表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

李徴はなぜ人間にもどれないのか

作者: 恵梨奈孝彦

李員(りうん)は死のうとしていた。

(あざな)長徳(ちょうとく)。出身は虢略(かくりゃく)である。陳郡の袁傪(えんさん)の邸に徒食していた。

父親が傪の親友であったらしい。監察御史から宰相にまで登り詰めた傪には、親友の忘れ形見とその母親を居候させるなど、たいしたことではなかったのだろう。

しかし袁傪が死ぬと、彼の妻の江女は員を家から追い出した。

員の母はとうに死んでいたが、どうやら江女は員の母と傪の仲を疑っていたようだ。もしかしたら、員の父親が傪なのではないかとさえ思っていたふしがある。

そこで、江南尉までつとめた士大夫、李徴の子であるにもかかわらず、員は路頭に迷うことになってしまったのである。

幸いすでに成人しており、体は丈夫であったため、靴の行商を始めた。蜀漢の始祖劉備が、若かりしころ靴を売って歩いていたという故事も少し頭にあった。

なんとか、自分ひとりが食うだけの稼ぎを出すことだけはできていた。将来への蓄えなど何もなかったが、生きていくことだけはできた。

だが、商於の地に通りかかったとき、盗賊に襲われた。売上だけでなく売り物の靴も全て奪われた。それだけではない。役所に届けると、いつの間にか自分が追い剥ぎの一味ということになっていた。

必死に山の中まで逃げたが、これからどうすることもできない。

盗賊が役人に渡りをつけたのか。それとも江女が自分を追い詰めたるために手を回したのか。

後者であればどうしようもない。元宰相の妻の縁故と権力を使えば、中国じゅうに網を張ることさえ不可能ではないだろう。あるいは、あの盗賊さえも江女の手の者かもしれない。

もはや、自分が生きていける場所はどこにもない。

李員は崖に向かって歩いていた。ひどく疲労している。もともと頑健なたちであったが、未来に展望のない道行きというのは、なんと疲れるものだろう。さらに三日ほど何も食べていない。谷川の水を飲んだだけだ。歩いているだけで体がふらふらする。粗末な衣服は刃のような草から李員を守ってはくれなかった。両手両脚に無数の切り傷を作りながら、なんとか崖に近づいた。崖から飛び降りれば、きっと死ぬだろう。

そのとき、獣の咆吼が聞こえた。


咆吼はどんどん近づいてくる。李員はたちまち恐怖にとらわれた。死のうとしていたはずなのに、本能は生きることを欲している。ほんのわずかな時間でもいい。生きていたい!

草むらから一匹の猛虎が躍り出た。

虎の体長は、李員の身長の四、五倍はありそうだ。員が生きた虎を見たのは初めてである。しかも虎は、その口に人間の頸部をくわえている。人間の死体を引きずっている。

虎が頸部を放した。死体がずるりと地面に滑り落ちた。員が虎と目が合った。


偶狂疾に因つて殊類と成る。災患相仍つて逃るべからず。今日は爪牙誰か敢へて敵せんや。当時は声跡共に相高かりき。我異物と為り蓬茅の下にあれども、君は已に軺に乗りて気勢豪なり。此の夕渓山明月に対して、長嘯を成さずして 但だ嘷を成すのみ…。

七言律詩。かつて袁傪の邸にいたとき、傪から教えてもらった詩である。「かつて官吏であった主人公が発狂して異類となり、詩を吟じることもできずただ咆哮する」といった内容だ。

「虎に襲われたときこの詩を詠じれば、おまえならばもしかしたら助かるかもしれない」とかつて言われた。

 そんなことを信じてはいなかったが、この詩の響きの良さが気に入ったのと、異類となった悲しみの切なさが気になっていつの間にか愛唱していた。

しかしこのおまじないが、不思議に効いた。虎は詩の詠唱を聞くと、身を翻して草むらに隠れたのである。袁傪はこんなことも言っていた。「おまえは、他人にどう思われるかを気にしすぎてはいけない。恐ろしいことになる」こちらの方はどんな意味があるのかいまだにわからないが、虎が襲いかかってこなくなったのは有り難かった。

 すぐに逃げるべきか? いや、下手に動くと危険かもしれない。李員が動けないでいると、人間の声がした。

「なぜ、その詩を知っている…」

 人の声がした。

「なぜだ…」

 再び人の声がした。おかしい。ここにいるのは自分と死人だけだ。

「答えろ。なぜだ…」

 人がいるはずがない。恐怖で頭がおかしくなったのか? それとも妖怪変化の類いか。それとも神か?

