貴方が振り向かなくても別に
すとんと。
まるで目からウロコが落ちるかのように、マリアナ・オルテンペレートは理解した。
(―ああ。この人は私を愛してくれないのね)
と。
目の前で、しっとりとした黒髪の乙女と腕を組み、仲睦まじく過ごしている男は、マリアナの婚約者、リトル・オルガという。
両方ファーストネームみたいなふざけた名前には似合わず、社交界の花とまで謳われる彼の美貌は、子爵家という身分にもかかわらず王家の耳に入るほどだった。
それで、彼は調子に乗ったのか、それともある意味の現実を見たのか、幼少期から仲が良くずっと婚約者だったマリアナを蔑ろにし始めた。
いや、蔑ろというのは間違えているかもしれない。正しくは、他の女に浮気を始めた、だ。
マリアナはそれが、とてもとてもショックだった。
熱い燃えるような恋ではなくとも、2人で家族愛のような物を育てて来れたと思っていたからだ。
だから、1度目の浮気は許した。
彼の父親にボコボコに殴られ、半泣きで『もうしません』と謝ってきた時は許した。
端正な見た目とは裏腹に、まったく中身のない男ではあるが、一応考えられる脳みそはあるはずだから。幼なじみのよしみもあって、2度目はないとその時は許した。
ところが、この男はその約束をひと月たたないうちに破った。
それを咎めると、その時だけは反省して、相手とは切れる。
だが、数ヶ月もしないうちに新しい彼女を見つけてきては、いちゃいちゃとし出すのだ。
社交界は、彼の空っぽな中身に気付いて、価値のない男だと結論を下したが、マリアナの愚かな婚約者はそれには気づかず、また違う女を侍らせる。
それでも、マリアナは彼と別れなかった。
彼の親に何度も何度も頼まれたから。
マリアナの両親も、恩のある家族の頼みだからとマリアナを何度も諭したから。
マリアナ自身も、彼には自分がいないといけないと思っていたから。
今、マリアナがリトルから離れたら、今度こそリトルは再起不能になると分かっていたから。
何よりも。
何よりも、いつかマリアナを愛してくれると思っていたから。
そんな幻想は、いとも容易く打ち砕かれた。
もう何回目かの浮気をされて、もう何回目かの説教をしようと口を開いた瞬間。
突然目が覚めた。
自分は何をしているのだろうと。
もう分かったじゃないか。この男は自分を愛してくれないと。
この男は、自分を大事にしてくれないと。
これ以上は無駄だ、と。
何回も友人に言われた言葉がすとんと落ちた。
(私、どうしてこの男に私の大事な時間を使っているのかしら)
気づいたらとても、バカバカしくなった。
もういいやと、投げやりに笑って、目の前の男に言った。
「ねぇ、リトル様」
「ん?」
「婚約破棄、しましょうか」
「え?!」
それだけ告げてその場から去る。
唐突な発言にリトルは驚き、間抜けヅラを晒している。
社交界は、仕方の無い男とずっと別れなかった哀れな女の目が突然覚めたことに驚き、この大ニュースを広めている。
そんな中、マリアナは独りスッキリした気持ちでいた。
あの後、本気で婚約は相手側の有責で破棄になったし、両親には悲しそうな、でもどこかほっとしたような目で見られた。
リトルの両親はあれから何度も家に来たが、マリアナは1度も会っていない。
勿論、会う気は微塵もない。
というか、最早興味もなかった。
リトルは、マリアナにとって過去の男となったのだ。
マリアナには商才があった。
マリアナは割としっかり者で、渡されたお小遣いなんかを細々と使い、小さな商会を経営していた。
今までは、リトルの為にと女磨きをし、いつか嫁ぐのだからと、本気で取り組んでいなかったのを、婚約破棄をしてから真面目にやってみた。
すると、びっくり。
みるみるお金が貯まるではありませんか。
マリアナは、時流を見極める目を持っていた。
