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この世界に数多存在する〝魔獣〟や〝亜人〟と呼ばれる存在。その多くが人や動物を襲う狂暴な生態を持っている。生き物の食物連鎖という生態系の中にあって、人間はその頂点に君臨してはいないのだ。
ワニ型魔獣イリエクロダイルは川や湖に生息し、水を飲みに来た動物や漁をしに来た人間などを襲う。大型の鹿や牛、時には自分よりも体の大きな動物も襲う獰猛な魔獣だ。
そんなイリエクロダイルに襲われて、抵抗する術のない子どもが生きていられるとはユーリアの中ではありえないこととして認識されている。
「あのとき確かに俺たちはイリエクロダイルに襲われた。それを助けてくれたのはユーリアだよ」
「え?」
ユーリアは体を起こして待合室に椅子に座ると、ジークハルトと向き合う。
「だから、おまえが助けてくれたんだ。魔法でな」
「ま……ほう……?」
「そうだ。あっという間の出来事で、俺も驚いてその後気を失ってしまったから詳しく覚えているわけじゃない。けど、これだけは覚えている」
ジークハルトがユーリアの手を取る。
「おまえがイリエクロダイルの牙から俺を守ってくれたんだ」
「……え」
「風で作られた盾が俺と魔獣の間に出来て魔獣の牙を弾いた、その後真空の刃が無数に飛んで来てイリエクロダイルを攻撃したんだ。俺は……魔法がイリエクロダイルに当たった衝撃で吹っ飛ばされてそのまま気を失ったから、その後のことは分からない」
自分が魔法を使った、そう言われてもユーリアには信じられない。今現在、ユーリアは一切の魔法を使うことが出来ないから。
「助けてくれてありがとう、ユーリア。ずっとお礼が言いたかった。でも俺の意識が戻ったとき、おまえもおまえの家族もう居なくなっていて……行方も分からなくなってた。それからずっと探してたんだ、ずっと」
救うように取られた手をぎゅっと強く握られ、その手がジークハルトの額に祈るように捧げられた。
「どうして今のユーリアが魔法を使えなくなったのかは分からない。どうして子どもの頃の記憶がないのかも分からない。どうしてオトモ妖精の姿がなかったのか、今になって現れたのは何故なのか……分からないことが沢山ある」
ユーリアは頷く、ジークハルトの言う通りだと思ったからだ。
自分のことだけれど、分からないことが沢山ある。これまではそれらは気にならなかったり、どうしようもないと諦めていたりしていた。けれど、今は何故か気になり始めている。
「色々あるけど、何を差し置いても……また会えて嬉しいよ、ユーリア」
顔を上げて笑ったジークハルトの顔が、また自分の記憶の中にある仲良しだった少年の笑顔と重なる。そして、唐突に思い出し始めた。
「ジーク、なんだね。子どものころ、いつも一緒にいてくれた」
「そう言ってるじゃないか」
「一緒に本を読んだり、絵を描いたり、川遊びをしたり、一緒におやつを食べたりした」
「そうだよ。おまえは干しぶどうの入った蒸しパンが好きだった、次に好きだったのはオレンジジャムとチーズクリームを乗せたクッキー」
「……あなたはチョコ味のクッキーが一番好き、だった。二番目はチョコレートクリームをたっぷり乗せたカップケーキ。いつも大口を開けて食べるから、口の周りをクリームだらけにしてた」
ユーリアの頭の中に次から次へと思い出が甦る。まるで記憶を限界まで入れて無理やり蓋をしていた箱が開き、中から記憶が飛び出てきているような感覚だった。
「本も沢山読んだね。ジークはアルフィーの冒険シリーズが好きで、木の枝を剣に見立てて怪物退治のシーンを演じてた。一回だけ木の枝を振り回していて、石に躓いて転んで……膝に大きな痣を作ったの。凄く痛そうだったのに、ジークは目にいっぱい涙を溜めながらで〝なんともない〟って強がりを言ってた」
次から次へとユーリアが子どもの頃の記憶が頭の中に広がっていく。
子どものころの記憶、そのほとんどに少年のジークがいる。ジークの兄と姉の姿が混じるときもあるけれど、それは数えるほどしかない。
