54話 フェンリルのお散歩鹿児島編
キャリーケースのファスナーを、最小限の音だけ立ててゆっくり開く。
中から引っ張り出したのは――黒のパーカーと短パン。
深夜の散歩に選ぶのは、異世界の戦装束でもなく、獣人少女ミツキの衣装でもなく、ただの現代日本のラフな服だった。
「……にひひっ♪ こっちのが動きやすいし、隠密にはちょうどいいじゃん」
フードをかぶれば狼耳は影に隠れる。
けれど、完全に塞ぐ気なんて毛頭ない。耳の先をひょいと出して揺らすと、余計に好奇の目を引くだろう。
尻尾もパーカーの裾から自由気ままに覗かせたまま。まるで「隠せ」と言われれば反発するように。
短パンから伸びた脚にスニーカーを履き、靴紐を軽く締める。
全体的には人混みに紛れられる“普通のストリートファッション”。
けれど、夜の街に出ればただの少女ではないことは誰の目にも明らかだ。
「さて、と……」
キャリーケースの中から一樹の財布をくすねてポケットに突っ込む。
さらにテーブルに置かれていたカードキーをひょいと摘み上げると、ニヤリと口角を上げた。
「お借りしまーす♪ ちょっと夜風に当たるだけだからさ」
財布にカードキーを差し込み、静かにドアを開ける。
廊下から漏れる非常灯の薄緑色が、夜のホテルの静けさを際立たせていた。
ドアを閉め、軽く尻尾を揺らす。
足取りはまるで散歩に出る子供のように軽やかで、けれど目の奥には獣の光を宿している。
「……さーて、鹿児島の夜はどんな顔してるのかな?」
ホテルを抜け、人気の少ない通りを軽やかに駆け抜ける。
街灯が等間隔に並び、アスファルトに淡い光の帯を落としている。
夜風が頬を撫で、海の匂いと街の匂いが混ざり合って鼻腔をくすぐった。
フェンリルは建物の壁を蹴り、看板を踏み台に、まるで猫のように屋根から屋根へと飛び移っていく。
軽やかな足取りは、人のいない夜の街を駆けるのに最適だ。
「ひゅー♪ おっ、見えてきた」
目に入ったのは、鹿児島中央駅のランドマーク――夜空に浮かぶ観覧車。
七色の光がやたら派手に点滅し、遠目からでも存在感を主張している。
「なんだアレ、無駄にピカピカして……おっそー。遊園地の真似事か? まぁいっか、乗ってみっか」
――次の瞬間。
彼女は観覧車の支柱を駆け上がり、回転するゴンドラの屋根にひょいと飛び乗った。
ゴンドラはのんびりと夜空を描いて回転している。
フェンリルはその屋根にしゃがみ込み、尻尾を揺らしながら遠くを眺めた。
眼下には錦江湾の黒い水面、桜島の稜線に白い煙、煌めく街の灯り――。
旅先の夜景は確かに綺麗だった。けれど。
「ふーん……確かに綺麗は綺麗だけど、つまんね。遅すぎて退屈だし」
あくびをひとつして、フェンリルはゴンドラの屋根から飛び降りる。
街のネオンを目指して、今度は天文館の方角へ跳んでいった。
繁華街の灯りはまだ眠らない。
赤ちょうちん、居酒屋から流れる笑い声、串焼きの香ばしい匂い、鉄板で焼けるソースの匂い。
夜の街は、観覧車よりずっと騒がしく、生きていた。
「うわっ、いい匂い! こっちの方が面白そうじゃん!」
匂いに釣られるまま、適当な居酒屋の暖簾をくぐる。
場違いな少女の姿に、店員も客も一瞬ぽかんとしたが、フェンリルは気にしない。
「おっちゃん、酒とこれで!」
メニュー表を指差して胸を張る。
「お、お客様……未成年の飲酒はダメでして……」
「はぁ!? 私これでも八百年くらい生きてんだけど!? 未成年なわけないだろ!」
「……はいはい、そういう冗談は結構です」
店員はがしっとフェンリルの首根っこを掴み、そのまま出口へ。
「わっ!? ちょ、離せコラッ! 私は客だぞ!? 神獣だぞ!? 無礼者ぉ!」
「はーい怒っても駄目だからね~。」
ずるずる引きずられ、あっという間に外へポイッ。
通りに放り出されたフェンリルは、地面にしゃがみ込んで尻尾をぶんぶん振る。
「……チッ、マジつまんね」
フードを深くかぶり直す。
だが背後からざわめきが聞こえてきた。
