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死役所B2F  作者: 名野創平
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第二話  申請人 蔵持

『申請人――蔵持令子くらもちれいこ(八十六歳)

 自殺動機――現世に留まるため

 自殺予定地――自宅』


 現世に留まるために自殺する――何ともオカルトじみた動機だ。自ら命を絶った人間は悔恨の念から成仏できない、などという俗説を信じているのだろうか。人間死ねばそれで終わりではないか。

 前方の信号が青に変わり、遊佐碧ゆさみどりは車を発進させた。車窓から眺める空は雲一つない秋晴れだというのに、暗澹たる気持ちで申請人宅へ向かう。

 調査室に配属されて三年。申請人の数だけ自殺の動機も存在するのだと日々実感する。もちろん、この手の申請も初めてではない。数こそ少ないものの定期的になされる。が、やはりこの手の申請は通りにくい。

 決定権者も所詮は人の子、大衆の共感を得やすい正統派な動機であればすぐに自殺許可を出すが、到底共感しがたく、理解に苦しむ動機は可否を決定する以前に却下する。とはいうものの、話しも聞かずに門前払いをくらわせば、それこそ人権問題になりかねないため、それなりの手順を踏まなければならない。

 そこで調査室の出番となる。調査員が申請人と面接し、彼らの語る観念的な主張を、現実的で具体的な言語に翻訳し、申請人と決定権者との橋渡しをする。まあ、橋渡しをしたところで許可が下りる保証はないのだが、少なくとも門前払いをくらうことはない。

 これから行う面接が、そういう重要な役割を担っていることは重々承知している。しかし、遊佐はこの手の面接が苦手だった。

 宗教やオカルトにまったく興味のない人間にとって、それらを盲信する人間と意思の疎通を図ることは容易ではない。会話が平行線をたどるどころか、思考回路が理解不能で、まるで火星人と対話しているような気分になる。申請人と決定権者との橋渡しよりまず先に、自分に通訳をつけて欲しい、と遊佐は切に願った。

「……すみません。僕、迷惑ですよね」

 市街地を抜け、小高い丘の上り口に差し掛かった所で、それまでずっと黙っていた黒部が口を開いた。遊佐は助手席の黒部を横目で一瞥した。童顔で頼りなさげな青年がシードで小さくなっている。

「いえ、室長命令ですから」

 本音を言えば、迷惑だった。ただでさえ憂鬱なのに、何の因果か、つい今しがた自殺許可の申請に来庁したばかりの人間を同伴しなくてはならないのだから。

 しかもこの黒部は、自殺志願者であるにもかかわらず自殺の動機がないという、遊佐にとって理解不能な火星人の一人だから堪らない。

「しかし、どうして断らなかったのですか。黒部さんは自殺許可の申請にいらっしゃったのでしょう」

 そう訊ねておいて、愚問だと思った。

 黒部を唆し、遊佐に同伴を命じた調査室室長灰島(はいじま)という男は、一見、物腰の柔らかな好人物であるが、その実、相当押しが強い。馬面に標準装備の友好的な笑顔で相手を油断させ、万事、自分の思い通りに事を運ぶ。見るからに優柔不断な黒部がいいように言いくるめられるのもしかたがない。案の定、

「他の申請人に会えば参考になるかも、って室長さんが言ってたんで……」

 と、黒部は答えた。

 もっと一般的なものならいざしらず、今回のようなレアケースが参考になるとは思えない。結局のところ、人員不足解消のため灰島に利用されたにすぎない。少しだけ黒部が気の毒になった。


 高台の閑静な住宅街を北東へと車を走らせる。車道沿いのケヤキ並木が赤や黄色に紅葉し、空の青と鮮やかなコントラストをなしている。街路樹越しに瀟洒な邸宅が垣間見える。どれも広い庭付きで、丘の斜面に階段状に並んだ集合住宅とは比べ物にならないほど開放感に溢れていた。

 いくつか辻を曲がると景色が一変した。それまでの、真新しい洋風建築の家並みが続く新興住宅街から、伝統的な日本建築の建ち並ぶ旧住宅街へと入ったのだ。どの邸宅も立派な門構えで、広壮な屋敷を長い塀がぐるりと囲っている。その中でも一際存在感を放つ豪邸が、今回の申請人、蔵持令子の住まいだった。

