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その8 浦木くんのコラボランチ


 月曜日。

 バスから降りてのそのそと歩いていた俺に、すたすたと追いついてきた新御堂が言った。


「ボンド、お前どうしたんだい? 後ろ姿でさえ死にそうに見えたが……」

「ああ……うん」

「まさか……結局土日の間、返信がなかったと?」


 俺は静かにうなずいた。

 あのあと、俺は新御堂にも正式に白野と付き合うことになった旨を報告し、送ったメッセージの内容についても話していた。

 その返信が一向にこないということについても、だ。


「俺、なにがいけなかったのかなぁ……せっかく連絡先交換したのにな……」

「既読がついてて、となるとなにか事情があったのだろう。あまり気に病まないことだよ」


 そうは言われてもね。気落ちしますよ。

 肩を落としたまま昇降口に入り、三階の教室まで歩いていって席につき。

 俺は机の収納に筆箱とノート類を突っ込もうとした。

 そのとき。

 ごろん。

 と、中から転がり出てくるものがあった。


「……え? なにこれ?」

「……札束、かい?」

 自分のクラスにカバンを下ろして、俺の席に近づいてきた新御堂が長身を屈めつつ俺の握るものをためつすがめつする。


 たしかにぱっと見たところ札束のようにも見える形状だ。

 しかし、これは。


「……て、」

「手?」

「て、手紙…………!」


 丹念に書き連ねられ、いったいどれほどの文量に及んでいるのか。

 赤い糸でぐるぐる巻きに束ねられた書簡は、異様な存在感を放っていた。

 とりあえず紐をほどこうと手に取ってみる。あ、こま結びされてる。ほどけないぞこれ。

 でも赤い糸を切るっていうのは縁起が悪い気がしたので、俺は切らずにわずかな隙間から取り出した。

 うわあ、すげぇ分厚い便せんの束!


「差出人はだれだい? いやまあ、この流れで僕とお前の想像している以外の人物が登場したらそれはそれは面倒だと思うけれど」

「うん……お前と俺の想像通りだと思う」


 末尾から確認すると、「白野かなた」と例の丸っこいきれいな文字が躍っていた。


「ま、まさか返信が……これか……!」

「やっと来たね」


 新御堂がしみじみと言う。

 でも返信が届いたうれしさを、分厚い手紙の不気味さが上回っていった。


「お前宛ての手紙なのだし、ひとまずお前ひとりで読みたまえよ。じゃ」

「え、ちょっ。そこにいてくれよ新御堂」

「なにを言っているのだいお前は。恋文だろう、僕が見るわけにはいかないよ」

「その通りだけど、この文量にかけた熱量はひとりで受け止めきれるとは思えない……!」


 こわごわと、書面を開く俺。横でため息まじりに待ってくれる新御堂。

 さて、万年筆で書かれていると思しき文章は――謝罪からはじまっていた。


『拝啓 浦木工さま

 突然のお手紙を失礼いたします。白野かなたです。

 RUINでのご連絡賜りまして、望外の喜びを感じております。しかしこの気持ちのままにお返事をお送りすれば、きっと奇妙な文書になってしまうとの危惧があり、このように紙面で推敲を重ねた上での返信と相成りました。

 まずはお返事が遅れてしまったこと、誠に申し訳ございません。浦木くんの私生活について私信をいただけたという事実に動揺を隠せず、ひとしきりお布団にて悶えたあとでなければ筆を持つこともままならなかったためでございます。

