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死役所B2F  作者: 名野創平
1/2

第一話  申請人 黒部

 ――死にたい、死にたい、死にたい。

 突発的な自殺衝動に、黒部理くろべさとるは橋の半ばで足を止めた。体の向きを変えて欄干に歩み寄る。

 緩やかに蛇行しながらどこまでも果てしなく延びる川。両岸の、大小様々な人工石を積んだ階段護岸に、ちらほらと人影が見える。川面に糸を垂れる子供、ぼんやりと佇む老人、学校帰りの学生の集団。土手一面を覆いつくした薄が、夕映えに染まった花穂を風になびかせていた。

 ――むしょうに死にたい。

 欄干から身を乗り出して川を覗き込む。水面が落日の茜色を反射している。流れは穏やかだが水嵩はあるようだ。

 橋脚の隅に、流木や木の葉、空のペットボトル、ビニールの切れ端、片方だけの靴などが打ち寄せられているのが見えた。雑多な塵がタプタプと規則正しいリズムを刻む。

「うっ」

 と、黒部は小さく呻いた。

 波にたゆたう塵を押し退け、突如、ぷかりと魚の死骸が浮き上がって来たのだ。

 ――ここから飛び降りたら自分もああなるのだろうか。

 仰向けに白い腹を晒した魚に自分の姿を重ね合わせる。

 遠巻きに見物する野次馬たち。醜く膨張した水死体に顔を歪ませ、しかし、背けられることのないその双眸は好奇の色に満ちている。第一発見者は興奮気味に語るだろう。口元に下卑た笑みを浮かべ、身振り手振りで、微に入り細にわたり。

 ワイドショーでよく目にする光景が脳裏をよぎって気分が悪くなった。

「……ばかばかしい」

 そう吐き捨てる。

 物心ついた頃から幾度となく繰り返される突発的な自殺衝動。理由も原因もない。自分自身ですら理解できない感情。陳腐な表現をするならば「なんとなく」ただこの一言につきる。

 ――なんでこんなに死にたくなるんだろう?

 自分自身に問いかける。答えはない。

 体温が移って生温かくなった金属の手摺りをきつく握った。

「おい、危ないぞ!」

 突然、誰かに腕を掴まれた。驚いて振り返ると背後に警察官が立っていた。ずんぐりとした体躯で、傍らには古ぼけた白い自転車が停めてある。

「そんなに身を乗り出してたら危ないだろうが」

 警察官が語気を荒らげる。黒部は顔を強張らせ、後退りで欄干から離れた。

 警察官は黒部の様子を無遠慮に観察してから、

「ひょっとして、自殺しようとしてたのか?」

 不信感丸出しで訊いた。

 黒部は目を伏せた。それを肯定と解したのか、警察官が面倒臭そうに溜め息を吐いた。

「自殺許可証は持ってるのか」

「自殺許可証ですか?」

「持ってないのか。なら、勝手に自殺なんてしたらいかんだろうが」

「自殺するのに許可がいるんですか」

 黒部は困惑した。ふん、と警察官が鼻を鳴らす。

「一昔前ならいざ知らず、今は自殺するにも許可が必要なんだよ。好き勝手に死んでいいってわけじゃない。それぐらい常識だろうが。まったく、これだから今時の若いやつは」

「……はあ、すみません」

 黒部は首をすくめた。

 自殺するのに許可が必要だとは、世知辛い世の中になったものだ。

 それにしても、しょっちゅう無駄に自殺衝動に駆られているわりに、肝心なことを何一つ知らない自分に我ながら呆れてしまう。過去に一度でも自殺未遂を起こしていればその時にでも知り得たのだろうが、実際のところいつも妄想するだけで実行に移したことがない。

