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見えない口

作者: 角居 宗弥

 これ以上の貧乏はかなわないので、役所に行くことにした。薄暗い部屋の隅で、私は決心を固めていた。カーテンの隙間から差し込む午後の光が、床に積み上げられたゴミの山を照らし出している。埃の舞う空気は重く、息苦しかった。父は役所に行くというと激しく抵抗した。


「役所なんか行くな!人を呼ぶな!話しかけるな!」


 この汚言が全く私の身に響かないほど、ここに来た一日で私も麻痺していた。それほどにこの父親の暴言はひどかった。父の顔は青白く、髪は長く伸び、脂ぎって絡まっていた。目の下には深い隈があり、指先は黄ばんでいる。今まで自分は父親に盾を突くということを夢にも思わなかったが、この時ばかりはどうしても反抗せずにいられない。


 玄関から居間へと続く廊下は、空のペットボトルの山である。床一面に足場のないほど積もってゆく一方のペットボトルは、はたから見てもどうもおかしい。窓の外から覗く人がいたら、きっと驚くだろう。


 そして、ゴミに埋まって明らかに使えない、黒ずんだ風呂。もはやカビどころではない、ヘドロのようなものがこびりついているのを見ると、父親の身体はこれ以上に汚いのではないか、という気がしてきた。家の中は独特の臭いが充満し、初めて来た時は吐き気を催したほどだった。今では鼻が麻痺して、その異臭にも慣れてしまった。


「どうしていかないの、お金を払う必要はないよ、ただ役所に言うだけだよ」


 私は必死に説得を試みた。声を震わせないように努めながら、父の目を見つめる。しかし、ここに書くのも躊躇われるほどの狂人ぶりをさらに際立たせる他何の効果も得られなかった。父は両手を激しく振り回し、唾を飛ばしながら怒鳴り続けた。壁に積み上げられた新聞の山が揺れ、一番上の束が崩れ落ちる。


 こうなれば仕方がない、聞く耳も持たないうるさい父親は放っておいて、この家に帰ってきてから様子のおかしい母親の安否を確認する。母の部屋へ行くと、薄汚れたベッドに横たわる小さな影があった。母親は起こそうとしても全く起きなかった。呼吸は浅く、肌は紙のように白い。目の前のやせこけた父親に訊いても埒はあくまい。息をしているか怪しいほどである。かすかにまつ毛が動いたのに少しばかり安堵して、これもしばらく様子を見ることにした。


 問題は二階にいる弟の面倒だ。階段は雑誌やダンボールで埋め尽くされ、足場を探しながら一歩ずつ上る必要があった。二階に上がると、後ろから一段と荒ぶった、野太い言葉にならない怒号が聞こえる。振り返ると、父が階段の下から私を見上げ、何か叫んでいた。私にはもはや、意味のない言葉を聞く猶予は到底なかった。まず、この家を何とかしなければならない、という焦燥感と義務感と、多大なる得体のしれない罪悪感にさいなまれて、階上に向かう。


 廊下の壁には、かつての家族の写真が数枚。


 案の定、弟の部屋の鍵が閉まっていた。今は昼真っただ中であるものの、全く人の動いている気色が感じ取れない。ドアを軽くノックしてみる。返事がない。今度は強く叩いてみた。集金の取り立て屋のように(たた)いてみた。最後に父親の叫喚に背後から押されつつ、ドアに体当たりする。


 途端に、階下から聞こえるものとは違う喚声。


 がしたかと思えば、いきなり蹴破らん勢いがドアにあった。


「お姉ちゃんだよ」


 という声は、全くその大声と物音にかき消されてしまう。どうやら重たい何物かをドアへ繰り返し投げつけているようだった。


「やめて、けんちゃん!」


 うるせえ、クソばばあ、という声が聞こえてきた。その言葉ですべての抵抗する力と心を失った。その場に座りこむ。そして残った力で、かすかな涙を振り絞った。


---------


 大学を後に自宅に帰ろうと思ったら、ブルブル、とスマホが鳴った。講義ノートを整理していた私は、慌てて画面を確認する。見れば実家の隣に住む坂間(さかま)さんからの電話である。何かあったら連絡するように頼んでいた。胸が小さく締め付けられる音がする。


