42話 ネリーさんの日本語教室
――SID東京支部・居住区。
白を基調とした無機質な部屋。その中で、ネリー・カーミラは机に腰かけ、足を組んでいた。
手首には黒い金属の腕輪。小さな光が点滅し、かすかな振動を伝えている。
「……これがわたくしを“監視の腕輪”ですのね」
紅い瞳を細め、くすりと笑う。
ドアが開き、エージェント・久遠が姿を現した。
「ネリー・カーミラ。今回の任務に同行させる以上、行動規則を改めて確認しておきます」
淡々とした声が響く。
「行動は居住区、廊下、食堂、図書ラウンジまでは自由です。ただし、禁止区域にはセキュリティカードがなければ入れませんので勝手なことをしないようにお願いします。
そして緊急時の戦闘行為は茜隊員の許可が下りた場合のみ認める」
「……まぁ、理不尽ではありませんわね」
ネリーは小さく肩をすくめる。
そして、わざと口元に指を当てて囁くように続けた。
「でも……人の血は甘そうですわね――ふふ、冗談ですのよ。」
久遠の灰色の瞳がわずかに細められたが、何も言わない。
ネリーは艶然と笑って告げた。
「ご安心あそばせ。わたくしが血を求めるのは――ただ一人。ミツキさんだけですの」
その声音には冗談めかした響きと同時に、揺るがぬ決意があった。
久遠は眉をわずかに動かしただけで何も言わず、メモを取って退室する。
「さて、この部屋に籠もっていても退屈極まりませんわね。まずは――この世界の言語を習得いたしませんと。」
ネリーはため息を吐き、椅子から立ち上がった。
磨き込まれた床。棚に並ぶ書籍の背表紙。
ネリーは図書ラウンジの椅子に腰掛け、分厚い「日本語入門」を机に広げた。
「……さて、異世界において最も重要なのは言葉。まずは基礎から参りましょう」
ぱらり、とページをめくる。
「まずは、ひらがなですか。全部で四十五文字の、ずいぶんと可愛らしい文字ですわね。
これはひとまず覚えるだけですから簡単ですね」
「……次はカタカナ。この世界では同じ読み方で違う文字を使うのですか? どうして? えっと……外国語や外来語と、擬音擬態語、動植物名などの特殊な語に使われます。なるほどですわね。」
一言一言、頭のなかに叩き込んでいく。
「この“シ”と“ツ”。同じにしか見えませんわね!? 角度がちょっと違うだけで別文字ですの!? どちらも『シ』と発音されるかと思いましたら、片方は『ツ』!? ふざけてますの!?」
椅子から転げ落ちそうになりながら次のページをめくる。
今度はひらがなの文章のようだ。
「これは……“へ”? いいえ、“わ”!? なぜ『は』と書いて『わ』と読むのですの!? 『へ』と『え』も時と場合で変わる!? おかしいですわ! わたくしをからかってますの!?」
机を叩き、唇を尖らせる。
ページはどんどんと進み、ついには漢字へと突入する。
「“生”。……これは“せい”? “しょう”? “なま”? “いき”? 読みが四つも!? 同じ文字でどうして意味が違いますの!? これでは日常会話で罠にしかなりませんわ!!」
「“上”。あがる? うえ? かみ? ……何通りあるのですの!? わたくしの知っている言語はもっと明快ですのに!」
「“はし”。……これは“橋”? “箸”? “端”? 同じ音で全く違う意味!? どうして声だけで区別できるのですの!? 皆さま超能力者ですの!?」
そして極めつけが――動物を数える単位。
「……“いっぴき”。まぁ、素直で分かりやすいですわね」
「“にひき”。ふむふむ。変わるのですね」
「“さんびき”。……はぁ!? どうして“ぴき”“ひき”“びき”となるんですの!? ならば次は“ぴき”ですか?」
「“よんひき”。……違うんですの!?」
「“ごひき”。……そこは同じなんです!? これではパターンなど読めませんわ!」
「“ろっぴき”。――ぴ!? なぜここで突然の破裂音ですの!? 6は爆発でもしたいのですの!?」
「“ななひき”。……また素直に戻る!? どういう基準なのですの!!」
「“はっぴき”。!? またぴ!? 8は跳ねすぎですわ!!!」
「“きゅうひき”。……戻った……戻るのですか……」
「“じゅっぴき”。――最後にもう一度“ぴ”!? どうしてトドメに狂気を加えてくるんですの!!!」
ばたん、と本を閉じる音がラウンジに響いた。
「……日本語、絶対にわたくしを馬鹿にしてますわ。」
肩で息をしながら椅子に背を預ける。紅い瞳には疲労の色。
「……頭が痛くなってまいりましたわね」
こめかみを押さえ、ネリーは立ち上がった。
白い壁。消毒液の匂い。無機質な静けさ。
医療区画のドアを押し開けて入った瞬間、室内にいた女性が振り返った。
長い金色の髪を高く結い、白衣を羽織った女性。
すらりとした体躯に、大人びた整った顔立ち。だが、狐のように尖った耳がその正体を雄弁に示している。――天狐族。
年齢不詳の落ち着いた美貌を持ちながら、その琥珀色の瞳は臆病な子鹿のように揺れていた。
「っ……!」
女性は手にしていた器具を取り落とし、カランと乾いた音が響く。
一歩、二歩と後ずさる。
「す、すみません……どうか……どうか命だけは……!」
声は震え、必死の命乞い。白衣の袖口が細かく揺れ、彼女の肩は小刻みに震えていた。
ネリーは紅い瞳を細め、わずかに微笑む。
「……まぁ、なんということでしょう。わたくし、ただ少々頭痛がするだけですのに」
その声音に悪意はなくとも、女性の怯えは消えない。
唇を震わせ、何か言いたげに開いては閉じる。
――天狐族の医療班員、つくよみ。
その出会いは、こうして最悪の形で幕を開けた。
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