者、傭兵、魔術師――中には同じ獣人さえいた。
森が赤く染まる。
毒が撒かれ、炎が降る。
黒狼たちは牙を剥き、血の雨を浴びながら戦った。
夜が明けるたびに仲間が減り、
火が昇るたびに悲鳴が増えた。
リュカオンは群れを率いて幾度も撃退を成功させたが、
終わりは確実に近づいていた。
三ヶ月後。
森に現れたのは、もはや人間ではなかった。
“異世界人”――勇者。
神の加護を受け、世界を導くと謳われる存在。
白金の鎧に、天より授かりし聖剣を携えた彼らは、
“神の使徒”を自称していた。
「神の敵を討て。魔の血を清めよ。」
そう告げ、彼らは森を光で覆った。
雷鳴が落ち、炎が森を舐め、地が裂けた。
勇者の魔法――《聖光断界》が森を焼き尽くす。
母狼が子を抱いたまま光に消え、
長老たちが祈りの途中で蒸発した。
「やめろォォォッ!!!」
リュカオンの叫びが轟いた。
全身の筋肉が焦げても構わず突進。
爪と剣がぶつかり、爆風が大地を割る。
「俺たちは……魔なんかじゃねぇッ!!」
「神がそう定めた! お前たちは呪われし獣だ!!」
勇者の剣が閃き、仲間が斬り伏せられていく。
血が飛び、森が崩れる。
残ったのは、リュカオンただ一人。
妹が勇者の刃に貫かれ、崩れ落ちた瞬間、
彼の中で何かが壊れた。
咆哮。
体が膨れ上がり、黒い毛が逆立ち、瞳が血に染まる。
――黒狼の王が、完全な“獣”へと堕ちた。
四肢で地を蹴り、勇者に突進。
牙が鎧を裂き、拳が光を砕く。
勇者の頬を裂くが、傷は瞬時に再生した。
「……神は俺を選ばれた。お前のような獣に負けはしない!」
聖剣が天に掲げられた。
光が集まり、空が白く染まる。
「神審を――下す。」
勇者の詠唱が終わる。
「《神審の終焉光》!」
世界が、白に塗り潰された。
凄まじい光が森を包み、音すら消えた。
木々は燃え、地が崩れ、空気が砕けた。
黒狼族の住処も、記憶も、全てが光に呑まれていく。
リュカオンの体は半分以上が焼け、動けなかった。
それでも、最後の力で立ち上がった。
「……これが……神の……正義か……」
血混じりの息を吐き、瞳を細める。
燃え落ちる木々の向こうで、勇者が剣を掲げていた。
(……俺たちの名を、誰も……知らねぇまま……か……)
膝が崩れ、意識が遠のく。
そのとき、地の底で何かが軋んだ。
――黒い裂け目。
空間の継ぎ目から、淡い蒼光が漏れ出した。
勇者の光に押し潰される寸前、
その裂け目がリュカオンの体を包み込む。
眩い白と深い黒が交錯し、
世界が反転した。
目を開けると、風が吹いていた。
湿った土の匂い。
鳥のさえずり。
遠くで水のせせらぎが聞こえる。
リュカオンは焼け焦げた体を引きずりながら、ゆっくりと上体を起こした。
――森だ。
だが、見覚えのない森。
どこまでも続く緑。
透き通った空気。
どの魔素の匂いもない、静謐な世界。
「……ここは……どこだ……」
枝の間から、朝の光が差し込んだ。
温かい。
あの地獄の光とは違う、柔らかな陽だまり。
リュカオンは震える手を伸ばし、
初めて“穏やか”な風を掴んだ。
「……悪くねぇな……この森……」
その言葉を最後に、瞳が閉じる。
風が葉を揺らし、鳥たちがさえずる。
そして世界は、静寂に包まれた。
黒狼族は滅びた。
だが、その魂だけは消えなかった。
異世界の片隅、名もなき森で息を吹き返したその男。
――リュカオン。
それが、後に“カラミタスNo.5”と呼ばれる男の、
最初の目覚めだった。
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