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消えた女

 その男は、消えた女をずっと探している。


 五十も過ぎ始め、八犬(はっけん) 龍丞(りゅうすけ)はなんとなしにいつも見つめるのを恐れていた己の姿を、鏡越しに見つめた。

 鏡は自宅の洗面所の洗面台の所に備えつけてある四角い鏡である。

 嫁と結婚した時に新築にするか、中古にするか、賃貸にするか決めかねていた。お互い慎重でこだわりがあり尚且つちょっと優柔不断なところがあって、一軒家がいいという以外は何も決まっていなかった。

 その時は、知り合いの不動産屋に紹介してもらった中古にしては真新しい物件を二人で見に行っていた。


 そこが、今の自宅で、ここである。


 何が決め手だったかといえば、自然に囲まれた静かで落ち着いていて、何より古民家のような外観なのに中はまだ真新しく、部屋は少ないが広い居間に暖炉があって、一番置くの部屋には以前暮らしていた家主の書斎がある。

 重厚でアンティークな洋風のデスクが、重々しく感じるアンティーク調の部屋の黒々と艶のある扉を開くと目の前にあって、どっしりとその部屋の主のように置かれている。そのデスクにはボルドー色のビンセントチェアが置かれ、よくわからないが、誰かがそこに今も存在していたかのような雰囲気を醸し出していた。

 書斎自体はさほど大きくはなく、デスクの真後ろに小さな窓があって、そのデスクを囲んで本棚が置かれているだけだ。前の家主の書籍がびっしりとそのまま置かれており、分厚いその本達の背表紙のタイトルは、異国の文字なのか今は擦れていて読めないものが殆どで、それが余計にどこか不思議な感じがしてワクワクしていいねと、嫁が楽しそうに言ったのだ。


 だから、今までは二人が一生を過ごす家だからこそ決めに決めかねていたのに、その言葉を聞いた瞬間、何かしっくりくるものがあって、即決でここに決めたのだった。


 龍丞とは違い、嫁は綺麗好きで、家の中はいつも綺麗にしていた。フラワーアレンジメントの仕事をしていたため、家には彼女が生けた花が至る所に飾られいた。だが、今はその影もない。

 自宅で教室を開けたらと引っ越す前からずっと夢を語っていて、この家に引っ越したら始めるとウキウキしながら嬉しそうに話していたのを思い出す。これで妻の夢が叶うのかと思うと、自分のことのように嬉しかった。


 ただ、現実には、教室を開く準備はしていたものの、開くことはなかった。


 龍丞は、小説家、であった。


 嫁がこの家を気に入った一番の理由が、書斎があるということであった。嫁は、元々龍丞の小説のファンで、一度だけ小説がテレビドラマに起用された時に仕事を一緒にしたのがきっかけで、妻が積極的に話しかけてくれたことで、仲良くなって恋人になり、互いの仕事もあって一緒に暮らす方が一緒にいれるとなって、そのうちお互いに自然と結婚という流れになった。


 龍丞は元々人見知りな所があるし、あまり積極的に相手に興味を持たない所があって、なかなか初めての人とすぐに仲良くなることができなかったのだ。そんな龍丞だったのだが、嫁のフラワーアレンジメントされた生花を見て、その生けた人はどんな人間なのか、初めて興味が湧いたのだ。


 嫁の生ける花は、どこか哀愁があって見るものをドキッとさせるそんなアレンジであった。龍丞が見てきた華やかなアレンジとは違ったのが、心惹かれた理由であった。

 多分それは、嫁がそういう雰囲気をどこか持っていたからだとも思う。


 今は、ニューヨークに住んでいた姉が、龍丞を心配してほとんど空き家になっていた家を管理代わりに住んでいる。でも、嫁が掃除していた綺麗な空間とは違い、ほどほどの小綺麗さで、毎日嫁がピカピカに磨いていた鏡もどこか曇った感じであった。


 それが幸いした、龍丞はその時、そう思った。

 鏡はこの家には、この一枚しかない。正確には、姉が持っている化粧箱の中以外ではある。

 もちろん不必要だったから買わなかったのではない。龍丞が割ってしまったのだ。

 家の至る所に、嫁を思い出す何かがあって、辛く、家を出たのもそのためだった。


 特に《鏡》は、


 「鏡は自分の心を映し出すもの。綺麗にしておくと、心も穏やかに過ごせるんだって」


 昔、嫁が熱心に鏡を毎日磨いているので、不思議に思い聞いたことがあった。その時、そう言って少し悲しそうな目をした後に、笑顔でそう教えてくれたのだ。


 だから、嫌だったのだ。

 

 現実を鏡を通して、見るようで。


 自分に嫌気がさして失踪したのか、何かの事件に巻き込まれたのか、事故にあったのか、いまだに何も掴めない。

 生きていて欲しい、それだけが望みであるが、捨てられたかと思えば苦しくて視界が歪む。

 死んでいたらと思うと、体中が悲鳴をあげそうな、胃の中ものを全て吐き出してしまいそうなそんな不快感と共に、目の前が真っ暗になってしまう。


 だから現実を考えないように、現実と言ってもわからないのだ、どれが正解なんてないのだが、ただ、嫁はどこかで必ず生きていて、きっと自分を待っていると思わないと生きていけなかった。


 だから鏡は、現実に戻されそうで怖く、直視できなかった。


 ただ今、鏡を直視して、思う。


 この少し汚れてくすんで曇った鏡が、今の自分自身なのではないか、と。


 そう思うと、気が少し楽になった。


 嫁が消えて二十年になる。あの時は若々しかった姿も、シワやシミができ、髪には白髪が混じる。がむしゃらに、嫁を探し出すという使命感でここまできたが、老いというものには勝てず、ピンと伸びていた背筋が少し丸くなって、中年太りには幸いなってないものの、昔より筋肉が落ちて顔が少し痩せた。時というものは残酷であり、あがらってもどうしようもないと、鏡越しに実感する。


 そう、自分は万能などとは、ほど遠い。


 それが今、実感できて、楽になったのだ。


 あの時はきっと若く、体力と気力に溢れていた。なんでも努力次第でできると勘違いしていたし、手に入ると思っていた。

 だから、望むものが手に入らないからこそ、常に恐怖があって、怖くて眠れない日もあった。

 今でも、恐怖がないとはいえない。けれど、自分の不甲斐なさを認めて仕舞えば、その恐怖もまた、和らいだのだ。要は、自分で自分の首をずっと絞めていたのだ、と思う。


 「あんた、何してんの〜?ケーキ、届いたわよ」


 ボーっと鏡の前で佇んだままの龍丞に、今から続く廊下に顔を出して、姉が言った。


 「あっ...そんな時間か」


 龍丞は、鏡の中で自分を見つめた後に少し苦笑をし、わざとらしく鏡の前で口角を上げてから背を向けて居間へと向かった。

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