第二章
第二章
喉の奥の痛みがここ1週間ほど続いている。
微熱があるらしく、カラダが重い。しかし今日は金曜日。特別保護居住地区のB棟の住人、緑川由紀子の所へ出向き、ピアノの特別レッスン2時間を務めなければならない日だ。
通常ならば個人レッスンなど引き受けないと決めているのに・・。定期演奏会の開催に尽力してくれている先生の頼み、なのだから仕方がない。
宇都宮ひかるは顔を洗いまっ白なフェイスタオルで顔を拭った後、窓際のミニテーブルにタオルを放り投げ吸入器を喉に当てた。
だいたい、レッスンと言えば聞こえはいいが、ピアノを主に弾くのは緑川夫人ではなくて、この俺なのだ。
夫人が日常的にピアノの練習などしていない事はすぐに判かる。2週間前のレッスンもそうだった。「来客が多く忙しくて練習ができない」だの「体調不良で寝込んでいた」だのといった言い訳からまずは始まる。新品で黒光りしていたらしいアップライトピアノには埃が溜まり、あろうことか猫の肉球の足跡が遠慮なく残されていた。
指導者をわざわざ呼び出しておいて練習をしようともしないのも頭にくるところだったが、緑川夫人が手入れを全くせず決して安くはない楽器であるピアノを、飼い猫であるシャム猫の散歩コースの一部へと貶めてしまっているその行為に、ひかるは一番夫人の顔面に花瓶の中の水でもぶちまけてやりたい気分にさせられる。
金持ちの道楽でピアノを買い、結局ほとんど触れることなくインテリアか、ただの物置場になってしまう事例はよくあることだ。しかし夫人はあえて理解した上で俺を試しているのだ。そんなやる気のない態度の自分を見て個人レッスンをほとんどやらない俺が、果たして自分のリクエストに応えてサービス満点のレッスンを遂行できるのかどうか・・・。
この俺を試しているのだ。
宇都宮ひかるは吸入器を喉元から離しながら眼下の少ない人の往来を眺めていた。
“特別保護居住地区”の周辺に住もうとする若者は正直多いとは言えない。就業場所から離れていて通勤時間に多くのムダな体力と気力と時間を浪費するし、そんな骨折りは今の時代には合わない。ひと昔前の無力な人種たちのすることだ。
ひかるは敢えて特別保護居住地区の近くに住んでいる。出張訪問先に近く、家賃も町の中心地区の三分の二程に抑えることが出来る。
病院や美容院、ドラッグストアー、スーパーマーケットという人々の生活様式に必要な施設のほとんどは無いが、これもまたかねてからの人口減少の当然の結果なのだから受け入れなければならない。
よくしたもので、インターネットまたはそれに類する注文ボタンを押せばほとんどのモノは自動宅配システムによってすぐに手に入るし、病気の時は画像や会話を使って病院で長い待ち時間のやるせなさに耐えなくても、とりあえず初診は受けることが出来る。
ひかるの住宅は防音設備が整った賃貸住宅で2LDKのスペースに無駄な物はあまり置かないように努めた。騒がしい場所が苦手で近所の生活音、子供の泣き止まない声、馬鹿な大学生たちの乱痴気騒ぎーーー。
そんなモノらが耳に入るだけですぐに引っ越しをしたい気分になる。何度か段ボールに入ったままの荷物をそのままにまた移動する、という生活を繰り返しているうちに「この荷物は別段、生活をするうえで必要が無いものだ」ということに気付き、その都度移動する段ボールの数も減り、結果、現在のひかるの居住スペースにはグランドピアノと多くの楽譜、寝具と掃除道具、ダンベル。限られた衣類と数少ない食器といった類が残り、過去の思い出に浸れるようなセンチメンタルな品は、ほとんどが綺麗に排除された。
B棟の8020号室の緑川夫人の部屋に出張するのは決まって午後の13時。早すぎても昼食をすすめられ、遅すぎてもティータイムに突入してしまう。
ただでさえ、もはや緑川夫人を指導するためのレッスンにはなっていない時間を、ひかるはこれ以上に曖昧模糊にしてしまわないよう、空気を保つことに神経を鋭敏にした。
「ひかる先生、お待ちしていましたわ」
いつもと変わらない世間ズレしたマイペースな声色で夫人に出迎えられ、ひかるはレッスン室であるリビングの隅へと直行する。