 またそのため字が震えており、読みづらくお思いになる部分もあるやもしれません。お手間をお掛けしてしまいますが、何卒お付き合い頂ければ幸いに存じます。

 書きながら考えるのですが、お夕飯に浦木くんはなにを召し上がったのでしょう。月曜はホイコーロー火曜はハンバーグ水曜は親子丼で木曜たらこパスタのようでしたので、』


「待った」


 読んでいた途中で新御堂に制止をかけられた。なんだよ。


「ボンド、なぜ白野はお前の家の献立を知っているんだい」

「え? さあ、なぜかはわかんないけど……でも俺、考えてること顔に出やすいらしいし」

「それには同意するけれどさすがに献立ひとつひとつまで浮かび上がっているわけないだろう」

「同意された……ってことはお前にも内心読まれてたのかよ、軽くショックだわ」

「白野に完全掌握されているのはいいのかい」

「べつに献立知られてて困ることはないだろ」

「でも献立がわかるならほかのパーソナルなこともかなり悟られていると見るべきでは?」

「それは……まあ」


 深く考えるのはよそう。俺は言葉を濁して逃げた。

 そこから読み進めていくと、話はいろいろに脱線しながら時折俺を褒めたたえるような文章が混ざり、べつの意味で新御堂と一緒に読むのが辛い感じに幾度か陥った。

 それでも最後まで読み進め――ひとつ、わかったことがある。


「白野家の金曜日の夕飯は水炊きだったみたいだな」

「この長文を読む労力の果てに得られたのがそれだけの情報でお前はいいのかい……?」

「よくはないけど……一歩ずつ一歩ずつ親しくなろうって、そう決めてたから」


 頭の後ろで手を組んで、椅子の背もたれにぐーっと反り返って伸びをする。

 同時に教室内に視線をめぐらし、新御堂に教わったように自分への視線を遮るものがないラインを探った。

 教室から廊下に面している窓の隙間に、ちらっと綺麗な瞳がのぞいていた。

 ひゃっ、と高い声が聞こえてシュンッと姿を消す。


「ボンド。いま窓のところに……いたね」


 アフリカでも生きていけそうな視野角を誇る新御堂は、横目を向けることなく白野の存在に気づいていたらしい。

 俺は無言でスマホを取り出すと、白野にRUINで「昼に会いたいです」と送信した。

 瞬間に既読がついた。


        +


「RUINで直接の連絡をいただけた、と思ったら感極まってしまいまして……」


 お昼休憩。

 やはり返信はこなかったものの、購買で飲み物だけ買って(ホットのマンゴーオレとかいう微妙なものしか残ってなかった。ひどく甘い)自販機近くの食事スペースに腰かけた俺は、弁当を食べはじめたところで背後からの謝罪の第一声を耳にした。

 振り向くと、しおしおとうなだれてスカートの裾を握りしめた白野が立っていた。……こうしたモーション、狙ってやってるのか素なのかわからないがどちらにせよ俺には効果ばつぐんなので策だとしたら完璧だと思う。


「で。その、白野が感極まった気持ちを詰め込んだのが、あの手紙の束だと」

「左様です……」

「うん。まあ。手紙をもらうこと、それ自体は結構うれしいんだけどさ。土日の間返事がこなくて寿命が縮むかと思ったよ……」

「誠に申し訳ございません! ひらに、平にご容赦を!」

「あああぁ頭下げるのはいいから要らないから周囲の目が痛いからまた上級生から『うっわぁあの一年生女の子泣かせてるサイテー』みたいな目向けられてるから! とりあえず座って! 今後について話し合おう!」

「ふ、二人の、今後について……! まさか、お別」「しないよ! 俺が拒否るわそんなの!」


 つい口調が荒くなりつつもシットダウンをうながす。

 そろそろとスカートの裾を正して俺と三席分間を空けて椅子に腰かけた白野は、横目でこちらを見つつ「ふぁあぁ、近いぃ……」とうめいて両手で顔を覆っていた。しゅんしゅんと湯気が出そうな感じで耳が赤いのがうかがえる。


