山梨 西湖ネイチャーセンター
龍丞は、店を出る時に栄視から渡されたメモを頼りに山梨まで来ていた。
群馬も肌寒かったが、山梨はもっと寒かった。
群馬から高速に乗り上信自動車道を走って東京方面へ行く関越自動車道に乗り換え、八王子JCTで中央自動車道にまた乗り換えひと走り、出発してからかれこれ約3時間はかかっただろうか。群馬は晴れていたというのに、山梨に近づけば近づくほど雲行きが悪くなっていき、雪でも振るのではないという天気になったのだ。そんな天候である、富士山に近い場所というのもあり、それもそのはずだ。いくら冬支度をしていると言っても、よくよく考えてみれば山に登るような格好はしていない
こんなにも冷静さを欠くとは
と、龍丞は戸惑いを隠せない。
あの時以来だな、とふと思う。
それは、嫁の手帳を見つけた時だ。
それはそう、手掛かりらしい手掛かりなんてなかったのだ。嫁の実家はもうなく、嫁の両親だけでなく、親戚すらいない状態だった。つまり、嫁は幼い時に母を病気で亡くし、高校卒業をして瞬くして父を亡くして天涯孤独となった。嫁の両親共々仲良くしていたという不動産屋が一番親しくしていた方と言ってよい。と言っても、不動産屋は父の大学の時の友達と聞いており、嫁の地元には住んでいなかったので、嫁が地元でどう生活してきたかまでは詳しくは知らなかったのだ。あくまで、父の葬式の時に東京に行くと聞き、その時から世話というわけではないが住む場所を紹介した縁で親しくするようになったと聞いている。
家には学生時代のアルバムは置いてあり、嫁が卒業した学校を訪ねて担当教師に話を聞きに行ったり、クラスメイトにしらみつぶしに聞き回ったり、近所に住んでたという同年代の人達にも聞き回ったのだが、地元では親友など皆無で友人らしき人すらいなかった。存在感が薄かったのか、そう言えば同じクラスだった気がします。というような、どこへ訪ねに行っても曖昧な回答しか聞けなかった。まるで存在していなかったのかと、不安になるほどだ。
と言っても、それは学生時代の地元での話であり、東京へ出てきてからはそうではない。仕事場ではちゃんといい関係を気付けていて、皆、話しやすくていい子よね、付き合いがよくて親切だった、と改めて聞いても一緒にいた時の嫁とは印象が変わらず、新しい情報は入ってこなかった。恋人になって、夫婦になって何年も暮らしていたのだ、職場に行くこともあったが良好であったし、嫁は仕事で知りあった友達と食事に出かけることも、少なくなかった。いつもにこやかに仕事へ生き、友達と楽しそうに会っていた。暗い顔など、見たことがなかった。
いや、見ていなかったのか、
そのことを思うと、いつもそれで頭を悩ませる。
それでも、誰も、そんな人いたかしら、なんてあの時みたく、龍丞が知る友人は誰一人言わない。きちんと、嫁を認識していた。嫁が東京へ出てきてからの友人で知らない人はいないだろうことは、確信していた。嫁は都合が合えば友人を龍丞と引き合わせていたし、嫁の友人に聞いてみても龍丞が知らない友人がいるような覚えはないときっぱりと誰もがそういうのだ。
ただ、嫁は自分の話になると上手く話を逸らして節があり、龍丞のことは話ても自分の生い立ちや家族の事などはほとんど話していなかったというのだ。普通、家族がいないとなると気になるはず。
けれど、龍丞も嫁を知ってる皆、それが怪しいとも何とも微塵も、思っていなかった。
思い返してみると、嫁と話していると普通なら変だなと思うことがそう感じなくなる事が、不思議とあった。
それを喜満子に話したことがあったが、そう?気のせいじゃないとあっさり否定された。喜満子は、口にはあまり出さないが感が鋭いところがあり、自分が過敏になってるだけと龍丞は一旦、納得したのだ。
そういえば、
嫁に感じたこの感覚は、
あの群馬の栄視に感じたものと、似ているような気がする。
そんなことがあり、せめて実家があれば、親戚がいれば、親友がいれば、何か手掛かりが掴めたかもしれないと絶望していたあの時。だから、あの手帳を見つけた時、暗闇で前が見えなくなりそうだったのが、やっと、一筋の光が差した、救いだった。
想いが馳せて指先が微かに震えながら慌ててページを捲ったあの時の音、その音が遠く聞こえてきたような気がしたが、すぐに聞こえなくなった。
それもそうだ、そんないい思い出ではない。その時結局、何も手掛かりが見つからず、ずっと奥の奥に押しやっていた苦しみや悲しみが洪水のように流れて止まらなかったからだ。
でも今、まさにその手帳が役に立った。
というのは、まだ早いか。それでも、途方に暮れていたのは確かなのだ。
黒がボーッとしている龍丞を見かねて、ワンワンと軽く吠える。
「...あ、悪い悪い。ちょっと、トリップしてたようだ。ありがとな」
よしよしと、黒の頭を優しく撫でてやるとほっとした顔をしてから気持ち良さそう顔をしている。
最近、龍丞はボーッとすることが多く、その度に黒に助けられているなと、そう思う。