「はい、もしもし」


 私の声は少し震えていた。


「もしもし、由衣(ゆい)ちゃん? あのね、先週ね、お母さんが道端で倒れてて、お父さんが助けに行ったらしいのだけど、そのとき大きな声を出していたわ。忙しいかもしれないんだけど、あなたが東京に戻ってから二週間ぐらい経ってて、以前より何も音沙汰がないものだから、心配になって。買い物にも出てないし、宅配も来てないみたいよ。ちょっと様子見たほうがいいかもしれないわ。」


 坂間さんの早口を聞きながら、頭の中ではまず疑問がいくつも湧いて出てきていた。窓からは夕暮れの街並みが見え、電車の音が高架の奥底から聞こえる。あのとき、父も母も外に出ているような雰囲気ではなかった。父は時々買い物に行くようではあったが、母が外出するといったことは、あの時誰に聞いても微塵も聞かなかったことである。母は自分のベッドから動けるような状態ではなかった。


 今夜こそは問い詰めよう。そして、どこかに連れてゆかねば。どこかに。そう、私もまだわかっていない、でもとりあえずどこかに。


 急いで荷物をまとめ、パソコンと書類をリュックサックに詰めた。その足で最寄りの駅に向かった。二時間ちょっとはかかる。実家に電話をしたが誰もとるものはいない。通話ボタンを押す度に、心臓の鼓動が早くなる。弟は寝てるんだろう。母親も寝てるかしら。父親は。父親は,そうねえ,プロレスでも見ているのかもしれない。


 電車の窓から流れる景色は、都会の喧騒から次第に田舎の屋根瓦の赤一面へと変わっていった。


 列車の車窓に映る自分の顔。視線を下に戻す。



 電車は箱根を越えた。



 ——越えてしまった。


---------


 すっかり夜になった。今日は否応がなしに実家に泊まることになる。あんな家に泊まるなんてもってのほか、とも考えた。でもに何かあったときの為に、とも考えた。でも近くにホテルがあったわ、と思い直した。でもホテルから家まで歩いて三十分はかかるわ、とも思いなおした。絡まりまくった(つた)を全部剥ぎ取っていくにはちょうどいいと考えるようにもした。


 駅から実家まで歩く道は、街灯が少なく、懐中電灯を頼りに歩いた。虫の声が夜の静寂を破り、遠くで犬の遠吠えが聞こえる。家は完全に硬く閉まっていた。家の周りには雑草が伸び放題で、庭と呼べるものはもうなかった。ハエが数匹、窓の周りを飛び回っていた。いつもは少し空いている勝手口も、完全に固定されていて、これはゴミ屋敷のみならず要塞と言っても良いような不気味さをまとっている。


 窓を強く叩いた。アルミのサッシが乾いた音を二度立てる。先に坂間さんに会いに行った。坂間家の温かい光が、暗闇の中で頼もしく感じられた。たどり着いて少しためらいながらベルを押す。


「ごめんねえ、忙しいのに」


 ドアを開けた坂間さんは、前よりも髪が白くなったように見えた。


「いえいえ、こちらこそ、大変申し訳ないです。頼んだのは私ですし、私の実家ですから」


 すると奥から大きな声がして


「ええ、あそこんちの人なのお? 早く片付けてよお、臭すぎるよ。顔も怖いし」


 男の子の声は、夜の静けさを切り裂くように響いた。「ユウジ、やめなさい」との声がしたが、私はいえいえ、と言ってごまかしておいた。ユウジの戻った整った食卓と、私の手の冷たさとの対比が、妙に刺さった。


「こわいわよね、一緒に行ってあげるわ、ユウジ、静かに待ってなさい、エミ、お米炊いといて。」


 と言うとエミ、と呼ばれた子はどこからともなく出てて来て、はーいと答えた。不意に涙が出てきた。それを懸命にこらえていると、一緒に行ってあげるから、ね、となだめる坂間さん。いや、そうじゃない、そうじゃないの、と思いながら、はい、ありがとうございます、と繕う。


「坂間さん、ここで待っていてください。何かあったら連絡します。」


 と、粗大ごみの前に坂間さんを置いて、荷物も預け、やけに多いハエと長すぎる雑草の中に足を踏み入れた。鍵を取り出して鍵穴の中に入れ、力任せにひねると、キリキリ言いながらやっとのことで鍵が開く。この状況でどうして外出したのかしら、と思いつつ、次は雪崩れてくるゴミの山を足で蹴り飛ばしながら家の中に土足で踏みこんだ。