 道路に面して瓦葺きの土塀が遠くまで延びている。屋敷正面の大門の脇に少し奥まった場所があり、白いセダンが一台停まっていた。どうやらその、車三台分ほどのスペースが来客用の駐車場であるらしい。セダンの隣りに車を停め、遊佐と黒部は正門へと向かった。

 漆喰の長屋門に黒塗りの重厚な門扉。門扉の右横には人一人が出入りできる大きさの潜り門がある。まるで武家屋敷のような造りだ。

 『蔵持』と彫られた木製の表札の下のインターホンを押す。

「はい、どちら様ですか」

 スピーカーから中年女性の声が返ってきた。

「賽河原市役所から参りました、遊佐と申します。令子様はご在宅でしょうか。本日二時からお約束をいただいております」

「はい、申し付かっております。少々お待ちください」

 ほどなくして門扉が内側からゆっくりと開いた。

「いらっしゃいませ。どうぞお入りください」

 扉の脇で着物に割烹着姿の中年女性が頭を下げる。遊佐と黒部は門を潜り屋敷へと足を踏み入れた。

 手入れの行き届いた見事な日本庭園が眼前に広がる。真っ赤に染まった築山の紅葉が石組に深紅の葉を落としている。築山と反対側の屋敷の隅に、たわわに実った柿の木と白壁の土蔵が見えた。

 母屋へ続く玉石敷の園路を割烹着の女性の後に付いて歩く。

「申し訳ありませんが、ただいま主治医の先生の往診中でして、応接間で今しばらくお待ちいただけませんでしょうか」

 玄関の引き戸に手を掛け、割烹着の女性が振り向いて言った。

「構いません」

 遊佐は答えた。答えてから少し遠慮がちに尋ねた。

「少し、お庭を拝見させてもらってもよろしいでしょうか」

「はい、どうぞご自由にご覧ください。往診が済み次第、お呼びいたします」

「有り難うございます」

 割烹着の女性は母屋に入り、遊佐は土蔵の方へと向かった。ツツジの生け垣に挟まれた園路の飛び石を歩く。

「調査って申請人に話しを聞くだけじゃないんですね」

 背後で黒部が感心したように言った。

 今、蔵に向かっているのは調査のためなどではない。たんなる好奇心ゆえの行動なのだが、

「まあ、色々と……」

 遊佐は言葉を濁した。

 やがて生け垣が途切れ、土蔵の側面に出た。切妻屋根に漆喰の壁、蔵の下半分はなまこ壁になっており、白と黒の斜め格子模様が美しい。

 近付いて、なまこ壁の盛り上がった漆喰を指でなぞる。長い年月雨風にさらされ、ざらりとした感触がした。

 正面へ回る。階段を三段上った所に金属製の観音開きの頑丈な扉がある。その階段の二段目に少女が一人、座っていた。

 少女は背中まで伸びた薄茶色の髪を三つ編みにし、煉瓦色のワンピースを着ていた。俯いて、膝に載せた何かを熱心に読んでいるようだった。文字を追っているのだろう、小さな頭が左右に動き、時折止まり、また動いた。

 遊佐の背後で黒部が小石を踏んだ。その音に、少女が弾かれるように顔を上げた。こちらの姿に気付くと、びくりと頬を引き攣らせ、脱兎のごとくその場から逃げ出した。走り去る少女の手から一枚の紙がひらりと落ちた。

 少女が去った後、遊佐は階段の下に落ちた紙を拾い上げた。それは淡い桜色の便箋で、母から娘へ宛てた手紙だった。文面から、手紙の遣り取りが頻繁に行われていることが推察できた。

「後で彼女に返しておいてください」

 遊佐は黒部に手紙を渡した。黒部が困ったような顔で手紙を受け取る。

「今の子、ここの家の子供ですよね」

「そうです。申請人のお孫さんです」

 調査依頼書の家族構成を思い出しながら遊佐は答えた。

 申請人は息子夫婦と孫娘の四人暮らし。代々商売を営んでおり、かなり繁盛しているようだ。

「お待たせいたしました。母屋の方へどうぞ」

 背後で割烹着の女性が呼んだ。遊佐と黒部は母屋へ戻った。


 左手に池を眺めながら磨き込まれた廊下を進む。かこん、と時折猪脅しが鳴る。障子の閉まった部屋をいくつか通り過ぎ、一番奥の部屋の前で割烹着の女性が膝をつき、両手を添えて障子を開けた。