 無許可で自殺したらどうなるのだろう、ふとそんな疑問が湧いた。けれど訊いたところで怒鳴られるのが落ちなので止めておいた。

「自殺許可の申請は市役所でできるから、きちんと正規の手続きを踏んで、所定の場所で行うこと。いいな」

 噛んで含めるように言ってから、警察官は哀れむような目で黒部を見た。

「まあ、死にたくなる気持ちも分からんではないがな。人生、辛いことの連続だ」

 黒部は返答に困った。

 正直なところ今までの人生で辛いことなどそうなかった。思い出すのに時間がかかるくらいだ。家族にも友人にも環境にも恵まれていると思う。現在の境遇に不満もない。

 それなのに死にたくなるから厄介だ。

「……酔っぱらに暴走族に不法滞在者……ふざけんじゃねぇよ。ギャーギャー煩いし、人の話し聞かないし、日本語通じないし……あー、畜生……」

 警察官がぶつぶつと呟いている。嫌なことでも思い出してしまったのだろう。

「……あの」

 早くこの場を立ち去りたい一心で恐る恐る声をかけると、警察官は決まり悪そうに、ごほん、と咳払いをした。

「くどいようだけど、ちゃんと許可を取ること。分かったか」

「はい」

 黒部は神妙な顔で頷いた。

 警察官が、街灯の灯り始めた市街地の方へと自転車を漕ぎ出した。

 その姿が宵闇に消えてもしばらく間、錆びついた自転車の軋む音だけが辺りに響いていた。


 翌日、黒部は市役所を訪ねた。

 黒部の暮らす賽河原市さいかわらしは、黒部が生まれるずっと以前に賽河市と原口市が合併して誕生した。

 合併に際し、どちらの市役所を使うかで揉めに揉めた。結果、両市の中間地点に新たな庁舎を建設することとなった。が、そのことが市民の反発を招き、最低限の予算しか得ることができなかった。そういういざこざの末に完成したのが今現在の市役所だった。

 黒部は庁舎を仰ぎ見た。

 無駄な装飾の類を一切排除した、実に殺風景な建物だ。巨大なマッチ箱を立てただけのようにも見える。マッチ箱の側面――側薬にあたる部分が玄関になっている。

 玄関の自動ドアは二重になっており、一枚目と二枚目の間に四畳ほどの空間が設けてあった。鍵付きの傘立てと一台の車椅子、反対側の壁には施設案内図が掲げられている。案内図によると地上三階、地下二階の五階建て、奥行きのある長屋のような造りらしい。脚付の黒板に『本日の催し物』が三つ書き連ねられていた。

 二枚の自動ドアを抜けて吹き抜けのロビーに出た。正面に案内所があり、案内所を挟む格好で左右向かい合わせに各種窓口とそれぞれの待合席が並んでいる。案内所後方の広間が共通の待合所となっているようだ。長椅子と背の高い観葉植物の間を人々が行き交っているのが見える。

 黒部は初めてのことで勝手が分からず、案内所の職員に尋ねることにした。

「すみません、こちらで自殺許可の申請ができると聞いたのですが」

 周囲を気にして思わず声を潜める。しかし職員はさして気にしたふうでもなく、笑顔で答えた。

「自殺許可の申請ですね。正面突き当たりのエレベーターもしくは階段で地下二階へ下りていただきますと、すぐ右手に自殺課がございます。そちらで手続きなさってください」

「ありがとうございます」

 軽く会釈してから案内所の脇を抜け、目的のエレベーターを目指した。

 歩を進めるうちに、黒部は白い衝立で囲われた一画に出くわした。衝立一枚は畳一畳ほどの大きさで、その枚数から換算すると、衝立で囲った空間は結構な面積がありそうだった。

 衝立の壁に沿って歩くと、九枚目の衝立に『羽山はやま銀行関連自殺申請特設会場』と筆で書かれたロール紙が貼ってあった。

 羽山銀行は黒部でも名前を知っている大手銀行だ。半年くらい前に経営破綻したので、銀行だったと言うべきか。連日ニュースで流れていた取り付け騒ぎの様子も記憶に新しい。

 九枚目と十枚目の衝立の間が出入り用に間隔を広げてあった。

 なんとなしに中を覗いて、黒部は目を疑った。誰もいないと思っていたのに人が居たからだ。それも大勢。話し声どころか、物音一つ聞こえなかったのでこの状況は予想外だった。

 沢山並んだどの長椅子も定員オーバーで、座りきれずに立っている人もいれば床に座り込んでいる人もいた。頭を抱え込んだ人、両手で顔を覆っている人、抱えた膝に顔を埋めている人、ぼんやりと宙を見つめている人、皆一様に憔悴しきっている。