「んーと、ごほん……ひとまずね。白野、俺としてはもっと気軽に連絡とかしてきてほしいんだよ」

「恐れ多い……」

「恐れなくていいから。こわくないから。俺、もっといろいろ話したいんだよ」

「で、ですが。送った文面で浦木くんのご気分を害したらと思うと、指が止まっちゃうんです」

「まー、うん。そこは理解できなくはないよ」

「でしょう!?」

「でもなんも返信ない方が心配になるのは、逆の立場で考えたら理解できるだろ?」

「…………っ! 私はなんと、罪深いことをっ……!」


 顔を押さえていた両手を組んで、懺悔するような姿勢になった。

 周囲がまた俺がなんかしたのではないか的な視線をこっちに向けてくる。ちがいます。


「返信、します!」


 スマホを取り出して指先を震わせながら白野は打ち込もうとした。


「いやいま返信してもらっても……ん? ああ、それも手か」


 俺もスマホを取り出すと、画面を押して文面を入力。すぐに白野に送った。


『今日は、RUINも使って会話してみよう』


 既読がついた。白野がこっちを向く。


「? どういう意味、でしょうか」

「そのまんまの意味。白野、たぶん相手の顔が見えなくて反応がうかがえないからメッセージ送るのに躊躇したんじゃない?」

「言われてみればその通りですね」

「だから今日はRUINで会話してみよう。反応が気になるなら俺の方見て確認できるし」

「なるほど……」


 顎に手を添えてうなずいた白野は、さっそくスマホの画面を打ちはじめた。


『わかりました』

『よしよし。ところで白野、今日のお昼は?』


 既読がついた。俺は食べかけだった弁当に箸をつけ食事を再開する。

 おかずがいくつか胃袋へと消える。

 ……返信が止まったまま一分が過ぎた。

 横を見ると、白野が申し訳なさそうな顔でこっちを見つめていた。


「早くない……? いまの会話のどこに、そんな躊躇を生む要素が……?」

「お昼休憩に浦木くんにお呼びだしいただいて、せっかく食事をご一緒できる機会だったというのに……本日はお弁当を忘れてきました! 一生の不覚!」

「なら、半分食べる?」

「えっ。その、それは。浦木くんのお弁当を、私が……?」

「こないだは俺がパンもらったし、まだ手をつけてないおかずもあるから。ああいや、苦手なものとかあるならやめとくけど」

「い、いえ。とくにそういうものなどはないのですが……」


 すっと差し出すと、ぐっと白野は唾を飲んだ。

 俺の方も差し出しておいて、はっとする。


「わ、ご、ごめん! 箸がないか。替えはないし……といって洗って使うのも、」

「そんなもったいないっ」

「もったいない?」

「……あ、いえ。なんでもないです」


 ぎくしゃくして俺の方から視線を外す白野。だが最後に彼女の目が向いていたのは俺の手元だった。

 俺はゆっくりと視線を下げて、自分の手――に、握っていた箸を見つめた。

 ……もったいない?

 ……えっとそれは、そういう意味?

 問い返そうにもまた白野は顔を手で覆ってフリーズ状態になっていた。いかん。下手につつくと爆発しそうな感じがする。スルーしよう……というかその、白野が俺の箸くわえることを想像していたのでは、と想像すると、俺の方も爆発しかねない。恥ずかしすぎる。

