6 野球やめる
登場人物紹介
吉田亮…主人公、野球部エース
田沼七海…亮の彼女、野球部マネージャー
蓮田啓二…亮の親友、野球部キャプテン
甲子園直前になると、病状はどんどん悪化し、とうとう練習に行けなくなった。県大会で投げすぎて、肩が故障寸前という理由で何とか説明した。
ただ、それでも何とか試合には出た。正直、練習に行っていない自分が投げて良いのかと思ったが、周りの誰からも反論はなかった。
幸いにも、うちの高校は甲子園にスクールバスで1時間程度で着く距離にあったことから、試合当日にバスに乗って試合に出て帰るだけで済んだのもラッキーだった。
甲子園では、かなり打ち込まれピンチになる場面もあったが、他のメンバーの守備のファインプレーにも助けられながら、何とか勝ち進めた。
もはやストレートでも140km出ればいい方だったが、それでも抜群のコントロールということで、日に日にドラフトでの注目度も高まっていった。
そして甲子園決勝、序盤5点差で勝っていたが、8回に打ち込まれ、5-4になった。9回裏、2アウト、ランナー2塁、抑えれば優勝、もしホームランを打たれるとサヨナラ負けの場面だった。球数は130球を超えていた。ここで相手校は、3年生の代打を送ってきた。おそらく3年生最後の夏に配慮した思い出代打だろう。とはいえ、思い出にしては荷が重いなとも思えるような場面だった。
何とか2ストライクを取ったが、その後3つ続けて変化球を見逃され、どれもボールの判定となった。
ここにきて、体は限界だった。そこまで症状は出ていない方と言ってもがん末期の病人に灼熱のマウンドは地獄だった。それに5万人近くの観客、テレビの向こうの何百万人もの視聴者、それを考えるとプレッシャーがすごかった。筋力も衰えてきている中で、練習もろくにしておらず、体力もほぼない。そんな状態で、もはや立っていることすら厳しかった。このままもしピッチャーゴロが転がってきても処理することはできない、そんな状況だった。
おそらく次の1球が人生で投げられる最後の球だと本能的に確信した。
キャッチャーの啓二からのサインでは、自由に投げろというサインだった。俺らの中で、一応自由に投げろというサインを冗談で決めていた。実際、本当に自由に投げて啓二が落としてしまうとまずいので、これまで使うことはなかった。ただ、ここだけは何としてでも取るから好きなように投げろということだと理解した。とはいえ、もう変化球を投げられる体力・気力はない。
渾身のストレートを投げた。
思い出代打の3年生はバットを大きく振ったが、ボールには当たらなかった。
「ゲームセット」
そして今、甲子園優勝とともに、俺の野球人生は幕を閉じた。そして、間もなく俺の人生も幕を閉じる。それを予感させるかのように、試合終了を告げる大きなサイレンが無情にも鳴り響いた。
甲子園の取材スペースには報道陣がたくさん集まっていて、カメラがたくさんある。
キャプテンの啓二とともに取材スペースに行く。取材スペースに行くときには、大量のフラッシュが焚かれた。
いつもであれば、休むために試合終了後すぐにバスに戻るが、今日は優勝投手にもなったこともあって、逃げられないと思っていた。そして、もし優勝することがあれば、今日この報道陣の前で宣言しようと思っていた。そんなことも知らない啓二はまるで興奮を抑えきれないような感じだった。さっきも、ドラフトで何位で指名されるかという話をしていた。
「それでは甲子園優勝した王寺高校の優勝投手吉田くんとキャプテンの蓮田くんです。おめでとうございます」
インタビューをするアナウンサーは、甲子園のスタンドでよくリポーターをしている若い男性アナウンサーだった。
「ありがとうございます」
「本日完投勝利ということでしたが、今日の投球はいかがでしたか?」
「最後ということもあって、自分の出せる限りの力を出しました」
最後ということを強調して言った。
「これからプロに進むか、大学に進むかは決まりましたか?」
残念ながら、アナウンサーには伝わらなかった。当然高校最後と読み取るのが普通だよなとも思った。
「いえ、実はここでお話しするか悩んだのですが、少し時間いいですか?」