 まるで、衝立の内側の空間だけ照明が遮られているかのように暗く、どす黒い靄に覆われているかのように重苦しい空気が漂っていた。

 黒部は、見てはいけないものを目にした思いで、急いでその場から離れようとした。するとそれを遠くから大声が呼び止めた。

「あっ、待ってください。自殺申請希望の方じゃないですか?」

 声の方に目をやると、短髪を剣山のように立てたいかにも体育会系の職員が、書類の束を抱え、勢いよく駆け寄って来るところだった。

 職員は黒部のすぐ側で止まり、肩で大きく息をしながら、

「羽山銀行関連の自殺申請はこちらです。申請人が多すぎて自殺課だけでは収容しきれないんで、ここで臨時に受付してるんですよ。さあ、どうぞ、どうぞ、遠慮なさらずに」

 と、まくしたてた。

 呆気にとられて立ち尽くしていると、早くしろ、といわんばかりに分厚い書類の束で黒部の背中をぐいぐい押した。凄い力で衝立の中へと押しやろうとするのを、黒部は両足を踏ん張って堪えた。

「ちがいます。ここに用があるんじゃないんです」

 黒部は叫んだ。

「えっ! あぁ、これはすみません! 失礼しました。ほんと、申し訳ないっ」

 職員は必要以上に恐縮し、せわしなく何度も頭を下げた。

「自殺許可の申請をしたいんですけど、今日は受け付けてもらえますか?」

 申請人が多いと聞き、心配になったので、黒部は職員に尋ねた。

「何だ、やっぱり申請希望なんじゃないですか。だったらここで受け付けますから」

 職員が満足気に笑った。黒部はしどろもどろに、

「いえ、銀行とかは関係なくて、個人的に……」

「別件ですか」

 困ったな、と職員は大袈裟に眉間に皺を寄せた。その後、うんうんと何事か唸りながら、首の体操でもするかのように首をゆっくりと回した。

 しばらくして、

「地下二階の一番奥に『調査室』という部署があるのでそこで申請してください。本来、申請の受け付け業務は行っていないんですが、状況が状況ですから特別に私が話しを通しておきます。あ! 申し遅れました、私『ハヤシ』と申します。調査室には『ハヤシに言われた』と伝えれば通じるようにしておきますのでっ!」

 職員は早口で一気に言い切った。そして黒部が礼を述べるより早く、

「ではっ!」

 と、短く一声発して、やって来た時同様勢いのある走り方で衝立の中へと突進して行った。

 しばらくして中から職員のばたばたと煩い足音と、まくしたてる大声が聞こえてきたが、やはり返事をする声は聞こえなかった。


 エレベーターで地下二階に下りる。

 インジケーターが目的の階に到着したことを報せ、ゆっくりと扉が開いた。乗り場から真っ直ぐ奥までセラミックタイルの廊下が延びている。

 足を踏み出す。廊下の両側に部屋が並んでいる。右手の、他より大きな部屋はガラス張りで、白いプレートに『自殺課』と刻印されていた。室内は一階同様、項垂れた人間の群れで異様な空間と化していた。

 いくつかの部屋の前を通過して、目的の『調査室』の前に立つ。こちらは木の扉が付いていた。

 緊張をほぐすために小さく深呼吸をしてから、ドアを軽くノックした。

「はい」

 と、ドアの向こうから短い返事が聞こえた。金属のノブを回し、しかし、中に入るのは躊躇われてノブを握り締めたまま、黒部は戸口から中の様子を窺った。

 室内はさほど広くない。入口脇にスチール製のキャビネット、部屋の中央に事務机が左右三脚ずつ向かい合わせに置かれている。六つの席のうち三つは主不在だった。入口に対して職員が三人、横向きに座っている。

 中央の島から独立して一つだけ入口を向いた机があった。机の上の卓上プレートに『調査室室長』なる役職が刻まれている。その、調査室室長と思しき中年の男性職員は、ちょうど電話の最中だった。

 黒部は入口に一番近い席の職員に声をかけた。

「すみません、自殺許可の申請をしたいんですけど」

 職員がパソコンのモニターからこちらへと視線を移した。色の白い女性だった。

「申し訳ございません。自殺許可の申請は自殺課の管轄となっております」

 ひどく事務的な口調だ。にこりともせずにこちらを見据える切れ長の目に、黒部はいたたまれない気分になる。

「ああ、いいのいいの。遊佐君、お通しして」

 それまで離れ小島で電話をかけていた調査室室長が受話器を置いて叫んだ。女性職員――遊佐がそちらを見やる。

「しばらくの間、銀行関係以外の申請はうちで受け持つことになったから」

「はい、分かりました」

 簡潔に返事をしてから、遊佐はキャスターの付いた椅子を九十度回転させて立ち上がり、

「失礼いたしました。こちらへどうぞ」

 と、黒部を室内へ招き入れた。

 遊佐に案内されてキャビネットの裏へ回ると応接間があった。

 応接間とはいっても、キャビネットと衝立で部屋の一画を四角く仕切ってあるだけの簡素な作りだ。センターテーブルを挟んで壁側に三人掛け、本棚側に一人掛けのソファーが二つ並んでいる。