「市役所の方をお連れいたしました」

 中からぼそぼそと声がする。割烹着の女性は頷くと、遊佐と黒部を室内へと促した。

 十畳ほどの和室の中央に床が延べてあり、布団に半身を起こした老婆――蔵持令子がお辞儀をして二人を出迎えた。白髪を一つに束ね、木綿の寝間着に茄子紺の羽織を重ねている。

「ご足労いただき有り難うございます」

「賽河原市役所から参りました、遊佐と申します。こちらは黒部です」

 遊佐が一礼して名乗る。黒部もそれに倣って頭を下げた。

 蔵持が羽織の衿を整えながら、

「お見苦しい格好でまことに申し訳ありません。どうぞお座りください」

 と、二人に座布団を勧めた。布団の側に並べられた座布団の、蔵持に近い方に遊佐、その隣りに黒部が正座した。割烹着の女性が障子を閉めてその場に控える。

「お加減はいかがですか」

「まあ、そこそこです」

「そうですか、では用件は手短に。早速ですが本題に入らさせていただきます」

 遊佐は持参した茶封筒から書類を取り出して蔵持の枕元に並べた。

「こちらは蔵持様の自殺許可申請書です。不明な点が二点ありましたので確認させてください。まず一点目、今回は代理人申請ということで委任状が添付されていますが、この代理人に指定されている『永倉美智子』というのはどなたですか」

「そこにいる家政婦です」

 蔵持が割烹着の女性に視線を向ける。

「血縁関係がおありですか」

「いえ、ございません」

「申し訳ありませんが、代理人は三親等内の血族、例えばお子様やご兄弟、甥ごさんや姪ごさんなどのうち、どなたか一人を指定していただけますか」

「はい、承知いたしました」

 蔵持が頷く。遊佐は並べた書類から委任状を抜き取ると、自分の膝元の茶封筒の上に重ねた。

「二点目は、動機の件なのですが……。自殺して現世に留まる、というのは具体的にはどういうことなのでしょうか」

「それを具体的に言い表すのは難しいのですけれど、自殺した人間は成仏できないといいますでしょう」

 さも当然のことに同意を求められ、顔が引き攣りそうになるのを遊佐は必死に堪えた。

「私は不勉強なものでそういうことは分かりかねます。では、何故、現世に留まりたいのですか」

「孫の傍にいるためです」

「お孫さんですか……」

 いよいよ、一般大衆とは相容れない独自の理論が展開されるのかと遊佐は身構えた。

「私には孫がおります。名を里美と申しますが、あの子の両親――私の息子夫婦は仕事にかまけて家庭を顧みることをしません。ですから、あの子はいつも独りで寂しい思いをして、私にはそれが不憫でならないのです」

 蔵の階段に腰掛けたお下げの少女の姿が脳裏に浮かぶ。 

「ご覧のとおり私もそう長くはありません。けれど死ぬことは怖くない。十分生きましたし遣り残したこともありません。ただ一つ、あの子一人を残して逝くことが心残りでならないのです」

 蔵持が自身の手元に視線を落とした。決心を固めるように、浮腫んだ手が掛け布団を握り締める。 

「ですから私は、現世に留まって、いつまでもあの子の傍にいてやりたいのです」

 遊佐は閉口した。

 孫を想う祖母の心中は察するが、それを実現するための手段は理解に苦しむ。霊や死後の世界などという非科学的なものを真に受けて実践するなど正気の沙汰とは思えない。いざ死んでみて求めていた結果が得られなかったらどうするのか、二度と生き返ることはできないのだ。

「お孫さんを思う気持ち、わかります」

 突然、黒部が言葉を発した。何事が起きたのかと遊佐は隣りを見る。自殺志願者同士相通ずるものでもあったのだろうか。

「でも、霊魂になったらお孫さんにはあなたの姿が見えないんじゃないですか?」

 黒部が真顔で尋ねた。『霊魂』などとよく恥ずかしげもなく口に出来るものだ、と遊佐は思った。

「姿が見えなくても想いは通じます」

 蔵持もまた真剣な面持ちで答えた。

「そうか。そうですよね、姿が見えなくても想いは通じますよね。心とか愛情とか形がないものは、目に見えないからといって存在していないわけじゃないですもんね」

 黒部が深く同意した。蔵持も同胞を得た思いでか、満足気に頷いている。

 どうやら、遊佐にとって理解不能な二人は、やはり遊佐には理解不能な次元で第一次接触を果たしたらしい。しかし、

 ――黙らせるべきだろうか。

 黒部を制止すべきか否か遊佐は思案した。

 そもそも調査室は自殺許可の決定権を持たない。決定を下すのは、市町村の自殺委員会や県知事、大臣など上の機関である。調査室の役割はそれら決定権者が正当な決定を下せるように、申請書の不備を正し、不明な点を解明し、申請人に補正を促すことにある。