 結局割り箸が購買で売られていたのを思い出し、買ってきた俺は白野に手渡した。

 恥ずかしさが極まったのか静かに、けれどもくもくと食べ終えた白野はややあってRUINで『おいしかったです』と感想を述べてきた。


『おそまつさまでした』

『いえいえ、お世辞抜きでおいしかったです。どなたかのお手製ですか?』

『うん、俺がつくった』


 返信すると、また一分近く沈黙がつづいた。

 横を見ると、頭を抱えて白野がうずくまっていた。


「わかっていたら、もっと味わって食べましたのにっ……!」

「そうきたか」

「浦木くんのコラボランチが!」

「いやなにともコラボはしてないから。俺単品だから。というかそんなに食べたいなら、なんだ。その。また明日、つくってこようか?」


 凝った料理でもないのにこんなに喜んでもらえると気恥ずかしくて、俺は頬を掻きながら目を逸らして言った。

 途端にがばっと身を起こした白野は潤んだ瞳で俺を見て、縮こまるようにしながら深々と、頭を下げた。

 スマホが鳴る。

 白野から『お願いいたします。食べたい、です』とメッセージが来ていた。言いづらいことを言うためのツールみたいになってる……。ひとまず俺は声をかけた。


「で、どうしよう。ある程度要求には応えられるつもりだけど」

「ある程度ですか」

「家庭料理ならね。俺んちは家事できる人間いなかったから、料理含め俺がだいたいの家事回してるんだよ」

「ははあ、そうだったのですね……浦木くんちのお献立は把握しておりましたが、失礼ながら妹さんがつくっているとばかり思っておりました」

「……あれ、俺妹いるって言ったっけ?」

「以前休日にご自宅前を散歩していたら心臓が高鳴る容姿の女の子が出てきたので、おそらくは妹さんだろうなぁと」

「判断基準は直感なのか……というかよく遭遇できたな。一瞬のすれちがいだろうに」

「いやぁ。ほんの六時間ほど近くを散歩していただけですよ」


 照れたようにしているが、それは散歩ではなく出待ちというのではないだろうか。


「よく似てらっしゃいますよね」

「髪質と目元が似てるとは言われるよ。名前は杠って言って、年子だから俺のひとつ下」

「杠ちゃんですか」

「本人はあんま気に入らない名前らしいけどね。横書きにすると浦木杠なんだか浦林工なんだかわかりづらいし、読み方が虫っぽいってからかわれたこともあるとかって。だから基本的にひとにはユズって呼ばせてる」

「いいお名前だと思いますけどねぇ」

「継ぐひと、とか繋ぐひとって意味合いで付けたらしいけどね……まあこればっかりは本人の受け取り方だから意味がどーのこーの言ってもしょうがないと俺は思ってる。そういや、白野もあんま見ない感じの名前だけど『かなた』ってどういう意」「ひゃう!」


 なんか変な悲鳴が聞こえた。

 せっかく日常的な雑談で、だいぶ長く話すことができてたのに。格ゲーで得意コンボが途切れたような気分で、俺は両手を重ねて口を押さえている白野の方を向いた。


「変な声出たけど、どうかした?」

「い、いえなんでも」

「あ、そう……で、話戻るけど、白野の『かなた』って名前は」「んぐぅぅっ!」


 白野、手で押さえてるせいで余計に変な声になってるんだけど。

 いよいよ周囲がいたたまれなくなったのかどんどん席離れはじめて食事スペースに俺たちだけになってんだけど。

 わざとなのか? そうじゃないならあれか。


「……もしかしてしゃっくり? だったら、なんか飲む?」

「ひ、ひえ、なんへも……あ、でも、浦木くんのジュース……紙パック……ストロー……!」

「白野?」

「神パック……!」

「白野さん?」

「あ、いえ。なんでもないです。しゃっくりでもないです」


 俺が飲んでたものを凝視したのちにしゃきっとして見せたのが逆にこわかった。でも突っ込んで聞くのはもっとこわかったので俺は流した。

 これ紙パックを白野の眼前で捨てようとしたら、ゴミ箱に落ちる前にキャッチされるような気がする。目の届かないところで捨てよう。


「そう……で、なんの話だっけ。ユズの話してて……ああそうだ名前だ、白野の『かなた』って名前は」「っふぅぅぅっ……!」


 いよいよ息が荒くなるのをこらえてる感じになった。もうなんか声は艶っぽいし顔赤いし俺もどこを見て話せばいいのかわかんなくなってきたんだけど!

 っていうかこのひと俺の前でまともな顔色だった時間の方が少なくない? 大丈夫?