「あなたは、だれですか」

「虎だ」

「えっ」

「さっきおまえに襲いかかろうとした虎だ」

 ばかな。虎が人語を話すはずがない。しかし声は、まぎれもなく虎の隠れた草むらから聞こえてくる。

「答えろ。なぜその詩を知っているんだ!」

「かつてやっかいになっていた邸の主の、袁傪様から教えていただきました。虎に襲われたときこれを詠じれば、わたしならば助かるかもしれないと…」

「おまえならば? おまえは名をなんというのだ」

「李員長徳」

「ばかな!」

 驚愕したような声が聞こえたあと、草むらの中からひどく悲しげなすすり泣きが聞こえてきた。

「あなたは…」

「さっきも言っただろう。虎だ。しかし人間だったこともある。人間だった時の名は()(ちょう)中正(ちゅうせい)という」

 それは、父の名と字である。

「その詩を作ったのはおれだ。虎と成りはてたあと、袁傪とその部下に詠んで聞かせた。もしおまえを襲った虎がおれであれば、この詩を詠じれば襲うのを中断する。そして詩を知っている理由を聞けば、おまえがおれの子であることが明らかになるから、おれがおまえを襲わないと袁傪は思ったんだろう」

 虎は、ひどく理屈っぽいことを言った。しかし父は死んだと聞かされている。いきなり虎が父親だと言われても信じられることではない。

「袁傪はほかには何か言っていなかったか?」

「父親のことは死んだとのみ。ただ、他人にどう思われるかを気にしすぎると恐ろしいことになると、謎のような言葉を遺して逝きました」

「そうか…。笑えるな。虎に成り果てたあと親友に遭い、そして息子にも遭うか。本当のお笑いぐさだ」

 全然笑えない。笑う気分になれない。しかし、悲しむべきなのか? それとも父との再会だと喜ぶべきなのか? それさえもわからない。

「なぜ、こんなことに?」

「臆病な自尊心だ」

「は?」

 何のことだかわからない。

「おれは詩人になりたかった。死後百年まで詩人として名前を残したかった。だから官吏をやめて虢略に帰り、だれにも会わず、一日中家にとじこもってひたすら詩作にふけった」

 詩というのは、有名になるために作るものだろうか。それに家にとじこもっていて上達するのだろうか。もっと外の人の意見を聞いたりしなくていいのだろうか。

「しかし文名は揚がらなかった。おれは再び役人になった。しかしおれよりもずっと頭のわるい奴らにあっちにいけ何をしろと命令されることに耐えられなかった」

 食うや食わずでひたすら働いてきた員には、贅沢なこととしか思えない。

「おれはとうとう発狂した。そのあげくに、おれは虎になった。笑えるか? 笑えるだろう」

 虎はさっきも似たようなことを言った。員は、顛末のあまりに非現実的な展開と、父にこんな場所で邂逅したことへの驚きのほかに、この虎のもの言いにどこか面倒くささを感じていた。

「それで、『臆病な自尊心』とは」

「これは袁傪にも語ったことだ。おれは『郷党の鬼才』と呼ばれただけの自尊心を持っていた。しかしこの自尊心

は、傷つけられることをひどく恐れていた。だから、師匠についたり、詩友と交わって切磋琢磨に努めたりしなかった。何のことはない。おれは師匠や詩友に、『おまえには才能が無い』と言われるのが怖かったんだ! だからたったひとりで詩を作った。おまえにもわかっているだろう。こんなことをしても詩が作れるようになるはずがない。おれは、詩人になりそこなって、虎になったんだ。…笑え! おまえの父親はこんな奴だったんだ!」

