2-19
風が吹き、大きな木にもっさりと茂った葉を揺らした。足元には丸い小さな葉を三つ並べた下草と、その白い花が一面に咲き誇っている。その木のすぐ脇には小川があり、太陽の光を反射しキラキラと輝きながら水が流れる。
ここは、自分が幼いころを過ごしたルリン村だ。ジークハルトとこの場所でいつも遊んでいた。
絵を描いたり、本を読んだり、ボードゲーム(貴族や商家の子が持つ水晶や動物の牙などで作られたものではなく、簡素な木製だ)をしたり、川で水遊びなどをした。持ち寄ったおやつを食べ、並んで昼寝もした。
ユーリアの中にあるここでの思い出は、穏やかで楽しくて甘やかだ。
これが夢だとわかっている。夢に見ることができるのも、過去を思い出したからだ。もし、思い出せなかったら、この夢を見ることもできなかっただろう。だから、思い出せてよかった。
ゆっくりと川の方へ向かって歩いていくと、背後から名前を呼ばれた気がして振り返る。
振り返った先には、白っぽい木の壁に黒に近い緑色に塗装された屋根が乗っている家があった。平屋建ての、オルダール国の小さな村にはよくある作りの家だ。
家の西側にある小さなドアの前に誰かが立っている。身長や体型から成人女性であることがわかった、彼女はその手に小さな子どもを抱いている。本当にまだ小さい子どもだ、一歳か二歳といったところだろう。
もしかして、母親だろうか? ユーリアはそう思った。
顔や体型がぼやけてはっきりしないのは、記憶がないからだ。ただ、自分が生まれるには両親が必要で、風の精霊である父親と人間である母親から生まれたと聞いて知っているから、そのイメージから出来上がった母親像だろう。
母親らしい女性が子どもを抱っこしているところから、自分には弟か妹がいたのかもしれない。記憶はユーリアが思い出せないだけで、頭の中にはちゃんと残っているらしいのでそこから兄弟の存在が出てきているのだろう。
声は聞こえない。でも名前を呼ばれた、気がした。
ユーリアは川に行くのをやめ、女性の立つ家の方へと足を向ける。足元の下草がサワサワと音を立てた。
「ユーリア」
しっかりとした声がユーリアの耳に届く。気がした、ではない。
「ユーリア」
振り返ってみれば、そこにあるのはルリン村の中を左右に切り分けるように流れていた川だ。家の方からも呼ばれているような気がする……けれど、そちらは気がするだけ。声がちゃんと聞こえてくるわけじゃない。
「ユーリア」
川の方からする声ははっきりと自分の名前を呼ぶ。その声を追いかけるように家の方からも自分が呼ばれた気がした。
「……」
川と家と……何度か視線を双方に向けてから、ユーリアは川に足を向ける。一層強く、家の方から呼ばれた気がしたけれど、それは無視した。
川に入ると、一瞬で靴はずぶ濡れになってスカートの裾が濡れて足に貼り付き歩き難くなる。さらに川は進めば進むほど深くなり、ふくらはぎの中ほどから膝が隠れるほどになった。
歩き難い。川の底には大きな石が転がっていて、その石には川茂が生えて足が何度も滑る。
「ユーリア」
「今、行く……から……」
ユーリアは声のする方へと手を伸ばした。その先に誰かがいるわけじゃない、何かがあるわけじゃない。けれど、手を伸ばした。自分が、そちらへ向かっているのだと示すために。
足元にある大きな石に足を乗せた、ぐっと力を入れて体と手を伸ばす。と、足にぬるりとした感触があり、体全体が水の中へと落ちた。
川はユーリアの体を右から左へと流れる水の流れに乗せて運んでいく。
「うっ……ごほっ」
濡れた服が体に絡まる。足を立てようにも、川底の石はどれもこれもぬるぬるしていて立つことが出来ない。
夢の中だというのに、とても苦しい。このままだと溺れて死んでしまう!
ユーリアは必死に手を伸ばした。何か捕まるものを探して、腕を伸ばす。
「ユーリア!」
「…………は……」
伸ばした手は大きな手に捕らえられて、両手で包まれるように握られる。その温かさと力強さは夢ではなく、現実だ。
「……ジー、ク?」
「ああ、俺だ。ユーリア、目が覚めて本当によかった。うなされていたが、苦しくないか?」
ユーリアが伸ばした手を握っているのは、ルリン村のあの場所で共に穏やかで楽しい時間を過ごしたジークハルトだ。
「えっ……と、苦しくない、大丈夫」
そう少し掠れる声で返事をしながら、ユーリアは周囲を見渡す。
自分は少し小さめのベッドに寝かされていて、寝具は真っ白で飾りや刺繍の一つもない。ユーリアの足元に大きなタオルが畳んで置かれていて、その上でトワが眠っているのが見える。
壁も天井も柔らかなクリーム色で、部屋にある椅子やテーブルも白い品だ。窓には真っ白なカーテンがかかり、すぐ横のテーブルにはガラスの花瓶があり黄色やオレンジ色の花が生けてある。
ひと目でここが病室であることがわかった。師匠であるバルテルが火傷で入院していた病室も、こんな感じだったことを思いだしたから。
「そうか、良かった。ユーリア、どうしてここにいるのか、わかるか? 店の前で起きたこと、覚えてるか?」
ジークハルトに強く手を握られ、ユーリアは少し考えた。目覚めたばかりでぼんやりしているけれど、ゆっくりと記憶の扉が開いていく。
朝、いつものようにルビーに見送られて店に向かった。あの日はジークハルトが迎えに来てくれて嬉しかった。
店の前は嫌がらせもなにもなくて、ホッとしたのをよく覚えている。ジークハルトが店の裏側を確認しに行き、腰痛が酷いというヘッセルを早朝から温熱療法をやっている店へ行くようにと送り出そうとした。
そこへ見知らぬ少年が現れて、意味不明なことを叫び魔法をぶつけて来たのだ。咄嗟にヘッセルを庇い、体のあちこちに強烈な熱さを感じて……そこから先のことは覚えていない。気が付いたのは今なのだから。
「……覚えてるのか。ユーリア、キミは大きなケガを負ってこの病院に運ばれたんだ」
「ヘッセルさんは? 大丈夫なの?」
「ああ、ユーリアが庇ったおかげだよ。倒れ込んだときに足首をひねって、腰を打って腰痛が悪化して、掌に擦り傷を作っただけだ。擦り傷は完治してるし、足首は湿布を貼っているし、腰は毎日東方の温熱療法とやらを受けてる」
「なら、良かった」
「……良くない。良くねぇよ」
横になったままのユーリアは、首だけ動かして自分の手を握りしめて離そうとしないジークハルトを見つめた。ジークハルトの声は揺れている。
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