天才と転生者と嘘
こういう文章初めて書いた。
「わかってるよ。あきらめるなだろう…。」
そこは、質素なベージュの壁紙が貼られた部屋だった。テーブルと、イス、そしてベッド、それぐらいしかない質素な部屋だった。しかし、良く周りを見渡すと、部屋の隅には赤いバラを模したであろう造花が飾ってあった。
また、部屋の天井からはサーっといった静かな音を立てて、部屋の中の空気を押し出すように空気を出していた。
ベッドには、痩せた老いた男が一人寝ていた。その手足は、柳の木の枝のようにやせ細っていて、いくら口のうまい人であっても健康な肉体だとは表現できない体付きであった。
男の横には長い白髪を後ろにまとめた、一人のマスクをつけた老女が立っていた。その手足は、年齢を感じさせないほどきめ細やかな肌であり、どこか蠱惑的な肉体美を誇っていた。
「この病気になってから、何年たったかな…。君と一緒に歩いたあの小道が懐かしいよ。」
男は、女の方を見てそう言った。その目は、昔を懐かしんで微笑んでいる感じではなく、どこか笑っているようであった。女の方は、その言葉に対して言葉を発する様子はなく。静かに顔を振ると、数回瞬きをした。
「ああ、そうだね。あの時といったら、私はやっと君をあの思考に埋もれた部屋から連れ出して、一緒に外に散歩に行けると思ってたのに、君といったらほんのちょっとしか私のことを考えてくれなくて、ほとんどの君はまだあの部屋にいたね。まあ、それでも私はうれしかったよ。少しでも君が、私というものに興味を持ってくれたことに…」
男は、一気に話しすぎたのか呼吸が乱れていた。呼吸を落ち着かせようとしたのか、さっきよりも体の力を抜き脱力をしてベッドに埋もれた。女は、ちょっと手を動かし、頬の筋肉を少し上げた。女の行動を見て、男は満足したのかさっきとは違い、心からの微笑みを顔に浮かべ言葉をつづけた。
「ありがとう。あの頃よりも、君たちは私のことを気にかけてくれるようだね。いや、他の君は必死に私の治療法を構築しようとしてくれているんだね。」
君が私のことだけを考えてくれるなんて、世界で一番幸福な男だよとつぶやくと、男は部屋の隅に飾られている造花の方を見た。女は、男につられるように視線を造花の方に向けた。
「毎日せっせと、造花の薔薇の花を増やしていく君が本当に愛おしくてたまらないよ。それが飾り終えるまで、私が生きているかはわからないけど、君が私という人間に好意を向けてくれるなんて50年前の私では想像もできなかっただろうね。」
男の頬は、水分が失われ造花のようにカサカサとしていた。しかし、その頬から生み出される笑みは人々を心の奥底から安心させる笑みだった。女は、そんな頬に手を当てるとゆっくりと慈しむように撫で始めた。
「君は、頭がいい。それこそ恐ろしいほどに…。人間という種の中で、未来永劫君以上の頭脳の人物はいないかもしれない。君は、この世界では化物だ。人間の体をしてはいるが、あまりの頭脳に、君の体がついてこれていない。」
男は自分の頬を撫でる手をそっとつかむと、自分が撫でられていたのとまったく同じように、その手を撫で始めた。そして、男はその手をじっと見つめながら話をつづけた。
「私は、もしかしたら人類史上最も愚かな男かもしれないね。君は、私とくっつかなければ、今私の体調を案じている君の頭脳を、少しばかり人類のために有効使っていたかもしれない。」
そうつぶやくと、男は撫でるのをやめ、女の自分を見つめるまっすぐと瞳を見返した。
「あなたがいなきゃ、とっくに死んでいたって?そうかもしれないな、君は私と出会う時には、人間という種に見切りをつけていた。どこまでも愚かな私達人間を、自分とは全く違う思考回路をしている、人間という種を。」
女はじっと男を見つめ、そっと目を伏せると、男の手をさすり始めた。その手の動きはどこか、機械的で人間が行っているようには思えないほど正確なリズムを刻んでいた。
その動きを肌で感じ取ったのか、男は深くため息をつくと、天井を見ていった。
「君のその癖は、僕にしかやらないけど実に人間的だよね。それにしても、懐かしいな。君のお父さんやお母さんに結婚すると報告しに行ったときには本当に驚かれたよね。この子でいいのかって…。まあ、ご両親はわかっていたんだろうね。君が普通の人間とは違いすぎるということを。別に障害とかじゃなくて、本質的に何か違うってことを。」
さすってる手を握り、じっと見つめるとため息をついた。
「まあ、どうでもいいんだけどね。君に出会って、君たちを理解して、その動作で言葉で発するよりも多くの情報を私に与えようとしてることに気づいてからは、割とすんなりと君を愛することが出来た。そう、君はおしゃべりだよ。でも、人間という種の私に君の感情表現を100%理解しろと要求するなんて、君はどうかしてるよ。」
男は手を放し、両手を布団の上に置いた。女は伏せてた目を男の方に向け、何回か瞬きをすると同時に眼の筋肉を動かし微妙な変化をつけた。
「さっきの言葉は謝るよ。全く、そんな何人も一気に抗議しなくてもいいだろうに。それで、君の人間とは逸した頭脳では、私はいつ死ぬのかな。わかってるんだろう…。」
男は彼女の方を見ずに、己の瘦せこけた手をじっと見つめるとつぶやいた。女は、その手を今まで男が見たことないほどの速さで取ると男をじっと見つめた。
「すまない。でも、怖いんだよ。自分が死ぬことじゃないよ。君を理解できる人間がこの世にいなくなるということが怖いんだよ。君にはすぐにばれたけど、私には特別な力がある。理解するということに特化した能力だ。神様から与えられた唯一無二の能力。それでも、君を理解するには数十年かかった。もし私がいなくなれば、君はわかっているだろうが、君は一人になってしまう…。それはどれほど…。どれほど、恐ろしいことだろう。」
女は、そっと男を抱きしめると頬を合わせた。そして、赤子にハグするようにやさしく抱きしめた。
「私は、怖い。私が死んだあと、君が死んでしまうのではないかと…。私の愛した人がもしも死んでしまったらと考えると、恐ろしい。君はそのようなことをかすかにでも考えたことがないとは、否定はできないだろう。私は理解する者だ。君が一番それをよく知っているだろう。」
女は手の力をそっと強め、口を男の耳に寄せた。そして、男が今まで聞いたことがない、心地よい声が聞こえてきた。
「あなたは、死なない。私も死なない。私は嘘ついたことがない。」
男は目を見開くと、どこか納得したような優しい顔で彼女を、そっと抱きしめ返した。
「そうだな……。君が治してくれる……。」
女は、手を震わせ男を抱きしめ続けた。その行動は、彼の知るどの行動よりも人間らしかった。
数十分後、彼女はゆっくりと男を放し、ベッドへとゆっくりと寝かした。そして、先ほどの人間らしさはどこへ行ったのか、人形のような感情を映さないその美貌を取り戻し静かにベッドの隣にあるイスに座った。
「そうだな、これまで、君は嘘をついたことがなかったな…。」
男は、そっとつぶやくと目を静かにつぶった。そして、数日後静かに息を引き取ったのであった。