「今のガキ……耳ついてなかったか?」
「いや待て、あの白い髪と尻尾……“銀狼”に似てね?」
「マジかよ、俺、現物見ちまった?」
居酒屋の客がざわつく。
「銀狼スレ」に常駐しているような者もいて、興奮したように小声を漏らす。
フェンリルは振り返らず、にやりと笑って路地裏へ消えた。
「……にひひっ♪ バレちまったか。ま、いっか。どうせそのうち広まるんだし」
夜のネオンに溶ける白銀の影。
それはまるで、鹿児島の夜に紛れた一匹の野生そのものだった。
角を曲がると、奥にごみステーション。その手前で、三人の影がふわっと流れてきた。
煙草、古い香水、汗の匂い。
あぁ、来た来た。テンプレ。
「お嬢ちゃん、こんな時間にひとりは危ないよ?」
「ちょっとお兄ちゃんたちとこっち行こうか?」
「可愛いじゃん、この子。めっちゃ可愛い」
「お前、ロリコンだっけ?」
「違ぇよ。芸術鑑賞だよ」
「——はい、解散。三手」
右手のオジの手首をくるり、壁へ。
左手のオジの肘をちょい、床へ。
真ん中のオジの足を軽く払って、背中をゴミ袋の山へポイ。
「——ぽいっと」
三人とも、二呼吸で沈黙。きちんと呼吸はしている。潰してない。めんどいから。
「ね。言ったでしょ、テンプレ」
ごみステーションの蛍光灯が唸り、私はあくび。
心底つまらない。
ここで“銀狼無法松、夜の大暴れ!”なんて見出しのスクショを掲示板に貼られたら、ミツキのため息が三割増しになるのが見えるからやめてるだけ。それが一番つまらない。
「海、行こ」
鼻先を撫でる風が、潮のにおいを強くした。
路地を抜けて、海沿いの大通りへ。
街の明かりがばーっと開いて、左手前方に大きな影。桜島。黒い巨人。時々、白い息。
歩道橋をひょいと飛び越えて、フェリー乗り場のほうへ足を向ける。
夜の港は、昼よりもずっと広い。音が少なくなる分、広さが余る。
波が甲板を叩く音、ロープが鳴く音、遠くでクレーンが鳴らす電子音。
船が向こうの島に向かってゆっくりと動いていく様子も見える。
その隙間に、潮の匂い。金属と油が薄く混ざる。
「——まあまあ、悪くない」
手すりに腰を乗せ、足をぶらぶら。
財布から小銭を一枚取り出して、月にかざす。
あの輪っかは、さっきの観覧車より静かだ。偉い。
その時だった。
潮風がふっと冷たく変わる。
空気が重たく沈み、背筋を走るざらついた圧。
「――銀狼、だな」
ギラリと月光を宿す瞳。
屋根の反対側に立っていたのは、上半身を黒々とした毛並みに覆われた狼獣人。
漆黒の毛は艶を放ち、隆起した筋肉が動くたびに獣そのものの圧を撒き散らす。
身に付けているのは黒いズボンのみ。裸の上半身は、まるで武器を隠す気すらない堂々さだった。
「誰、あんた?」
フェンリルは首を傾げる。
「俺の名はリュカオン。カラミタスの幹部にして、いずれ全てを支配する者だ。」
低く唸るような声が夜を震わせる。
フェンリルは目を丸くした後、にひひっと鼻で笑った。
「へぇ……カーティスの仲間ってわけ? あの蛇男と同じ匂いするわ。」
「同じだと、あんな雑魚と俺を一緒にするな」
リュカオンの牙が月明かりを反射した。
「カーティスが貴様に敗れたと聞いた時は笑った。だが……実際に見てみれば、なんだ? ただのガキかつまらん。」
「ガキぃ? はぁ?」
耳をぴんと立てて、フェンリルは立ち上がる。
「アンタこそ、毛むくじゃらで暑苦しいんだ
よ。……それで、何? わざわざ自己紹介に来たの?」
「違う」
リュカオンの瞳が爛々と輝く。
「――俺の軍門に下れ。そうすれば、この世界を共に支配させてやろう」
「……ぷっ。あははははっ!」
フェンリルは腹を抱えて笑った。
「なにそれ、冗談? 逆だよ逆! あんたが私の下につくんだっての。わかったら、ほら、さっさと膝つけよ?」
挑発的な笑みに、リュカオンの表情がわずかに歪む。
「……面白い。小娘風情が俺に跪けと?」
フェンリルは肩をすくめ、くるりと踵を返した。
「ま、言うこと聞かせてやるか。先手は――もーらいっ♪」
ドンッ!
