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「痛ぇっ!」


 ジークハルトは突かれて赤くなった左手を素早く引っ込め、右手で何度も擦った。余程痛かったのか、緑色の瞳にはうっすらと涙の膜が張っている。


「ダメだよ、トワ。人を突いたりしたらダメ」


 ユーリアはトワを捕らえるように両手で包み込んだ。手の中でモゾモゾと体を動かしてから、トワは大人しくなり指の間から頭を出すとジークハルトを見上げて、プイッと顔を反らせる。


『はなせないといっているのに、しつこくきくほうがわるいのだ!』


「だからってこんなに強く突くことか!?」


 まあまあ、とルビーはドライフルーツのクッキーをジークハルトの口に突っ込んだ。


「うーん。つまりトワ様は誰とは言えない匿名希望さんとの誓約があって、姿が誰からも見えなくなっていて、ユーリアを手助けすることも出来ない状態にあったのね?」


『そうなのだ』


「その誓約の中には、匿名希望さんのことを誰かに話すことが出来ない、という内容も含まれているのね?」


『そうなのだ! さすが、おおきなオトメはわかっているのだ!』


 トワはユーリアの手の中で暴れてそこから飛び出るとルビーの大きな手の上に乗り、〝すばらしい〟や〝さすがだ〟とか言いながらパタパタと羽を動かす。


「じゃあ、ユーリアが小さい頃の記憶がないのも、トワ様が姿を現したことと一部の記憶を取り戻したことも……関係があるのかしら?」


 ルビーの問いかけにトワは急に大人しくなり、ルビーの手の上で俯いた。


『……まあ、その、そういうことなのだ。でも、でもだな! ぜんぶユーリアのためなのだ、ユーリアをまもるためにそうなったのだ……』


 ユーリアを守るために、子どもの頃の記憶一切とオトモ妖精の存在を封じる。


 そこまでしなくては守れないとは、どんな事情があったのだろう?


 知りたいことはまだある。けれど、誓約に縛られたトワはこれ以上話すことが難しいのだろう、またしょんぼりと俯いてしまう。


「ありがとうルビー、色々聞いてくれて。ジークも心配してくれてありがとう」


「ユーリア」


「子どもの頃の記憶がなかったこと、オトモ妖精であるあなたの姿が見えなかったこと、それは事情があって何かから私を守るためだったんだね? で、何らかの条件があって誓約の一部が消えて私の記憶の一部が戻った、オトモ妖精のトワも戻って来た、んだね?」


『そうなのだ』


 トワはルビーの手からおり、テーブルの上をぴょんぴょんと飛び跳ねてユーリアの側にまでやって来た。そして、丸い頭をユーリアの手にぐりぐりと押し付ける。おまえのオトモ妖精は今、ここにいるのだと訴えるように。


「……そっか。だったら、それでいいよ」


「ユーリア、アンタそれでいいの?」


 ルビーの問いかけにユーリアは頷き、トワの小さな頭を指で優しく擽るように撫でた。白い羽毛がふわふわと膨らんで、トワの体は小さな毬のようになる。


「うん。疑問に思うことは色々あるんだけど、それは今分かることじゃないから。それよりも記憶が部分的にであっても戻ったこと、トワが私の側にこれから居てくれるんなら……それでいいかなって」