「...にしても、本当にここか?」
山梨には嫁とは何度か旅行できてことがあるし、富士山にも五合目までは車で一緒に行った。だがしかし、ここへ来るのは初めてであった。富士山には近いものの、山に近いというよりは樹海に近いのだ。昔は富士の樹海といえば、入ったら最後、帰って来れないなどと聞かされたもので、あまりいい噂を聞かなかった。ただ、今はきちんと舗装されているらしく、その道を外れなければ散歩コースにはいいようだ。道を尋ねようと西湖ネイチャーセンターの駐車場へ入り、駐車場で休憩していた地元らしいおじさんが教えてくれたのだ。
一足先にそのおじさんは駐車場を離れ、その駐車場に一人きり、いや一人と一匹だけ。いつでも出発できるように、エンジンはかけたままだ。というか、寒いのだ、エアコンなしなど流石に無理というもの。
もう一度、もらったメモとカーナビを見比べてみる。カーナビは最新式ではないと言ってもそこまでは古くはないし、便利屋になってからは知らない場所にくなどざらであり、地図は必須であり新しい地図に更新しているはずである。
何度メモとカーナビを睨めっこしても、目的地は西湖コウモリ穴周辺を指している。さっきのおじさんに聞いた話を思い出してみても、古本屋など近くにはない、ということである。
偽情報でも摑まされたのか、そう思っても仕方がない。
「行くか、行かざるべきか...」
途方に暮れる。はぁっと大きなため息が漏れた。すると、黒が鼻先を龍丞の太ももに擦り付けてきた。
「ん?どうした?...餌はパーキングエリアで買って食べさせたし...?」
はやる気持ちもあったが、流石に黒は朝ジャーキーを食べたきりなので、不憫に思い、急に寒くなりトイレにも寄りたかったため、寄ってきているのだ。龍丞はカレーを食べているものの、三が日で通常の店はやっていないかもしれないし、いつ昼食が食べれるかも状況によっては分からないと、おにぎり二つと唐揚げが入った弁当と熱いお茶を胃袋に納めていたのだ。これも便利屋の経験というもの。だからその時に、黒には少し多すぎるかというほどの餌を与えているのだが、と思っていたら、ワンっとまた黒が吠える。
「どうした?腹が減ったのか?」
そう龍丞が言うと違うというように、黒は龍丞の服の袖を加えてクイクイと軽く下の方へ引っ張る。
「違うのか?...ん?...あぁ」
黒が教えたかったのは、これ、ホルダーカップに入っている、ピーシーの煙草の藍色缶。と言っても、これは煙草が入ってる訳ではなく、チュパチャップだ。小説家時代はピーシーをよく吸っていたが、嫁と付き合うようになって辞めたのだ。何せ、嫁は煙草を吸わないし、匂いが苦手だからだ。
と言っても人間である、そう簡単に辞めることができず、嫁の前では吸わないようにしていたがどうしても吸いたい時にニコチンガムを噛んでいたのだが、あまり口に合わなかった。我慢してガムを噛んでいたのだが、それが顔に出ていたらしく、
「そんな眉間に皺寄せてまで、我慢しなくていいのに。逆にストレスで、身体に悪いんじゃない?」
龍丞の眉間の皺を指差し、嫁は苦笑して言った。
「...だけど...はいそうですかって、なんないよ」
嫁のために我慢している手前、嫁がいいというからとホイホイと吸うのは男としてプライドが許さなかった。要は、格好付けである。
「...うーん、そっかそっか...な〜ら〜」
少し怪しげに笑った嫁は、ずっと後に回していた腕を前に出して龍丞の口に不意に何かを入れた。
それが、チュパチャップ。
その時は、ガムが口の中に入っており、褒められるほどあまり美味しいというものではなかったが、嫁が安かったという理由で大量に買ってきてしまい、仕方ないと苦笑しながらも二人で食べるようになった。そのうち口寂しいとチュパチャップを舐めるようになってしまい、煙草の数が段々減り、完全に煙草は吸わなくなった。
今はもちろん吸わないのだが、嫁がいなくなってからチュパチャップは1本、また1本と舐める数も減っていき、本当にたまに舐める程度になっていた。ただ、何か悩みだすと舐めたくなって、それを黒は気づいたのかもしれない。
缶を開けて、チュパチャップを取り出す。色んな味を試したが、しっくりくるのはコーラ味。嫁もこれが好きだったなと思うと、感傷に浸る感じになってしまい、急いで包装を取って口の中に放り込んだ。
炭酸がないコーラ味という感じだが、スパイシーさも少しあり甘すぎないのがいい感じだ。
コロコロ コロコロ
口の中で転がしと行くと、すーっと悩んでたことがバカらしくなった。
ガリ ガリ ガリ
口の中の飴を砕いて、棒を包んでいた包装に包むと車の中のゴミ箱へ捨てた。
「よし、行くか」
吹っ切れた清々しい顔の龍丞は、黒の頭を優しく一撫でする。
折角ここで来たので、行けるところまで行こう。そう、龍丞はシートベルトを嵌めると車をドライブに入れてゆっくりと走り出した。