 そして三度目に至ってようやく俺も理解した。

 これ、トリガーになってるの名前呼ぶことだ……。


「……この話やめよっか」

「えっ! そんなっ!」

「いやだって俺が名前呼ぶとそういう感じになっちゃうんでしょ」

「う。は、はい……そうです。名前呼び捨てにされますと……うれしくて高まるといいますか」


 縮こまらせた身をふるりと震わせて、両サイドの髪をぎゅっと握りしめている。

 まあ……たしかに。

 俺も白野から「工」とかって呼ばれたらこういう感じになるかもしれない。わかる。


「でもまあ息荒いし身体つらそうだしこの辺にしとこうよ」

「う……つ、つらいのはたしかにおっしゃる通りなのですが……でもしあわせつらいというか、辛いと幸いって似てるというか」

「ごめんマゾにしか聞こえないんだけど」

「マゾじゃないですよ! でも浦木くんから与えられるものならなんでもうれしいです!」

「……そっか、ありがとう」


 でもそれであんなえろい声を出されると困る。

 名前を呼べば呼ぶほどあの声を聴けるのではないか、という邪念が心の中で頭をもたげてしまう。……いや、いかん。いかんぞ。


「で、でもとりあえず今日は、ね。この話はやめよう。昼休憩も終わりに近いし。次俺は移動教室だし」


 俺は平和的に終わらせようと両手をワイパーのように振ってノーゲームを申し入れた。

 ヘタレたんじゃないぞ。

 邪念に負けなかったんだぞ。

 相手の身を気遣ってのことだぞ。

 いろいろ自分に言い訳しながら弁当箱をまとめて立ち上がろうとした俺に、しかし白野はすがるように人差し指を立てて突きつけてきた。


「だっ、だったら、あのっ! もっかい! もう一回だけしてくれませんか!」

「も、もう一回ぃ?」

「もう腰はがくがくですし、体力の限界とは思うのですが……あと一回だけなら、耐えられると思うので」

「いや、腰がくがくとか、耐えられるとかって白野、」

「正直、初体験で動揺してしまっただけですから。もう慣れてきたので、大丈夫ですから」

「あの、初た、っていや、ちょっ」

「あと一回だけ……だめですか?」


 本当にごくわずか首を傾けて、上目遣いで下唇を噛みながら、言う。

 それだけの動きでもさらさらの髪が揺れて、上気した頬を少し隠した。

 ……………………あの。

 白野さん。

 自分のセリフのきわどさを理解してらっしゃらない?

 せっかく邪念に負けずに俺が収めたところをなぜ蒸し返すのか。

 ああああ。もう!