 入口からはキャビネットの死角で見えないが、室内からは応接間の様子が一望できる。一メートル程度の低い衝立は目隠しのためではなく、単に空間を区切る目的で設置されているようだ。

 黒部は三人掛けのソファの手前の端に浅く腰掛けた。

 遊佐は一度自分の席へ戻って書類を手にすると、黒部の対面に静かに腰を下ろした。

「私、遊佐と申します」

「黒部です。よろしくお願いします」

 黒部は頭を下げた。

 遊佐がテーブルの上に、こちらから文字が読み取れる向きで三枚の書類を並べた。黒部は中央の書類の文字を目で追った。

 A4用紙の上部に、本文より二回りほど大きな太字で『自殺法第五条の規定による許可申請書』と表題が印字されていた。下段の枠内に本籍、現住所、氏名、生年月日、などの欄がある。

「今日は説明だけ聞いて、申請書はご自宅で作成なさいますか。それとも今ここで作成なさいますか」

 抑揚に乏しい声で遊佐が訊いた。黒部はすぐに返事ができなかった。

 自殺するのに許可が必要だと知ったのが昨日。深く考えもせず、警察官にいわれるがままここまで来てしまったのだが、さてどうしたものか。

 思案しつつも書面を読み進める。やがて『自殺動機』『自殺予定地』『自殺方法』なる項目を目にし、この瞬間、黒部は初めて本当の意味で自殺というものを身近に感じた。

 これまで黒部にとって自殺とは、常に身近にあって、しかしどこまでも漠然とした現実味のないものだった。近いようで遠い存在。死にたいと思う一方で、自分が死ぬはずなどないと高を括っていた。

 ――どうする?

 突如、実体を伴って鼻先に現れた『死』に、黒部は激しく動揺した。心臓が早鐘を打つ。こめかみの辺りが、どくどくと煩いくらいに脈打っている。

 ――どうする、どうする、どうする?

 自分は安全圏にいるのだと信じていたら、知らぬ間に、うっかり危険地帯に足を踏み入れていた。黒部は今まさにそういう危機的状況に直面していた。

「どうなさいますか」

 痺れを切らしたのか遊佐がもう一度訊いた。

 血の気が引いた。冷や汗が背筋を伝う。

 遊佐の顔を覗き見る。白い面は完璧なまでの無表情で、冷やかな視線がこちらに向けられていた。

 自分の軽率さを悔いた。――なんとなく、などという曖昧な理由で死にたがっていたから罰が当たったのだ。

 今すぐこの場から逃げ出したい。

 ――でも、逃げてどうなる?

 自殺を思い止まったわけではない。現状を回避したところで、またすぐいつものように自殺衝動に駆られに違いない。今逃げたところで同じことを繰り返すだけだ。

 狼狽したのは、たんに心の準備ができていなかったからだ。いずれ通る道。少しばかり時期が早まったにすぎない。

「今、……書きます」

 黒部は覚悟を決めた。

「では、まず簡単に説明させていただきます。ご覧のように申請書には三種類あります。一般的にはこちらの四条許可申請を行います」

 遊佐が、黒部から見て右の書類に指を添えた。次いで中央の書類に手を移動させ、

「自殺予定地に市外を希望する場合にはこちらの五条許可申請を行います。県内を希望する場合には県知事許可、県外を希望する場合には大臣許可が必要になります」

「自殺する場所は絶対に決めないといけないんですか? 特に希望がない場合はどうすればいいんですか」

 黒部は質問した。一度覚悟を決めてしまえば、後は開き直るだけだ。

「自殺予定地が決定していなければ許可が下りません。特に希望がない場合、市営の『自殺会館』を利用することも可能です。賽河原市に住民票を有する方であれば無料で利用することができます。自殺会館以外を希望する場合、ご本人様に処理費用として実費を負担していただきます」