 暗闇に包まれた家の中は、湿った空気が鼻を突いた。懐中電灯の光が照らす先には、床を覆い尽くすゴミの山。新聞紙、空き缶、食べかけの食品、衣類が入り乱れ、足を踏み入れる場所もない。


 「おとうさん?」


 私の声は、小さなダクトに吸い込まれる。代わりに口の中に何かが飛び込んできた。


 どぶ色の臭い。


 染み出る黄土色の臭い。


 そして裏付けられた、鉄黒の臭い。


---------


「それは、いつですか?」


 警察官は落ち着いた声で尋ねた。じっとりと汗の染み出る気持ちの悪い夜だった。目の前の人は神妙に、しかし努めて爽やかに聞いてきた。若そうだ、同年代かしら、手帳にメモを取りながら私を見つめていた。


「私は詳しいことはわからないんです。坂間さんから連絡を受け取ったのが、七月の最初の土曜日でした。だから、六月の最後になると思います。」


 窓の外は雨が降り始め、ガラスに水滴が(つた)っていった。


 もう少し、私が無理やりにも父や母を連れ出していたら、と考えることはあっても、その時間とか気力とかが、あの時すでに残されていなかったことは、うすうす感じ取っていた。時計の針が淡々と時を刻む音だけが、静かな部屋に響いていた。


 一旦は帰るように促された。署を出ると、湿った冷たい空気が頬をなでた。横にあるコンビニに入って傘を一本買う。坂間さんにお願いして、お家にお邪魔させてもらおうかしら。全部が終わらないと東京には帰れないという。


 送って帰りますよ、と言ってくれたけれど、私はそれを断った。青白く光るホテルの看板をしり目に、街頭の無い方へゆっくり歩いていく。時折車が横を走っていく。


 時折車が横を走る。ジャッと音を立てる。夜の道を歩くのは悪くなかった。それほど車も通らない。人の往来もほとんどない。時折親より年上の人が自転車に乗って側を通り過ぎる。ほら、あんなに漕ぐのが大変そうな人でさえ、夜の帰路を辿っている。通りの向こうで歩くのは今はやりの配達員。でもこんな遅くまでやってるかしら。大きな手提げの袋を両腕に抱えて、大きく前傾して運んでいる。


 母の笑顔、父の誇らしげな表情、そして幼い弟と私。時が止まったような、遠い過去の記憶。涼しい虫の音がすると、一気に思い出すものがある。


 夜の闇に包まれながら、弟のことを考えた。いつからああなったのだろう。小学校高学年あたりだっただろうか。クラスメイトにいじめられたと言って学校に行かなくなり、そのまま中学にもまともに行かず、自分の部屋に閉じこもるようになった。最初は心配して声をかけていたが、次第に反応は薄くなり、最後は怒鳴り声しか返ってこなくなった。


 最初の一年は、両親も真剣に弟のことを心配していた。カウンセラーを呼ぼうとしたり、病院に連れていこうとしたりした。でも弟は頑として部屋から出ず、両親の強制にも激しく抵抗した。そのうち、父も諦めてしまった。いや、諦めたというより、自分自身が弟と同じように社会から切り離されていったのだ。あの人の事情は知らない。あの人は弟以上に頑なだった。ただ、急に会社に行かなくなったことだけは覚えている。あの過剰ともいえる放任は弟に譲られたのだろうか。夜の街に千鳥足で出かけて行くのも、私はひそかに知っていた。


 田舎道に差し掛かると、街の明かりはすっかり遠ざかり、月明かりだけが道を照らしていた。蟲の音が耳に入る。この道を、何年も前、弟と一緒に歩いた記憶がよみがえる。まだ小さかった弟は、セミを捕まえては喜んでいた。今の彼の姿からは想像もつかない。


 あの部屋で何をしていたのだろう。テレビを見ていたのか、ゲームをしていたのか、それとも何もせず天井を見つめていたのか。


 助けが必要だったのだろうか。いやでも母親は言った。はっきり言っていた。だから私は上京したの。私は間違ってなかったわ。


 道端に咲く野花が風に揺れ、その影が月明かりに揺らめいている。いつか弟を連れてきた川辺も近い。ずっと先、木々の間から実家の方角が見える。あの家に戻る勇気はまだない。


 ぼんやりとした頭を首でやっと立てて、道を曲がろうとしたその角で、何人かが話している。


 一人は坂間さんだった。街灯の下で数人の近所の人々と話し込んでいる。声が遠く、何を話しているかわからない。でもその中に割って入ろうとは到底思えなかった。心なしか動悸が予期せず起こってくる。そして次の言葉ははっきり聞いた。