案の定、ピアノの蓋の上にはシャム猫の散歩の足跡がペインティングされているようだったが、それはひかるの想定の範囲内である。
「緑川さん、何でもいいですから今日は貴女が先に鍵盤を指で押してください。この時間は貴女のレッスンなのですよ。上手く弾けなくても構いません。怒ったりしませんから前回私が弾いたように練習曲の頭から、ここからゆっくり弾いてみましょう」
ひかるが指のトレーニング用練習曲集の三番目の曲のページを広げて蓋の開いた鍵盤の楽譜立てに収め、ピアノの前の椅子に座るように夫人に促した。
ひかるに先手を打たれて緑川夫人はしばらく目を見開いたまま立ち尽くしていたが、シャム猫が夫人の前を横切った後すぐにいつもの緑川夫人を取り戻した。真新しい練習曲集を掴み、そのまま迷うことなくひかるの目の前に叩きつけた。
「若僧が、調子に乗るんじゃないよ!アンタのピアノなんて純一郎に比べたら足許にも及ばない。ただ格好つけて自分に酔っているだけじゃないか!他の奴は騙せてもアタシにはお見通しだ」
つかつかと椅子に腰をおろすと緑川夫人の指は何と鍵盤の上を力強く舞い始めた。
ひかるは自分の耳を、目を疑った。夫人は楽譜など見る必要も無く、ショパンの『革命のエチュード・作品10‐12』を奏で始めているではないか!何が起きているのか理解できない。
今、俺の目の前でショパンを弾いているのは本当に緑川夫人なのか?双子の片割れか?影武者ではないのか?これがあのやる気の無い、時間を持て余しているだけの有閑マダムだというのか⁉
ひかるはもはや立ってなどおられず、壁にもたれ掛かり倒れないようにする以外になす術が見つけられない。
指の運び、タッチ、速度。夫人の弾く『革命』はとてつもない説得力でひかるの脳内を駆け抜け、見事にその旗をひかるの深部に突き刺した。
緑川夫人は弾き終えると鍵盤の何処ともつかない場所に視線を這わせながら、言葉を発した。
「アタシはアンタなんかより。アンタ達なんかよりずっと前から純一郎を、純一郎のピアノを知っているの!あの女と出逢うまで、純一郎の未来は輝いていたわ。それがあの女、恭子と結婚した途端によ、その輝きに陰りが差し始めた。・・純一郎は仕事をキャンセルしたり遅れたりするようになって、以前は間違ってもそんな事できるような人じゃなかったのに。彼の生活態度はあっと言う間に堕落して昼間から酔っぱらって、ピアノなんて弾き方を忘れてしまったようだったわ・・・。あんなにも美しかった品のある佇まいが、まるで幻だったみたいに彼は落ちぶれていて、アタシが最後に会った夏の日『こんな風な自分を訪ねてきてくれるのは由紀子だけだよ。ありがとう』って。買っていった大きな西瓜をアタシから受け取って大事そうに両手で抱えて、何度も何か言いながらアタシに頭を下げていたわ。痩せ細ってしまった純一郎の姿を見るのが辛くてアタシは仕事だと嘘を吐いて急いでその場から逃げてしまった。アタシの嘘を純一郎は分かっていたと思うけれど、彼は精いっぱいの笑顔でアタシを見送ってくれた。あの時、玄関のドアを少しだけ開けてその隙間からアタシをじっと見ていた子供。それがアンタよ」
緑川夫人が投げつけた今まで見たことも無い視線に、ひかるは完全に射抜かれ、壁から崩れ落ちていた。
「純一郎が亡くなったって知ったのはその一年後。あの時、西瓜なんかじゃなくて現金を持って行くか・・いいえ。彼をあの場所から拉致でもすれば良かったのだと、心底後悔したわ。・・・彼は事故死だったと聞いたけれどアタシは違うと思ったわ。純一郎は自ら、死を選んだのよ。彼はピアノを思うように弾けない自分の人生に、自分で幕を降ろしたのよーーーー」
緑川夫人に投げつけられた言葉が、ショパンの作品10ー12エチュード『革命』の旋律に乗ってひかるの脳内で何度も続けてそれらは奏でられた。
自分が生まれる前の父親の姿を緑川夫人は知っている。しかも自分の中に居る単に数人の子供にピアノを教えているだけの、うだつの上がらない父親ではなく、生命力に満ちたピアニストとしての宇都宮純一郎を知っている・・・。