こうなると、時間をもらって宣言するしかない。会場はほんの少しざわついた。俺は知らなかったが、関西の方ではかつてプロ野球の監督が同じようなことを言って、その後記者陣全員を戸惑わせるような一件があったらしい。それを思い出して、ざわついたようだった。別に色紙は出さない。
「はい、どうぞ」
アナウンサーも予定にないので、ほんの少し焦っていた。
「今日をもって、野球をやめようと思っています」
俺の宣言とともに大量にフラッシュがたかれ、会場は一気にざわついた。報道陣の後ろで見ていた高橋監督や七海、他のメンバーは全員驚いて口があいている。啓二も横で驚いて、声を失っていた。
結局、病気のことについては野球部のメンバーには誰にも言わずに、そして今みんなの反応で確信したが、ちゃんと隠し通せたまま、甲子園優勝を迎えることができていた。だから、病気の話は、本当に家族と一部の病院スタッフしか知らないことだった。当然引退についても同じだった。
「どういうことでしょうか?」
アナウンサーは全然理解できない様子だった。
「言葉の通りです。今日で野球をやめます」
「理由は何でしょうか?」
「これまで公立のいわゆる弱小チームでありながら、優勝を目標に掲げてやってきて、今日優勝できてもう思い残すことはないなと思ったことが理由です」
さすがにもう余命が数日ですとは、言えなかった。こんなにたくさんの人が見ている中で、お涙頂戴みたいなことをするのは、ないと思った。ただ、これ以上野球は続けることができないので、こう言うしかなかった。
ここで言わないとまあ選ばれるとも限らないが、高校生の日本代表に選ばれたり、スカウトが来たりするかもしれない。その人たちにあきらめてもらうためにもここで宣言する必要があった。
「ちょ、おい、待てよ」
横にいた啓二は、怒っていた。それを見た報道陣が一番驚いていた。普通に考えれば、当然横にいる啓二は知っているはずだと思うだろう。でも、実際は何も知らず、報道陣と全く同じ状況だった。
「もう決心は固いのでしょうか」
「はい、変わりません」
「おい。すみません、今日の取材はここまでにさせてください」
啓二は無理やり終わらせ、俺を強引に外に連れて出ていった。
帰りのバスの雰囲気は最悪だった。甲子園優勝したのに、まるで決勝戦を20-0で負けたような雰囲気だった。学校に戻ってから話すと言って何を聞いても何も答えない俺に、啓二含め全員がイライラしていた。
バスが学校に到着した時、日曜だったにも関わらず、たくさんの先生や一部の生徒が拍手で迎えてくれた。ただ、バスから降りてくる野球部のメンバーの暗い顔を見て、誰も声を掛けることはなかった。
そのまま野球部のメンバーはグラウンドの部室前に集合した。
「どういうこと?ちゃんと話して」
一番最初に口火を切ったのは、七海だった。
「突然インタビューで何を言い出すんだ。理由を説明しろ」
普段ほとんど感情を出すことすらしない監督もさすがに怒っているようだった。
「すみません。少しみんなに話しても良いですか」
そう言って、俺は一息整える。
「みんな俺のため、ではないにしても、優勝という景色を見せてくれてありがとう。俺はすごいうれしい。ここまで甲子園優勝という目標を掲げたけども、こんなこと言うとおかしいけど、全然できると思ってなかった。本当は県大会で1回勝つだけでも十分だと思ってた。でも、みんなのおかげでここまでこれた。もう俺は野球にやり残すことはない。今は達成感でいっぱい。だから、野球をやめる。今まで本当にありがとう」
部のメンバーに言うか言わないかは最後まで悩んだ。でも、どのみちすぐ死ぬのに、最後湿っぽい顔をされても困る。とはいえ、野球をやめることを言わないのはまずいと思ったので、ここで言おうと前日また原稿を用意していた。もっとも、病気のことを言っていないのに、こんなに湿っぽい顔をされるのは予想外だった。
「そんなんで納得できるか」
やっぱり他のメンバーは納得できなかったらしく、メンバーにどんどん詰め寄られる。昨日原稿を考える時間が短く、30分で突貫で作ったのがまずかったのかと思っていると、突然意識が薄れてきた。
「亮、どうした。おい。救急車、救急車を早く」
啓二の声が聞こえて、完全に意識を失った。このタイミングで死ぬのか、と俺はこのとき思ってしまった。それでも、生きてるうちに泣かれるよりかはまっしかとも思った。