「...私がみたお母さんは、もう亡くなってたってことね。お父さんは認知症かしら。最後の力を使って家の中に引きずり込んだのね。哀れな娘さんだわ。今夜はどうするのかしら。」


 とたんに、抑えられない量の涙があふれだした。街灯の光が水滴を通して歪んで見える。声こそ出さないものの、ペタリと尻をついて、大人げなく泣きじゃくった。傘の柄にしっかりとしがみついた。頭上でバラバラと大きな音がする。


 やっぱり私もおかしいんだ。


 そうだ、あの子も言っていた。


 あの子供に家が臭いといわれて、それを素直に受け取って、ごまかした自分がいた。


 心のどこかでは少し放ってしまおうという気持ちがあったに違いない。あの父親ならば、死なない程度になんとかするだろうという気持ちがあったに違いない。だからこうして泣くんだろう。人に隠れて泣くんだろう。そしてまた我慢して、それを誰にも言わないで、表では良い人を繕って、裏では何もできないで、こうして親を、こうして弟を...


 こうして隣に陰口言われるんだ。


 雨が強くなる。木の下で幾らか雨は傘に落ちない。


 時折、ボトン、ボトンと大きな水滴が傘にぶつかってくる。


---------


 ガサガサっと音がした。驚いて横を見ると、あの女の子だった。傘をさして立っている。あの男の子もいる。こんばんは、と(ささや)かれた。こんばんは、と絞り出す。


「ハエすげえな」


 ユウジがぽつりと漏らした。エミがしっ、とたしなめる。そしてエミが口を開いた。


「お母さんね、警察の人に話しちゃダメ、って言われてるのにああやって周りの人と話してるの。何回も、何回も言われたのに。」


 女の子は続きをこういった。


「今夜はお家に来ちゃダメだよ」


 返す言葉もなかった。


 どうして。


 子供と接することのほとんどなかった私には、新鮮に感じられたが、同時に不思議な感覚でもあった。雨の中で、二人の子供の顔は真剣だった。


「お母さんがね、ほんとはあなたのこと、あんまり好きじゃないんだ。」


 畳みかけてぽつりともらしたのを、私は聞き逃さなかった。


「だって、ごみ屋敷の《《息子》》さんだからって。」


 返す言葉もなかった。ユウジは黙りこくっている。風が吹き、傘が揺れる。


「でもね、私たちは好きだよ。だって、いつもやさしいから。」


 エミは私に微笑みかける。雨に濡れた頬に優しい笑顔が浮かぶ。ユウジは何も言わないが、薄闇の中に透けて出る小さな顔を読み取って、少なくとも微妙な立ち位置に立たされた神妙な面持ちをたたえていることを察知した。


 私は涙を流した。


「ありがとう……」


「お母さんには、お姉ちゃんと会ったことも黙ってて。怒られちゃうから。」


---------


 鈴虫の鳴く田舎道のど真ん中で、子供らと合流した母親らが帰るのを確認し、(ひと)り呆然と立ち尽くす。雨は上がり、濡れた道路が月明かりを反射していた。冷たい風が心の奥にまでしみ込んでくる。私は足を一歩踏み出したが、すぐにぴたりと止まってしまった。


 そういえば、坂間さんは未亡人じゃなかったかしら。こう思うと、なおさら裏切られた感覚が強くなる。それに対して、あの子らはどうだろう。やっぱり、母親に抑圧されるのではないかしら。あの子らもどうせ大きくなったら、私の母や弟のように、口を奪われたがごとき生活をするに違いない。


 月が雲間から顔を覗かせ、一瞬だけ道を照らした。あの口の悪かった少年はどう思っているかしら。今は表立って表情を見せることはない。でも年を取るにつれて、あの少年の申し訳なさそうな顔と、あの少女の純粋さと誠実さは、どんどん失われていくんだろう。


 あんな顔をしていた少年もどうせ、二、三十年たてば私の父親のような形相に様変わりするんだろう。水たまりに映る自分の顔は、父に似ているように思えた。


「認知症って、何よ。勝手に決めないでくれる。」


 そう言って目の下にたまった涙を吹き飛ばした。この気持ちにくれる(なみだ)はない。涙を拭った腕は、例の夜風に吹かれて、一瞬で冷たくなっていった。その腕は、揺らいでいた。


 私はゆっくりと駅への道を歩き始めた。

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