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寿命甲子園  作者: サクライアキラ
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1 甲子園優勝投手

 甲子園にサイレンが鳴り響く。

 最後の投球を覚悟し、渾身のストレートを投げた。もはやスタミナ切れで131kmしか出なかったが、何とか思い出代打の3年生のバットを振らせることができた。


「ゲームセット」


 試合は終了した。見事に我ら県立王寺高校野球部は初の夏の甲子園優勝を果たした。

 そして、甲子園優勝投手となり、ドラフト競合が確実視されていた俺の野球人生はここで幕を閉じた。


 時間は少し戻るが、ここまでを振り返りたい。

 

 小学生になってすぐ、町内会が主催して教えている子ども会のソフトボールチームに参加したのが甲子園へのきっかけとなった。元々プロ野球をよく見ていて、幼稚園の頃はよく打席に入る選手のフォームやピッチャーのフォームのものまねをしていた。忙しくてなかなか顔すら見ない父がこの野球ものまねだけは気に入ってくれた。母はその姿を見て、近所の町内会のソフトボールチームに入れてくれたのだった。

 

 野球好きのおじさん達が趣味で教えてくれるようなチームだったが、小学生は40人以上参加していた。家の近くにあるグラウンドで、土日は7時から午前中の時間ひたすら汗を流した。

 学年関係なくみんなで練習するスタイルで、少子化の影響か、この年他に1年生は入らなかったので、一番下手くそだった。それが悔しかったので、毎日素振りを何百回とした。キャッチボールをする相手がいなかったので、毎日グラウンドで壁をキャッチャーミットに見立てて投球練習をした。

 その甲斐あって、2年生になったときにはそのソフトボールチームのスタメンに入るようになった。そして、3年生からはエースとして投げさせてもらえるようになった。

 

 町内会のソフトボールは特に広がりはなく、同じ市の小学生チームやおじさんチームなどと年に1回小さな大会で戦うくらいで、それ以外は紅白戦を楽しんでいるだけだった。

 比較的緩い環境だったと思うが、一生懸命練習していたし、おじさんたちのダジャレなんかも面白く、2年になってからは、同級生の啓二が入ってきて、同じくピッチャーをしていた縁で仲良くなり、楽しい日々を過ごしていた。

 4年生でその小さい大会を優勝した時に、元プロ野球選手だったリトルリーグの監督が引き抜いてくれて、そこからはソフトボールはやめてリトルリーグのメンバーとして活躍するようになった。

 そこでも、入ってすぐピッチャーとして投げるようになって、別に活躍としては悪くなかったものの、チームに馴染めず5年の頃からは行かなくなった。


 中学に入ってから、啓二が誘ってくれたこともあって、野球部に入った。顧問の先生はあまり野球には興味がない感じの人だったが、教科書の監修にも関わるような仕事もしていて、かなり忙しく毎日遅くまで残っていて、なおかつ土日も仕事をしていたので、長く部活をすることができた。3年生になったとき、野球部は県大会を優勝することができた。

 名門校からの誘いも来ていたが、過去のリトルリーグでの経験を踏まえ、同じ中学のメンバーでそのまま野球を続けたいと思った。そこで、他のメンバーを説得して、なおかつ受験勉強を頑張って、同じ県立王寺高校に入学した。公立の高校の野球部ということで、元々はそこまで強くなかったが、俺らが入ってからは一気に強くなった。

 入学してすぐ俺はエースになったが、先輩たちはやっかみをするようなことはなく、むしろ王寺高校の野球部の先輩からはかわいがってもらっていて、楽しく野球をできていた。

 

 キャッチャーの啓二は、先輩がいるときから持ち前のリーダーシップを発揮し、最初の夏の大会で2個上の先輩が卒業したタイミングで、1年生ながらキャプテンとなった。啓二はキャプテン、俺はエースとしてチームを引っ張っていった。

 また、野球部には田沼七海という同級生の女子マネージャーがいた。七海は黒髪のセミロングで、目がぱっちりしていて、色白で、美人というよりかわいい感じだった。マネージャーとしては珍しく選手と同じように毎日練習時間は必ず来て、お茶の準備や応援をしてくれていた。そういう姿を見て、前からかなり気に入っていた。そんなある時、夜一人で自主練をしているときに告白され、付き合うことにした。そこからは、1か月に1回くらいの休みはデートをし、登下校も一緒にした。野球だけでなく、恋愛もこれでもかというほど楽しんだ。

 

 ちなみに、戦績については、1年の時も2年の時も、夏の県大会の決勝で毎回負け、秋の大会などでもそこまで悪くないが、全国大会には出られないという状況が続いていた。

 その間にも俺は成長を続けており、いつのまにか球速は150kmを超えるようになり、キャッチャーミットを構えるところに寸分違わず投げられるコントロールも身についていた。打撃の方も公式戦でホームランを既に5本打つほど、長打力が魅力の選手として県内では有名だった。その甲斐あってか、いつしかプロのスカウトが試合を見に来るようになっていた。


 3年生になり、新入生のメンバーが固まり、ある程度基礎体力もついてきた5月の中旬の放課後、部内で紅白戦をすることになった。七海らマネージャーが見守る中、俺は紅組のリーダー、啓二は白組のリーダーとして別れて戦った。新入生は初の実戦ということもあって、気合が入っていた。


 その2回の投球だった。


 ノーアウトランナーなしで、バッターは啓二。啓二とは長らく一緒に野球をやっていて、俺の球についても全て把握している。特にストレートは何度も投げていて、最近は必ず打たれるようになっていた。新入生も見ている中で、エースとしての威厳のためにもここは必ず抑えないといけない。

 1球目、スライダーを投げる。これまであまり使っていなかったが、最近になってコツをつかみ曲がりが良くなったので、試すという意味でも挑戦してみる。右投げのスライダーは右打ちの啓二から逃げるような軌道を描く。啓二は強振し、ボールに全く当たらず空振りする。

 

 このとき感じたことがない痛みが背中を襲った。

 咄嗟に背中を押さえようとするが、ここで背中を押さえてしまうと、みんなに心配を掛けてしまう。歯を食いしばり、何とか耐え、2年生のキャッチャーから球を受け取る。そうしているうちに、少し痛みが治まってきた。やっぱり慣れていない球は投げるものじゃないなと思った。何とか他のメンバーにもバレずに済んだ。

 

 安心して、2球目シンカーを投げると決めていた。残念ながら、このシンカーはそこまで曲がらない。ただ、その分球速は早く、芯を少し外し、これまで何度もゴロで打ち取ってきていた。キャッチャーはストレートを要求してくるが、首を振り、シンカーを投げることを伝える。

 2球目シンカーを投げたが、その後、急激な痛みを襲った。もはや立っていられず、その場で座り込んでしまう。予想通り、啓二はシンカーを芯で捉えることはできず、ピッチャーの前にボールはゆっくりと転がった。倒れ込む俺の前にボールは来たが、もはや取ることはできない。


「エース、一塁」

 

 俺が捕球体制に入ったと思って、キャッチャーがそう言っている声は聞こえた気がしたが、もはや起き上がれず前から崩れるように倒れてしまい、そのまま意識を失った。

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