 ユーリアはルビーが淹れたハーブの入った紅茶をゆっくり飲んだ。


 眠る前に穏やかな気持ちになるというハーブは少し甘い花の香りがして、口の中を爽やかにしてくれる。


 お茶の効果と、親友であるルビーと初恋相手であるジークハルトの二人が自分の身を案じてくれているという現実が、ユーリアの気持ちを落ち着かせてくれた。


「そう、ユーリアがいいならいいわ。今は分からないことも、後々分かるかもしれないしね。アンタもそれでいいわよね、本人がそれでいいって言ってるんだもの」


「……ああ。ユーリアがそれでいいのなら」


 不満そうなジークハルトではあったが、ユーリアがかまわないと言っていることと、今分かることはあまりないだろうと判断して引き下がった。


「さて、俺はそろそろ帰るよ。今日はご馳走さま」


「じゃあ、今日はこれで解散よ! ユーリア、先にお湯を使ってちょうだい。洗濯魔道具を起動させておいてくれると助かるわ」


 ジークが席を立ち、ルビーはお皿やカップを回収する。


 楽しかった夕食会もおしまいだ。


「うん、分かった。ジーク、今日はありがとう。おやすみなさい」


「ああ、おやすみ。またな」 


 ユーリアはトワを掬い上げると、今ではすっかりトワの寝床となっているタオルを敷き詰めた籠を持って居間の隅にある階段を上がる。トントンと階段をあがる音がして、部屋の扉がバタンと閉じる音が聞こえてからルビーは食器を洗い始める。


「…………どうなの?」


「どうって?」


「あの小鳥の姿をしたオトモ妖精、本物なの? アンタ、記憶を無くす前のユーリアと一緒にいたんでしょう?」


 ジークハルトは紅茶を飲み干し、カップをルビーに手渡した。


「ああ、それは心配ない。いつもユーリアの頭の上にトワという名前の太った小鳥妖精が乗ってたから、本物だ」


「それならいいわ。ずっと自分にはオトモ妖精がいないって寂しい思いをして、周囲からだってオトモ妖精のいない変わった半精霊だって目で見られていたのよ。……やっと会えたけど、実は偽物でした~なんて目の当てられないもの」


 ルビーは手際よくカップと皿を洗っていく。


「それから、あの子の記憶なんだけど……どうして戻ったのか分かる? あのオトモ妖精が突然戻って来た理由も」


「あくまで、想像の域を出ないが……」


「聞かせてちょうだい」


「ユーリアには強い精霊魔法がかけられていた……恐らくそれが記憶と妖精を封じていたんだと思う。その魔法は妖精のいう匿名希望さんとやらがかけたんだろう。ユーリアを守るために、幼いころの記憶を封じる魔法、だな。その媒体があの妖精だった……んだと思う。精霊魔法の一部が何らかの理由で解けて、記憶が戻って妖精も解放されたんじゃないか、と考えた」


「そう。……精霊魔法のことはさっぱり分からないけど、ユーリアに悪い影響はないのね?」


「おそらく」


 ルビーは「それならいいわ」と言って洗い上がった食器を水切り籠の中へ入れた。


「しばらくはなにか変化や影響がないか、見守ってほしい。俺も様子を見るけど」


「分かったわ」


 ジークハルトは頷き、ルビーに見送られてアンデ素材店の裏口から外へ出た。


 時間はすでに深夜を回り、街に人の気配はほとんど感じられない。オレンジ色の強い灯りを放つ街灯と青白い月の光り、その下を酔っぱらった数名が家に千鳥足で向かい、夜警担当の騎士が巡回しているくらいだった。


 シュルーム領騎士団の独身寮に向かいながら、ジークハルトは幼かった頃のことを思い出して笑みを浮かべる。田舎の村で一緒に過ごした幼いころの思い出に、淡い想い。それが自分の中にだけしかない、そう言われたときはショックだったけれど……ユーリアはそれを思い出してくれたのだ。


 一緒に遊んだことも、一緒におやつを食べたことも、お互いを大切に想っていたことも。


 分からないことがあることは事実だ、それを知りたいとも思う。けれど、ユーリアが〝今はそれでいい〟と言ったようにジークハルトも同じことを思った。


 自分のことを思い出してくれた、大事に想っていたことだって思い出してくれた……今は、それでいい。


 この先のことは、自分の行動次第で変わっていくのだから。


 焦ることはない、じっくり距離を詰めればいい。


 寮に向かうジークハルトの足取りは羽のように軽かった。

お読み下さりありがとうございます。

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