いつもいつもユーリアの隣にいて一緒に遊び、おやつを食べていたのはジークハルトだ。
ジークハルトの緑の瞳が潤み、涙が溢れた。頬を伝い、顎からポトポトと雫が落ちる。
「ジーク?」
「そう、そう……だよ…………ユーリア。やっと会えて、会えたと思ったらおまえはなにも覚えてなくて……」
「ご、ごめんなさい」
「でも、もういい。俺のこと思い出してくれたから、もういい」
歓喜の涙を零すジークハルトの背中を「良かったなぁ、ずっと探してたもんなぁ」と言いながらデニスが撫で、「泣き止みなさい、恰好悪いですよ」とクラウスは苦笑しながらジークハルトにハンカチを差し出した。
「……ユーリア、良かったわね」
「ルビー」
「子どもの頃の記憶、戻ったんでしょう? 良かったわ」
ルビーの大きな手がユーリアの肩を優しく叩く。先程ユーリアを気絶させるほど強く抱きしめたとは思えない、優しい触れ方だ。
「この精霊騎士の言ってたことは虚言じゃなくて、本当だったってことね。本当にルリン村での幼馴染だったとはねぇ」
「子どものころのことを色々と思い出したけど、全部じゃないの。ジークのこと、ジークのご家族のこと、生まれたルリン村のこととかは思い出したけど……」
「けど?」
ユーリアは首を小さく左右に振り、ジークの手を握り直した。
「イリエクロダイルに襲われそうになったときのことと、私の家族のことは……なにも思い出せないの。顔も名前も思い出せない」
「そうか、でもユーリアちゃんにかかってる魔術が全部解けたわけじゃないから。ジークやルリン村で暮らしていたことに関する記憶封じの魔術は解けたけど、家族に関係する記憶を封じている魔術はかけられたままなんだと思うな」
デニスはユーリアを見ながら……正確に言うのならばユーリアに掛けられている魔術を見ながら言った。
「っ……魔術?」
ジークハルトは背後に立っているデニスを振り返るように視界に入れた。魔術という言葉が、泣いて鼻声になったせいで〝まじゅちゅ〟と聞こえたけれど、全員が笑いを堪えることに成功している。
「うん。かなり強力な魔術で、きっとユーリアちゃんの子どものころの記憶を封印して、魔術行使を禁じてる……んだと思う、よ?」
「どうして、突然魔術が解けたんだ?」
デニスは顎に手を当てて、〝うーん〟と待合室の天井を見ながらしばらく考えると言った。
「多分だけど、今回は過去と同じように大型の爬虫類系魔獣に襲われたこと、ジークに実際に出会っていること、アンデ素材店の息子に締め上げられて気絶したこと……そういう要素が絡まってジークに関係する記憶の封印が解けた、んじゃないかな? 正確なことは分からないけど」
「なるほど……じゃあ、家族に関する記憶も?」
「魔術が解けて戻る可能性、はあると思う。ただ、どうしたら魔術が解けるかは分からないけど」
ユーリアは頷き、ジークハルトの手を上下に軽く振った。
「ユーリア?」
「家族に関する記憶がなくても大丈夫。今までもそうだったし、私はもう一人前として独立してるの、自立してる。家族のことが分かっても、今更何かしようって気持ちにはならないから。戻った記憶がルリン村での生活のことで良かった」
心の底からそう思うのだ、ジークハルトのことを思い出せて良かった。
彼と会うたびに心がざわざわと落ち着かなかった、その理由も思い出すことが出来たから。
「覚えてなくてごめんね、ジーク。ちゃんと思い出したから。……探してくれてありがとう、再会を望んでくれてありがとう」
ユーリアはジークハルトに抱き着いた。
そっと抱き合うハグは、この国では親しい相手にする挨拶だ。
「助けてくれてありがと、ジーク」
ジークハルト・ブライトナー、ルリン村出身の精霊騎士。
彼は命を助けてくれた騎士であり、ユーリアが初めて恋した相手であり、記憶がないときであっても顔を合わせれば心をざわつかせる……そんな男性だ。
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