「なぜあなたが人間にもどれないかわかりますか?」

「馬鹿な。虎が人間になれるか」

「人間が一瞬で虎になるのなら、逆のことが起きてもおかしくありません」

「…考えたこともない」

「もしそれが原因だとしたら、あなたがまだ『臆病な自尊心』を持ち続けているからですよ」

「なんだと!」

 虎にこんなことを言う勇気がなぜ出たのか、それは員にもわからなかった。もしかしたら『この虎は自分の父だ』という甘えからかもしれなかったし、『殺されたとしてもどうせ死ぬつもりだった、もともと生きていく方法などない』という自棄からかもしれなかった。

「さっきから、『笑えるな』とか、『お笑いぐさだ』とか、『笑え』とか! 『おまえに言われなくても、才能がないって言われるのを怖がって詩を人に見せないなんて、みっともないことだとわかってるんだ』って、拗ねているようにしか思えません」

「…だまれ」

「袁傪様がおっしゃっていた『他人にどう思われるかを気にしすぎると恐ろしいことになる』って、このことだったんですね。あなたは、矜持を傷つけられることを恐れるあまりに、他人に笑われる前に自分を笑おうとする。それも、『そうだな。笑ってやる』と絶対に答えそうにない人間に対してだけ『笑え』と言う! 要するにあなたは、虎になっても何も変わっていないんですよ!」

「だまれ!」

 草むらの中から一匹の猛虎が躍り出ると、あっという間に飛びかかり、仰向けに倒れた李員を組み敷いた。李員は目をつぶって、李徴の詩を詠じた。

「此の夕渓山明月に対して、長嘯を成さずして 但だ嘷を成すのみ…」

「そんなものは何のお守りにもならない。我が子といえども許さん」

「異類となつた悲しみ、友に遭えても対等でありえない切なさ、作者のギリギリの気持ちがはっきりと出ている!」

「殺す!」

「この詩は有名になろうと思って作ったものじゃない。あなたが袁傪様に伝えたかったすべてがこの詩には込められている! わたしはこの詩が父の作だなんて知らなかった。それでもいつの間にか愛唱していた」

「たった一編で…」

「数なんか関係ない! この詩があるかぎりあなたは詩人だ。私の父親は人食い虎なんかじゃない! 詩人なんだ!」

 員にのしかかっていた体重がふいに軽くなった。瞼を開けて見た。彼の体に覆い被さっていたのは、全裸ではあったが、壮年の、まぎれもなく人間の体だった。

 

 「おまえに詩人として認められたために、自尊心が傷つくことを恐れる必要がなくなった。自尊心が満たされたと言ってもいいかな。だから『臆病な自尊心』が消えて人間にもどったんだ」とか、李徴は理屈っぽいような、破綻しているような、よくわからないことを言った。頭のいい男の悪い癖だろう。

 李員はそんなことより、全裸の父に服を着せなければならなかった。虎が食い殺した男の着物は血にまみれていたが、近くの川で洗濯をし、乾いてから李徴に着せた。

 おそるおそるふもとに降りると、偶然李徴と旧知の役人に出会った。彼の案内で再び役所に行くと、あっさり李員の疑いは晴れた。江女が手をまわしていたらどうにもならなかったが、そうではなく盗賊が役人に賄賂をつかませただけだったようだ。

 以後李徴は、その役所で身分は低いながら能吏として一生を終えた。しかし詩を詠むことだけはなかったらしい。

 李員は生涯父によく仕えたということである。

 


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
こんばんは、昨日の朝「金城湯地」を教えていただいた者です。山月記、今ちょうど学校で習っています! 私は李徴が人間に戻る方法はないのかをずっと考えていて、タイムリーにこの小説を見つけたので驚きました。納…
[良い点] 大変面白かったです。 舞台が古代の中国で、中身も不思議な話ですよね。 よくこのようにキレイにまとめられましたね。 [気になる点] 創作ですか? それとも原典があるのでしょうか? 創作なら…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