取り敢えず、逃げる
どのくらい呆けていたのか。
気温が下がったみたい。冷たい空気に身体が冷やされて我に返ったわ。
寒い。ぶるっと震えが走った。
本当はお布団をかぶって寝ちゃいたい。けれど、そうもいかないわよね。
だって、私がリサ・アンソンだとバレちゃいけないんだもの。
この部屋にいるのはまずいわ。
幸いにも夜明けまでまだ時間がある。今のうちにここを出て、どこか別の場所で今後のことを考えよう。
あ。でも、待って。
取り敢えず、私は身を隠すとして、リサ・アンソンの不在をどう誤魔化したらいいの?
私は騎士団員なのよ? 無断で団を離れることは団の規則に反するわ。任務の放棄。最悪の場合、脱走とみなされる。それって、かなりの重罪じゃない。
たまにいるのよ。厳しい訓練や自由の少ない規律に馴染めずに出奔するひとが。
相当厳しい処分を受けることになるわ。名誉だって、傷つくのは本人だけじゃない。ご家族や親戚の家名にも泥を塗ることになって、後ろ指さされながらこそこそ隠れて過ごさなくちゃならなくなるわ。
うううん。ダメダメダメ。
お父様やお母様や姉様たちに迷惑をかけることはダメよ。
休暇を取ろう。
急用が出来て、実家に帰ったことにするのよ。
そして、帰省中に具合が悪くなったことにして、長期のお休みを申請するの。
病気療養が理由なら、長期のお休みも許可されるはずだし、万一のときはお父様に退団の手続きを代行して貰えばいいわ。
そうとなったら、筆! 便箋も!
小さな手は筆を持つのも覚束ない。字が乱れてしまったけれど、仕方ないわ。
一通は、上司のマーク・ウィリス師団長へ。休暇の申請書と事後承諾の形で休暇を申請することの謝罪のお手紙を書いたわ。これは、魔法を使って師団長のデスクに飛ばしておく。
そしてもう一通はお父様へ。
お母様や姉様たちには内緒で、騎士団に対して、私が自宅で療養している風を装って欲しいこと。1年以内に私が戻らなければ、退団の手続きを行って欲しいこと。
不測の事態が起こって、今は事情を説明できないけれど、私を信じて、探さずに見守って欲しいことをしたためた。
本当に、探さないでね、お父様。だって、お父様にはこの姿でも、きっと私だと分かってしまうもの。
それから、乱れたベッドを整えたわ。誰かがこの部屋に入ったとしても恥ずかしくないようにしておかないとね。
後は最低限の必要なものを持って行こう。
でも、私の物だと分かるものはダメね。
お金も現金を裸で持っていくしかないわ。問題は服よ。子供が着れる服なんか無いから、大き過ぎるけど私服の部屋着の上を着た。下は…、無くてもしょうがないわね。
一応、上着の裾が膝まであるし。
靴もないから靴下を5足重ねて履いたわ。
コート、もダメね。でもこれだけじゃ寒過ぎる。
…毛布は私物だから私のだとは分からないわよね。どこにも名前は書いてないし。
毛布を身体に巻きつけると、暖かいけど、なかなか酷い見た目になったわ。
でももう行かなくちゃ。急がないと夜が明けてしまうわ。
そおっと部屋を出て、一息に寮の外へと走った。
寮の中に不審者が侵入していたとあってはかなりまずいわ。寮の外もダメだけど。騎士団の敷地内で見つかったら不法侵入よ。査問は免れないわ。
必死に走ってるけど、足が短いし歩幅が狭いわ。出口が遠い…!
「はあ、はあ、はあ…」
なんとか寮は出られた。でも騎士団の敷地は広いわ。
どうしよう。
さすがに正門からは無理よね。警備しているひとがいるし、正門にたどり着く前に見張りに見つかってしまうわ。
じゃあ、裏口?
裏口は施錠だけのはず。
魔法トラップが仕掛けられてるかもしれないけど、魔法ならなんとかなる。
よし、裏口に行こう。
とは言っても通路を堂々と歩いたら、やっぱり見張りに見つかるわよね。
「よいしょ、と」
通路脇に植えられた植物のエリアは侵入禁止だけど、ここなら木々の影に紛れることが出来そう。
植え込みを乗り越えて歩く。あ、っと。ちょっと踏んじゃったわ。ごめんね、なんの木か分からないけど。
ここまで来るのに思いのほか疲れちゃったわね。もう走れない。でも、とにかく歩き続けなくちゃ。
「………!」
音がするわ。
蹄の音が。誰かが馬で通る?