白銀の足がうなりを上げ、リュカオンの巨体を蹴り飛ばした。
衝撃で港のコンクリートがひび割れ、リュカオンの身体は海へと弾丸のように吹き飛ぶ。
水飛沫が月光を浴びて銀色の弧を描いた。
「……あれ? 沈んだ?」
手すりに腰掛けたフェンリルは、頬杖をつきながら尻尾を揺らす。
「なーんだ、つまんな。幹部とか言っといてこんなもん?」
――数秒の静寂。
波だけが打ち寄せ、月の光が静かに揺れる。
その瞬間――海面が爆ぜた。
ゴウッ!
荒波を割り、漆黒の影が飛び出す。
濡れた毛並みを振り払い、リュカオンが牙を剥いて笑った。
「……おもしれぇ」
「おー、生きてた生きてた」
フェンリルは尻尾をひょいと立て、にひひっと笑う。
「ちょっと面白くなってきたじゃん」
二人は同時に地を蹴った。
蹴りと拳がぶつかり、衝撃で港のアスファルトが砕ける。
フェンリルの蹴りをリュカオンが紙一重で避け、逆に足払い。
「わっ!?」
バランスを崩したフェンリルを、リュカオンの腕が掴み取る。
「捕まえたぞ、銀狼!」
ゴォンッ!
地面に叩きつけられ、破片が四方に飛び散る。
だが瓦礫の中から、白銀の尻尾がひょいと跳ねた。
「……あっぶなぁ~。にひひっ♪」
次の瞬間、フェンリルはすでに背後に回り込み、拳を叩き込む。
ドゴォッ!
リュカオンの巨体が揺らぐ。だが踏みとどまり、不敵に笑った。
「効かんな」
「へぇ~、硬いじゃん」
拳と爪、蹴りと牙が交錯する。
小手調べに過ぎないはずの戦いが、夜の港を震わせた。
その時――
「そこで何をしている!!」
警察の声とサイレンが響いた。赤と青の光が港を染める。
リュカオンが舌打ちした。
「……チッ、まだ騒ぎを起こすわけにはいかん。手下に暴れるなと命じた手前、俺がここで暴れては示しがつかん」
振り返りもせず、彼はフェンリルを睨みつけた。
「銀狼! 明日、あの山でダンジョンを開く。そこで貴様を殺す!」
「おいおい、脅し文句はもっとカッコつけなよ」
「それに俺の部下が人間狩りを行う。人間の味方気取りのお前に、守れるかな?」
言い放つや否や、リュカオンの姿がかき消える。
気づけばフェンリルの背後に立っていた。
「――あばよ」
ドガァン!
蹴り飛ばされ、フェンリルの身体が海に叩き落とされた。
波間に沈みかけながら、フェンリルは水を掻いて顔を出す。
「クッソ……油断した……!」
悔しさに尻尾をばしゃりと叩きつけ、月に牙を剥く。
「にひひっ……明日、絶対にぶっ殺してやる!!」
港にサイレンが近づく。
フェンリルは水飛沫を払うと、屋根の上へ軽やかに跳び上がった。
「……にひひっ♪ 楽しみにしてろよ、リュカオン」
白銀の影は港の闇に溶け、
やがて街の灯りに紛れて消えていった
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