ほとんど人の気配がない噴水の周りのベンチのひとつに座り、居場所を定めると、少しひかるの気分も落ち着いてきた。いつもに増して噴水から流れ出る水に勢いはなく、ひかるの知る父親の姿と重なった。
昼間から酒の臭いが彼を包む。普段はとても優しいのに理由もなく彼は豹変する。そんな時、幼い自分は決まって外に出て近所の草むらの中や隣の家の反対側の壁の下に隠れた。父親から殴られたくなかったし、何より自分の頬を父親が、彼の手でもってはたく姿を見ていたくはなかった。
彼の手はピアノを弾くためにだけあるのだ。
ひかるはごくたまに父親の調子が良いときのピアノの音色を聴いて直感でそう思った。母親の財布から酒代をくすねるのでも、母親の暴力から自らを防御するのでも、震えが止まらない手を押さえるのでもなく・・美しい調べを奏でるためだけに彼の両手の全てを解放していて欲しかった・・・。
父親が亡くなる3ヶ月前くらいに母親の恭子は家を出てしまっていたので、純一郎が亡くなった後ひかるは純一郎の祖父母に引取られ、きちんとした教育の下で不自由なく育てられた。
当時、水商売をしていた恭子を、将来を嘱望されている純一郎の結婚相手にふさわしいと認める者は少なく、もちろん祖父母も反対していたために、二人はいわゆる“駆け落ち”をして一緒になったという。
初めて祖父母と対面した時に「自分は憎まれているから捨てられるかもしれない」とひかるは覚悟していたが、意外にもそれは幼いひかるの心をムダに絞めつけるだけで終わる。自らの息子を育て直すか、それ以上の愛情で祖父母はひかるを温かく迎え入れたのだった・・・。
27年間生きてきて、もしかしたら今日が初めて父親の本当の姿を見た日なのかもしれないと、ひかるは思った。
誰の手も借りずに一人で生きて、ピアノで一人前になった気でいた自分に、緑川夫人の復讐は見事に炸裂し大成功した。
「アンタとアンタの母親が居なければ、純一郎はあんなに早く世間から消えることは無かった。そう思う度にアタシは腹が立ってアンタ達親子が憎たらしかった!だってそうでしょう⁉道を逸れてさえいなければ友人としての純一郎は今でも存在し、一緒に連弾を奏でられるかもしれない。世の中の底辺に居るどうでもいい人間に、ひとりの天才ピアニストの生命が奪われた。純一郎は殺されたのよ!アンタ、風貌は父親に似ているけれど、ピアノは全然ダメ。似てないわね。ピアノはテクニックだけで弾くものじゃないわ。心で奏でるものよ。さあわかったらサッサと出て行って、アタシの前で二度とその下手クソなピアノを弾かないで頂戴!」
緑川夫人の言葉が時間が経つごとに、かえってひかるの脳に刻まれて行く。
今夜は自宅に帰って一人で過ごすいつも生活が、まるで苦行のようにひかるには思えた。泥沼にはまってもがく鴨が、どんどん身動きが取れなくなって・・・。俺はまたいつもの自分に戻ってピアノを堂々と弾けるのか?一晩ぐっすり眠れば全ては夢の中の出来事で、何も無かったように振る舞える・・・。
ダメだそんなワケないじゃないか!
緑川夫人のショパンごと夫人の部屋から転げ落ちるように逃げ出た時に強打した左足が今頃ジワジワと痛む。友人らしい友人などいない。知り合いならいるが、こんな時に一緒に時間を過ごしたりしたら益々悪化しそうだ。久しぶりに祖父母の元を訪ねようか?いやダメだ、絶対に何かあったって気付かれる。大体、あの母親を思い出させるんだから傷口に塩をこすりつけるようなものじゃないか。
今まで、どこに行っても一人で寂しいだなんて感じたことはなかった。誰かを心から愛したことも、恋人が欲しいと思ったこともない。
無気力に活動を続けている噴水とひかるの座っているベンチの間を、一枚の抜け落ち変色した枯れ葉が風に乗ることも出来ず、ズリズリと石畳の上を重たそうに這って行く。
ぼんやりとそれを眺めていると、何か白い影がひかるの視界の縁に入った。
「あのー、大丈夫ですかぁ?」
意外にもそれはひかるのすぐ近くに立っていた。急に雲の間から陽が差し出して逆光になっている。誰なのか確認できない。ただ、彼女の服装が白いことはわかった。
「白衣の天使?」
ひかるは呟いていた。