 遊佐がよどみなく説明する。抑揚のない口調とあいまって音声ガイドと対話しているかのような錯覚を起こす。

 遊佐が最後の一枚に指を添えた。それだけが、先の二枚とは異なって、題字の『自殺法』の部分が『報復法』と記されていた。

「こちらは、自殺法とは別の報復法という法律の規定による許可申請です。この二つは関連が深いので一緒に説明させていただきます。報復法とは、自殺希望者に限り、自殺の直接原因となる相手に仕返しができるという趣旨の制度です」

「いいんですか? そんなことして」

 遊佐が怖ろしげなことをさらりと言い放ったので、黒部は目を見開いた。

「自殺許可が前提条件です。それ以外では認められていません。報復したい相手がいる場合、こちらの二条許可申請を行ってください」

 どれになさいますか、と遊佐が訊いた。

 自殺の直接原因となる相手などいないのだから二条許可でないことは確実だ。自殺希望地も特にはないから五条許可でもない。『自殺会館』というのがどうにも気になるが、消去法で四条許可に決めた。

「じゃあ、四条許可を」

「では、こちらの申請書に必要事項をご記入ください」

 黒部は遊佐から申請書とボールペンを受け取った。遊佐が不要な書類を手早く片付けてテーブルの端に置く。黒部は上から順に空欄部分を埋めていった。

 最初は順調に書き進めていた黒部であったが、『自殺動機』という、他より大きな空欄で手が止まった。

「……この自殺動機というのは、どうしても書かないといけないんですか」

「書き辛いような動機なのですか?」

「いや、そういうわけじゃないんですけど……」

 黒部は口ごもる。

「私たちには守秘義務がございますので、心配なさらずとも他言はいたしません」

 遊佐が断言する。

「自殺の動機は許可を下す際の判断材料となります。何故自殺したいのか具体的にご記入いただけなければ、こちらとしても判断のしようがございません」

「そうですよね……」

 黒部はボールペンを握り直し、再び空欄に向かった。けれどその手は一向に動こうとしない。

 適当な動機をでっち上げてしまおうか。ふと、そう閃いた。

 しかしいざ考えてみると、適当な動機というのもなかなか思い浮かばないものだ。巷でよく耳にする類の動機を自分に当て嵌めてみるが、どれもしっくりこない。どこか嘘くさく、説得力に欠ける。そんな内容で相手は納得するだろうか。

 黒部は再び質問した。

「動機とか、調べたりするんですか?」

 遊佐がわずかに眉を動かした。

「申請ごとに調査はいたしませんが、書類に不備があるものや、内容に疑問があるものなどは個別に調査いたします。本来、この調査室はそのために存在しています」

「……そうなんですか」

 やはり、嘘はまずい。正直に話して判断を仰いだほうが賢明だろう。

「特にこれといった動機がない場合はどうすればいいんですか」

 これまでどの質問にも即答していた遊佐が、十秒ほど黙った。

「動機もないのに死にたいのですか」

「はい」

「何故?」

「なぜだが自分でもわかりません」

「そうですか……」

 それだけ言うと、遊佐は申請書の空欄を凝視したまま口を閉ざした。黒部も同じように空欄を見詰める。

 重く長い沈黙。息が詰まりそうだ。

「どうしたの? 二人して黙り込んで」

 頭上から男性の声が降ってきた。遊佐が見上げる。

「桃井さん。……こちらの方が、自殺の動機がないとないと仰るので」

「へえ、それは困ったね」

 言葉とは裏腹にまったく困ったふうでもなく、男性職員――桃井はテーブルの上の申請書に手を伸ばした。銀縁眼鏡を指で押し上げてから書面を確認する。

「ちょっと詰めて」

 桃井は、相手を向こうへ追いやる時によくするジェスチャーで遊佐を奥のソファーに移動させ、空いた席に座った。書類をテーブルに戻しながら桃井が言った。

「大学生ですか。だったら色々ある時期なんじゃないですか? 例えば、美人局にひっかかって鮪漁船に乗せられそうだとか」

「……どこの世界の大学生ですか」

 遊佐が吐き捨てるように呟く。

「じゃあ、借金の形に内臓採られそうだとか」

 桃井が真顔で言う。冗談か本気か判断に迷う。

「桃井さん、人の話し聞いてましたか? こちらの方は自殺の動機がないと仰っているんです。そんな、誰の目からも明らかな切迫した状況ならば、何で死にたくなるのか分からないなんて言いません」