マリアナは持ち前の才覚で、みるみる頭角を現し、あっという間に国で一番の商会を率いる女会長となった。
自分で稼いだそのお金で、彼女は自分磨きにも勤しんだ。
その結果、彼女は社交界の花と呼ばれるようになったのだった。
とかなんとか言うことを考えながら、マリアナは目の前の哀れな男を見つめていた。
あの、婚約破棄から今日で8年。マリアナは、24歳になっていた。
社交界で言うところの立派な嫁き遅れである。
今のところ浮ついた話はあまり無いし、マリアナにも結婚する気はなかった。
それよりも今は、自分の経営する商会のことが忙しく、そちらを考えている方がマリアナにとって有益だった。
そんなマリアナの元婚約者たる、リトルという男は、マリアナとは反対に順風満帆とは言い難い人生を送っていた。
数々の浮気のお陰で、すっかり評判を落としていた彼は、あの夜のマリアナの婚約破棄によってとうとう価値無しの烙印を押されてしまった。
だと言うのにも関わらず、彼の性根は叩き直されることはなくまた別の女性を見つけてきて、とうとう彼女を孕ませたらしい。
彼女は準男爵の娘で、ちゃんと婚約者もいたそうな。
その結果、この目の前の愚かな男は、膨大な慰謝料をかかえ、孕ませた女と生まれた乳飲み子を抱え、生家に蹴り出され食うに困った結果、マリアナの元までやってきた。
性懲りも無く。
「なあ、マリアナ、俺の娘は生まれてこの方1度も甘味を食べた事がないほど貧乏なんだ。俺もルルーナも暫く何も食べていない」
だから可哀想だろう、と。
だから金を、と。
彼の娘は一般的な幼児に比べまるまるとしている事をマリアナは既に知っている。
彼の妻たるルルーナは既に娘を連れ、家を出たとマリアナは既に知っている。
馬鹿馬鹿しい。
「それ、私に何か関係あります?」
「何を言ってるんだマリアナ。俺たちの仲じゃないか」
哀れな幼なじみを助けてくれと。
昔のよしみだろうと。
この期に及んで乞うている。
マリアナは既に知っている。
この男は妻子に逃げられ、親に見捨てられ、友人からは遠巻きにされ、とうとう1人になったのだと。
「もう他人でしょう?」
「そんなことを言うなよマリアナ。俺たち幼なじみだろう?色々あったじゃないか、その絆はどうしたんだ」
マリアナの中で何かが切れる音がした。
「本当にいったいどうしてしまったんでしょうね」
目の前の男は、間の抜けた表情を浮かべこちらをみる。
その目に宿る希望に呆れ、マリアナは冷たく笑い告げた。
「その絆は貴方が先に捨てたでしょう?」
男は目を見開き、血の気の引いた顔で捲したてる。
「捨ててない!僕は何も!最初に見捨てたのは君じゃないか!!」
マリアナはそれには何も答えず、部下を呼ぶ。
この招かざる客を返すために。
男はなおも続けた。
「そうか、お前は僕が好きだったのか!なるほど、じゃあ浮気した事は謝る!!悪かった!でも婚約者じゃないからと言って、過ごした期間は消えないだろう?友人にはなれる!!」
マリアナの部下は男の腕を掴んだ。
男は焦って唾を飛ばし喚く。
「マリアナ!強がるな、マリアナ!お前が結婚しないのは俺のことが好きだったからだろう?!」
余りに暴れてうるさいので、マリアナは仕方なく口を開く。
「お客様」
「は?」
「ここは商会です。何も買わないのであればお引取りを」
「は?」
男は口を半開きにしたまま、唖然としている。
静かになってちょうど良い。
そのまま部下に商会の外まで連れていかせる。
なおも何かを言い募ろうと口をパクパクさせる男に告げた。
「私、気づいてしまったのですよ」
マリアナは形のいい微笑みを浮かべる。
「貴方が振り向かなくても別に生きていけると」
お引き取り下さいと扉をしめす。
男はもう何も言わなかった。
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