 だから当然、自殺を思い留まるように申請人を説得したり、説教したりなどしない。確かに調査員によっては、申請人に深入りしすぎて越権行為を行うものもいないではない。しかし、遊佐は違う。あくまでも職務に忠実に、申請人とは一線を画して接してきた。

 普段の遊佐ならばパートナーの過ぎた干渉をいさめたりもするのだが、黒部は部外者だ。臨時職員とは名ばかりで、成り行きで今この場にいるにすぎない。

 遊佐は目だけ動かして蔵持と黒部とを交互に見た。二人とも真面目くさった顔で非現実的なことを語っている。今、下手に口を挿んでこちらに話しを振られても対処に困る。

 遊佐はもうしばらくの間、傍観することにした。

「だったら、あなたが思っているほどお孫さんは寂しい思いはしてないんじゃないですか?」

 黒部が言った。

 一瞬にして蔵持の顔が曇る。同胞に裏切られた気分なのだろう。その顔色の変化に気付いているのかいないのか、黒部はなおも続ける。

「あなたの息子さん夫婦がお孫さんと一緒にいないからといって、息子さん夫婦がお孫さんを愛していないわけじゃないと思います。物質的に距離があっても精神的に傍にいることはできます。あなたが、その肉体を棄ててまでお孫さんの傍にいたいと思ったのもそういうことなんじゃないんですか?」

「息子夫婦が孫のことを思っていると、どうしてあなたにわかるものですか」

 蔵持が眉根を寄せて呻いた。

「これを見てください。さっき、蔵の前でお孫さんが落とした物です」

 そう言いながら黒部は蔵持の近くへにじり寄り、淡い桃色の便箋を差し出した。

 震える手でそれを受け取り、蔵持は黙読する。老眼で見え難いのだろうか、時折、手紙を遠ざけながら時間をかけて読んだ。そして、

「はあぁ」

 と、憑き物が落ちたような顔で深く息を吐いた。

 親が子に宛てた手紙の文面を、遊佐は思い出していた。


「では、私どもはこれで失礼いたします。再申請するかどうか、もう一度よく検討なさってください」

 遊佐は書類を纏めると茶封筒に仕舞い、蔵持の枕元に置いた。

 黒部を促して立ち上がると、出入口脇に控えていた長倉が障子を開けた。

「……まあ、お嬢様」

 永倉が驚いて廊下へ出た。遊佐は障子の陰から廊下を覗いた。廊下に立ちつくし、孫娘の里美がぽろぽろと大粒の涙を零していた。

 里美は永倉に背中を擦られながらとぼとぼと部屋に入って来た。そうして蔵持の傍まで行くと、服の袖で涙を拭い、しゃくり上げながら、

「お父さんもお母さんも……いっしょにいられないけど……、いつもお手紙くれるから……、さびしくないよ。……だから死んじゃいやだ。おばあちゃんがいなくなったら……さびしいよ……」

 と言って、蔵持の膝に突っ伏して大声で泣いた。

「ごめんよ、ごめんよ……」

 そう謝りながら蔵持は、泣きじゃくる里美の頭を、何度も何度も優しく撫でた。


 門扉の前で深く頭を下げる永倉に見送られて遊佐と黒部は帰路に着いた。

「……余計なことしてすみませんでした」

 住宅街を抜けた所で、それまでうな垂れて黙りこくっていた黒部が力なく謝罪した。

「構いません」

 遊佐は前を向いたまま素っ気なく返した。

「ほんとにすみません。室長さんには黙って立ってるだけでいいって言われてたのに。……なんか黙っていられなくて」

「そうですか。それで、何か参考になりましたか?」

「え、いや、特には……すみません」

 黒部は申し訳なさそうに肩をすぼめた。遊佐は脱力した。

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