 遊佐が桃井を白い目で見る。桃井はにやにやと笑った。

「ちょっと桃井君、なにさぼってるの?」

 ファイルを抱えた職員が桃井の姿を見咎めて、応接間にやって来た。

 桃井の隣に立ったその職員はおっとりとした口調で、緩く波打った髪にシフォンのブラウスという装いと相まって柔和な印象の女性だった。

「いやだな、違いますよ。申請書の作成支援です」

「それは遊佐さんがやってるんじゃないの?」

「遊佐の手に負えないから手伝ってあげてるんです」

 女性職員が遊佐を見た。遊佐は首を左右に振った。

「違うみたいよ」

 女性職員がうっすらと微笑んだ。

「ひどいな、毬谷まりやさん」

 桃井が不満げに口を尖らせる。女性職員――毬谷はそれを無視して遊佐に尋ねた。

「なにか問題でもあったの?」

「こちらの方が、自殺の動機がないとないと仰るので」

 遊佐は、桃井にしたのと一言一句違わぬ説明をした。毬谷は目を丸くして、

「世の中には色々な人がいるものなのねぇ」

 と、珍獣でも発見したかのように驚いてみせた。

「どう思います?」

 桃井が毬谷に申請書を手渡す。毬谷は一読すると頬に手を当て小首を傾げた。

「あれじゃないかしら、燃え尽き症候群とかいうの。受験勉強一生懸命頑張って念願の大学に合格した途端、なんだかがくっときて、虚しくなったり気力がなくなったりとかいうやつ。一見、受験のストレスが原因のようでいて、でもきっちり目標は達成できているわけだから、結局なんで死にたいのかわからない。直接的な原因があるようなないような……うーん、こうふわふわっとした感じ?」

「おぉ」

 と、桃井が唸る。

「燃え尽きた人間が三年間も大学に通いますか?」

 遊佐が冷静に言う。

「じゃあ、就職活動がうまくいってないとか、内定が取り消されたとか、……って、これじゃあ具体的な動機よねぇ」

 分からないわ、と毬谷は首を横に振った。皆、黙り込んだ。

 その時、誰かがドアをノックした。キャビネットに遮られて応接間からは入口が見えない。

 ゆっくりとした足音が部屋を横切る。やがて、長身の男性が姿を現した。男性は室長の席に歩み寄ると両手で書類を差し出した。

「調査、お願いします」

「やあ、鳥居君。そろそろ来る頃だろうと思ってたよ」

 手渡された書類を一枚ずつ捲りながら室長が、

「ああ、やっぱり多いね。ひとまず毬谷君と桃井君に任せるとして、他の職員は今担当している調査が済み次第合流ってことで、いい?」

「はい。よろしくお願いします」

 男性は一礼してから踵を返し、すぐに部屋から出て行った。

 室長がこちらに向かって書類を振って見せる。

「毬谷君、桃井君、これ頼むよ」

 毬谷と桃井が室長の許へと向かう。室長が手短に指示を出し、毬谷が書類を受け取った。それから各自席へ戻り、素早く身支度を整えると部屋から出て行った。

 応接間に黒部と遊佐だけが残された。室長がこちらに声をかける。

「遊佐君、何だか行き詰まってるみたいだから、彼を連れて調査に行って来てよ。今日、一件入ってたでしょう。白川君が休みだからどうしようかと思ってたんだ」

 遊佐の顔が一瞬だけ曇った。

「室長、それはまずいのでは」

「一人で調査するのもまずいよね。一応、二人一組が原則だからさ」

「しかし……」

 室長が遊佐の抗議を遮り、

「大丈夫、臨時職員ってことで申請上げとくから。ああ君、黒部君でしたっけ? 他の申請人に会えば、少しはなにか参考になるかもしれませんよ。まあ、心配しなくても君はただ立っているだけで結構ですから。全部彼女がやってくれます。どう? 簡単でしょう。ちゃんと給料も払いますしね」

 と、黒部に提案した。人当たりのよい笑顔の、しかし、その目は笑っていなかった。有無を言わさぬ雰囲気に気圧されて黒部は思わず頷いてしまった。

 遊佐が溜め息を吐いた。

「守秘義務とか色々煩いけど丈夫ですよね。どうせすぐに喋れなくなるんだし……」

 ははは、と室長が笑った。黒部はすぐに後悔した。


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