68話 月夜の戦い
ザクロの咆哮が夜を裂いた。
狂化した肉体がさらに膨れ、全身の血管が赤黒く光を放つ。皮膚の下を走る魔素が暴走し、風景が震動する。
それだけで、空気が重くなる。人ならばその場で気を失うほどの圧。
だが、ネリーの表情は変わらなかった。
紅い瞳が淡く光を宿し、ゆるやかに笑みを浮かべる。
「随分と力任せですこと。」
ザクロの両腕が閃いた。拳が地面を砕き、衝撃波が幾重にも走る。
周囲の車が宙に舞い、街灯がねじ切れる。
だが――そこにネリーの姿はない。
「なっ……!」
ザクロの後ろで、月光が一閃した。
黒い靴の踵がコンクリートを蹴る音。
その瞬間、ザクロの頬を風が裂く。
「あら、見えませんでしたか?」
ネリーはわずかに指を動かすだけで、自身の足元の影を操った。
影は糸のように滑り、路面を伝ってザクロの動きを寸前で“ずらす”。
拳が届く直前、わずかに角度が逸れ、命中しない。
「クソがッ!!」
怒号とともに、ザクロの腕が竜巻のように振り回される。
爆風の中で、ネリーの髪とスカートがふわりと舞い上がる。
しかしその身体は、一切の衝撃を受けず、空を泳ぐように滑っていた。
「狂化とは――理性を獣に近づけ、解放すること。
つまり、力ばかりが上がり冷静さが失われますわね。」
「黙れッ!!」
ザクロが咆哮と共に踏み込み、拳を叩きつける。
だがネリーは一歩だけ後ろに下がり、その“風圧”だけを受け流す。
爪先で路面を蹴り返すと、足元の影が弧を描き、彼女の身体を滑らせるように運んだ。
ヒュッ――!
ザクロの拳が空を裂き、風だけがネリーの頬を撫でた。
次の瞬間、ネリーの指先がザクロの胸に触れる。
まるで舞踏のような、柔らかな動き。
「“いなし”とはね、力を否定することではありませんの。
ただ――力の方向を優しく導くことですわ。」
ザクロの身体が弾けたように後退する。
胸の内部で衝撃が逆流し、筋繊維がねじ切れる音がした。
「ぐ……ッ……!」
膝を折りながらも、ザクロは再び立ち上がる。
瞳の中にはまだ理性の残滓がある――それが逆に苛立ちを増幅させた。
「テメェ……さっきまでのはわざとか……!」
「ええ、貴方がわたくしを痛めつけられそうだと錯覚して頂いた方が、あの人間達を逃がしやすいと思いまして。」
ネリーの声は穏やかだった。
ネリーが自分の傘をゆっくりと影の中にしまい込み、代わりに一本の大きなサイスを取り出した。
「わたくしの武器、ブラッドサイスですわ。
相手の血を吸い、わたくしの糧にしてくれますの。貴方の血は不味そうですが。」
「てめぇ、やっぱり吸血鬼か!! 何でこんな所に魔族が居やがる!!」
「あら? あの猫といい今気づいたのですか? それに魔族ですか? 随分と失礼な物言いですね。
わたくしをあんな種族と一括りにしないでほしいですわね。」
ザクロの拳が振り抜かれるよりも早く、彼の背後にネリーの影が立っていた。
「遅いですわ。」
シュパッ――
次の瞬間、ザクロの巨腕が宙を舞った。
切断面から黒い血が霧のように噴き出す。
だが、ネリーは眉ひとつ動かさない。
「痛みで正気に戻るなら、それも結構。
――戻らないのなら、このまま沈んでくださいまし。」
ザクロが叫ぶ。
獣の絶叫と共に、残った片腕で殴りかかる。
だがその拳は、彼女の頬を掠めることすらできない。
全ての動きが、ネリーの掌の中にあった。
「貴方の狂気は、理性の代償。
わたくしの目的は貴方の死ですわ。」
刃が月光を反射する。
ザクロが吠えようとした瞬間、その首筋に黒い線が走った。
「この! 化物が………」
「――さようなら。」
スパァンッ。
首が宙を舞う音と同時に、夜風が吹き抜けた。
黒い霧が弾け、ザクロの身体はゆっくりと崩れ落ちる。
血の滴が月光を反射し、ネリーの頬を淡く染めた。
「……やはりミツキさん以外の血は飲めたもんじゃありませんね。」
彼女は静かに息を吐き、影の中から日傘を再び取り出す。
傘を開く音だけが、死に絶えた夜に優しく響いた。
「早いとこ、ミツキさんの元に向かいましょうか。
後処理は任せましたよ、SIDの皆さん。」
背中に翼を生やし、空へとゆっくりと舞い上がる。
月光の下、海面を渡る風。
そのとき、海の向こう側に一際大きな魔力のぶつかり合いが感じ取れた。
ダンジョン化したままの山から漏れ出す魔素の量は、最初の時よりも格段に増えている。
「片方はミツキさんの魔力……もうひとつは恐らく敵。
あとひとつ小さいのは、連真とか言う人間のものでしょうか。」
海上の上を飛んでいると――
「ふむ、星の狭間は無事開かれましたな。」
月光の反射の中、誰もいなかったはずの背後から声がした。
わたくしの後ろに、一人の初老の執事が立っていた。
――このわたくしが気配に気づかなかった!!
あわてて鎌を取り出して戦闘態勢に切り替え、この執事を睨み付けた。
「貴方はいったい何者ですの!」
「おやおや、これは随分と恐ろしい。
ですがお止めになった方が賢明かと。貴方では私に傷ひとつ負わせられないでしょう。
私はただ見に来ただけでございますから。」
「敵らしき人物を見て、はいそうですかと背を向けるわけありませんが。」
「困りましたね。私も無駄な殺しはしたくありませんが、そちらがその気なら良いでしょう。
――どこからでも来なさい。」
一切の魔力も感じない、威圧すらないただの礼儀正しい執事。
だが、あまりにも異質過ぎる。
「来ないのですか?」
「言われなくても行きますわ!!」
持てる全ての魔力を体に巡らせ、相手の背後に回り込みデスサイスを振り抜いた。
相手の首に刃先が触れる瞬間、執事の姿が消えた。
「いったいどこに………、うっ!!」
たちまち体に激痛が走り、口から血が流れ出す。
背後からわたくしのお腹を手で貫いていた。
静かに背後から語りかけられる。
「やめた方が賢明と申しましたのに。残念でございます。」
「何故、わたくしに攻撃が……あてら……れます……の。」
「それを教えるほど、私は優しくはありません。
それでは――さようなら、吸血鬼の少女よ。」
そのままわたくしを海に蹴り飛ばし、冷たい海風と共に、意識が深い闇へと沈んでいった。
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