「……本当に、一回だけ?」

「です。お願いします」

「じゃあ、一回だけ……」


 俺はあっさり邪念の誘惑に折れた。

 いやっ、そうは言ってもこれは邪念にっていうか白野の誘惑に折れただけで……と自分の中で言い訳して、俺は白野の方に向き直る。

 相変わらず距離は遠いままだが、椅子に腰かけたまま向き合って。

 どきどきしている様子の白野は胸元で両手を合わせて待っている。

 ひとつ息を吸おうにも酸素が薄い気がして、どうにも胸が苦しい。

 口にすべきはたった三文字だ。

 でもさっきはスムーズに言えたことが、いまは舌がこんがらがってさっぱり言葉にならない。

 何度かあぐあぐと口を開けようとしては閉じを繰り返し……

 俺は白野の名前を舌に載せた。


「かなた」

「……ゃんっぅぅぅ」


 それどうやって発音してんの? と言いたくなるような嬌声が白野の喉から漏れ出て、慌てて口を手で押さえたことによりくぐもった音になる。

 白野は、しばし背を丸めて震える。

 ふー、ふー、と息を殺し、肩を上下させていた。

 面と向かって名前を呼んだだけでこれか……と思いつつ俺も少し背を丸めてさりげなく足を組む。

 しばらく立てそうにない。だってもう完全に喘ぎ声だったから。無理。


「た、耐えました……」


 やっと口許から手を離した白野は、戦い抜いたかのような表情を浮かべていた。

 自分の言葉がそこまでの威力になったことについてなにやら恐ろしさを感じる。

 だがそれだけでは済まず――俺の中には再び、邪な気持ちが沸き上がりはじめていた。

 ……ここで追撃を、仕掛けてみたい。

『やめた方がいいよ』と言う冷静な自分もいた。一方で『やってしまえ』とささやく悪意の自分もいた。むしろどっちかというとこっちが優勢だった。

 耐え凌いだばかりで消耗しているここにもう一度呼びかけたらどうなるのか? 知的というよりは痴的な好奇心がどうにもうずいた。

 俺はいやいやダメだろうとかぶりを振って悩み。

 ぴたりと止まって考え込み。

 三度ほどこれを繰り返したところ、すっかりのぼせたような顔をしている白野が目に入った。

 彼女は苦しそうに眉を八の字にしながら、俺に向かって笑いかけた。


「も……もう限界、です……本当に。胸が……いっぱいで……」


 小柄なせいで結構目立つ、その豊かな胸を震わせながら。

 喘ぐような息遣いで汗ばみ上気した頬に、せつなげな表情を載せてこんなことを言われて。

 ぷつんと。

 俺の頭の中でなにか切れたような音がした。


「お願いを聞いてくださり、本当にありがとうございま、」

「――かなた」


 結果、衝動に駆られるまま不意打ちで名前を呼んでしまった。

 もうなんか気持ちが抑えきれなくなって、ついやってしまった。

 時間が、止まる。

 やっちまった感がじわじわと広がってきて、俺はあせあせと頭を掻いた。


「あ……ご、ごめん、ちょっと、収まりがつかなくて、どうしても名前呼びたくなって……あの、白野?」


 二人の間で沈黙が張りつめる。

 空気が凍り付いたような気がした。

 俺がしばらくしてゆっくりと視線を上げると、

 白野はおそらく「ありがとうございま」のときに頭を下げようとしていたのだろう。お辞儀の途中で固まっていたが。

 そのままゆらー、と前に倒れてきた。気絶してる!


「うわぁととと!」


 慌てて前方に飛び込み、倒れてきた白野を受け止める。

 や、やむを得ずとはいえ触ってしまった。結構体温高いな。というか肩と二の腕すごい柔らかい。というかいい匂いするな。というか頭がこてんと肩に乗ってきてる。というかいい匂いするな。というか身体がだんだん密着してきてる。というかいい匂いで頭がふらついてきた。

 というか。

 というか。

 というか……


「……やばいやばいやばいやばい!」


 ふらついてきた頭をブンブン振り回して喝を入れる。

 危うく我を失うところだった。落ち着け、落ち着け。

 でも深呼吸して気持ちを落ち着かせようとすると、また鼻先をくすぐる匂いに惑わされそうになる。いや惑わそうとしてるわけじゃないんだろうけど。だろうけども俺には毒。


「うわあ、もう、なんなんだろ。こわい。女の子こわい」


 ひっついてるだけで無闇な多幸感があふれてきて、心拍数は際限なく高まり、自分の意思で身体が動かせなくなってくる。

 頭の中がぐるぐると渦巻いていてなにすればいいかわからない。とりあえずぎゅってしとく? いやちがうよべつにやましい気持ちじゃなく。なんにせよ一回姿勢正さないといけないだろうから、ひとまず抱えてちょっと移動した方がとかそういう……うん。


「ちょっと横に、どけて……意識が戻るのを待つか」


 だらんと力を失っている白野を椅子に座らせながら俺はハァとため息をついた。でも心臓の高鳴りでどうにも息が荒くなり、ハァハァと犬みたいな呼吸になる。


 と。

 そんな俺がふと目をやった先で。

 食事スペースに入ってきたところだった、新御堂と目が合う。

 奴が白野を抱えたままハァハァしていた俺を見る。


 途端、目を丸くするとかそういう驚いたモーションも一切なく、奴は「するなら合意の上にしなよ……」とだけ言い残して早戻しのように出ていった。


「まてまて待て! ちょっとこっち来い!」

「いや、ごめんよ。犯罪の片棒担ぐのはさすがに僕もちょっとごめん被りたい」

「ちがうから! いろいろあって白野が倒れただけだから! 勘違いすんな!」


 必死の形相で言うと、新御堂は疑わしいと言いたげな目をしながら顔半分だけドアからこっちにのぞかせていたが、やがて「倒れて頭とかは打ってないかい」と介抱しに来てくれた。



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