この木、幹が太くて立派だわ。隠れられるかしら。しゃがんでいれば向こう側からは見えないかもしれない。このまま通り過ぎるのを待とう。
息を潜めて耳を澄ます。
ぱっぱかぱっぱか。ゆったりとした歩調の足音が二重に聞こえる。馬は二頭かしら。
「そう言えば隊長、聞きましたか? 第五師団の遠征、延期が決まったっすよ」
どくんと心臓が強く打ったわ。
隊長? 隊長って言ったの?
騎士団はいくつかの師団から成っているのだけれど、騎馬隊だけが「団」ではなく「隊」なの。
「団長」は複数いるけれど「隊長」は1人だわ。
騎馬隊の隊長といったら…。
「ああ、確定したのか。山より海を優先すべきだ、と上から意見があったからな」
この声!
聞き間違えようがない。沁み渡るように響く色気のある低い声。
やっぱりそうよ、レオンおじ様だわ!!
私の憧れの、素敵な素敵な、あのおじ様よ!!
「海、優先すべきですかねえ〜?」
「さあな」
「今日の壮行会、無駄になりましたね」
「ふ。どうせ、名目なんかなんでもいいんだろ」
「まあ、そうですけどねー。今日の店、酒は美味かったっすね」
「酒以外は不味かったような言い方だな?」
男の人ってこんな時間までお店で飲んでいるのね。じきに明るくなるでしょうに。出勤までの時間を考えると、眠る時間なんてほとんど無いわよね?
明日は非番なのかしら?
「不味くはないっすよー。でもお姉さんたちがあんまり優しくなかったっす」
「そういうのを期待してるなら別の店に行くんだな。…?」
お姉さんたち…? ウェイトレスが優しくないってことかしら?
「ちょっと待て、ロン! そこにいるのは誰だ!!」
…っ!
おじ様の鋭い声。
見つかった…?
すぐにガサガサと植え込みが音を立てて、30歳くらいの藍色の巻き毛の男性が飛び込んで来た。
きゃあ! 見つかっちゃった!!
そのひとは私を見つけてきょとんと目を丸くしたわ。
このひと知ってる。おじ様の部下の斬り込み担当さんだわ。柔和な見た目とは違うダイナミックな戦いぶりが有名なひと。お名前は確か、ロン・エイモスさん。
「隊長ー! 子供でーす。女の子ー」
「ああ?」
ああ、おじ様も来ちゃった。
おじ様は私を見て眉を上げたわ。
どうしよう。そんな場合じゃないけれど、やっぱりおじ様は素敵だわ。たとえ胡乱なモノを見るような目で見られていたとしても!
おじ様はしばらく私を眺めた後、
「怪我はないか、お嬢ちゃん?」
と言ったわ。
頷いて見せると、ちょっとごめんな、と言ってマントみたいに巻きつけていた毛布を開いた。
本当に怪我をしていないか確認したのかしら。
それとも身なりを?
後者かもしれないわね。おじ様、ため息ついてる。
「捨てられたんすかねー」
「余計なこと言うな、ロン」
「あー。スイマセン」
捨てられた…?
置き去りにされたように見えるかしら。
それならそれで押し通す?
でも。国で王宮の次に警備が厳しいと言われる騎士団の敷地に子供を置き去りにする。…可能かしら?
「心配するな。もう大丈夫だ。寒かっただろう?」
おじ様に抱き上げられて、一緒に馬に乗せられた。これ、騎士団寮に逆戻りだわね。
こっそりため息をついたら頭を撫でられたわ。
そっと見上げると、おじ様は渋い目元を細めたの。
「その子、どうするんですかー?」
「今日はもう遅いからな。今夜は俺が預かる。明日、クルスも含めて相談しよう」
「了解っす」
明日?
おじ様たち、明日勤務なの?
明日勤務なのにこんな時間まで遊んでいるなんて…。
はっ。
待って。それどころじゃないわ。
今、今夜は俺が預かるって。
それって、おじ様のお部屋にお泊りってこと?!
なんてことかしら…!
おじ様にこんなに急接近できるなんて、もしかして、これはチャンスでは?
なんて密かに色めき立ったけど。
おじ様は極めて常識的かつ紳士的に6歳の少女として私を扱ったわ。
つまり、ベッドを私に譲って、おじ様はソファでお休みになったのよ。
もし叶うなら、口付けの相手はおじ様がいい。
願いが叶いますようにと祈りながら目を閉じたら、程なくして眠りに落ちたわ。